クリスマス・カロル
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著者名:ディケンズチャールズ 

「いや、まだ望みはあるんだ、キャロラインよ。」
「あの人の気が折れれば」と、彼女は意外に思って云った、「望みはありますわ! 万一そんな奇蹟が起ったのなら、決して望みのない訳ではありませんよ。」
「気の折れるどころではないのさ」と、彼女の良人は云った。「あの人は死んだんだよ。」
 彼女の顔つきが真実を語っているものなら、彼女は温和(おとな)しい我慢強い女であった。が、彼女はそれを聞いて、心の中に有難いと思った。そして、両手を握ったまま、そうと口走った。次の瞬間には、彼女も神の宥免を願った。そして、(相手を)気の毒がった。が、最初の心持が彼女の衷心からの感情であった。
「昨宵お前に話したあの生酔いの女が私に云ったことね、それ、私があの人に会って、一週間の延期を頼もうとした時にさ。それを私は単に私に会いたくない口実だと思ったんだが、それはまったく真実(ほんとう)のことだったんだね。ただ病気が重いと云うだけじゃなかったんだ、その時はもう死にかけていたんだよ。」
「それで私達の借金は誰の手に移されるんでしょうね?」
「そりゃ分からないよ。だが、それまでには、こちらも金子の用意が出来るだろうよ。たとい出来ないにしても、あの人の後嗣(あとつぎ)がまたあんな無慈悲な債権者だとすれば、よっぽど運が悪いと云うものさ。何しろ今夜は心配なしにゆっくりと眠られるよ、キャロライン!」
 出来るだけその心持を隠すようにはしていたが、二人の心はだんだん軽くなって行った。子供達は解らないながらもその話を聞こうとして、鳴りを鎮めて周囲に集まっていたが、その顔はだんだん晴れ晴れして来た。そして、これこそこの男の死んだために幸福になった家庭であった。この出来事に依って惹起された感情の中で、精霊が彼に示すことの出来た唯一のものは喜悦のそれであった。
「人の死に関係したことで、何か優しみのあることを見せて下さいな」と、スクルージは云った。「でないと、今しがた出て来たあの暗い部屋がね、精霊殿、いつまでも私の眼の前にちらついているでしょうからね。」
 精霊は彼の平生歩き馴れた街々を通り脱けて、彼を案内して行った。歩いて行く間に、スクルージは自分の姿を見出そうと彼方此方を見廻わしたものだ。が、どこにもそれは見附からなかった。彼等は前に訪問したことのある貧しいボブ・クラチットの家に這入った。すると、母親と子供達とは煖炉の周りに集まって坐っていた。
 静かであった。非常に物静かであった。例の騒がしい小クラチットどもは立像のように片隅にじっと塊(かた)まって、自分の前に一册の本を拡げているピータアを見上げながら腰掛けていた。母親と娘達とは一生懸命に針仕事をしていた。が、確かに彼等は非常に静かにしていた。
「『また孩子(おさなご)を取りて、彼等の中に立てて、さて‥‥』」
 スクルージはそれまでどこでこう云う言葉を聞いたことがあるか。彼はそれまでそれを夢に見たこともなかった。彼と精霊とがその閾を跨いだ時に、その少年がその言葉を読み上げたものに違いない。だが彼はどうしてその先を読み続けないのか。
 母親は卓子の上にその仕事を置いて、顔に手を当てた。
「どうも色が眼にさわってねえ」と、彼女は云った。
 色が? ああ、可哀そうなちびのティムよ!
