クリスマス・カロル
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著者名:ディケンズチャールズ 

 天気と時刻とが徒歩の目的に適していないと云ったところで、寝床が温かで、寒暖計はずっと氷点以下に降っていると抗弁したところで、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けていないのだと抗言(あらが)って見たところで、また当時自分は風邪を引いていると争ったところで、そんな事はスクルージに取っては何の役にも立たなかったろう。婦人の手のように優しくはあったが、その把握には抵抗すべからざるものがあった。彼は立ち上がった。が、精霊が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。
「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てた、「ですから落ちてしまいますよ。」
「そこへ一寸私の手を当てさせろ」と幽霊はスクルージの胸に手を載せながら云った。「そうすれば、お前さんはこんな事位でない、もっと危険な場合にも支えて貰われるんだよ。」
 こう云っているうちに、彼等は壁[#「壁」は底本では「塵」]を突き抜けて、左右に畠の広々とした田舎道に立った。倫敦(ロンドン)の町はすっかり消えてなくなった。その痕跡すら見られなかった。暗闇も霧もそれと共に消えてしまった。それは地上に雪の積っている、晴れた、冷い、冬の日であった。
「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周囲を見廻して、両手を固く握り合せながら云った。「私はここで生れたのだ。子供の時にはここで育ったのだ!」
 精霊は穏かに彼を見詰めていた。精霊が優しく触ったのは、軽くてほんの瞬間的のものではあったが、この老人の触覚には尚まざまざと残っているように思われた。彼は空中に漂っている様々な香気に気が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられていた、様々な考えや、希望や、喜びや、心配と結び着いていた。
「お前さんの唇は慄えているね」と、幽霊は云った。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」
 スクルージは平生に似合わず声を吃らせながら、これは面瘡(にきび)だと呟いた。そして、どこへなりと連れて行って下さいと幽霊に頼んだ。
「お前さんこの道を覚えているかね?」と、精霊は訊ねた。
「覚えていますとも!」と、スクルージは勢い込んで叫んだ、「目隠をしても歩けますよ。」
「あんなに長い年月それを忘れていたと云うのは、どうも不思議だね!」と、幽霊は云った。「さあ行こうよ。」
 二人はその往還に沿って歩いて行った。スクルージには、目に当るほどの門も、柱も、木も一々見覚えがあった。こうして歩いて行くうちに、遥か彼方に橋だの、教会だの、曲り紆(くね)った河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達を乗せて、二人の方へ駆けて来るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車に乗っかっている他の子供達に声を掛けていた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきゃっきゃっと声を立てて喚び合った。で、仕舞には清々(すがすが)しい冬の空気までそれを聞いて笑い出したほど、広い田野が一面に嬉しげな音楽で満たされた位であった。
「これはただ昔あったものの影に過ぎないのだ」と、幽霊は云った。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」
 陽気な旅人どもは近づいて来た。で、彼等が近づいて来た時、スクルージは一々彼等を見覚えていて、その名前を挙げた。どうして彼は彼等に会ったのをあんなに法外に悦んだのか。彼等が通り過ぎてしまった時、何だって彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上ったのか。各自の家路に向って帰るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互いに聖降誕祭お目出とうと言い交わすのを聞いた時、何だって彼の胸に嬉しさが込み上げて来たか。一体スクルージに取って聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいやい! 今まで聖降誕祭が何か役に立ったことがあるかい。
「学校はまだすっかり退(ひ)けてはいないよ」と、幽霊は云った。「友達に置いてけぼりにされた、独りぼっちの子がまだそこに残っているよ。」
 スクルージはその子を知っていると云った。そして、彼は啜り泣きを始めた。
 彼等はよく覚えている小路を取って、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を頂いた小さな円頂閣のある、そして、その円頂閣に鐘の下がっている、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行った。それは大きな家であったが、また零落した家でもあった。広々とした台所もほとんど使われないで、その塵は湿って苔蒸していた、窓も毀れていた、門も立ち腐れになっていた。鶏はくっくっと鳴いて、厩舎の中を威張りくさって歩いていた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面にはびこっていた。室内も同じように昔の堂々たる面影を留めてはいなかった。陰気な見附けの廊下に這入って、幾つも開け放しになった室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切って、洞然としていた。空気は土臭い匂いがして、場所は寒々として何もなかった、それがあまりに朝はやく起きて見たが、喰う物も何もないのと、どこか似通うところがあった。
 彼等は、幽霊とスクルージとは、見附けの廊下を横切って、その家の背後にある戸口の所まで行った。その戸口は二人の押すがままに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰気な室を展げて見せた。木地のままの樅板の腰掛と机とが幾筋にも並んでいるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しそうな少年が微温火(とろび)の前で本を読んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れていたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。
 家の中に潜んでいる反響も、天井裏の二十日鼠がちゅうちゅう鳴いて取組み合いをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元気のない白楊[#「白楊」は底本では「柏楊」]の葉の落ち尽した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたようにばたばたするのも、いや、煖炉の中で火の撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるような影響を与えないものはなかった、また彼の涙を一層惜し気もなく流させないものはなかった。
