クリスマス・カロル
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著者名:ディケンズチャールズ 

 スクルージはあまり戯談なぞ云う男ではなかった。またこの時は心中決して剽軽な気持になってもいなかった。実を云えば、彼はただ自分の心を紛らしたり、恐怖を鎮めたりする手段として、気の利いた事でも云って見ようとしたのであった。それと云うのも、その幽霊の声が骨の髄まで彼を周章せしめたからであった。
 一秒でも黙って、このじっと据わった、どんよりと光のない眼を見詰めて腰掛けていようものなら、それこそ自分の生命に関わりそうに、スクルージは感じた。それに、その幽霊が幽霊自身の地獄の風を身の周りに持っていると云うことも、何か知ら非常に恐ろしい気がした。スクルージは自分が直接その風を受けたのではなかった。しかしそれは明白に事実であった。と云うのは、この幽霊は全然身動きもしないで腰掛けていたけれども、その毛髪や、着物の裾や長靴の※[#「糸+遂」、27-7]が、竈から昇る熱気にでも吹かれているように、始終動いていたからである。
「この楊子は見えるだろうね?」と、スクルージは今挙げたような理由の下に、早速突撃に立ち戻りながら、また一つにはただの一秒間でもよいから、幽霊の石のような凝視を側(わき)へ逸(そ)らしたいと望みながら訊いた。
「見えるよ」と、幽霊が答えた。
「楊子の方を見ていないじゃないか」と、スクルージは云った。
「でも、見えるんだよ」と、幽霊は云った。「見ていなくてもね。」
「なるほど!」と、スクルージは答えた。「私はただこれを丸呑みにしさえすれば可いのだ。そして、一生の間自分で拵えた化物の一隊に始終いじめられてりゃ世話はないや。馬鹿々々しい、本当に馬鹿々々しいやい!」
 これを聞くと、幽霊は怖ろしい叫び声を挙げた。そして、物凄い、慄然(ぞっ)とするような物音を立てて、その鎖を揺振(ゆすぶ)ったので、スクルージは気絶してはならないと、しっかりと椅子に獅噛み着いた。しかし幽霊が室内でこんな物を巻いているのはちと暖か過ぎるとでも云うように頭からその繃帯を取り外したので、その下顎がだらりと胸に重ね落ちた時には、彼の恐怖は前よりもどんなに大きかったことであろう!
 スクルージはいきなり跪いて、顔の前に両手を合せた。
「お助け!」と彼は云った。「恐ろしい幽霊様、どうして貴方は私をお苦しめになるのだ?」
「世間の欲に眼の暮れた男よ」と、幽霊は答えた。「お前は私を信ずるかどうじゃ?」
「信じます」と、スクルージは云った。「信じないでは居られませぬ。ですが、何故幽霊が出るのですか。また何だって私の許へやって来るのですか。」
「誰しも人間というものは」と、幽霊は返答した。「自分の中にある魂が世間の同胞の間へ出て行って、あちこちとひろく旅行して廻らなければならないものだ。若しその魂が生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうするように申し渡されているのだ。世界中をうろつき歩いて、――ああ悲しいかな!――そして、この世に居たら共に与かることも出来たろうし、幸福に転ずることも出来たろうが、今は自分の与かることの出来ない事柄を目撃するように、その魂は運命を定められているのだよ。」
 幽霊は再び叫び声を挙げた。そして、その鎖を揺振って、その幻影のような両手を絞った。
「貴方は縛られておいでですね」と、スクルージは顫えながら云った。「どういう訳ですか。」
「私が存命中に鍛えた鎖を身に着けているのさ」と幽霊は答えた。「私は一輪ずつ、一ヤードずつ、拵えて行った。そして、自分の勝手で捲き附けたのだ。自分の勝手で身に着けたのだ。お前さんはこの鎖の型に見覚えがないかね。」
 スクルージはいよいよますます慄えた。
「それとも」と、幽霊は言葉をつづけた、「お前さんは自分でも背負っているその頑丈な捲環の重さと長さを知りたいかね。それは七年前の聖降誕祭の前晩にも、これに負けないくらい重くて長かったよ。その後もお前さんは苦労してそれを殖やして来たからね。今は素晴らしく重い鎖になってるよ。」
 スクルージは、もしか自分もあんな五六十尋もあるような鉄の綱で取り巻かれているのじゃないかと、周囲の床の上を見廻した。しかし何も見ることは出来なかった。
「ジェコブ(註、これは猶太人に多い名であるそうな。スクルージの洗礼名エベネザアも同様。)」と、彼は憐みを乞うように云った。「老ジェコブ・マアレイよ、もっと話しをしておくれ。気の引き立つようなことを云っておくれ、ジェコブよ。」
「何も上げるものはないよ」と、幽霊は答えた。「そんなものは他の世界から来るのだ、エベネザア・スクルージよ。そして、他の使者がもっと質の違った人間の許へもって行くのよ。それにまた私は自分の云いたいことを話す訳にも行かない。後もうほんの少しの時間しか許されていないのだからね。私は休むことも停まってることも出来ない。どこにもぐずぐずしてることも出来ない。私の魂は私どもの事務所より外へ出たことがなかった。――よく聴いておいでよ――生きてる間、私の魂は私どもの帳場の狭い天地より一歩も出なかった。そして、今や飽き飽きするような長たらしい旅程が私の前に横わっているんだよ。」
 スクルージが考え込む時には、いつでもズボンのポッケットに両手を突っ込むのが癖であった。幽霊の云ったことをつくづく考え運らしながら、今も彼はそうしていた。が、眼も挙げなければ、立ち上がりもしなかった。
「極くゆっくりとやって来たのでしょうね。」と、スクルージは謙遜で丁寧ではあったが、事務的な口調で訊いた。
「ゆっくりだ!」と、幽霊は相手の言葉を繰り返した。
「死んで七年」と、スクルージは考えるように云った。「その間始終歩き通しでしょう?」
「始終だとも」と、幽霊は云った。「休息もなければ、安心もない。絶え間なく後悔に苦しめられてるんだよ。」
「では、よほど速く歩いてるのですか」と、スクルージは訊いた。
「風の翼に乗ってよ」と、幽霊は答えた。
「それじゃ七年間には随分沢山の道程(みちのり)が歩かれたでしょう」と、スクルージは云った。
 幽霊は、それを聞いて、もう一度叫び声を挙げた。そして、区がそれを安眠妨害として告発しても差支えなかろうと思われるような、怖ろしい物音を真夜中に立てて、鏈をガチャガチャと鳴らした。
「おお! 縛られた、二重に足枷を嵌められた捕虜よ」と、幽霊は叫んだ、「不死の人々のこの世のためにせらるる不断の努力の幾時代も、この世の受け得る善のまだことごとく展開し切らないうちに、永劫の常闇の中に葬られざるを得ないと云うことを知らないとは。どんな境遇にあるにせよ、その小さな範囲内で、それぞれその性に合った働きをしている基督教徒の魂が、いずれも自分に与えられた人の為に尽す力の広大なのに比べて、その一生の余りに短きに過ぐるを嘆じていると云うことを知らないとは。一生の機会を誤用したことに対しては、いくら永い間後悔を続けてもそれを償うに足りないと云うことを知らないとは! しかも私はそう云う人間であった! ああ、私はそう云う人間であったのだ!」