「もう快(よ)くなりましたよ」と、クラチットの主婦(かみ)さんは云った。「蝋燭の光では、黒い物は眼を弱らせるね。私は、阿父さんがお帰りの時分には、どんな事があっても、どんよりした眼をお目にかけまいと思ってるんだよ。そろそろもうお帰りの時分だね。」
「過ぎた位ですよ」と、ピータアは前の書物を閉じながら云った。「だが、阿父さんはこの四五日今までよりは少しゆっくり歩いて戻ってらっしゃるようだと思いますよ、ねえ阿母さん。」
 彼等はまたもやひっそりとなった。が、漸くにして、彼女は云った、それもしっかりした元気の好い声で――それは一度慄えただけであった。――
「阿父さんは好くちびのティムを肩車に乗せてお歩きになったものだがねえ、それもずいぶん速くさ。」
「僕もおぼえています」と、ピータアは叫んだ。「たびたび見ましたよ。」
「わたしも覚えていますわ」と、他の一人が叫んだ。つまり皆が皆覚えているのであった。
「何しろあの児は軽かったからね」と、彼女は一心に仕事を続けながら、再び云った。「それに阿父さんはあの児を可愛がっておいでだったので、肩車に乗せるのが些(ちっ)とも苦にならなかったのだよ、些とも。ああ阿父さんのお帰りだ!」
 彼女は急いで迎えに出た。そして、襟巻に包(くる)まった小ボブ――実際彼には慰安者(註、原語では襟巻と慰安者の両語相通ず。)が必要であった、可哀そうに――が這入って来た。彼のためにお茶が炉棚の上に用意されていた。そして、一同の者は誰が一番沢山彼にそのお茶の給仕をするかと、めいめい先を争ってやって見た。その時二人の小クラチットどもは彼の膝の上に乗って、それぞれその小さい頬を彼の顔に押し当てた――「阿父さん、気に懸けないで頂戴ね、泣かないで下さいね」とでも云うように。
 ボブは彼等と一緒に愉快そうであった。そして、家内中の者にも機嫌よく話しをした。彼は卓子の上の縫物を見やった。そして、クラチットのお主婦(かみ)さんや娘どもの出精と手ばやさとを褒めた。(そんなに精を出したら、)日曜日(註、この日が葬式の日と定められたものらしい。)のずっと前に仕上げてしまうだろうよと云ったものだ。
「日曜日ですって! それじゃあなたは今日行って来たんですね? ロバート」と、彼の妻は云った。
「ああそうだよ」と、ボブは返辞をした。「お前も行かれると好かったんだがね。あの青々した所を見たら、お前もさぞ晴れ晴れしたろうからね。なに、これから度々見られるんだ。いつか私は日曜日にはいつもあそこへ行く約束をあの子にしたよ。ああ小さい、小さい子供よ」と、ボブは叫んだ。「私の小さい子供よ。」
 彼は急においおい泣き出した。どうしても我慢することが出来なかったのだ。それを我慢することが出来るようなら、彼とその子供とは、恐らくは彼等が現在あるよりもずっと遠く離れてしまったことであろう。
 彼はその室を出て、階段を上って二階の室へ這入った。そこには景気よく灯火(あかり)が点いて、聖降誕祭のお飾りが飾ってあった。そこにはまた死んだ子の傍へくっ附けるようにして、一脚の椅子が置いてあった。そして、つい今し方まで誰かがそこに腰掛けていたらしい形跡があった。憐れなボブはその椅子に腰を下ろした。そして、少時考えていた後で、やや気が落ち着いた時、彼は死んだ子の冷たい顔に接吻した。こうして彼は死んだものはもう仕方がないと諦めた。そして、再び晴れやかな気持になって降りて行った。
 一同の者は煖炉の周囲にかたまって話し合った。娘達と母親はまだ針仕事をしていた。ボブはスクルージの甥が非常に親切にしてくれたと一同の者に話した。彼とはやっと一度位しか会ったことがないのだが、今日途中で会った時、自分が少し弱っているのを見て、――「お前も知っての通り、ほんの少し許り弱っていたんだね」と、ボブは云った。――何か心配なことが出来たのかと訊いてくれた。「それを聞いて」と、ボブは云った。「だって、あの方はとても愉快に話しをする方だものね、そこで私も訳を話したのさ。すると、『そりゃ本当にお気の毒だね、クラチット君、貴方の優しい御家内のためにも心からお気の気だと思うよ』と云って下さった。時に、どうしてあの人がそんな事を知っているんだろうね? 私には分からないよ。」
「何を知っているのですって、貴方?」
「だって、お前が優しい妻(さい)だと云うことをさ」と、ボブは答えた。
「誰でもそんなことは知ってますよ」と、ピータアは云った。