 精霊は彼の腕に手を掛けて、読書に夢中になっている若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外国の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚するほどありありとかつはっきりとした一人の男が、帯に斧を挟んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立った。
「何だって、アリ・ババじゃないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。そうだ、そうだ、私は知ってる! ある聖降誕祭の時節に、あそこにいるあの独りぼっちの子がたった一人ここに置いてけぼりにされていた時、始めてあの老爺さんがちょうどああ云う風をしてやって来たのだ。可哀そうな子だな! それからあのヴァレンタインも」と、スクルージは云った、「それからあの乱暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠っているうちに股引を穿いたまま、ダマスカスの門前に捨てて置かれたのは、何とか云う名前の男だったな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王(サルタン)の馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立っている! 好い気味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴がまた何の権利があって姫君の婿になろうなぞとしたのだ!」
 スクルージが笑うような泣くような突拍子もない声で、こんな事に自分の真面目な所をすっかり曝け出しているのを聞いたり、彼のいかにも嬉しそうな興奮した顔を見たりしようものなら、本当に倫敦市の商売仲間は吃驚したことであろう。
「あすこに鸚鵡がいる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の体躯に黄色い尻尾、頭の頂辺(てっぺん)から萵苣(ちしゃ)[#「萵苣」は底本では「萵苔」]のようなものを生(は)やして。あすこに鸚鵡がいるよ。可哀そうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして帰って来た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀そうなロビン・クルーソー、どこへ行って来たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見ていたのだと思ったが、そうじゃなかった。鸚鵡だった、御存じの通りに。あすこに金曜日(フライデー)が行く。小さな入江を目がけて命からがら駆[#「駆」は底本では「騙」]け出して行く、しっかり! おーい! しっかり!」
 それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な気の変りようで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀そうな子だな!」と云った。そして、再び泣いた。
「ああ、ああして遣りたかったな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四辺を見廻わしながら呟いた。「だが。もう間に合わないよ。」
「一体どうしたと云うんだね?」
「何でもないんです」と、スクルージは云った。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌っていた子供がありましたがね。何か遣れば可かったとこう思ったんですよ、それだけの事です。」
 幽霊は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もっと他の聖降誕祭を見ようじゃないか」と云いながら、その手を振った。
 こう云う言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずっと大きくなった。そして、部屋は幾分暗く、かつ一層汚くなった。羽目板は縮み上がって、窓には亀裂が入った。天井からは漆喰の破片(かけら)が落ちて来て、その代りに下地の木片が見えるようになった。しかしどうしてこう云う事になったかと云うことは、読者に分らないと同様に、スクルージにも分っていなかった、ただそれがまったくその通りであったと云うことは、何事もかつてその通りに起ったのだと云うことは、他の子供達が皆楽しい聖降誕祭の休日をするとて家へ帰って行ったのに、ここでもまた彼ひとり残っていたと云うことだけは、彼にも分っていた。
 彼は今や読書していなかった、落胆(がっかり)したように往ったり来たりしていた。スクルージは幽霊の方を見遣った。そして、悲しげに頭を振りながら、心配そうに戸口の方をじろりと見遣った。
 その戸が開いた。そして、その少年よりもずっと年下の小娘が箭を射るように飛び込んで来た。そして、彼の首のまわりに両腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。
「ねえ兄さん、私兄さんのお迎いに来たのよ」と、その小っぽけな手を叩いたり、身体を二つに折って笑ったりしながら、その子は云った。「一緒に自宅(うち)へ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」
「自宅へだって? ファンよ」と、少年は問い返した。
「そうよ!」と、その子ははしゃぎ切って云った。「帰りっ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんもこれまでよりはずっと善くして下さるので、本当にもう自宅は天国のようよ! この間の晩寝ようと思ったら、それはそれは優しく物を言って下すったから、私も気が強くなって、もう一度、兄さんが自宅へ帰って来てもいいかって訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、ああ、帰って来るんだともだって。そして、兄さんのお迎いに来るように私を馬車へ乗せて下さったのよ。で、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云った、「そして、もう二度とはここへ帰って来ないのよ。でも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」
「お前はもうすっかり大人だね、ファン!」と、少年は叫んだ。
 彼女は手を打って笑った。そして、彼の頭に触ろうとしたが、あまり小さかったので、また笑って爪先で立ち上りながら、やっと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引っ張って行った。で、彼は得たり賢しと彼女に随って出て行った。
