最古日本の女性生活の根柢
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著者名:折口信夫 

 こうした花嫁の心持ちは、微妙なものであろうから、単に形式一遍に泣くとも見られぬが、ともかく神と人間との間にある女としての身の処置は、こうまでせねば解決がつかなかったのである。この風を、沖縄全体のうち、最近まで行うていたのは、この島だけである。それにもかかわらず、かつて一般に行うたらしい痕跡は、妻覓(ツマヽ)ぎに該当する「とじ・かめゆん」(妻捜す)「とじ・とめゆん」(妻覓(もとめ)る)などいう語で、結婚する意を示すことである。
 またこの島では、十三年に一度新神人の就任式のようなものがある。神人なる資格の有無を試験することが、同時に就任式の形になるのである「いざいほふ」という名称である。同時に、二人の夫を持っているようなことがないかを試験するので、七つ橋という低い橋の上を渡らせる。この貞操試験を経て、神人となるとともに、村の女としての完全な資格を持つわけである。何でもない草原の上の仮橋から落ちて、気絶したり、死んだりする不貞操な女もあるという。これは、巫女が処女のみでなく、人妻をも採用するようになった時代の形で、沖縄本島でも古くから巫女の二夫に見(まみ)ゆるを認められなかった事実のあるのと、根柢は一つである。ところが、内地の昔にもまた、これがあった。東近江の筑摩神社の祭りには、氏人の女は持った夫の数だけの鍋をかずいて出たという。伊勢物語にも歌があるほどで、名高いことだが、実は一種の「いざいほふ」に過ぎなかったものと思われる。鍋一つかぶる女にして、神人たる資格があったものと思われる。

     五 女の家

 近松翁の「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」の下の巻の書き出しに「三界に家のない女ながら、五月五日のひと夜さを、女の家と言ふぞかし」とある。近古までもあった五月五日の夜祭りに、男が出払うた後に、女だけ家に残るという風のあった暗示を含んでいる語である。
鳰鳥(におどり)の葛飾早稲(わせ)を贄(にえ)すとも、彼(その)愛(かな)しきを、外(ト)に立てめやも
誰ぞ。此(この)家(や)の戸押(おそ)ふる。新嘗忌(ニフナミ)に、わが夫(せ)を遣りて、斎(いわ)ふ此戸を
 万葉巻十四に出た東歌(あずまうた)である。新嘗(にいなめ)の夜の忌みの模様は、おなじころのおなじ東の事を伝えた常陸(ひたち)風土記にも見えている。御祖(ミオヤ)の神すなわち、母神が、地に降(くだ)って、姉なる、富士に宿を頼むと、今晩は新嘗ですからとにべもなく断った。妹筑波に頼むと新嘗の夜だけれど、お母さんだからと言うて、内に入れてもてなした。それから母神の呪咀によって、富士は一年中雪がふって、人のもてはやさぬ山となり、筑波は花紅葉によく、諸人の登ることが絶えぬとある。
 新嘗の夜は、神と巫女と相共に、米の贄を喰う晩で、神事に与らぬ男や家族は、脇に出払うたのである。早稲を煮たお上(あが)り物を奉る夜だといっても、あの人の来ているのを知って、表に立たしておかれようか、という処女なる神人の心持ちを出した民謡である。後のは、亭主を外へ出してやって、女房一人、神人としての役をとり行うているこの家の戸を、つき動かすのは誰だ。さては、忍び男だな、というくらいの意味である。
 神社が祭りを専門に行うところというふうになって、家々の祭りがだんだん行われなくなると、家の処女や、主婦が巫女としての為事を忘れてしまうようになる。それでも徳川の末までは、一時(イツトキ)上□(じょうろう)などと言って、女の神人を、祭りのために、臨時に民家から択び出すような風が、方々にあったことを思えば、神来(きた)って、家々を訪問する夜には、いわゆる「女の家」が実現せられたのであった。
 沖縄でも、地方地方の祭りの日に、家族は海岸などに出て、女だけが残って、神に仕える風がかなり多い。




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