「よく云ってくれた、ピータア」と、ボブは叫んだ。「誰でも知ってて貰いたいね。『貴方の優しい御家内のためには心からお気の毒で』と、あの方は云って下すったよ。それから『何か貴方のお役に立つことが出来れば』と、名刺を下すってね、『これが私の住居(すまい)です。なにとぞ御遠慮なく来て下さい』と云って下さったのさ。私がそんなに喜んだのは、なにもあの方が私達のために何かして下さることが出来るからってえんじゃない。いや、それもないことはないが、それよりもただあの方の親切が嬉しかったんだよ、親切がさ。実際あの方は私達のちびのティムのことを好く知ってでもいらして、それで私達に同情して下さるのかと思われる位だったよ。」
「本当に好い方ですね」と、クラチットの主婦(かみ)さんは云った。
「お前も会って話しをして見たら、一層にそう思うだろうよ」と、ボブは返辞をした。「私はね、あの方に頼んだら――いいかい、お聞きよ――何かピータアに好い口を見附けて下さるような気がするんだがね。」
「まあ、あれをお聞きよ、ピータア」と、クラチットの主婦(かみ)さんは云った。
「そして、それから」と、娘の一人が叫んだ。「ピータアは誰かと一緒になって、別に世帯を持つようになるのだわね。」
「馬鹿云え!」と、ピータアはにたにた笑いをしながら云い返した。
「まあまあ、そう云うことにもなるだろうよ」と、ボブは云った。「いずれその間(うち)にはさ、もっとも、それにはまだ大分時日があるだろうがね。しかし何日(いつ)どう云う風にして各自(めいめい)が別れ別れになるにしても、きっと家(うち)の者は誰一人あのちびのティムのことを――うん、私達家族の間に起った最初のこの別れを決して忘れないだろうよ――忘れるだろうかね。」
「決して忘れませんよ、阿父さん!」と、一同異口同音に叫んだ。
「そしてね、皆はあの子が――あんな小さい、小さい子だったが――いかにも我慢強くて温和(おとな)しかったことを思い出せば、そう安々と家(うち)の者同志で喧嘩もしないだろうし、またそんな事をして、あのちびのティムを忘れるようなこともないだろうねえ、私はそう思ってるよ。」
「いいえ、決してそんな事はありませんよ、阿父さん!」と、また一同の者が叫んだ。
「私は本当に嬉しい」と、親愛なるボブは叫んだ。「私は本当に嬉しいよ。」
 クラチットの主婦(かみ)さんは彼に接吻した、娘達も彼に接吻した、二人の少年クラチットどもも彼に接吻した。そして、ピータアと彼自身とは握手した。ちびのティムの魂よ、汝の子供らしき本質は神から来れるものなりき。
「精霊殿!」と、スクルージは云った。「どうやら私どもの別れる時間が近づいたような気がいたします。そんな気はいたしますが、どうしてかは私には分かりませぬ。私どもが死んでるのを見たあれは、どう云う人間だか、なにとぞ教えて下さいませ。」
 未来の聖降誕祭の精霊は前と同じように――もっとも、前と違った時ではあったがと、彼は考えた。実際最近に見た幻影は、すべてが未来のことであると云う以外には、その間に何の秩序もあるように見えなかった――実業家達の集まる場所へ彼を連れていった。が、彼自身の影は少しも見せてくれなかった。実際精霊は何物にも足を留めないで、今所望された目的を指してでもいるように、一直線に進んで行った。とうとうスクルージの方で一寸待って貰うように頼んだものだ。
「只今二人が急いで通り過ぎたこの路地は」と、スクルージは云った。「私が商売をしている場所で、しかも長い間やっている所で御座います。その家が見えます。未来における私はどんな事になっていますか。なにとぞ見せて下さいませ!」
 精霊は立ち停まった。その手はどこか他の所を指していた。
「その家は向うに御座います」と、スクルージは絶叫した。「何故(なぜ)貴方は他所(よそ)を指すのですか。」
 頑として仮借する所のない指は何の変化も受けなかった。
 スクルージは彼の事務所の窓の所へ急いで、中を覗いて見た。それは矢張り一つの事務所ではあった。が、彼のではなかった。家具が前と同じではなかった。椅子に掛けた人物も彼自身ではなかった。精霊は前の通りに指さしていた。
 彼はもう一度精霊と一緒になって、自分はどうしてまたどこへ行ってしまったかと怪しみながら、精霊に随いて行くうちに、到頭二人は一つの鉄門に到着した。彼は這入る前に、一寸立ち停って、四辺(あたり)を見廻した。
 墓場。ここに、その時、彼が今やその名を教えらるべきあの不幸なる男は、その土の下に横わっていたのである。それは結構な場所であった。四面家に取りかこまれて、生い茂る雑草や葭に蔽われていた。その雑草や葭は植物の生の産物ではなく、死の産物であった。また余りに人を埋め過ぎるために息の塞るようになっていた。そして、満腹のために肥え切っていた。誠に結構な場所であった!