 誰かが玄関で「スクルージさんの鞄を下ろして来い、そら!」と怖しい声で呶鳴った。そして、その広間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいような謙譲の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依ってすっかり彼を慄え上がらせてしまった。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本当にかつてこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と云っても可いような寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。そこには壁に地面が掛けてあり、窓には天体儀と地球儀とが置いてあったが、両方とも寒さで蝋のようになっていた。ここで校長はへんてこに軽い葡萄酒の容器と、へんてこに重い菓子の一塊片(ひとかけら)とを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分ずつ分けて遣った。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやった。ところが、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答えたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂辺に括り着けられていたので、子供達はただもう心から悦んで校長に暇を告げた。そして、それに乗り込んで、菜園の中の曲路を笑いさざめきながら駆り去った。廻転のはやい車輪は、常磐木の黒ずんだ葉から水烟のように霜だの雪だのを蹴散らして行った。
「いつも脾弱(ひよわ)な、一と吹きの風にも萎んでしまいそうな児だった」と、幽霊は云った、「だが、心は大きな児だよ!」
「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しゃる通りです。私はそれを否認しようとは思いません、精霊どの。いやもう決して!」
「彼女は一人前になって死んだ」と、幽霊は云った、「そして、子供達もあったと思うがね。」
「一人です」と、スクルージは答えた。
「いかにも、」と、幽霊は云った。「お前さんの甥だ!」
 スクルージは心中不安げに見えた。そして、簡単に「そうです」と答えた。
 彼等はその瞬間学校を後にして出て来たばかりなのに、今はある都会の賑やかな大通りに立っていた。そこには影法師のような往来の人が頻りに往ったり来たりしていた。そこにはまた影法師のような荷車や馬車が道を争って、あらゆる実際の都市の喧騒と雑閙とがあった。店の飾り附けで、ここもまた聖降誕祭の季節であることは、明白に分っていた。ただし夕方であって、街路には灯火が点いていた。
 幽霊はある商店の入口に立ち停まった。そして、スクルージにそれを知っているかと訊ねた。
「知っているかですって!」と、スクルージは答えた。「私はここで丁稚奉公をして居たことがあるんですよ。」
 彼等は中に這入って行った。ウエルス人の鬘(註、老人の被る毛糸で編んだ帽子のこと。)を被った老紳士が、今二インチも自分の身丈(せい)が高かろうものなら、きっと天井に頭を打ち附けたろうと思われるような、丈の高い書机の向うに腰掛けているのを一目見ると、スクルージは非常に興奮して叫んだ。
「まあ、これは老フェッジウィッグじゃないか! ああ! フェッジウィッグがまた生き返った!」
 老フェッジウィッグは鉄筆を下に置いて、時計を見上げた。その時計は七時を指していた。彼は両手を擦った。たぶたぶした胴服(チョッキ)をきちんと直した。靴の先から頭の頂辺まで、身体中揺振って笑った。そして、気持の好さそうな、滑らかな、巾のある、肥った、愉快そうな声で呼び立てた―――
「おい、ほら! エベネザア! ディック!」
 今や立派な若者になっていたスクルージの前身は、仲間の丁稚と一緒に、てきぱきと這入って来た。
「ディック・ウイルキンスです、確に!」と、スクルージは幽霊に向って云った。「なるほどそうだ。あそこに居るわい。彼奴は私に大層懐いていたっけ、可哀そうに! やれ、やれ!」
「おい、子供達よ」と、フェッジウィッグは云った。「今夜はもう仕事なぞしないのだ。聖降誕祭だよ、ディック! 聖降誕祭だよ、エベネザア! さあ雨戸を閉めてしまえ」と、老フェッジウィッグは両手を一つぴしゃりと鳴らしながら叫んだ、「とっとと仕舞うんだぞ!」
 読者はこれ等二人の若者がどんなにそれを遣っ附けたかを話しても信じないであろう。二人は戸板を持って往来へ突進した――一、二、三――その戸板を嵌めべき所へ嵌めた――四、五、六――戸板を嵌めて目釘で留めた――七、八、九――そして、読者が十二まで数え切らないうちに、競馬の馬のように息を切らしながら、家の中へ戻って来た。
「さあ来た!」と、老フェッジウィッグは吃驚するほど軽快に高い書机から跳ね降りながら叫んだ。「片附けろよ、子供達、ここに沢山の空地を作るんだよ。さあ来た、ディック! 元気を出せ、エベネザア!」
 片附けろだって! 何しろ老フェッジウィッグが見張っているんだから、彼等が片附けようとしないものもなければ、片附けようとして片附ける事の出来ないものもなかった。一分間で出来てしまった。動かすことの出来るものは、ちょうど永久に公的生活から解雇されたように、ことごとく包んで片附けられてしまった。床は掃いて水を打たれた、洋灯は心を剪られた、薪は煖炉の上に積み上げられた。こうして問屋の店は、冬の夜に誰しもかくあれかしと望むような、小ぢんまりした、温い、乾いた明るい舞踏室と変った。
 一人の提琴手が手に楽譜帳を持って這入って来た。そして、あの高い書机の所へ上って、それを奏楽所にした。そして、胃病患者が五十人も集ったように、げえげえ云う音を立てて調子を合せた。フェッジウィッグ夫人すなわちでぶでぶ肥った愛嬌の好い女が這入って来た。三人のにこにこした可愛らしいフェッジウィッグの娘が這入って来た。その三人に心を悩まされている六人の若者が続いて這入って来た。この店に使われている若い男や女もことごとく這入って来た。女中はその従弟の麺麭焼きの職工と一緒に這入って来た。料理番の女はその兄さんの特別の親友だと云う牛乳配達と一緒に這入って来た。道の向う側から来たと云う、主人から碌(ろく)すっぽ喰べさせて貰わないらしい小僧も、一軒置いて隣家の、これも女主人に耳を引っ張られたと云うことが後で分かった女中の背後に隠れるようにしながら這入って来た。一人また一人と、追い追いに衆皆(みんな)が這入って来た。中には極り悪そうに這入って来る者もあれば、威張って這入って来る者もあった。すんなりと這入って来る者もあれば、不器用に這入って来る者もあった。押して這入って来る者もあれば、引張って這入って来る者もあった。とにかくどうなりこうなりしてことごと皆這入って来た。たちまち彼等は二十組に分れた。室を半分廻って、また他の道を戻って来る、室の真中を降りて行くかと思えばまた上って来る、仲の好い組合せの幾段階を作ってぐるぐる廻って行く。前の先頭の組はいつも間違った所でぐるりと曲って行く。新たな先頭の組もそこへ到着するや否や、再び横へ逸れて行く。終いには先頭の組ばかりになって、彼等を助ける筈のしんがりの組が一つも後に続かないと云う始末だ。こんな結果になった時、老フェッジウィッグは舞踏を止めさせるように両手を叩きながら、大きな声で「上出来!」と叫んだ。すると、提琴手は、特にそのために用意された、黒麦酒の大洋盃の中へ真赧になった顔を突込んだ。が、その盃から顔を出すと、休んでなぞ居られるものかと云わんばかりに、まだ踊子が一人も出てないのも構わず、直ぐさままたやり始めたものだ。ちょうどもう一人の提琴手が疲れ果てて戸板に載せて家へ連れ帰られたので、自分はその提琴手をすっかり負かしてしまうか、さもなければ自分が斃れるまでやり抜こうと決心した真新しい人間でもあるように。
 その上にもまだ舞踏があった、また罰金遊びもあった。そして、更にまた舞踏があった。それから菓子が出た、調合葡萄酒が出た、それから大きな一片の冷えた焼肉が出た、それから大きな一片の冷えた煮物が出た。それから肉饅頭が出た、また麦酒が[#「が」は底本では「か」]沢山に出た。が、当夜第一の喚び物は焼肉や煮物の出た後で、提琴手が(巧者な奴ですよ、まあ聴いて下さい!――読者や私なぞがこうしろああしろと命ずるまでもなく、ちゃんと自分のやるべきことを心得ていると云う手合ですよ!)「サー・ロージャー・ド・カヴァリー」(註、古風な田舎踊の名、当時非常に流行したものらしく、メレディスの「エゴイスト」の中にも出て来る。)を弾き始めた時に出たのであった。その老フェッジウィッグはフェッジウィッグ夫人と手を携えて踊りに立ち出でた。しかも、二人に取っては誂え向きの随分骨の折れる難曲に対して、先頭の組を勤めようと云うのだ。二十三四組の踊手が後に続いた。いずれも隅には置けない手合ばかりだ。踊ろうとばかりしていて、歩くなぞと云うことは夢にも考えていない人達なのだ。