「だがしかし、お前さんはいつも立派な事務家でしたがね」と、スクルージは言い淀みながら云った。彼は今や相手の言葉を我が身に当て嵌めて考え出したのである。
「事務だって!」と、幽霊はまたもや其の手を揉み合せながら叫んだ。「人類が私の事務だったよ。社会の安寧が私の事務だった。慈善と、恵みと、堪忍と、博愛と、すべてが私のすべき事務だったよ。商売上の取引なぞは、私の職務という広大無辺な海洋中の水一滴に過ぎなかったのだ。」幽霊は、これが有らゆる自分の無益な悲嘆の源泉であるぞと云わんばかりに、腕を一杯に伸ばしてその鎖を持ち上げた。そして、それを再び床の上にどさりと投げ出した。
「一年のこの時節には」と幽霊は云った、「私は一番苦しむのだ。何故私は同胞の群がっている中を眼を伏せたまま通り抜けたろう! そして、東方の博士達を一貧家に導いたあのお有難い星を仰いで見なかったろう! 世の中にあの星の光が私を導いてくれるような貧しい家は無かったのか。」
 スクルージは、幽霊がこんな調子で話し続けて行くのを聞いて、非常に落胆した。そして、無性にがたがたと慄え出した。
「よく聞いていなよ!」と、幽霊は叫んだ。「私の時間はもう尽きかかっているのだからね。」
「はい、聞いていますよ」と、スクルージは云った。「ですが、どうかお手柔らかに願いたい! 余り言葉を飾らないで下さい。ジェコブ君、お願いですよ。」
「どう云う理由で私がこうしてお前さんの眼に見えるような恰好でお前さんの前に現れるようになったかと云うことは、私は語ることを許されていない。姿は見せなかったが、私は幾日も幾日もお前さんの傍に坐っていたのだよ。」
 それは聞いて決して気持の好い話ではなかった。スクルージは慄え上った。そして、前額から汗を拭き取った。
「そうして坐っているのも、私の難行苦行の中で決して易しい方ではないよ」と、幽霊は言葉を続けた。「私は今晩ここへ、お前さんにはまだ私のような運命を免れる機会も望みもあると云うことを教えて上げるためにやって来たのだ。つまり私の手で調べて上げた機会と望みがあるんだね、エベネザー君よ。」
「お前さんはいつも私には親切な友達でしたよ」とスクルージは云った。「どうも有難う!」
「お前さんはお見舞いを受けるよ」と、幽霊は言葉を次いだ、「三人の幽霊に。」スクルージの顔はちょうど幽霊の顎が垂れ下がったと同じ程度に垂れ下がった。
「それがお前さんの云った機会と望みのことなんですか、ジェコブ君。」と、彼はおどおどした声で訊いた。
「そうだ。」
「私は――私はいっそ来て頂きたくないので」と、スクルージは云った。
「三人の幽霊の訪問を受けなけりゃ」と、幽霊は云った、「到底私の踏んだ道を避けることは出来ないよ。明日一時の鐘が鳴ったら、第一の幽霊が来るからそう思っていなさい。」
「皆一緒に来て頂いて、一時に済ましてしまう訳には行きませんかな、ジェコブ君」と、スクルージは相手の気を引いて見た。
「その明くる晩の同じ時刻には、第二の幽霊が来るからそう思っていなさい。またその次ぎの晩の十二時の最後の打ち音が鳴り止んだときに、第三の幽霊が来るからそう思っていなさい。もうこの上私と会おうと思いなさるな。そして、二人の間にあったことを貴方自身のために記憶(おぼ)えて置くように、好く気を附けなさい!」
 この言葉を云い終わった時、幽霊は卓子の上から例の繃帯を取って、以前と同じように、頭のまわりにそれを捲きつけた。その顎が繃帯で上下一緒に合わさった時に、その歯の立てたガチリと云う音で、スクルージもそれと知った。彼は思い切って再び眼を挙げて見た。見ると、この超自然の訪客は腕一杯にぐるぐるとその鎖を捲きつけたまま、直立不動の姿勢で彼と向い合って立っているのであった。
 幽霊はスクルージの前からだんだんと後退りして行った。そして、それが一歩退く毎に、窓は自然に少しずつ開いて、幽霊が窓に達した時には、すっかり開き切っていた。幽霊はスクルージに傍へ来いと手招ぎした、スクルージはその通りにした。二人が互に二歩の距たりに立った時、マアレイの幽霊はその手を挙げて、これより傍へ近づかないように注意した。スクルージは立停まった。これは相手の云うことを聴いて立ち停まったと云うよりも、むしろ吃驚して恐れて立ち停まったのであった。と云うのは、幽霊が手を挙げた瞬間に、空中の雑然たる物音が、連絡のない悲嘆と後悔の響きが、何とも云われないほど悲しげな、自らを責めるような慟哭の声が彼の耳に聞えて来たからである。幽霊は一寸耳を澄まして聴いていた後で、自分もその悲しげな哀歌に声を合せた。そして、物寂しい暗夜の中へうかぶように出て行った。
 スクルージは、自分の好奇心に前後を忘れて、窓の所まで随いて行った。彼は外を眺め遣った。
 空中は、落着きのない急ぎ足で彼方此方をうろつき廻り、そして、歩きながらも呻吟している妖怪変化で満たされていた。そのどれもこれもがマアレイの幽霊と同じような鎖を身につけていた、中に二三の者は(これは有罪会社の輩かも知れない)一緒に繋がれていた。一として縛られていないのはなかった。存命中スクルージに親しく知られて居たものも沢山あった。彼は、白い胴服(チョッキ)を着て、踵に素晴らしく大きな鉄製の金庫を引きずっている一人の年寄の幽霊とは生前随分懇意にしていたのであった。その幽霊は、下の入口の踏段の上に見えている赤ん坊を連れた見すぼらしい女を助けてやることが出来ないと云うので、痛々しげに泣き喚いていた。彼等全体の不幸は、明かに、彼等が人事に携わってそれを善くしようと望んでいて、しかも永久にその力を失ったと云う所にあるのであった。
 これ等の生物が霧の中に消え去ったのか、それとも霧の方で彼等を包んでしまったのか、彼には何れとも分らなかった。しかし彼等も、その幽霊の声々も共に消えてしまった。そして、夜は彼が家に歩いて帰った時と同じようにひっそりとなった。
 スクルージは窓を閉めた。そして、幽霊の這入って来た戸を検めた。それは彼が自分の手で錠を卸して置いた通りに、ちゃんと二重に錠が卸してあった。閂にも異常はなかった。彼は「馬鹿々々しい!」と云おうとしたが、口に出し掛けたまま已めた。そして、自分の受けた感動からか、それとも昼間の労れからか、それともあの世を一寸垣間見たためか、それとも幽霊の不景気な会話のためか、それともまた時間のおそいためか知らないが、非常に休息の必要を感じていたので、着物も脱がないで、そのまま寝床へ這入って、すぐにぐっすりと寝込んだ仕舞った。

   第二章 第一の精霊

 スクルージが眼を覚ましたときには、寝床から外を覗いて見ても、その室の不透明な壁と透明な窓との見分けがほとんど附かない位暗かった。彼は鼬のようにきょろきょろした眼で闇を貫いて見定めようと骨を折っていた。その時近所の教会の鐘が十五分鐘を四たび打った。で、彼は時の鐘を聞こうと耳を澄ました。
 彼が非常に驚いたことには、重い鐘は六つから七つと続けて打った、七つから八つと続けて打った。そして、正確に十二まで続けて打って、そこでぴたりと止んだ。十二時! 彼が床についた時には二時を過ぎていた。時計が狂っているのだ。機械の中に氷柱が這入り込んだものに違いない。十二時とは!