 精霊は墓の前に立って、その中の一つを指差した。彼はぶるぶる慄えながらその方に歩み寄った。精霊は元の通りで寸分変る所はなかった。而も彼はその厳粛な姿形に新しい意味を見出したように畏れた。
「貴方の指していらっしゃるその石の傍へ近づかないうちに」と、スクルージは云った、「なにとぞ一つの質問に答えて下さい。これ等は将来本当にある物の影で御座いましょうか、それともただ単にあるかも知れない物の影で御座いましょうか。」
 精霊は依然[#「依然」は底本では「 然」]として自分の立って居る傍の墓石の方へ指を向けていた。
「人の行く道は、それに固守して居れば、どうしてある定まった結果に到達する――それは前以て分りもいたしましょう」と、スクルージは云った。「が、その道を離れてしまえば、結果も変るものでしょう。貴方が私にお示しになることについても、そうだと仰しゃって下さいな!」
 精霊は依然として動かなかった。
 スクルージはぶるぶる慄えながら、精霊の方に這い寄った。そして、指の差す方角へ眼で従いながら、打捨り放しにされたその墓石の上に、「エベネザア・スクルージ」と云う自分自身の名前を読んだ。
「あの寝床の上に横わっていた男は私なのですか」と、彼は膝をついて叫んだ。
 精霊の指は墓から彼の方に向けられた、そしてまた元に返った。
「いえ、精霊殿、おお、いえ、いいえ!」
 指は矢張りそこにあった。
「精霊殿!」と、彼はその衣にしっかり噛じりつきながら叫んだ。「お聞き下さい! 私はもう以前の私では御座いません。私はこうやって精霊様方とお交りをしなかったら、なった筈の人間には断じてなりませんよ。で、若し私に全然見込みがないものなら、何故こんなものを私に見せて下さるのです?」
 この時始めてその手は顫えるように見えた。
「善良なる精霊殿よ」と、彼は精霊の前の地に領伏(ひれふ)しながら言葉を続けた。「貴方は私のために取り做して、私を憐れんで下さいます。私はまだ今後の心を入れ代えた生活に依って、貴方がお示しになったあの幻影を一変することが出来ると云うことを保証して下さいませ!」
 その親切な手はぶるぶると顫えた。
「私は心の中に聖降誕祭を祝います。そして、一年中それを守って見せます。私は過去にも、現在にも、未来にも(心を入れ代えて)生きる積りです。三人の精霊方は皆私の心の中にあって力を入れて下さいましょう。皆様の教えて下すった教訓を閉め出すような真似はいたしません。おお、この墓石の上に書いてある文句を拭き消すことが出来ると仰しゃって下さい!」
 苦悶[#「苦悶」は底本では「若悶」]の余りに、彼は精霊の手を捕えた。精霊はそれを振り放とうとした。が、彼も懇願にかけては強かった。そして、精霊を引き留めた。が、精霊の方はまだまだ強かったので、彼を刎ね退けた。
 自己の運命を引っ繰り返して貰いたさの最後の祈誓に両手を差上げながら、彼は精霊の頭巾と着物とに一つの変化を認めた。精霊は縮まって、ひしゃげて、小さくなって、一つの寝台の上支えになってしまった。

   第五章 大団円

 そうだ! しかもその寝台の柱は彼自身の所有(もの)であった。寝台も彼自身のものなら、部屋も彼自身のものであった。別けても結構で嬉しいことには、彼の前にある時が、その中で埋め合せをすることの出来るような、彼自身のものであった。
「私は過去においても、現在においても、また未来においても生きます!」と、スクルージは寝台から這い出しながら、以前の言葉を繰り返した。「三人の精霊は私の心の中に在って皆力を入れて下さるに違いない。おお、ジェコブ・マアレイよ。この事のためには、神も聖降誕祭の季節も、褒め讃えられてあれよ。私は跪いてこう申上げているのだ、老ジェコブよ、跪いてからに!」
 彼は自分の善良な企図に昂奮し熱中するのあまり、声まで途切れ途切れになって、思うように口が利けない位であった。先刻(さっき)精霊と啀(いが)み合っていた際、彼は頻りに啜り泣きをしていた。そのために彼の顔は今も涙で濡れていた。