 が、彼等の人数が二倍あっても――おお、四倍あっても――老フェッジウィッグは立派に彼等の対手になれたろう、フェッジウィッグ夫人にしてもその通りだ。彼女はと云えば、相手という言葉のどういう意味から云っても、彼の相手たるに応わしかった。これでもまだ讃め足りないなら、もっと好い言葉を教えて貰いたい、私はそれを使って見せよう。フェッジウィッグの腓(ふくらはぎ)からは本当に火花が出るように思われた。その腓(ふくらはぎ)は踊のあらゆる部分において月のように光っていた。ある一定の時において、次の瞬間にその腓(ふくらはぎ)がどうなるか予言せよと云われても、何人にも出来なかったに相違ない。老フェッジウィッグ夫婦が踊の全部をやり通した時――進んだり退いたり、両方の手を相手に懸けたまま、お叩頭をしたり、会釈をしたり、手を取り合ってその下をくぐったり、男の腕の下を女がくぐったり、そして、再びその位置に返ったりして、踊の全部をやり通した時、フェッジウィッグは「飛び上った」、――彼は足で瞬きをしたかと思われたほど巧者に飛び上った。そして、蹌踉(よろめ)きもせずに再び足で立った。
 時計が十一時を打った時、この内輪の舞踏会は解散した。フェッジウィッグ夫妻は入口の両側に一人ずつ陣取って、誰彼の差別なく男が出て行けば男、女が出て行けば女と云うように、一人々々握手を交して、聖降誕祭の祝儀を述べた。二人の丁稚を除いて、総ての人が退散してしまった時、彼等はその二人にも同じ様に挨拶した。で、こうして歓声が消え去ってしまった。そして、二人の少年は自分達の寝床に残された。寝床は店の奥の帳場の下にあった。
 この間中ずっと、スクルージは本性を失った人のように振舞っていた。彼の心と魂とはその光景の中に入り込んで、自分の前身と一緒になっていた。彼は何も彼もその通りだと確信した、何も彼も想い出した、何も彼も享楽した。そして、何とも云われない不思議な心の動乱を経験した。彼の前身とディックとの嬉しそうな顔が見えなくなった時、始めて彼は幽霊のことを想い出した、幽霊が、その間ずっと頭上の光を非常にあかあかと燃え立たせながら、じっと自分を見詰めているのに気が附いた。
「些細な事だね」と、幽霊は云った、「あんな馬鹿な奴どもをあんなに有難がらせるのは。」
「些細ですって!」と、スクルージは問い返した。
 精霊は二人の丁稚の云ってることに耳を傾けろと手真似で合図をした、二人は心底を吐露してフェッジウィッグを褒め立てているのであった。で、彼がそうした時、幽霊は云った。
「だってなあ! そうじゃないか。あの男はお前達人間の金子をほんの数ポンド費やしたばかりだ、高々三ポンドか四ポンドだろうね。それが、これほど讃められるだけの金額かね。」
「そんな事じゃありませんよ」と、スクルージは、相手の言葉に激せられて、彼の後身ではない、前身が饒舌(しゃべ)ってでもいるように、我を忘れて饒舌った。「精霊どの、そんな事を云ってるんじゃありませんよ。あの人は私どもを幸福にもまた不幸にもする力を持っています。私どもの務めを軽くも、また重荷にもする、楽しみにも、また苦しい労役にもする力を持っています。まああの人の力が言葉とか顔附きとかいうものに存しているにもせよです、すなわち〆めることも勘定することも出来ないような、極く些細な詰まらないものの中に存しているにもせよです、それがどうしたと云うのです? あの人の与える幸福は、それがために一身代を費やしたほど大したものなのですよ。」
 彼は精霊がちらと此方(こちら)を見たような気がして、口を噤んだ。
「どうしたのだ?」と、幽霊は訊ねた。
「なに、別段何でもありませんよ」と、スクルージは云った。
「でも、何かあったように思うがね」と、幽霊は押して云った。
「いえ」と、スクルージは云った。「いえ、私の番頭に今一寸一語(ひとこと)か二語(ふたこと)云ってやることが出来たらとそう思ったので、それだけですよ。」
 彼がこの希望を口に出した時に、彼の前身は洋灯の心を引っ込ませた。そして、スクルージと幽霊とは再び並んで戸外に立っていた。
「私の時間はだんだん短くなる」と、精霊は云った。「さあ急いだ!」
 この言葉はスクルージに話し掛けられたのでもなければ、また彼の眼に見える誰に云われたのでもなかった。が、たちまちその効果を生じた。と云うのは、スクルージは再び彼自身を見たのである。彼は今度は前よりも年を取っていた。壮年の盛りの男であった。彼の顔には、まだ近年のような、厳い硬ばった人相は見えなかったが、浮世の気苦労と貪欲の徴候は既にもう現われ掛けていた。その眼には、一生懸命な、貪欲な、落ち着きのない動きがあった。そして、それは彼の心に根を張った欲情について語ると共に、だんだん成長するその木(欲情の木)の影がやがて落ちそうな場所を示していた。
 彼は独りではなくて、喪服を着けた美しい娘の側に腰を掛けていた。その娘の眼には涙が宿って、過去の聖降誕祭の幽霊から発する光の中にきらついていた。
「それは何でもないことですわ」と、彼女は静かに云った。「貴方に取っちゃ本当に何でもないことですわ。他の可愛いものが私に取って代ったのですもの。これから先それが、若し私が傍に居たらして上げようとしていた通りに、貴方を励ましたり慰めたりしてくれることが出来れば、私がどうのこうのと云って嘆く理由はありませんわね。」
「どんな可愛いものがお前に取って代ったのかね」と、彼はそれに答えて訊いた。
「金色のもの。」
「これが世間の公平な取扱いだよ」と、彼は云った。「貧乏ほど世間が辛く当たるものは他にない。それでいて金子を作ろうとする者ほど世間から手厳しくやっ附けられるものも他にないよ。」
「貴方はあまり世間と云うものを怖がり過ぎますよ」と、彼女は優しく答えた。「貴方の他の希望は、そう云う世間のさもしい非難を受ける恐れのない身になろうと云う希望の中に、ことごと皆呑み込まれてしまったんですね。私は貴方のもっと高尚な向上心が一つずつ凋落して行って、到頭終いに利得と云う一番主要な情熱が貴方の心を占領してしまうのを見て来ましたよ。そうじゃありませんか。」
「それがどうしたと云うのだ?」と、彼は云い返した。「仮に私がそれだけ悧巧になったとして、それがどうだと云うのだ? お前に対しては変っていないのだよ。」
 彼女は頭を振った。
「変っているとでも云うのかね。」
「私達二人の約束はもう古いものです。二人とも貧乏で、しかも二人が辛抱して稼いで、何日か二人の世間的運命を開拓する日の来るまでは、それに満足していた時分に、その約束は出来たものですよ。貴方は変りました。その約束をした時分は、貴方は全然別の人でしたよ。」
「私は子供だったのだ」と、彼はじれったそうに云った。
「貴方自身のお心持に聞いて御覧になっても、以前の貴方が今の貴方でないことはお分りになりますわ」と、彼女はそれに応えて云った。「私は元のままです。二人の心が一つであった時に前途の幸福を約束してくれたものも、心が離れ離れになった今では、不幸を一杯に背負わされています。私はこれまで幾度またどんなに胆に徹えるほどこの事を考えて来たか、それはもう云いますまい。私もこの事については考えに考えて来ました。そして、その結果貴方との縁を切って上げることが出来ると云うだけで、もう十分で御座います。」
「私がこれまで一度でも破約を求めたことでもあるのか。」
「口ではね。いいえ、そりゃありませんわ。」
「じゃ、何で求めたのだ?」