 彼はこの途轍もない時計を訂正しようと、自分の時打ち懐中時計の弾条(ばね)に手を触れた。その急速な小さな鼓動は十二打った、そして停まった。
「何だって」と、スクルージは云った、「全(まる)一日寝過ごして、次の晩の夜更けまで眠っていたなんて、そんな事はある筈がない。だが、何か太陽に異変でも起って、これが午(ひる)の十二時だと云う筈もあるまいて!」
 そうだとすれば大変なことなので、彼は寝床から這い出して、探り探り窓の所まで行った。ところが、何も見えないので、已むを得ず寝間着の袖で霜を拭い落した。で、ほんの少し許り見ることが出来た。彼がやっと見分けることの出来たのは、ただまだ非常に霧が深く、耐らないほど寒くて、大騒ぎをしながらあちらこちらと走り廻っている人々の物音なぞは少しもなかったと云うことであった。若し夜が白昼を追い払って、この世界を占領したとすれば、そう云う物音は当然起っていた筈である。これは非常な安心であった。何故なら、勘定すべき日というものがなくなったら、「この第一振出為替手形一覧後三日以内に、エベネザー・スクルージ若しくはその指定人に支払うべし」云々は、単に合衆国の担保に過ぎなくなったろうと思われるからである。
 スクルージはまた寝床に這入った。そして、それを考えた、考えた、繰り返し繰り返し考えたが、さっぱり訳が分らなかった。考えれば考えるほど、いよいよこんぐらかってしまった。考えまいとすればするほど、ますます考えざるを得なかった。
 マアレイの幽霊は無性に彼を悩ました。彼はよくよく詮議した揚句、それは全然夢であったと胸の中で定めるたんびに、心は、強い弾機(ばね)が放たれたように、再び元の位置に飛び返って、「夢であったか、それとも夢ではなかったのか」と、始めから遣り直さるべきものとして同じ問題を持ち出した。
 鐘が更に十五分鐘を三たび鳴らすまで、スクルージはこうして横たわっていた。その時突然、鐘が一時を打った時には、最初のお見舞いを受けねばならぬことを幽霊の戒告して行ったことを想い出した。彼はその時間が過ぎてしまうまで、眼を覚ましたまま横になっていようと決心した。ところで、彼がもはや眠られないことは天国に行かれないと同様であることを想えば、これは恐らく彼の力の及ぶ限りでは一番賢い決心であったろう。
 その十五分は非常に長くて、彼は一度ならず、我知らずうとうととして、時計の音を聞き漏らしたに違いないと考えた位であった。とうとうそれが彼の聞き耳を立てた耳へ不意に聞えて来た。
「ヂン、ドン!」
「十五分過ぎ!」とスクルージは数えながら云った。
「ヂン、ドン!」
「三十分過ぎ!」
「ヂン、ドン!」
「もう後(あと)十五分」と、スクルージは云った。
「ヂン、ドン!」
「いよいよそれだ!」と、スクルージは占めたとばかりに云った、「しかも何事もない!」
 彼は時の鐘が鳴らないうちにかく云った。が、その鐘は今や深い、鈍い、空洞(うつろ)な、陰鬱な一時を打った。たちまち室中に光が閃き渡って、寝床の帷幄(カーテン)が引き捲くられた。
 彼の寝床の帷幄は、私は敢て断言するが、一つの手で側(わき)へ引き寄せられた。足下(あしもと)の帷幄でも、背後(うしろ)の帷幄でもない、顔が向いていた方の帷幄なのだ。彼の寝床の帷幄は側へ引き寄せられた。そして、スクルージは、飛び起きて半坐りになりながら、帷幄を引いたその人間ならぬ訪客と面と面を突き合せた。ちょうど私が今読者諸君に接近していると同じように密接して。そして、私は精神的には諸君のつい手近に立っているのである。
 それは不思議な物の姿であった――子供のような。しかも子供に似てると云うよりは老人に似てると云った方が可いかも知れない。(老人と云ってもただの老人ではない)、一種の超自然的な媒介物を通じて見られるので、だんだん眼界から遠退いて行って、子供の躯幹にまで縮小された観を呈していると云ったような、そう云う老人に似ているのである。で、その幽霊の頸のまわりや背中を下に垂れ下がっていた髪の毛は、年齢(とし)の所為(せい)でもあるように白くなっていた。しかもその顔には一筋の皺もなく、皮膚は瑞々(みずみず)した盛りの色沢(つや)を持っていた。腕は非常に長くて筋肉が張り切っていた。手も同様で、並々ならぬ把握力を持っているように見えた。極めて繊細に造られたその脚も足も、上肢と同じく露出(むきだし)であった。幽霊は純白の長衣を身に着けていた。そして、その腰の周りには光沢のある帯を締めていたが、その光沢は実に美しいものであった。幽霊は手に生々(いきいき)した緑色の柊の一枝を持っていた。その冬らしい表徴とは妙に矛盾した、夏の花でその着物を飾っていた。が、その幽霊の身のまわりで一番不思議なものと云えば、その頭の頂辺(てっぺん)からして明煌々たる光りが噴出していることであった。その光りのために前に挙げたようなものが総て見えたのである。そして、その光りこそ疑いもなくその幽霊が、もっと不愉快な時々には、今はその腋の下に挟んで持っている大きな消灯器(ひけし)を帽子の代りに使用している理由であった。
 とは云え、スクルージがだんだん落ち着いてその幽霊を見遣った時には、これですらそれの有する最も不思議な性質とは云えなかった。と云うのは、その帯の今ここがぴかりと光ったかと想うと、次には他の所がぴかりと輝いたり、また今明るかったと思う所が次の瞬間にはもう暗くなったりするに伴れて、同じように幽霊の姿それ自体も、今一本腕の化物になったかと思うと、今度は一本脚になり、また二十本脚になり、また頭のない二本脚になり、また胴体のない頭だけになると云うように、その瞭然(はっきり)した部分が始終揺れ動いていた。で、それ等の消えていく部分は濃い暗闇の中に溶け込んでしまって、その中に在っては輪廓一つ見えなかったものだ。そして、それを不思議だと思っているうちに、幽霊は再び元の姿になるのであった、元のように瞭然(はっきり)として鮮明な元の姿に。
「貴方があのお出での前触れのあった精霊でいらっしゃいますか」と、スクルージは訊ねた。
「左様!」
 その声は静かで優しかった。彼の側にこれほど近く寄っているのではなく、ずっと触れてでもいるように、へんてこに低かった。
「何誰(どなた)で、またどういう方でいらっしゃいますか」と、スクルージは問い詰めた。
「私は過去の聖降誕祭の幽霊だよ。」
「ずっと古い過去のですか」と、スクルージはその侏儒のような身丈(せい)恰好(かっこう)に眼を留めながら訊いた。
「いや、お前さんの過去だよ。」
 たとい誰かが訊ねたとしても、恐らくスクルージはその理由を語ることが出来なかったろう。が、彼はどう云うものか、その精霊に帽子を被せて見たいものだと云う特別な望みを抱いた。で、それを被るように相手に頼んだ。
「何!」と幽霊は叫んだ、「お前さんはもう俗世界の手で、私の与える光明を消そうと思うのか。俗衆の我欲がこの帽子を拵えて、長の年月の間にずっと私を強いて無理に額眉深にそれを被らせて来たものだ。お前さんもその一人だが、それだけでもう沢山じゃないかね。」
 スクルージは、決して腹を立てさせるつもりではなかった、また自分の一生の中いつの時代にも故意に精霊を侮辱した覚えなぞはないと、うやうやしげに弁解した。それから彼は思い切って、何用あってここへはやって来たのかと訊ねた。
「お前さんの安寧のためにだよ」と、幽霊は云った。
 スクルージはそれは大変に有難う御座いますと礼を述べた。しかし一晩邪魔されずに休息した方が、それにはもっと利き目があったろうと考えずにはいられなかった。精霊は彼がそう考えているのを見て取ったに違いない。と云うのは、すぐにこう云ったからである。
「じゃ、お前さんの済度のためだよ。さあいいか!」
 こう云いながら、幽霊はその頑丈な手を差し伸べて、彼の腕をそっと掴まえた。
「さあ立て! 一緒に歩くんだよ。」