「別段引き千断られてはいないぞ」と、スクルージは両腕に寝台の帷幄の一つを抱えながら叫んだ。「別段引き千断られてはいないぞ、鐶も何も彼も。みんなここにある――私もここに居る――(して見ると、)ああ云う事になるぞと云われた物の影だって、消せば消されないことはないのだ。うむ、消されるともきっと消されるとも!」
 その間彼の手は始終忙しそうに着物を持て扱っていた。それを裏返して見たり、上下逆様に着て見たり、引き千断ったり、置き違えたりして、ありとあらゆる目茶苦茶のことに仲間入りをさせたものだ。
「どうしていいか分からないな!」と、スクルージは笑いながら、同時にまた泣きながら喚いた。そして、靴下を相手にラオコーンそっくりの様子をして見せたものだ。「俺は羽毛(はね)のように軽い、天使のように楽しく、学童のように愉快だよ。俺はまた酔漢(よっぱらい)のように眼が廻る。皆さん聖降誕祭お目出度う! 世界中の皆さんよ、新年お目出度う! いよう、ここだ! ほーう! ようよう!」
 彼は居間の中へ跳ね出した。そして、すっかり息を切らしながら、今やそこに立っていた。
「粥の入った鍋があるぞ」と、スクルージはまたもや飛び上がって、煖炉の周りを歩きながら呶鳴った。「あすこに入口がある、あすこからジェコブ・マアレイの幽霊は這入って来たのだ! この隅にはまた現在の聖降誕祭の精霊が腰掛けていたのだ! この窓から俺は彷(さまよ)える幽霊どもを見たのだ! 何も彼もちゃんとしている、何も彼も本当なのだ、本当にあったのだ。はッ、はッ、はッ!」
 実際あんなに幾年も笑わずに来た人に取っては、それは立派な笑いであった、この上もなく華やかな笑いであった。そして、これから続く華やかな笑いの長い、長い系統の先祖になるべき笑いであった!
「今日は月の幾日か俺には分らない」と、スクルージは云った。「どれだけ精霊達と一緒に居たのか、それも分らない。俺には何にも分らない。俺はすっかり赤ん坊になってしまった。いや、気に懸けるな。そんな事構わないよ。俺はいっそ赤ん坊になりたい位のものだ。いよう! ほう! いよう、ここだ!」
 彼はその時教会から打ち出した、今まで聞いたこともないような、快い鐘の音に、その恍惚状態を破られた。カーン、カーン、ハンマー。ヂン、ドン、ベル。ベル、ドン、ヂン。ハンマー、カーン、カーン。おお素敵だ! 素敵だ!
 窓の所へ駆け寄って、彼はそれを開けた。そして、頭を突き出した。霧もなければ、靄もない。澄んで、晴れ渡った、陽気な、賑やかしい、冷たい朝であった。一緒に血も踊り出せとばかり、ピューピュー風の吹く、冷たい朝であった。金色の日光。神々しい空、甘い新鮮な空気。楽しい鐘の音。おお素敵だ! 素敵だ!
「今日は何かい」と、スクルージは下を向いて、日曜の晴れ着を着た少年に声を掛けた。恐らくこの少年はそこいらの様子を見にぼんやり這入り込んで来たものらしい。
「ええ?」と、少年は驚愕のあらゆる力を籠めて聞き返した。
「今日は何かな、阿兄(にい)さん」と、スクルージは云った。
「今日!」と、少年は答えた。「だって、基督降誕祭じゃありませんか。」
「基督降誕祭だ!」と、スクルージは自分自身に対して云った。「私はそれを失わずに済んだ。精霊達は一晩の中にすっかりあれを済ましてしまったんだよ。何だってあの方々は好きなように出来るんだからな。もちろん出来るんだとも。もちろん出来るんだとも。いよう、阿兄(にい)さん!」
「いよう!」と、少年は答えた。
「一町おいて先の街の角の鳥屋を知っているかね」と、スクルージは訊ねた。
「知っているともさ」と、少年は答えた。
「悧巧な子じゃ!」と、スクルージは云った。「まったくえらい子じゃ! どうだい、君はあそこに下がっていた、あの賞牌を取った七面鳥が売れたかどうか知っているかね。――小さい方の賞牌つき七面鳥じゃないよ、大きい方のだよ?」
「なに、あの僕位の大(で)っかいのかい」と、少年は聞き返した。
「何て愉快な子供だろう!」と、スクルージは云った。「この子と話しをするのは愉快だよ。ああそうだよ! 阿兄(にい)さん!」