「変った性貰で、変った心持で、全然違った生活の雰囲気で、その大きな目的として全然違った希望でです。貴方の眼から見て私の愛情をいくらかでも価値あるもの、値打ちのあるものにしていた一切のものでです。この約束が二人の間にかつてなかったとしたら」と、少女は穏やかに、しかしじっくりと相手を見遣りながら云った、「貴方は今私を探し出して、私の手を求めようとなさいますか。ああ、そんな事はとてもない!」
 彼はこの推測の至当なのに、我にもあらず、屈服するように見えた。が、強いてその感情を抑えながら云った。「お前はそんな風に思っては居ないのだよ。」
「私も出来ることなら、そんな風に考えたくはないんですわ」と、彼女は答えた。「それはもう神様が御存じです! 私がこう云ったような真相を知った時には、(同時に)それがどんなに強く、かつ抵抗すべからざるものであるか、あるに違いないかと云うことを知ってるんですよ。まあ今日にしろ、明日にしろ、また昨日にしても、貴方が仮りに自由の身におなんなすったとして、持参金のない娘を貴方がお選びになるなぞと云うことが、私に信じられましょうか――その女と差向いで話しをなさる時ですら、何も彼も欲得ずくで測って見ようと云う貴方がさ。それとも、一時の気紛れから貴方がその唯一の嚮導の主義に背いてその女をお選びになったところで、後ではきっと後悔したり悔んだりなさるに違いないのを、私を知らないでしょうか。私はちゃんと知っています。そして、貴方との縁を切って上げます――それはもう心から喜んで、昔の貴方に対する愛のためにね。」
 彼は何か云おうとした。が、彼女は相手に顔をそむけたまま再び言葉を続けた。
「貴方にもこれは多少の苦痛かも知れない――これまでの事を思うと、何だか本当にそうあって欲しいような気もしますがね。しかしそれもほんの僅かの間ですよ。僅かの間経てば、貴方はじきにそんな想い出は、一文にもならない夢として、喜んで抛棄しておしまいになるでしょうよ。まああんな夢から覚めて好かったと云うように思ってね。どうかまあ貴方のお選びになった生活で幸福に暮して下さいませ!」
 彼女は男の前を去った。こうして、二人は別れてしまった。
「精霊どの!」と、スクルージは云った、「もう見せて下さいますな! 自宅(うち)へ連れて行って下さいませ。どうして貴方は私を苦しめるのが面白いのですか。」
「もう一つ幻影(まぼろし)を見せて上げるのだ!」と、幽霊は叫んだ。
「もう沢山です!」と、スクルージは叫んだ。「もう沢山です。もう見たくありません。もう見せないで下さい!」
 が、毫も容赦のない幽霊は両腕の中に彼を羽翼締(はがいじ)めにして、無理矢理に次に起ったことを観察させた。
 それは別の光景でもあれば別の場所でもあった。大層広くもなく、綺麗でもないが、住心地よく出来た部屋であった。冬の煖炉の傍に一人の美しい若い娘が腰掛けていた。その娘は、自分の娘の向い側に、今では身綺麗な内儀になって腰掛けている彼女を見るまでは、スクルージも同一人だと信じ切っていた位に、前の場面に出て来たあの少女とよく似ていた。部屋の中の物音は申分のない騒々しさであった。と云うのは、心に落着きのないスクルージには数え切れないほど大勢の子供がいたからであった。あの有名な詩中(註、ウォーヅウォースの「弥生に書かれたる」と題する短詩。)の羊の群とは違って、四十人の子供が一人のように振舞うのではなく、各一人の子供が四十人のように活動するのだから溜まらない。従ってその結果は信じられないほどの賑やかさであった。が、誰もそれを気にするようには見えない。それどころか、母親と娘とはきゃっきゃっと笑いながら、それを見て非常に喜んでいた。そして、娘の方は間もなくその遊戯に加わったが、たちまち若い山賊どもに、それはそれは残酷に剥ぎ取られてしまった。私もあの山賊の一人になることが出来たら、どんな物でも呉れてやるね、きっと呉れてやるよ。とは云え、私なら決してあんなに乱暴はしないね、断じて断じて。世界中の富を呉れると云っても、あの綺麗に編んだ毛をむしゃくしゃにしたり、ぐんぐん引き解いたりはしない積りだね。それからあの貴重な小さい靴だが、神も照覧あれ! たとい自分の生命を救うためだと云っても、私はそれを無理に引っ奪(た)くるようなことはしないね。冗談にも彼等、大胆な若い雛っ子連がやったように彼女の腰に抱き着くなんてことは、私には到底出来ないことだ。そんな事をすれば、私はその罰として腰の周りに私の腕が根を生やしてしまって、もう再び真直に延びないものと予期しなければならない。然も、実際を白状すると、私は堪らなく彼女の唇に触れたかったのだ。その唇を開かせるために、彼女に言葉を懸けて見たかったのだ。その伏眼がちの眼と睫毛を見詰めながら、しかも顔を赧らめさせずに置きたかったのだ。髪の毛を解いてゆるく波打たせて見たかったのだ。その一インチでも価に積もれないほど貴重な記念品になるその髪の毛を。一口に云えば、私は、まあ白状するがね、このもっとも重大な子供の特権を有しながら、しかもその特権の価値を知っているほどの大人でありたかったのだ。
 ところが、今や入口の扉を叩く音が聞えた。すると、たちまち突貫がそれに続いて起って、彼女はにこにこ笑いながら、滅茶々々に着物を引き剥がされたまま、顔を火照らした騒々しい群れの真中に挟まれて、やっと父親の出迎いに間に合うように、入口の方へ引き摺られて行った。父親は、聖降誕祭の玩具や贈物を背負った男を伴れて戻って来たのである。次には叫喚と殺到、そして、何の防禦用意もない担夫に向って一斉に突撃が試みられた! それから椅子を梯子にして、その男の体躯に這い上りながら、その衣嚢(かくし)に手を突き込んだり、茶色の紙包みを引奪(ひったく)ったり、襟飾りに獅噛み着いたり、頸の周りに抱き着いたり、背中をぽんぽん叩いたり、抑え切れぬ愛情で足を蹴ったりが続く! 包みが拡げられる度に、驚嘆と喜悦の叫声でそれが迎えられた。赤ん坊が人形のフライ鍋を口に入れようとしているところを捕えただの、木皿に糊づけになっていた玩具の七面鳥を呑み込んじゃったらしい、どうもそれに違いないのだと云うような、怖ろしい披露! ところが、これは空騒ぎに過ぎなかったと分って、やれやれと云う大安心! 喜悦と感謝と有頂天! それがどれもこれも皆等しく筆紙に尽くし難い。で、その内にはだんだん子供達とその感動とが客間を出て、長い間かかって一段ずつ、階子段をやっと家の最上階まで上って行って、そこで寝床に這入ると、そのまま鎮まったとさえ云えば、沢山である。
 そして、今やこの家の主人公が、さも甘ったれるように娘を自分の方へ凭れ掛けさせながら、その娘やその母親と一緒に自分の炉辺に腰を卸した時、スクルージは前よりも一層注意して見守っていた。そして、ちょうどこの娘と同じように優雅で行末の望みも多い娘が、自分を父と呼んで、己れの一生のやつれ果てた冬の時代に春の時候をもたらしてくれたかも知れないと想い遣った時、彼の視覚は本当にぼんやりと霑(うる)んで来た。
「ベルや」と、良人は微笑して妻の方へ振り向きながら云った。「今日の午後、お前の昔馴染に出会ったよ。」
「誰ですか。」
「中(あ)てて御覧。」
「そんな事中てられるものですか。いえなに、もう分りましたよ」と、良人が笑った時に自分も一緒になって笑いながら、彼女は一息に附け加えた。「スクルージさんでしょう。」
「そのスクルージさんだよ。私はあの人の事務所の窓の前を通ったのだ。ところで、その窓が閉め切ってなくって、室の中に蝋燭が点火してあったものだから、どうもあの人を見ない訳に行かなかったのさ。あの人の組合員は病気で死にそうだと云う話を聞いたがね。その室にあの人は一人で腰掛けていたよ――世界中に全くの一人ぼっちで、私はきっとそうだと思うね。」
「精霊どの!」と、スクルージは途切れ途切れの声で云った。「どうか他の所へ連れて行って下さい。」
「これ等のものがこれまであった事柄の影法師だとは、私からお前さんに云って置いたじゃないか」と、幽霊は云った。「あれがあの通りだからと云って、私を咎めては不可ないよ。」