 天気と時刻とが徒歩の目的に適していないと云ったところで、寝床が温かで、寒暖計はずっと氷点以下に降っていると抗弁したところで、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けていないのだと抗言(あらが)って見たところで、また当時自分は風邪を引いていると争ったところで、そんな事はスクルージに取っては何の役にも立たなかったろう。婦人の手のように優しくはあったが、その把握には抵抗すべからざるものがあった。彼は立ち上がった。が、精霊が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。
「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てた、「ですから落ちてしまいますよ。」
「そこへ一寸私の手を当てさせろ」と幽霊はスクルージの胸に手を載せながら云った。「そうすれば、お前さんはこんな事位でない、もっと危険な場合にも支えて貰われるんだよ。」
 こう云っているうちに、彼等は壁[#「壁」は底本では「塵」]を突き抜けて、左右に畠の広々とした田舎道に立った。倫敦(ロンドン)の町はすっかり消えてなくなった。その痕跡すら見られなかった。暗闇も霧もそれと共に消えてしまった。それは地上に雪の積っている、晴れた、冷い、冬の日であった。
「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周囲を見廻して、両手を固く握り合せながら云った。「私はここで生れたのだ。子供の時にはここで育ったのだ!」
 精霊は穏かに彼を見詰めていた。精霊が優しく触ったのは、軽くてほんの瞬間的のものではあったが、この老人の触覚には尚まざまざと残っているように思われた。彼は空中に漂っている様々な香気に気が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられていた、様々な考えや、希望や、喜びや、心配と結び着いていた。
「お前さんの唇は慄えているね」と、幽霊は云った。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」
 スクルージは平生に似合わず声を吃らせながら、これは面瘡(にきび)だと呟いた。そして、どこへなりと連れて行って下さいと幽霊に頼んだ。
「お前さんこの道を覚えているかね?」と、精霊は訊ねた。
「覚えていますとも!」と、スクルージは勢い込んで叫んだ、「目隠をしても歩けますよ。」
「あんなに長い年月それを忘れていたと云うのは、どうも不思議だね!」と、幽霊は云った。「さあ行こうよ。」
 二人はその往還に沿って歩いて行った。スクルージには、目に当るほどの門も、柱も、木も一々見覚えがあった。こうして歩いて行くうちに、遥か彼方に橋だの、教会だの、曲り紆(くね)った河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達を乗せて、二人の方へ駆けて来るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車に乗っかっている他の子供達に声を掛けていた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきゃっきゃっと声を立てて喚び合った。で、仕舞には清々(すがすが)しい冬の空気までそれを聞いて笑い出したほど、広い田野が一面に嬉しげな音楽で満たされた位であった。
「これはただ昔あったものの影に過ぎないのだ」と、幽霊は云った。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」
 陽気な旅人どもは近づいて来た。で、彼等が近づいて来た時、スクルージは一々彼等を見覚えていて、その名前を挙げた。どうして彼は彼等に会ったのをあんなに法外に悦んだのか。彼等が通り過ぎてしまった時、何だって彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上ったのか。各自の家路に向って帰るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互いに聖降誕祭お目出とうと言い交わすのを聞いた時、何だって彼の胸に嬉しさが込み上げて来たか。一体スクルージに取って聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいやい! 今まで聖降誕祭が何か役に立ったことがあるかい。
「学校はまだすっかり退(ひ)けてはいないよ」と、幽霊は云った。「友達に置いてけぼりにされた、独りぼっちの子がまだそこに残っているよ。」
 スクルージはその子を知っていると云った。そして、彼は啜り泣きを始めた。
 彼等はよく覚えている小路を取って、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を頂いた小さな円頂閣のある、そして、その円頂閣に鐘の下がっている、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行った。それは大きな家であったが、また零落した家でもあった。広々とした台所もほとんど使われないで、その塵は湿って苔蒸していた、窓も毀れていた、門も立ち腐れになっていた。鶏はくっくっと鳴いて、厩舎の中を威張りくさって歩いていた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面にはびこっていた。室内も同じように昔の堂々たる面影を留めてはいなかった。陰気な見附けの廊下に這入って、幾つも開け放しになった室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切って、洞然としていた。空気は土臭い匂いがして、場所は寒々として何もなかった、それがあまりに朝はやく起きて見たが、喰う物も何もないのと、どこか似通うところがあった。
 彼等は、幽霊とスクルージとは、見附けの廊下を横切って、その家の背後にある戸口の所まで行った。その戸口は二人の押すがままに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰気な室を展げて見せた。木地のままの樅板の腰掛と机とが幾筋にも並んでいるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しそうな少年が微温火(とろび)の前で本を読んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れていたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。
 家の中に潜んでいる反響も、天井裏の二十日鼠がちゅうちゅう鳴いて取組み合いをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元気のない白楊[#「白楊」は底本では「柏楊」]の葉の落ち尽した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたようにばたばたするのも、いや、煖炉の中で火の撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるような影響を与えないものはなかった、また彼の涙を一層惜し気もなく流させないものはなかった。
 精霊は彼の腕に手を掛けて、読書に夢中になっている若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外国の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚するほどありありとかつはっきりとした一人の男が、帯に斧を挟んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立った。