「今でもあそこに下がっているよ」と、少年は答えた。
「下がってるって?」と、スクルージは云った。「さあ行って、それを買って来ておくれ。」
「御戯談でしょ」と、少年は呶鳴った。
「いや、いや」と、スクルージは云った。「私は真面目だよ。さあ行って買って来ておくれ。そして、ここへそれを持って来るように云っておくれな。そうすりゃ、私が使の者にその届け先を指図してやれるからね。その男と一緒に帰ってお出で、君には一シリング上げるからね。五分経たないうちに、その男と一緒に帰って来ておくれ、そうしたら半クラウンだけ上げるよ。」
 少年は弾丸(たま)のように飛んで行った。この半分の速力で弾丸を打ち出すことの出来る人でも、引金を握っては一ぱし確かな腕を持った打ち手に相違ない。
「ボブ・クラチットの許へそれを送ってやろうな」と、云いながら、スクルージは両手を擦(こす)り擦り腹の皮を撚らせて笑った。「誰から贈って来たか、相手に分っちゃいけない。ちびのティムの二倍も大きさがあるだろうよ。ジョー・ミラー(註、「ジョー・ミラー滑稽集」の著者。)だって、ボブにそれを贈るような戯談をしたことはなかったろうね。」
 ボブの宛名を書いた手蹟は落着いてはいなかった。が、とにかく書くには書いた。そして、鳥屋の若い者が来るのを待ち構えながら、表の戸口を開けるために階子段を降りて行った。そこに立って、その男の到着を待っていた時、彼は不図戸敲きに眼を着けた。
「俺は生きてる間これを可愛がってやろう!」と、スクルージは手でそれで撫でながら叫んだ。「俺は今までほとんどこれを見ようとしたことがなかった。いかにも正直な顔附きをしている! まったく素晴らしい戸敲きだよ! いよう。七面鳥が来た。やあ! ほう! 今日は! 聖降誕祭お目出度う!」
 それは確かに七面鳥であった。こいつあ自分の脚で立とうとしても立てなかったろうよ、この鳥は。(立ったところで、)一分も経たない間(うち)に、その脚は、封蝋の棒のように、中途からぽきと折れてしまうだろうよ。
「だって、これをカムデン・タウンまで担いじゃとても行かれまい」と、スクルージは云った。「馬車でなくちゃ駄目だろうよ。」
 彼はくすくす笑いながら、それを云った。くすくす笑いながら、七面鳥の代を払った。くすくす笑いながら、馬車の代を払った。くすくす笑いながら少年に謝礼をした。そして、そのくすくす笑いを圧倒するものは、ただ彼が息を切らしながら再び椅子に腰掛けた時のそのくすくす笑いばかりであった。それから、あまりくすくす笑って、とうとう泣き出した位であった。
 彼の手はいつまでもぶるぶる慄え続けていたので、髯[#「髯」は底本では「髪」]を剃るのも容易なことではなかった。髯剃りと云うものは、たといそれをやりながら踊っていない時でも、なかなか注意を要するものだ。だが、彼は(この際)鼻の先を切り取ったとしても、その上に膏薬の一片でも貼って、それですっかり満足したことであろう。
 彼は上から下まで最上の晴れ着に着更えた。そして、とうとう街の中へ出て行った。彼が現在の聖降誕祭の幽霊と一緒に出て見た時と同じように、人々は今やどしどしと街上に溢れ出していた。で、スクルージは手を背後にして歩きながら、いかにも嬉しそうな微笑を湛えて通行の誰彼を眺めていた。彼は、一口に云えば、抵抗し難いほど愉快そうに見えた。そのためか、三四人の愛嬌者が、「旦那お早う御座います! 聖降誕祭お目出度う!」と声を掛けた。その後スクルージは好く云ったものだ。「今まで聞いたあらゆる愉快な音響の中でも、この言葉が自分の耳には一番愉快に響いた」と。
 まだ遠くも行かないうちに、向うから例の恰服(かっぷく)の好い紳士がこちらへやって来るのを見た。前の日彼の事務所へ這入って来て、「こちらはスクルージさんとマアレイさんの商会ですね?」と訊いたあの紳士である。二人が出会(でくわ)したら、あの老紳士がどんな顔をして自分を見るだろうかと思うと彼は胸にずきりと傷みを覚えた。而も彼は自分の前に真直に横わっている道を知っていた。そして、それに従った。