「どこかへ連れて行って下さい!」と、スクルージは叫んだ。「私にはもう見て居られません!」
 彼は幽霊の方へ振り向いた。そして、幽霊が、それまで彼に見せたいろんな人の顔が妙な工合にちらちらとそこに現われているような顔をして、じっと自分を見詰めているのを見て、どこまでも幽霊と揉み合った。
「貴方もどこかへ行って下さい! 私を連れ帰って下さい。もう二度と私の所へ出て下さるな!」
 この争闘の間に――幽霊の方では少しも目に見えるような抵抗はしないのに、敵手がいくら努力してもびくとも動じないと云うような、これが争闘と称ばれ得るものなれば――スクルージは幽霊の頭の光が高く煌々と燃え立っているのを見た。そして、幽霊の自分の上に及ぼす勢力とその光とを朧げながら結び着けて、その消化器の帽を引っ奪って、いきなり飛びかかってそれを幽霊の頭の上に圧し附けた。
 精霊はその下にへちゃへちゃと倒れた。その結果、精霊はその全身を消化器の中に包まれてしまった。が、スクルージは全身の力を籠めてそれを抑え附けていたけれども、なおその下から地面の上に一面の洪水となって流れ出すその光を隠すことが出来なかった。
 彼は自分の身が疲れ果てて、とても我慢し切れない睡魔に圧倒されているのを意識していた。それだけなら可いが、なおその上に自分の寝室の中に寝ていることも意識していた。彼はその帽子に最後の一と拈(ひね)りを呉れた。それと同時に彼の手が緩んだ。そして、ようよう寝床の中へよろけ込むか込まないうちに、ぐっすり寝込んでしまった。

   第三章 第二の精霊

 素敵(すてき)もない大きな鼾を掻いている最中に不図眼を覚まして、頭を明瞭(はっきり)させようと床の上に起き直りながら、スクルージは別段報告されんでも鐘がまた一時を打つところであるのを悟った。ジェコブ・マアレイの媒介に依って派遣された第二の使者と会議を開こうと云う特別の目的のためには、随分際どい時に正気に返ったものだと、彼は心の中で思った。が、今度の幽霊はどの帷幄を引き寄せて這入って来るだろうかと、それが気になり出すと、どうも気味悪い寒さを背中に覚えたので、彼は自分の手でそれ等の窓掛を残らず側(わき)へ片寄せた。それからまた横になって、鋭い眼を寝台の周囲に放ちながら、じっと見張っていた。と云うのは、彼も今度は精霊が出現するその瞬間に、こちらから戦いを挑んでやろうと思ったからで、不意を打たれて、戦々(おどおど)するようになっては耐らないと思ったからである。
 如才がないと云うことと、常にぼんやりしていないと云うことを自慢にしている、磊落なこせつかない質(たち)の紳士と云うものは、『字(じ)か素(す)か』と云うような子供の遊戯から殺人罪に到るまで何でも覚悟していると云うようなことを云って、冒険に対する自分の能力の範囲の広大なことを表現するものである。なるほど、この両極端の間には、随分広大で包括的な問題の範囲がある。スクルージのためにこれほど大胆不敵な真似は敢てしないでも、私は、彼が不思議な出現物の可なり広い範囲に対して覚悟をしていたことを、赤ん坊と犀との間なら何が出て来てもそんなに彼を驚かせなかったろうと云うことを信じて貰いたいと、諸君に向って要求することを意とするものではない。
 ところで、スクルージはまず何物に対しても心構えはしていたようなものの、無に対しては少しも覚悟が出来ていなかった。従って、鐘が一時を打って、何の姿も現われなかった時には、恐ろしい戦慄の発作に襲われた。五分、十分、十五分と経っても、何一つ出て来ない。その間彼は寝台の上に、燃え立つような赤い光の真只中(まっただなか)に横になっていた。その光は、時計が一時を告げた時に、その寝台の上を流れ出したものである。そして、それがただの光であって、しかもそれが何を意味しているか、何をどうしようとしているのか、さっぱり見当を附けることが出来なかったので、スクルージに取っては十二の妖怪が出たよりも一層驚駭すべきものであった。時としてはまたその瞬間に自分が、それと知るだけの慰藉さえも持たないで、自然燃焼の興味ある実例に陥っているのじゃあるまいかと、怖ろしくもあった。が、最後に彼も考え出した――それは読者や著者の私なら最初に考え附いたことなのだ。と云うのはこういう難局に当ってはどう云う風にせねばならぬかと云うことを知って、またきっとそれを実行するであろうところのものは、常に難局の中にある者ではない。当事者以外の者であるからである。――で、私は云う、最後に彼もこの怪しい光の本体と秘密とは隣室にあるのじゃないか、更に好くその跡を辿って見ると、どうもその光はそこから射して来るようだからと云うことを考え附いた。この考えがすっかり頭の中を占領すると、彼はそっと起き上がって、上靴(すりっぱ)を穿いたまま戸口の方へ足を引き摺りながら歩み寄った。
 スクルージの手が錠にかかったその刹那、耳慣れぬ声が彼の名を喚んで、彼に中に這入れと命じた。彼はそれに従った。
 それは自分の部屋であった。それに毛頭疑いはない。ところが、それが驚くべき変化を来していた。四方の壁にも天井にも生々した緑葉が垂れ下がって、純然たる森のように見えた。その到るところに、きらきらとした赤い果実(このみ)が露のように燦めいていた。柊(ひいらぎ)や寄生木や蔦のぱりぱりする葉が光を照り返して、さながら無数の小形の鏡が散らかしてあるように見えた。スクルージの時代にも、マアレイの時代にも、また幾十年と云う過ぎ去った冬季の間にも、この化石したような冴えない煖炉がついぞ経験したことのないような、それはそれは盛んな火焔が煙突の中へぼうぼうと音を立てて燃え上っていた。七面鳥、鵞鳥、猟禽、家禽、野猪肉、獣肉の大腿、仔豚、腸詰の長い巻物、刻肉饅頭(ミンスパイ)、李入り菓子(プラムプッディング)、牡蠣の樽、赤く焼けている胡桃、桜色の頬をしている林檎、露気の多い蜜柑、甘くて頬の落ちそうな梨子、非常に大きなツウェルブズ・ケーク、ポンス酒の泡立っている大盃などが各自の美味(おい)しそうな湯気を部屋中に漲らして、一種の玉座を形造るように、床の上に積み上げられていた。この長椅子の上に、見るも愉快な、陽気な巨人がゆったりと構えて坐っていた。彼はその形において豊饒の角に似ないでもない一本の燃え立つ松明を持っていたが、スクルージが扉の後(うしろ)から覗くようにして這入って来た時、その光を彼に振り掛けようとして、高くそれを差し上げた。
「お這入り!」と、幽霊は叫んだ。「お這入り! そして、もっと好く俺(わし)を御覧よ、おい!」
 スクルージはおずおず這入って、この幽霊の前に頭を垂れた。彼は今や以前のような強情なスクルージではなかった。で、精霊の眼は朗らかな親切らしい眼ではあったけれども、彼は眼を上げてその眼にぶつかることを好まなかった。
「俺(わし)は現在の降誕祭(クリスマス)の幽霊じゃ」と、精霊は云った。「俺(わし)を御覧よ。」
 スクルージはうやうやしげな態度でそうした。精霊は、白い毛皮で縁取った、濃い緑色の簡単な長衣、若しくは外套のようなものを身にまとっていた。この着物は体躯(からだ)の上にふわりと掛けてあるばかりで、その広やかな胸は丸出しになっていた。その有様は、さもそんな人工的なものを用いて包んだり護ったりするには及ばないと威張っているようであった。上衣の深い襞の下から見えているその足も、矢張り裸出(むきだ)しであった。またその頭には、ここかしこにぴかぴか光る氷柱(つらら)の下がっている柊の花冠の外に、何一つ冠ってはいなかった。その暗褐色の捲毛は長くかつゆるやかに垂れていた。ちょうどそのにこやかな顔、きらきらしている眼、開いた手、元気の好い声、打ち寛(くつろ)いだ態度、快げな容子と同じようにゆるやかに。またその腰の周りには古風な刀の鞘を捲いていた。が、その中に中味はなかった。而もその古い鞘は銹びてぼろぼろになっていた。
「お前さんはこれまで俺(わし)のような者を見たことがないんだね!」と、精霊は叫んだ。