「何だって、アリ・ババじゃないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。そうだ、そうだ、私は知ってる! ある聖降誕祭の時節に、あそこにいるあの独りぼっちの子がたった一人ここに置いてけぼりにされていた時、始めてあの老爺さんがちょうどああ云う風をしてやって来たのだ。可哀そうな子だな! それからあのヴァレンタインも」と、スクルージは云った、「それからあの乱暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠っているうちに股引を穿いたまま、ダマスカスの門前に捨てて置かれたのは、何とか云う名前の男だったな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王(サルタン)の馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立っている! 好い気味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴がまた何の権利があって姫君の婿になろうなぞとしたのだ!」
 スクルージが笑うような泣くような突拍子もない声で、こんな事に自分の真面目な所をすっかり曝け出しているのを聞いたり、彼のいかにも嬉しそうな興奮した顔を見たりしようものなら、本当に倫敦市の商売仲間は吃驚したことであろう。
「あすこに鸚鵡がいる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の体躯に黄色い尻尾、頭の頂辺(てっぺん)から萵苣(ちしゃ)[#「萵苣」は底本では「萵苔」]のようなものを生(は)やして。あすこに鸚鵡がいるよ。可哀そうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして帰って来た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀そうなロビン・クルーソー、どこへ行って来たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見ていたのだと思ったが、そうじゃなかった。鸚鵡だった、御存じの通りに。あすこに金曜日(フライデー)が行く。小さな入江を目がけて命からがら駆[#「駆」は底本では「騙」]け出して行く、しっかり! おーい! しっかり!」
 それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な気の変りようで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀そうな子だな!」と云った。そして、再び泣いた。
「ああ、ああして遣りたかったな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四辺を見廻わしながら呟いた。「だが。もう間に合わないよ。」
「一体どうしたと云うんだね?」
「何でもないんです」と、スクルージは云った。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌っていた子供がありましたがね。何か遣れば可かったとこう思ったんですよ、それだけの事です。」
 幽霊は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もっと他の聖降誕祭を見ようじゃないか」と云いながら、その手を振った。
 こう云う言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずっと大きくなった。そして、部屋は幾分暗く、かつ一層汚くなった。羽目板は縮み上がって、窓には亀裂が入った。天井からは漆喰の破片(かけら)が落ちて来て、その代りに下地の木片が見えるようになった。しかしどうしてこう云う事になったかと云うことは、読者に分らないと同様に、スクルージにも分っていなかった、ただそれがまったくその通りであったと云うことは、何事もかつてその通りに起ったのだと云うことは、他の子供達が皆楽しい聖降誕祭の休日をするとて家へ帰って行ったのに、ここでもまた彼ひとり残っていたと云うことだけは、彼にも分っていた。
 彼は今や読書していなかった、落胆(がっかり)したように往ったり来たりしていた。スクルージは幽霊の方を見遣った。そして、悲しげに頭を振りながら、心配そうに戸口の方をじろりと見遣った。
 その戸が開いた。そして、その少年よりもずっと年下の小娘が箭を射るように飛び込んで来た。そして、彼の首のまわりに両腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。
「ねえ兄さん、私兄さんのお迎いに来たのよ」と、その小っぽけな手を叩いたり、身体を二つに折って笑ったりしながら、その子は云った。「一緒に自宅(うち)へ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」
「自宅へだって? ファンよ」と、少年は問い返した。
「そうよ!」と、その子ははしゃぎ切って云った。「帰りっ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんもこれまでよりはずっと善くして下さるので、本当にもう自宅は天国のようよ! この間の晩寝ようと思ったら、それはそれは優しく物を言って下すったから、私も気が強くなって、もう一度、兄さんが自宅へ帰って来てもいいかって訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、ああ、帰って来るんだともだって。そして、兄さんのお迎いに来るように私を馬車へ乗せて下さったのよ。で、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云った、「そして、もう二度とはここへ帰って来ないのよ。でも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」
「お前はもうすっかり大人だね、ファン!」と、少年は叫んだ。
 彼女は手を打って笑った。そして、彼の頭に触ろうとしたが、あまり小さかったので、また笑って爪先で立ち上りながら、やっと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引っ張って行った。で、彼は得たり賢しと彼女に随って出て行った。
 誰かが玄関で「スクルージさんの鞄を下ろして来い、そら!」と怖しい声で呶鳴った。そして、その広間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいような謙譲の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依ってすっかり彼を慄え上がらせてしまった。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本当にかつてこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と云っても可いような寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。そこには壁に地面が掛けてあり、窓には天体儀と地球儀とが置いてあったが、両方とも寒さで蝋のようになっていた。ここで校長はへんてこに軽い葡萄酒の容器と、へんてこに重い菓子の一塊片(ひとかけら)とを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分ずつ分けて遣った。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやった。ところが、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答えたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂辺に括り着けられていたので、子供達はただもう心から悦んで校長に暇を告げた。そして、それに乗り込んで、菜園の中の曲路を笑いさざめきながら駆り去った。廻転のはやい車輪は、常磐木の黒ずんだ葉から水烟のように霜だの雪だのを蹴散らして行った。