「もしもし貴方」と、スクルージは歩調を早めて老紳士の両手を取りながら云った。「今日は? 昨日は好い工合に行きましたか。まったく御親切に有難う御座いましたね。聖降誕祭お目出とう!」
「スクルージさんでしたか。」
「そうですよ」と、スクルージは云った。「仰しゃる通りの名前ですが、どうも貴方には面白くない感じを与えましょうね? ですが、まあどうか勘弁して下さい。それから一つお願いが御座いますがね――」ここでスクルージは何やら彼の耳に囁いた。
「まあ驚きましたね!」と、かの紳士は呼吸(いき)が絶えでもしたように叫んだ。「スクルージさん、そりゃ貴方本気ですか。」
「なにとぞ」と、スクルージは云った。「それより一文も欠けず、それだけお願いしたいので。もっとも、それには今まで何度も不払いになっている分が含まれているんですがね。で、その御面倒を願われましょうか。」
「もし貴方」と、相手は彼の手を握り緊めながら云った。「かような御寛厚なお志に対しましては、もう何と申上げて宜しいやら、私には――」
「もう何も仰しゃって下さいますな」と、スクルージは云い返した。「一度来て下さい。一度手前どもへいらして下さいませんでしょうか。」
「伺いますとも」と、老紳士は叫んだ。そして、彼がその積りでいることは明白であった。
「有難う御座います」と、スクルージは云った。「本当に有難う御座います。幾重にもお礼を申上げますよ。それではお静かに!」
 彼は教会へ出掛けた。それから街々を歩き廻りながら、あちこちと忙しそうにしている人々を眺めたり、子供の頭を撫でたり、乞食に物を問い掛けたり、家々の台所を覗き込んだり、窓を見上げたりした。そして、何を見ても何をしても愉快になるものだと云うことを発見した。彼はこれまで散歩なぞが――いや、どんな事でもこんなに自分を幸福にしてくれることが出来ようとは夢にも想わなかった。午後になって、彼は歩みを甥の家に向けた。
 彼は近づいて戸を敲くだけの勇気を出す前に、何度も戸口を通り越したものだ。が、勇を鼓してとうとうそれをやっ附けた。
「御主人は御在宅かな」と、スクルージは出て来た娘に云った。好い娘だ! 本当に。
「いらっしゃいます。」
「どこにおいでかね」と、スクルージは訊いた。
「食堂にいらっしゃいます、奥様と御一緒に。それでは、お二階に御案内申しましょう。」
「有難うよ。御主人は俺(わし)を知ってだから」と、スクルージはもう食堂の錠の上に片手を懸けながら云った。「すぐにこの中に這入って行くよ、ねえ。」
 彼はそっとそれを廻わした。そして、戸を周って顔だけ斜(はす)にして入れた。彼等は食卓を眺めているところであった、(その食卓は大層立派に飾り立てられていた。)と云うのは、こう云ったような若い世帯持ちと云うものは、こう云う事に懸けてはいつでも神経質で、何も彼もちゃんとなっているのを見るのが所好(すき)なものであるからである。
「フレッド!」と、スクルージは云った。
 ああ胆が潰れた! 甥の嫁なる姪の驚き方と云ったら! スクルージは、一寸の間、足台に足を載せたまま片隅に腰掛けていた彼女のことを忘れてしまったのだ。でなければ、どんな事があっても、そんな真似はしなかったであろう。
「ああ吃驚した!」と、フレッドは叫んだ。「そこへ来たのは何誰(どなた)です?」
「私だよ。伯父さんのスクルージだよ。御馳走になりに来たんだ。お前入れて呉れるだろうね、フレッド!」
 入れて呉れるだって! 彼は腕を振り千断(ちぎ)られないのが切めてもの仕合せであった。五分間のうちに、彼はもう何の気兼ねもなくなっていた。これほど誠意の籠った歓迎はまたと見られまい。彼の姪は(彼が夢の中で見たと)すっかり同じように見えた。トッパーが這入って来た時も、そうであった。あの肥った妹が這入って来た時も、そうであった。来る人来る人皆がそうであった。素晴らしい宴会、素晴らしい勝負事、素晴らしい和合、素―晴―ら―し―い幸福!