「決して御座いません」と、スクルージはそれに返辞をした。
「俺(わし)の一家の若い連中と一緒に歩いたことがなかったかね。若い連中と云っても、(俺はその中で一番若いんだから)この近年に生まれた俺(わし)の兄さん達のことを云ってるんだよ」と、幽霊は言葉を続けた。
「そんな事があったようには覚えませんが」と、スクルージは云った。「どうも残念ながら一緒に歩いたことはなかったようで御座います。御兄弟が沢山おありですか、精霊殿?」
「千八百人からあるね」と、幽霊は云った。
「恐ろしく沢山の御家族ですね、喰わせて行くにも」とスクルージは口の中で呟いた。
 現在の聖降誕祭の幽霊は立ち上がった。
「精霊殿!」と、スクルージは素直に云った、「どこへなりともお気の向いた所へ連れて行って下さいませ。昨晩は仕様事なしに随いて行きましたが、現に今私の心にしみじみ感じている教訓を学びました。今晩も、何か私に教えて下さりますのなら、どうかそれに依って利するところのあるようにして下さいませ。」
「俺(わし)の上衣に触って御覧!」
 スクルージは云われた通りにした。そして、しっかりそれを握った。
 柊も、寄生樹も、赤い果実も、蔦も、七面鳥も、鵞鳥も、猟禽も、家禽も、野猪肉も、獣肉も、豚も、腸詰も、牡蠣も、パイも、プッディングも、果物も、ポンス酒も、瞬く間にことごとく消え失せてしまった。同様に部屋も煖炉も、赤々と燃え立つ焔も、夜の時間も消えてしまって、二人は聖降誕祭の朝を都の往来に立っていた。街上では(寒気が厳しかったので)人々は各自の住家(すまい)の前の舗石の上や、屋根の上から雪をこそげ落しながら、暴々しい、しかし快活な、気持ちの悪くない一種の音楽を奏していた。屋根の上から下の往来へばたばたと雪が落ちて来て、人工の小さな吹雪となって散乱するのを見るのは、男の子に取っては物狂おしい喜びであった。
 屋根の上の滑(なめら)かな白い雪の蒲団と、地面の上のやや汚(よご)れた雪とに対照して、家の正面は可なり黒く、窓は一層黒く見えた。地上の雪の降り積った表皮(うわかわ)は、荷馬車や荷車の重たい車輪に鋤き返されて、深い皺を作っていた。その皺は、幾筋にも大通りの岐かれている辻では、幾百度となく喰い違った上をまた喰い違って、厚い黄色の泥濘や凍り附いた水の中に、どれがどうと見分けの附かない、縺れ合った深い溝になっていた。空はどんよりして、極く短い街々ですら、半ばは溶け、半ばは凍った薄汚い霧で先が見えなくなっていた。そして、その霧の中の重い方の分子は煤けた原子の驟雨となって、あたかも大英国中の煙突がことごとく一致して火を点けて、思う存分心の行くままに烟を吐き出してでもいるように降って来た。この時候にも、またこの都の中にも、大して陽気なものは一つとしてなかった。それでいて、真夏の澄み渡った空気だの照り輝く太陽だのがいくら骨を折って発散しようとしてもとても覚束ないような陽気な空気が戸外に棚引いていた。
 と云うのは、屋根の上でどしどし雪を掻き落していた人々が、屋根上の欄干から互いに呼び合ったり、時々は道化た雪玉――これは幾多の戯談口よりも遥に性質(たち)の好い飛道具である――を投げ合ったり、それが旨く中ったと云って、からからと笑ったり、また中らなかったと云って、同じようにからからと笑ったりしながら、陽気に浮かれ切っていたからである。鳥屋の店はまだ半分開いていた、果実屋の店は今日を晴れと華美を競って照り輝いていた。そこには大きな、円い、布袋腹の栗籠が幾つもあって、陽気な老紳士の胴衣のような恰好をしながら、戸口の所にぐったりと凭れているのもあれば、中気に罹ったように膨れ過ぎて往来へごろごろ転がり出しているのもあった。そこにはまた赤々と褐色の顔をして、広い帯を締めた西班牙(スペイン)種の玉葱があって、西班牙の坊さんのように勢いよく肥え太ってぴかつきながら、娘っ子が通りかかる度に、淫奔で狡猾そうな眼附きで棚の上からそっと目配せしたり、吊り上げてある寄生樹を真面目腐った顔で見遣ったりしていた。(註、聖降誕祭では婦人が寄生樹の下を通ると、それに接吻してもいいそうな。)そこにはまた梨子だの、林檎だのが色盛りの三色塔のように高く盛り上げられていた。そこにはまた葡萄の房が、店主の仁慈(なさけ)で、通りすがりの人が無料で口に露気を催すようにと、人目に立つ鉤にぶら下げられていた。そこにはまた榛(はしばみ)の実が苔が附いて褐色をして、山と積み上げられていた。そして、その香気で、森の中の古い小径や、枯れた落葉の中を踝まで没しながら足を引き摺り引き摺り愉快に歩き廻ったことを想い出させていた。そこにはまた肉が厚く色の黒ずんだノーフオーク産の林檎があって、蜜柑や檸檬の黄色を引き立たせたり、その露気の多い肉の締った所で、早く紙袋に包んでお持ち帰りになって、食後に召上れと切に懇願したり嘆願したりしていた。これ等の精選した果物の間には、金魚銀魚が鉢に入れて出してあったが、そんな無神経な血の運りの悪い動物でも、世の中には何事か起っていると云うことを感知しているように見えた。そして、一尾残らずゆっくりした情熱のない昂奮の下に彼等の小さな世界をぐるぐると喘ぎながら廻っていた。
 食料品屋! おお食料品屋! 恐らくは一二枚の雨戸を外して、自余(あと)は大概締めてあった。だが、その隙間からだけでも、こんな光景がずらりと見えるんだ! それは単に秤皿が帳場の上まで降りて来て愉快な音を立てているばかりではなかった。また撚糸がそれを捲いてある軸からぐるぐると活発に離れて来るばかりではなかった。また缶が手品を使っているようにからからと音を立ててあちこち転がっているばかりではなかった。また茶と珈琲の交じった香気が鼻に取って誠に有難かったり、乾葡萄が沢山あって而も極上等に、巴旦杏が素敵に真白で、肉桂の棒が長くかつ真直で、その他の香料も非常に香ばしく、砂糖漬けの果物が、極めて冷淡な傍観者でも気が遠くなって、続いて苛々して来るほどに、溶かした砂糖で固めたり塗(まぶ)したりされているばかりでもなかった。またそれは無花果がじくじくとして和らかであったばかりでも、また仏蘭西梅が盛に飾り立てた箱の中からほどの好い酸味を持って顔を赧めながら覗いているばかりでも、または何でも彼でも喰べるに好く、また聖降誕祭の装いを凝らしているばかりでもなかった。それよりもむしろお客が皆この日の嬉しい期待に気が急いで夢中になっているのであった、そのために入口で互いに突き当って転がったり、柳の枝製の籠を乱暴に押し潰したり、帳場の上に買物を忘れて帰ったり、またそれを取りに駆け戻って来たりして、同じ様な間違いを幾度となく極上の機嫌で繰返しているのであった。同時に食料品屋の主人も店の者も、前垂を背中で締め着けている磨き上げた心臓型の留め金は、一般の方々に見て頂くために、またお望みなら聖降誕祭の鴉どもに啄いて貰うために、表側に懸けた彼等自身の心臓で御座いと云わぬばかりに開放的にかつ生々と働いていた。
 が、間もなく方々の尖塔(の鐘)は教会や礼拝堂に善男善女を呼び集めた。彼等は、晴れ着を着飾って街一杯に群がりながら、さもさも愉快そうな顔を揃えて、ぞろぞろと出掛けて来た。すると、同時に数多の横町、小径、名もない角々から、無数の人々が自分達の御馳走を麺麭屋の店へ搬びながら出て来た。これ等の貧しい人々の楽しそうな光景は、痛く精霊の御意に適ったと見えて、彼は麺麭屋の入口に、スクルージを自分の傍に惹き附けながら立っていた。そして、彼等が御馳走を持って通る毎に蓋を取って、松明からその御馳走の上に香料を振りかけてやった。その松明がまた普通の松明ではなかった、と云うのは、一度か二度御馳走を搬んで来た人達が互に押し合いへし合いして喧嘩を始めた時、彼はその松明から彼等の上に二三滴の水を振りかけてやった。すると、彼等はたちまち元通りの好い機嫌になったものだ。彼等はまた、何しろ聖降誕祭の日に喧嘩するなんて恥かしいこったと云ったものだ。その通りだとも! まったく、その通りだとも!
