クリスマス・カロル
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:ディケンズチャールズ 

 ところで、今や精霊から一言の警告もなかったのに、突然二人は冬枯れた物寂しい沼地の上に立った。そこには巨人の埋葬地ででもあったかのように、荒い石の怖ろしく大きな塊がそちこちに転っていた。水は心のままにどこへでも流れ拡がっていた。いや、結氷が水を幽閉して置かなかったら、きっとそうしていたであろう。苔とはりえにしだと、粗い毒々しい雑草の外には何も生えていなかった。西の方に低く夕陽が一筋火のように真赤な線を残して消えてしまった。それが一瞬間荒漠たる四辺の風物の上に、陰惨な眼のようにあかあかとぎらついていたが、だんだん低く、低くその眼を顰めながら、やがて真暗な夜の濃い暗闇の中に見えなくなってしまった。
「ここはどう云う所で御座いますか」と、スクルージは訊ねた。
「鉱夫どもの住んでいるところだよ、彼等は地の底で働いているのだ」と、精霊は返辞をした。「だが、彼等は俺を知っているよ、御覧!」
 一軒の小屋の窓から灯火が射していた。そして、それを目懸けて二人は足早に進んで行った。泥土や石の壁を突き抜けて、真赤な火の周りに集っている愉快そうな一団の人々を見附けた。非常に年を取った爺と媼とが、その子供達や、孫達や、それからまたその下の曾孫達と一緒に、祭日の晴着に美々しく飾り立てていた。その爺は不毛の荒地をたけり狂う風の音にとかく消圧(けお)されがちな声で、一同の者に聖降誕祭の歌を唄ってやっていた。それは彼が少年時代の極く古い歌であった。一同の者は時々声を和して歌った。彼等が声を高めると、爺さんもきっと元気が出て声を高めた。が、彼等が止めてしまうと、爺さんの元気もきっと銷沈してしまった。
 精霊はここに停滞してはいなかった、スクルージをして彼の着衣に捕まらせた、そして、沼地の上を通過しながら、さてどこへ急いだか。海へではないか。そうだ、海へ。スクルージは振り返って、自分達の背後に陸の突端を、怖ろしげな岩石が連っているのを見て慄然とした。水は自分の擦り減らした恐ろしい洞窟の中に逆捲き怒号して狂奔して、この地面を下から覆そうと烈しく押し寄せていたが、その水の轟々たる響には彼の耳も聾いてしまった。
 海岸から幾浬か離れて、一年中荒れ通しに波に衝かれ揉まれている物凄い暗礁の上に、ぽっつりと寂しげな灯台が建てられていた。海藻の大きな堆積がその土台石に絡まり着いて、海鳥は――海藻が水から生れたように、風から生れたかとも想われるような――彼等がその上をすくうようにして飛んでいる波と同じように、その灯台の周囲を舞い上ったり、舞い下ったりしていた。
 が、こんな所でさえ、灯光の番をしていた二人の男が火を焚いていた、それが厚い石の壁に造られた風窓から物凄い海の上に一条の輝かしい光線を射出した。向い合せに坐っていた荒削りの食卓越しに、ごつごつした手を握り合せながら、彼等は火酒の盃に酔って、お互いに聖降誕祭の祝辞を述べ合ったものだ。そして、彼等の一人、しかも年長
者の方が――古い船の船首についている人形が傷められ瘢痕づけられているように、風雨のために顔中傷められ瘢痕づけられた年長者の方が、それ自身本来暴風雨(はやて)のような、頑丈な歌を唄い出した。
 再び精霊は真黒な、絶えず持ち上げている海の上を走り続けた――どこまでも、どこまでも――彼がスクルージに云ったところに拠れば、どの海岸からも遙かに離れているので、とうとうとある一艘の船の上に降りた。二人は舵車を手にした舵手や、船首に立っている見張り人や、当直をしている士官達の傍に立った。各自それぞれの配置についている彼等の姿は、いずれも暗く幽霊のように見えた。しかしその中の誰も彼もが聖降誕祭の歌を口吟んだり、聖降誕祭らしいことを考えたり、または低声でありし昔の降誕祭の話を――それには早く家郷へ帰りたいと云う希望が自然と含まれているが、その希望を加えて話したりしていた。そして、その船に乗っている者は、起きていようが眠っていようが、善い人であろうが悪い人であろうが、誰も彼もこの日は一年中のどんな日よりも、より親切な言葉を他人に掛けていた。そして、ある程度まで今日の祝いを共に楽しんでいた。そして、誰も彼も自分の心に懸けている遠方の人達を想い遣ると共に、またその遠方の人達も自分のことを想い出して喜んでいることをよく承知していた。