「いつも脾弱(ひよわ)な、一と吹きの風にも萎んでしまいそうな児だった」と、幽霊は云った、「だが、心は大きな児だよ!」
「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しゃる通りです。私はそれを否認しようとは思いません、精霊どの。いやもう決して!」
「彼女は一人前になって死んだ」と、幽霊は云った、「そして、子供達もあったと思うがね。」
「一人です」と、スクルージは答えた。
「いかにも、」と、幽霊は云った。「お前さんの甥だ!」
 スクルージは心中不安げに見えた。そして、簡単に「そうです」と答えた。
 彼等はその瞬間学校を後にして出て来たばかりなのに、今はある都会の賑やかな大通りに立っていた。そこには影法師のような往来の人が頻りに往ったり来たりしていた。そこにはまた影法師のような荷車や馬車が道を争って、あらゆる実際の都市の喧騒と雑閙とがあった。店の飾り附けで、ここもまた聖降誕祭の季節であることは、明白に分っていた。ただし夕方であって、街路には灯火が点いていた。
 幽霊はある商店の入口に立ち停まった。そして、スクルージにそれを知っているかと訊ねた。
「知っているかですって!」と、スクルージは答えた。「私はここで丁稚奉公をして居たことがあるんですよ。」
 彼等は中に這入って行った。ウエルス人の鬘(註、老人の被る毛糸で編んだ帽子のこと。)を被った老紳士が、今二インチも自分の身丈(せい)が高かろうものなら、きっと天井に頭を打ち附けたろうと思われるような、丈の高い書机の向うに腰掛けているのを一目見ると、スクルージは非常に興奮して叫んだ。
「まあ、これは老フェッジウィッグじゃないか! ああ! フェッジウィッグがまた生き返った!」
 老フェッジウィッグは鉄筆を下に置いて、時計を見上げた。その時計は七時を指していた。彼は両手を擦った。たぶたぶした胴服(チョッキ)をきちんと直した。靴の先から頭の頂辺まで、身体中揺振って笑った。そして、気持の好さそうな、滑らかな、巾のある、肥った、愉快そうな声で呼び立てた―――
「おい、ほら! エベネザア! ディック!」
 今や立派な若者になっていたスクルージの前身は、仲間の丁稚と一緒に、てきぱきと這入って来た。
「ディック・ウイルキンスです、確に!」と、スクルージは幽霊に向って云った。「なるほどそうだ。あそこに居るわい。彼奴は私に大層懐いていたっけ、可哀そうに! やれ、やれ!」
「おい、子供達よ」と、フェッジウィッグは云った。「今夜はもう仕事なぞしないのだ。聖降誕祭だよ、ディック! 聖降誕祭だよ、エベネザア! さあ雨戸を閉めてしまえ」と、老フェッジウィッグは両手を一つぴしゃりと鳴らしながら叫んだ、「とっとと仕舞うんだぞ!」
 読者はこれ等二人の若者がどんなにそれを遣っ附けたかを話しても信じないであろう。二人は戸板を持って往来へ突進した――一、二、三――その戸板を嵌めべき所へ嵌めた――四、五、六――戸板を嵌めて目釘で留めた――七、八、九――そして、読者が十二まで数え切らないうちに、競馬の馬のように息を切らしながら、家の中へ戻って来た。
「さあ来た!」と、老フェッジウィッグは吃驚するほど軽快に高い書机から跳ね降りながら叫んだ。「片附けろよ、子供達、ここに沢山の空地を作るんだよ。さあ来た、ディック! 元気を出せ、エベネザア!」
 片附けろだって! 何しろ老フェッジウィッグが見張っているんだから、彼等が片附けようとしないものもなければ、片附けようとして片附ける事の出来ないものもなかった。一分間で出来てしまった。動かすことの出来るものは、ちょうど永久に公的生活から解雇されたように、ことごとく包んで片附けられてしまった。床は掃いて水を打たれた、洋灯は心を剪られた、薪は煖炉の上に積み上げられた。こうして問屋の店は、冬の夜に誰しもかくあれかしと望むような、小ぢんまりした、温い、乾いた明るい舞踏室と変った。
 一人の提琴手が手に楽譜帳を持って這入って来た。そして、あの高い書机の所へ上って、それを奏楽所にした。そして、胃病患者が五十人も集ったように、げえげえ云う音を立てて調子を合せた。フェッジウィッグ夫人すなわちでぶでぶ肥った愛嬌の好い女が這入って来た。三人のにこにこした可愛らしいフェッジウィッグの娘が這入って来た。その三人に心を悩まされている六人の若者が続いて這入って来た。この店に使われている若い男や女もことごとく這入って来た。女中はその従弟の麺麭焼きの職工と一緒に這入って来た。料理番の女はその兄さんの特別の親友だと云う牛乳配達と一緒に這入って来た。道の向う側から来たと云う、主人から碌(ろく)すっぽ喰べさせて貰わないらしい小僧も、一軒置いて隣家の、これも女主人に耳を引っ張られたと云うことが後で分かった女中の背後に隠れるようにしながら這入って来た。一人また一人と、追い追いに衆皆(みんな)が這入って来た。中には極り悪そうに這入って来る者もあれば、威張って這入って来る者もあった。すんなりと這入って来る者もあれば、不器用に這入って来る者もあった。押して這入って来る者もあれば、引張って這入って来る者もあった。とにかくどうなりこうなりしてことごと皆這入って来た。たちまち彼等は二十組に分れた。室を半分廻って、また他の道を戻って来る、室の真中を降りて行くかと思えばまた上って来る、仲の好い組合せの幾段階を作ってぐるぐる廻って行く。前の先頭の組はいつも間違った所でぐるりと曲って行く。新たな先頭の組もそこへ到着するや否や、再び横へ逸れて行く。終いには先頭の組ばかりになって、彼等を助ける筈のしんがりの組が一つも後に続かないと云う始末だ。こんな結果になった時、老フェッジウィッグは舞踏を止めさせるように両手を叩きながら、大きな声で「上出来!」と叫んだ。すると、提琴手は、特にそのために用意された、黒麦酒の大洋盃の中へ真赧になった顔を突込んだ。が、その盃から顔を出すと、休んでなぞ居られるものかと云わんばかりに、まだ踊子が一人も出てないのも構わず、直ぐさままたやり始めたものだ。ちょうどもう一人の提琴手が疲れ果てて戸板に載せて家へ連れ帰られたので、自分はその提琴手をすっかり負かしてしまうか、さもなければ自分が斃れるまでやり抜こうと決心した真新しい人間でもあるように。
 その上にもまだ舞踏があった、また罰金遊びもあった。そして、更にまた舞踏があった。それから菓子が出た、調合葡萄酒が出た、それから大きな一片の冷えた焼肉が出た、それから大きな一片の冷えた煮物が出た。それから肉饅頭が出た、また麦酒が[#「が」は底本では「か」]沢山に出た。が、当夜第一の喚び物は焼肉や煮物の出た後で、提琴手が(巧者な奴ですよ、まあ聴いて下さい!――読者や私なぞがこうしろああしろと命ずるまでもなく、ちゃんと自分のやるべきことを心得ていると云う手合ですよ!)「サー・ロージャー・ド・カヴァリー」(註、古風な田舎踊の名、当時非常に流行したものらしく、メレディスの「エゴイスト」の中にも出て来る。)を弾き始めた時に出たのであった。その老フェッジウィッグはフェッジウィッグ夫人と手を携えて踊りに立ち出でた。しかも、二人に取っては誂え向きの随分骨の折れる難曲に対して、先頭の組を勤めようと云うのだ。二十三四組の踊手が後に続いた。いずれも隅には置けない手合ばかりだ。踊ろうとばかりしていて、歩くなぞと云うことは夢にも考えていない人達なのだ。