 しかも明くる朝早く彼は事務所に出掛けた。おお実際彼は早くからそこに出掛けた。先ず第一にそこへ行き着いて、後れて来るボブ・クラチットを捕えることさえ出来たら! これが彼の一生懸命になった事柄であった。
 そして、彼はそれを実行した、然り、彼は実行した! 時計は九時を打った。ボブはまだ来ない。十五分過ぎた。まだ来ない。彼は定刻に後るること正に十八分と半分にして、やっとやって来た。スクルージは、例の大桶の中へボブの這入るところが見られるように、合の戸を開け放したまま腰掛けていた。
 彼は戸口を開ける前に帽子を脱いだ。襟巻も取ってしまった。彼は瞬く間に床几に掛けた。そして、九時に追い着こうとでもしているように、せっせと鉄筆(ペン)を走らせていた。
「いよう!」と、スクルージは成るたけ平素の声に似せるようにして唸った。「どう云う積りで君は今時分ここへやって来たのかね。」
「誠に相済みません、旦那」と、ボブは云った。「どうも遅なり[#「遅なり」は底本では「遅なわり」]まして。」
「遅いね!」と、スクルージは繰り返した。「実際、遅いと思うね。まあ君ここへ出なさい。」
「一年にたった一度の事で御座いますから」と、ボブは桶の中から現われながら弁解した。「二度[#「二度」は底本では「二廣」]ともうこんな事は致しませんから。どうも昨日は少し騒ぎ過ぎたのですよ、旦那。」
「では、真実(ほんとう)のところを君に云うがね、君」と、スクルージは云った。「俺(わし)はもうこんな事には一日も耐えられそうにないよ。そこでだね」と続けながら、彼は床几から飛び上がるようにして、相手の胴衣(チョッキ)の辺りをぐいと一本突いたものだ。その結果、ボブはよろよろとして、再び桶の中へ蹣跚(よろめき)き込んだ。「そこでだね、俺は君の給料を上げてやろうと思うんだよ。」
 ボブは顫え上がった。そして、少し許り定規の方へ近寄った。それで以ってスクルージを張り倒して、抑え附けて、路地の中を歩いている人々に助けを喚んで、狭窄衣でも持って来て貰おうと咄嗟に考えたのである。
「聖降誕祭お目出とう、ボブ君!」と、スクルージは相手の背中を軽く打ちながら、間違えようにも間違えようのない熱誠を籠めて云った。「この幾年もの間俺が君に祝って上げたよりも一層目出たい聖降誕祭だよ、ええ君。俺は君の給料を上げて、困っている君の家族の方々を扶けて上げたいと思っているのだがね。午後になったら、すぐにも葡萄酒の大盃を挙げて、それを飲みながら君の家(うち)のことも相談しようじゃないか、ええボブ君! 火を拵えなさい。それから四の五の云わずに大急ぎでもう一つ炭取りを買って来るんだよ、ボブ・クラチット君!」
 スクルージは彼の言葉よりももっと好かった。彼はすべてその約束を実行した。いや、それよりも無限に多くのものを実行した。そして、実際は死んでいなかったちびのティムに取っては、第二の父となった。彼はこの好い古い都なる倫敦(ロンドン)にもかつてなかったような、あるいはこの好い古い世界の中の、その他のいかなる好い古い都にも、町にも、村にもかつてなかったような善い友達ともなれば、善い主人ともなった、また善い人間ともなった、ある人々は彼がかく一変したのを見て笑った。が、彼はその人々の笑うに任せて、少しも心に留めなかった。彼はこの世の中では、どんな事でも善い事と云うものは、その起り始めにはきっと誰かが腹を抱えて笑うものだ、笑われぬような事柄は一つもないと云うことをちゃんと承知していたからである。そして、そんな人間はどうせ盲目だと知っていたので、彼等がその盲目を一層醜いものとするように、他人(ひと)を笑って眼に皺を寄せると云うことは、それも誠に結構なことだと知っていたからである。彼自身の心は晴れやかに笑っていた。そして、かれに取ってはそれでもう十分であったのである。
 彼と精霊との間にはそれからもう何の交渉もなかった。が、彼はその後ずっと禁酒主義の下に生活した。そして、若し生きている人間で聖降誕祭の祝い方を知っている者があるとすれば、あの人こそそれを好く知っているのだと云うようなことが、彼について終始云われていた。吾々についても、そう云うことが本当に云われたら可かろうに――吾々総てについても。そこで、ちびのティムも云ったように、神よ。吾々を祝福し給え――吾々総ての人間を!




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