 その内に鐘の音は止んだ。そして、麺麭屋の店も閉じられた。しかしどこの麺麭屋でもその竈の上の雪溶けの濡れた所には、それ等の御馳走やその料理の進行に伴うのどかな影がほんのりと表われていた。つまりそこでは、どうやらその石まで料理されているように、舗道が湯気を立てていたのである。
「貴方が松明から振り掛けなさいますものには、何か特別の香味でも附いていますのですか」と、スクルージは訊ねた。
「あるね。俺自身の香味だよ。」
「それが今日のどんな御馳走にでもよく適(あ)うので御座いますか」と、スクルージは訊ねた。
「親切に出される御馳走なら、どんな御馳走にも適うのじゃ、貧しい御馳走には特に適うんだね。」
「何故貧しい御馳走に特に適うので御座いますか。」
「そう云う御馳走は別けてもそれが入用じゃからね。」
「精霊殿!」と、スクルージは一寸考えた後で云った、「私どもの周囲のいろいろな世界のありとあらゆる存在の中で、(他の物ならとにかく)貴方がこれ等の人々の無邪気な享楽の機会を奪おうとしていられると云うことは、私はどうも不思議でなりませんよ。」
「俺(わし)が?」と、精霊は叫んだ。
「七日目毎に貴方は彼等が御馳走を喫べる便宜を奪っておしまいになるんですよ。彼等がとにかく御馳走を喰べられるのはこの日位なものだと云われているその日にですね」と、スクルージは云った。「そうじゃありませんかい。」
「俺(わし)がだ!」と、精霊は叫んだ。
「貴方は七日目毎にこう云う場所を閉めさせようとしておいでになるのでしょう?」と、スクルージは云った。「だから、同じ事になるんですよ。」
「俺(わし)がそうしようと思ってるんだって?」と、精霊は大きな声で云った。
「間違っていたら御免下さい。ですが、貴方のお名前で、少なくとも貴方のお身内のお名前で、そう云う事をして居りますのです」と、スクルージは云った。
「お前方のこの世の中にはね」と、精霊は答えた、「俺(わし)達を知っているような顔をしながら、情欲、驕慢、悪意、憎悪、嫉妬、頑迷、我利の行いを俺達の名でやっている者があるんだよ。しかもそいつ等は、かつて生きていたことがないように、俺達や、俺達の朋友親戚には一面識もない奴等なんだよ。これはよく記憶(おぼ)えて置いて、彼奴等のしたことについては、彼奴等を責めるようにして、俺達を咎めてもらいたくないものだね。」
 スクルージはそうすると約束した。それから彼等は前と同じように姿を現わさないで、町の郊外へ入り込んで行った。精霊が、その巨大な体躯にも係らず、どんな場所にもらくらくとその身を適応させることが出来たと云うことは、また彼が低い屋根の下でも、どんな高荘な広間ででも振舞うことが可能であったと同じように優雅(しとやか)に、その上いかにも神変不思議の生物らしく立っていたと云うことは、彼の顕著な特質であった。(そして、その特質をスクルージは既に麺麭屋の店で気が附いていたのである。)
 精霊が真直にスクルージの書記の家へ出掛けて行ったのは、恐らくこの精霊が彼のこの力を見せびらかすことにおいて感ずる快楽のためか、それでなくば彼の持って生れた親切にして慈悲深い、誠実なる性質と、総ての貧しき者に対する同情のためかであった。何となれば、彼は実際出懸けて行った、そして自分の着物に捕(つか)まっているスクルージを一緒に連れて行った。それから戸口の敷居の上でにっこり笑って、彼の松明から例の雫を振り掛けながら、ボブ・クラチット(註、ボブはロバートの愛称である。)の住居を祝福してやろうと立ち止まった。考えても見よ! ボブは一週間に彼自身僅かに十五ボブ(註、一ボブは一シリングの俗称である。)を得るばかりであった。――彼は土曜日毎に自分の名前の僅かに十五枚を手に入れるばかりであった。――而も現在の基督降誕祭の精霊は彼の四間(よま)の家を祝福してくれたのであった。
 その時クラチット夫人すなわちクラチットの細君は二度も裏返しをした着物で、粗末ながらにすっかり身繕いをして、しかし廉(やす)くて、六ペンスにしては好く見えるリボンで華やかに飾り立てて出て来た。そして彼女は、これもまたリボンで飾り立てている二番目娘のベリンダ・クラチットに手伝わせて、食卓布をひろげた。一方では、子息のピータア・クラチットが馬鈴薯の鍋の中に肉叉を突込んだ。そして、恐ろしく大きな襯衣(シャツ)(この日の祝儀として、ボブが彼の子息にして嗣子なるピーターに授与したる私有財産)の襟の両端を自分の口中に啣えながら、我ながらいかにも華々しくめかし込んだのに嬉しくなって、流行児の集まる公園に出懸けて自分の下着を見せたくて堪らなかった。さて、二人の一層小さいクラチット達、すなわち男の児と女の児とは、麺麭屋の戸外で鵞鳥の匂いを嗅いだが、それが自分達のだと分ったと云って、きゃあきゃあ叫びながら躍り込んで来た。そして、これ等の小クラチット達はサルビヤだの葱だのと贅沢な考えに耽りながら、食卓の周囲を躍り廻って、ピータア・クラチット君を口を極めて褒めそやした。その間に彼は(襯衣の襟が咽喉を締めそうになっていたが、別段自慢もしないで)のろのろした馬鈴薯が漸く煮えくり返りながら、取り出して皮を剥いてくれと、大きな音を立てて鍋の蓋を叩き出すまで、火を吹き熾していた。
「それはそうと、お前達の大切(だいじ)の阿父さんはどうしたんだろうね?」と、クラチット夫人は云った。「それからお前達の弟のちびのティムもだよ! それからマーサも去年の基督降誕祭には約三十分も前に帰って来ていたのにねえ。」
「マーサが来ましたよ、阿母さん!」と云いながら、一人の娘がそこに現われた。
「マーサが来ましたよ、阿母さん!」と、二人の小クラチットどもは叫んだ。「万歳! こんな鵞鳥があるよ、マーサ!」
「まあ、どうしたと云うんだね、マーサや、随分遅かったねえ!」と云いながら、クラチット夫人は幾度も彼女に接吻したり、彼是と世話を焼きたがって、相手のシォールだの帽子だのを代って取って遣ったりした。

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