 が、彼等の人数が二倍あっても――おお、四倍あっても――老フェッジウィッグは立派に彼等の対手になれたろう、フェッジウィッグ夫人にしてもその通りだ。彼女はと云えば、相手という言葉のどういう意味から云っても、彼の相手たるに応わしかった。これでもまだ讃め足りないなら、もっと好い言葉を教えて貰いたい、私はそれを使って見せよう。フェッジウィッグの腓(ふくらはぎ)からは本当に火花が出るように思われた。その腓(ふくらはぎ)は踊のあらゆる部分において月のように光っていた。ある一定の時において、次の瞬間にその腓(ふくらはぎ)がどうなるか予言せよと云われても、何人にも出来なかったに相違ない。老フェッジウィッグ夫婦が踊の全部をやり通した時――進んだり退いたり、両方の手を相手に懸けたまま、お叩頭をしたり、会釈をしたり、手を取り合ってその下をくぐったり、男の腕の下を女がくぐったり、そして、再びその位置に返ったりして、踊の全部をやり通した時、フェッジウィッグは「飛び上った」、――彼は足で瞬きをしたかと思われたほど巧者に飛び上った。そして、蹌踉(よろめ)きもせずに再び足で立った。
 時計が十一時を打った時、この内輪の舞踏会は解散した。フェッジウィッグ夫妻は入口の両側に一人ずつ陣取って、誰彼の差別なく男が出て行けば男、女が出て行けば女と云うように、一人々々握手を交して、聖降誕祭の祝儀を述べた。二人の丁稚を除いて、総ての人が退散してしまった時、彼等はその二人にも同じ様に挨拶した。で、こうして歓声が消え去ってしまった。そして、二人の少年は自分達の寝床に残された。寝床は店の奥の帳場の下にあった。
 この間中ずっと、スクルージは本性を失った人のように振舞っていた。彼の心と魂とはその光景の中に入り込んで、自分の前身と一緒になっていた。彼は何も彼もその通りだと確信した、何も彼も想い出した、何も彼も享楽した。そして、何とも云われない不思議な心の動乱を経験した。彼の前身とディックとの嬉しそうな顔が見えなくなった時、始めて彼は幽霊のことを想い出した、幽霊が、その間ずっと頭上の光を非常にあかあかと燃え立たせながら、じっと自分を見詰めているのに気が附いた。
「些細な事だね」と、幽霊は云った、「あんな馬鹿な奴どもをあんなに有難がらせるのは。」
「些細ですって!」と、スクルージは問い返した。
 精霊は二人の丁稚の云ってることに耳を傾けろと手真似で合図をした、二人は心底を吐露してフェッジウィッグを褒め立てているのであった。で、彼がそうした時、幽霊は云った。
「だってなあ! そうじゃないか。あの男はお前達人間の金子をほんの数ポンド費やしたばかりだ、高々三ポンドか四ポンドだろうね。それが、これほど讃められるだけの金額かね。」
「そんな事じゃありませんよ」と、スクルージは、相手の言葉に激せられて、彼の後身ではない、前身が饒舌(しゃべ)ってでもいるように、我を忘れて饒舌った。「精霊どの、そんな事を云ってるんじゃありませんよ。あの人は私どもを幸福にもまた不幸にもする力を持っています。私どもの務めを軽くも、また重荷にもする、楽しみにも、また苦しい労役にもする力を持っています。まああの人の力が言葉とか顔附きとかいうものに存しているにもせよです、すなわち〆めることも勘定することも出来ないような、極く些細な詰まらないものの中に存しているにもせよです、それがどうしたと云うのです? あの人の与える幸福は、それがために一身代を費やしたほど大したものなのですよ。」
 彼は精霊がちらと此方(こちら)を見たような気がして、口を噤んだ。
「どうしたのだ?」と、幽霊は訊ねた。
「なに、別段何でもありませんよ」と、スクルージは云った。
「でも、何かあったように思うがね」と、幽霊は押して云った。
「いえ」と、スクルージは云った。「いえ、私の番頭に今一寸一語(ひとこと)か二語(ふたこと)云ってやることが出来たらとそう思ったので、それだけですよ。」
 彼がこの希望を口に出した時に、彼の前身は洋灯の心を引っ込ませた。そして、スクルージと幽霊とは再び並んで戸外に立っていた。
「私の時間はだんだん短くなる」と、精霊は云った。「さあ急いだ!」
 この言葉はスクルージに話し掛けられたのでもなければ、また彼の眼に見える誰に云われたのでもなかった。が、たちまちその効果を生じた。と云うのは、スクルージは再び彼自身を見たのである。彼は今度は前よりも年を取っていた。壮年の盛りの男であった。彼の顔には、まだ近年のような、厳い硬ばった人相は見えなかったが、浮世の気苦労と貪欲の徴候は既にもう現われ掛けていた。その眼には、一生懸命な、貪欲な、落ち着きのない動きがあった。そして、それは彼の心に根を張った欲情について語ると共に、だんだん成長するその木(欲情の木)の影がやがて落ちそうな場所を示していた。
 彼は独りではなくて、喪服を着けた美しい娘の側に腰を掛けていた。その娘の眼には涙が宿って、過去の聖降誕祭の幽霊から発する光の中にきらついていた。
「それは何でもないことですわ」と、彼女は静かに云った。「貴方に取っちゃ本当に何でもないことですわ。他の可愛いものが私に取って代ったのですもの。これから先それが、若し私が傍に居たらして上げようとしていた通りに、貴方を励ましたり慰めたりしてくれることが出来れば、私がどうのこうのと云って嘆く理由はありませんわね。」
「どんな可愛いものがお前に取って代ったのかね」と、彼はそれに答えて訊いた。
「金色のもの。」
「これが世間の公平な取扱いだよ」と、彼は云った。「貧乏ほど世間が辛く当たるものは他にない。それでいて金子を作ろうとする者ほど世間から手厳しくやっ附けられるものも他にないよ。」
「貴方はあまり世間と云うものを怖がり過ぎますよ」と、彼女は優しく答えた。「貴方の他の希望は、そう云う世間のさもしい非難を受ける恐れのない身になろうと云う希望の中に、ことごと皆呑み込まれてしまったんですね。私は貴方のもっと高尚な向上心が一つずつ凋落して行って、到頭終いに利得と云う一番主要な情熱が貴方の心を占領してしまうのを見て来ましたよ。そうじゃありませんか。」
「それがどうしたと云うのだ?」と、彼は云い返した。「仮に私がそれだけ悧巧になったとして、それがどうだと云うのだ? お前に対しては変っていないのだよ。」
 彼女は頭を振った。
「変っているとでも云うのかね。」
「私達二人の約束はもう古いものです。二人とも貧乏で、しかも二人が辛抱して稼いで、何日か二人の世間的運命を開拓する日の来るまでは、それに満足していた時分に、その約束は出来たものですよ。貴方は変りました。その約束をした時分は、貴方は全然別の人でしたよ。」
「私は子供だったのだ」と、彼はじれったそうに云った。
「貴方自身のお心持に聞いて御覧になっても、以前の貴方が今の貴方でないことはお分りになりますわ」と、彼女はそれに応えて云った。「私は元のままです。二人の心が一つであった時に前途の幸福を約束してくれたものも、心が離れ離れになった今では、不幸を一杯に背負わされています。私はこれまで幾度またどんなに胆に徹えるほどこの事を考えて来たか、それはもう云いますまい。私もこの事については考えに考えて来ました。そして、その結果貴方との縁を切って上げることが出来ると云うだけで、もう十分で御座います。」
「私がこれまで一度でも破約を求めたことでもあるのか。」
「口ではね。いいえ、そりゃありませんわ。」
「じゃ、何で求めたのだ?」