 風の呻きに耳を傾けたり、またはその深さは死の様に深遠な秘密であるところの未だ知られない奈落の上に拡がっている寂しい暗い闇を貫いて、どこまでも進んで行くと云うことは、何と云う厳粛なる事柄であるかと考えたりして、こうして気を取られている間に、一つの心からなる笑い声を聞くと云うことは、スクルージに取って大きな驚愕に相違なかった。しかも、それが自分の甥の笑い声だと知ることは、そして、一つの晴れやかな、乾いた、明るい部屋の中に、自分の傍に微笑しながら立っている精霊と一緒に自分自身を発見すると云うことは、スクルージに取って一層大いなる驚愕であった。で、その精霊はいかにも相手が気に適ったと云うような機嫌の好さで以て、その同じ甥をじっと眺めているのであった。
「は! は!」と、スクルージの甥は笑った。「は、は、は!」
 若し読者諸君にしてこのスクルージの甥よりはもっと笑いにおいて恵まれている男を知るような機会があったら、そんな機会はありそうにもないが、(万々一あったとしたら、)私の云い得ることはただこれだけである、(曰く)私もまたその男を知りたいものだと。私にその男を紹介して下さい、私はどうかしてその人と知己になりましょうよ。
 疾病や悲哀に感染がある一方に、世の中には笑いや上機嫌ほど不可抗力的に伝染するものがないと云うことは、物事の公明にして公平なるかつ貴き調節である。スクルージの甥がこうして脇腹を抑えたり、頭をぐるぐる廻したり、途方もない蹙(しか)め面(つら)に顔を痙攣(ひきつ)らせたりしながら笑いこけていると、スクルージの姪に当るその妻もまた彼と同様にきゃっきゃっと心から笑っていた。それから一座の友達どもも決して敗(ひ)けは取らないで、どっと閧の声を上げて笑い崩れた。
「はッ、はッ、はッ、は、は、は!」
「あの人は聖降誕祭なんて馬鹿らしいと云いましたよ、本当にさ」と、スクルージの甥は云った。「あの人はまたそう信じているんですね。」
「一層好くないことだわ、フレッド」と、スクルージの姪は腹立たしそうに云った。こう云う婦人達は愛すべきかな、彼等は何でも中途半端にして置くと云うことはない。いつでも大真面目である。
 彼女は非常に美しかった。図抜けて美しかった。えくぼのある、吃驚したような、素敵な顔をして接吻されるために造られたかと思われるような――確にその通りでもあるのだが――豊かな小さい口をしていた。頤の辺りには、あらゆる種類の小さな可愛らしい斑点があって、それが笑うと一緒に溶けてしまったものだ。それからどんな可憐な少女の頭にも見られないような、極めて晴れやかな一対の眼を持っていた。引括めて云えば、彼女は気を揉ませるなとでも云いたいような女であった。しかし世話女房式な、おお、どこまでも世話女房式な女であった。
「へんなお爺さんですよ」と、スクルージの甥は云った。「それが本当の所でさ。そして、もっと愉快で面白い人である筈なんだが、そうは行かないんですね。ですが、あの人の悪い事にはまた自然(ひとりで)にそれだけの報いがあるでしょうから、何も私が彼是あの人を悪く云うことはありませんよ。」
「あの方はたいへんなお金持なのでしょう、ねえフレッド」と、スクルージの姪は云い出して見た。「少なくとも、貴方は始終私にはそう仰しゃいますわ。」
「それがどうしたと云うの?」と、スクルージの甥は云った。「あの人の財産はあの人
に取って何の役にも立たないのだ。あの人はそれで何等の善い事もしない。それで自分の居まわりを気持ちよくもしない。いや、あの人はそれで行く行く僕達を好くして遣ろうと――はッ、は、は! そう考えるだけの満足も持たないんだからね。」
「私もうあの人には我慢出来ませんわ」と、スクルージの姪は云った。スクルージの姪の姉妹も、その他の婦人達も皆同意見であると云った。
「いや、僕は我慢出来るよ」と、スクルージの甥は云った。「僕はあの人が気の毒なのだ。僕は怒ろうと思っても、あの人には怒れないんだよ。あの人の可厭(いや)なむら気で誰が苦しむんだい? いつでもあの人自身じゃないか。たとえばさ、あの人は僕達が嫌いだと云うようなことを思い附く。するともう、ここへ来て一緒に飯も喫べてくれようとはしない。で、その結果はどうだと云うのだい? 大層な御馳走を喫べ損ったと云う訳でもないがね。」