「変った性貰で、変った心持で、全然違った生活の雰囲気で、その大きな目的として全然違った希望でです。貴方の眼から見て私の愛情をいくらかでも価値あるもの、値打ちのあるものにしていた一切のものでです。この約束が二人の間にかつてなかったとしたら」と、少女は穏やかに、しかしじっくりと相手を見遣りながら云った、「貴方は今私を探し出して、私の手を求めようとなさいますか。ああ、そんな事はとてもない!」
 彼はこの推測の至当なのに、我にもあらず、屈服するように見えた。が、強いてその感情を抑えながら云った。「お前はそんな風に思っては居ないのだよ。」
「私も出来ることなら、そんな風に考えたくはないんですわ」と、彼女は答えた。「それはもう神様が御存じです! 私がこう云ったような真相を知った時には、(同時に)それがどんなに強く、かつ抵抗すべからざるものであるか、あるに違いないかと云うことを知ってるんですよ。まあ今日にしろ、明日にしろ、また昨日にしても、貴方が仮りに自由の身におなんなすったとして、持参金のない娘を貴方がお選びになるなぞと云うことが、私に信じられましょうか――その女と差向いで話しをなさる時ですら、何も彼も欲得ずくで測って見ようと云う貴方がさ。それとも、一時の気紛れから貴方がその唯一の嚮導の主義に背いてその女をお選びになったところで、後ではきっと後悔したり悔んだりなさるに違いないのを、私を知らないでしょうか。私はちゃんと知っています。そして、貴方との縁を切って上げます――それはもう心から喜んで、昔の貴方に対する愛のためにね。」
 彼は何か云おうとした。が、彼女は相手に顔をそむけたまま再び言葉を続けた。
「貴方にもこれは多少の苦痛かも知れない――これまでの事を思うと、何だか本当にそうあって欲しいような気もしますがね。しかしそれもほんの僅かの間ですよ。僅かの間経てば、貴方はじきにそんな想い出は、一文にもならない夢として、喜んで抛棄しておしまいになるでしょうよ。まああんな夢から覚めて好かったと云うように思ってね。どうかまあ貴方のお選びになった生活で幸福に暮して下さいませ!」
 彼女は男の前を去った。こうして、二人は別れてしまった。
「精霊どの!」と、スクルージは云った、「もう見せて下さいますな! 自宅(うち)へ連れて行って下さいませ。どうして貴方は私を苦しめるのが面白いのですか。」
「もう一つ幻影(まぼろし)を見せて上げるのだ!」と、幽霊は叫んだ。
「もう沢山です!」と、スクルージは叫んだ。「もう沢山です。もう見たくありません。もう見せないで下さい!」
 が、毫も容赦のない幽霊は両腕の中に彼を羽翼締(はがいじ)めにして、無理矢理に次に起ったことを観察させた。
 それは別の光景でもあれば別の場所でもあった。大層広くもなく、綺麗でもないが、住心地よく出来た部屋であった。冬の煖炉の傍に一人の美しい若い娘が腰掛けていた。その娘は、自分の娘の向い側に、今では身綺麗な内儀になって腰掛けている彼女を見るまでは、スクルージも同一人だと信じ切っていた位に、前の場面に出て来たあの少女とよく似ていた。部屋の中の物音は申分のない騒々しさであった。と云うのは、心に落着きのないスクルージには数え切れないほど大勢の子供がいたからであった。あの有名な詩中(註、ウォーヅウォースの「弥生に書かれたる」と題する短詩。)の羊の群とは違って、四十人の子供が一人のように振舞うのではなく、各一人の子供が四十人のように活動するのだから溜まらない。従ってその結果は信じられないほどの賑やかさであった。が、誰もそれを気にするようには見えない。それどころか、母親と娘とはきゃっきゃっと笑いながら、それを見て非常に喜んでいた。そして、娘の方は間もなくその遊戯に加わったが、たちまち若い山賊どもに、それはそれは残酷に剥ぎ取られてしまった。私もあの山賊の一人になることが出来たら、どんな物でも呉れてやるね、きっと呉れてやるよ。とは云え、私なら決してあんなに乱暴はしないね、断じて断じて。世界中の富を呉れると云っても、あの綺麗に編んだ毛をむしゃくしゃにしたり、ぐんぐん引き解いたりはしない積りだね。それからあの貴重な小さい靴だが、神も照覧あれ! たとい自分の生命を救うためだと云っても、私はそれを無理に引っ奪(た)くるようなことはしないね。冗談にも彼等、大胆な若い雛っ子連がやったように彼女の腰に抱き着くなんてことは、私には到底出来ないことだ。そんな事をすれば、私はその罰として腰の周りに私の腕が根を生やしてしまって、もう再び真直に延びないものと予期しなければならない。然も、実際を白状すると、私は堪らなく彼女の唇に触れたかったのだ。その唇を開かせるために、彼女に言葉を懸けて見たかったのだ。その伏眼がちの眼と睫毛を見詰めながら、しかも顔を赧らめさせずに置きたかったのだ。髪の毛を解いてゆるく波打たせて見たかったのだ。その一インチでも価に積もれないほど貴重な記念品になるその髪の毛を。一口に云えば、私は、まあ白状するがね、このもっとも重大な子供の特権を有しながら、しかもその特権の価値を知っているほどの大人でありたかったのだ。
 ところが、今や入口の扉を叩く音が聞えた。すると、たちまち突貫がそれに続いて起って、彼女はにこにこ笑いながら、滅茶々々に着物を引き剥がされたまま、顔を火照らした騒々しい群れの真中に挟まれて、やっと父親の出迎いに間に合うように、入口の方へ引き摺られて行った。父親は、聖降誕祭の玩具や贈物を背負った男を伴れて戻って来たのである。次には叫喚と殺到、そして、何の防禦用意もない担夫に向って一斉に突撃が試みられた! それから椅子を梯子にして、その男の体躯に這い上りながら、その衣嚢(かくし)に手を突き込んだり、茶色の紙包みを引奪(ひったく)ったり、襟飾りに獅噛み着いたり、頸の周りに抱き着いたり、背中をぽんぽん叩いたり、抑え切れぬ愛情で足を蹴ったりが続く! 包みが拡げられる度に、驚嘆と喜悦の叫声でそれが迎えられた。赤ん坊が人形のフライ鍋を口に入れようとしているところを捕えただの、木皿に糊づけになっていた玩具の七面鳥を呑み込んじゃったらしい、どうもそれに違いないのだと云うような、怖ろしい披露! ところが、これは空騒ぎに過ぎなかったと分って、やれやれと云う大安心! 喜悦と感謝と有頂天! それがどれもこれも皆等しく筆紙に尽くし難い。で、その内にはだんだん子供達とその感動とが客間を出て、長い間かかって一段ずつ、階子段をやっと家の最上階まで上って行って、そこで寝床に這入ると、そのまま鎮まったとさえ云えば、沢山である。
 そして、今やこの家の主人公が、さも甘ったれるように娘を自分の方へ凭れ掛けさせながら、その娘やその母親と一緒に自分の炉辺に腰を卸した時、スクルージは前よりも一層注意して見守っていた。そして、ちょうどこの娘と同じように優雅で行末の望みも多い娘が、自分を父と呼んで、己れの一生のやつれ果てた冬の時代に春の時候をもたらしてくれたかも知れないと想い遣った時、彼の視覚は本当にぼんやりと霑(うる)んで来た。
「ベルや」と、良人は微笑して妻の方へ振り向きながら云った。「今日の午後、お前の昔馴染に出会ったよ。」
「誰ですか。」
「中(あ)てて御覧。」
「そんな事中てられるものですか。いえなに、もう分りましたよ」と、良人が笑った時に自分も一緒になって笑いながら、彼女は一息に附け加えた。「スクルージさんでしょう。」
「そのスクルージさんだよ。私はあの人の事務所の窓の前を通ったのだ。ところで、その窓が閉め切ってなくって、室の中に蝋燭が点火してあったものだから、どうもあの人を見ない訳に行かなかったのさ。あの人の組合員は病気で死にそうだと云う話を聞いたがね。その室にあの人は一人で腰掛けていたよ――世界中に全くの一人ぼっちで、私はきっとそうだと思うね。」
「精霊どの!」と、スクルージは途切れ途切れの声で云った。「どうか他の所へ連れて行って下さい。」

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