「実際、あの方は大層結構な御馳走を喰べ損ったんだと思いますわ」と、スクルージの姪は相手を遮った。他の人達も皆そうだと云った。そして、彼等は今御馳走を喰べたばかりで、食卓の上に茶菓を載せたまま、洋灯を傍にして煖炉の周囲に集まっていたのであるから、十分審査官の資格を具えたものと認定されなければならなかった。
「なるほど! そう云われれば僕も嬉しいね」と、スクルージの甥は云った。「だって、僕は近頃の若い主婦達に余り大した信用を置いていないのだからね。トッパー君、君はどう思うね?」
 トッパーはスクルージの姪の姉妹達の一人に明らかに眼を着けていた。と云うのは、独身者は悲惨(みじめ)な仲間外れで、そう云う問題に対して意見を吐く権利がないと返辞したからであった。これを聞いて、スクルージの姪の姉妹――薔薇を挿した方じゃなくて、レースの半襟を掛けた肥った方が――顔を真赧にした。
「さあ、先を仰しゃいよ、フレッド」と、スクルージの姪は両手を敲きながら云った。「この人は云い出した事を決してお終いまで云ったことがない。本当に可笑しな人よ!」
 スクルージの甥はまた夢中になって笑いこけた。そして、その感染を防ぐことは不可能であったので――肥った方の妹などは香気のある醋酸でそれを防ごうと一生懸命にやって見たけれども――座にある者どもは一斉に彼のお手本に倣った。
「僕はただこう云おうと思ったのさ」と、スクルージの甥は云った。「あの人が僕達を嫌って、僕達と一緒に愉快に遊ばない結果はね、僕が考えるところでは、些(ちっ)ともあの人の不利益にはならない快適な時間を失ったことになると云うのですよ。確かにあの人は、あの黴臭い古事務所や、塵埃だらけの部屋の中に自分一人で考え込んでいたんじゃ、とても見附けられないような愉快な相手を失っていますね。あの人が好(す)こうが好くまいが、僕は毎年こう云う機会をあの人に与える積りですよ。だって僕はあの人が気の毒で耐らないんですからね。あの人は死ぬまで聖降誕祭を罵っているかも知れない。が、それについてもっと好く考え直さない訳にゃ行かないでしょうよ――僕はあの人に挑戦する――僕が上機嫌で、来る年も来る年も、『伯父さん、御機嫌はいかがですか』と訪ねて行くのを見たらね。いや、あの憐れな書記に五十ポンドでも遺して置くような心持にして遣れたら、それだけでも何分かの事はあった訳だからね。それに、僕は昨日あの人の心を顛動させて遣ったように思うんだよ。」
 彼がスクルージの心を顛倒させたなぞと云うのが可笑しいと云って、今度は一同が笑い番になった。が、彼は心の底から気立ての好い人で、とにかく彼等が笑いさえすれば何を笑おうと余り気に懸けていなかったので、自分も一緒になって笑って一同の哄笑[#「哄笑」は底本では「洪笑」]を励ますようにした。そして、愉快そうに瓶を廻わした。
 お茶が済んでから、一同は二三の音楽をやった。と云うのは、彼等は音楽好きの一家であったから。そして、グリーやキャッチを唄った時には、仲々皆手に入ったものであった。殊にトッパーは巧妙な唄い手らしく最低音で唸って退けたものだが、それを唄いながら、格別前額に太い筋も立てなければ顔中真赧になりもしなかった。スクルージの姪は竪琴を上手に弾いた。そして、いろいろな曲を弾いた中に、一寸した小曲(ほんの詰らないもの、二分間で覚えてさっさと口笛で吹かれそうなもの)を弾いたが、これはスクルージが過去の聖降誕祭の精霊に依って憶い出させて貰った通りに、寄宿学校からスクルージを連れに帰ったあの女の子が好くやっていたものであった。この一節が鳴り渡ったとき、その精霊がかつて彼に示して呉れたすべての事柄が残らず彼の心に浮んで来た。彼の心はだんだん和いで来た。そして、数年前に幾度かこの曲を聴くことが出来たら、彼はジェコブ・マアレイを埋葬した寺男の鍬に頼らずして、自分自身の手で自分の幸福のために人の世の親切を培い得たかも知れなかったと考えるようになった。
 が、彼等も専ら音楽ばかりして、その夜を過ごしはしなかった。暫時すると、彼等は罰金遊びを始めた。と云うのは、時には子供になるのも好い事であるからである。そして、それには、その偉大なる創立者自身が子供であるところからして、聖降誕祭の時が一番好い。まあ、お待ちなさい。まず第一には目隠し遊びがあった。もちろんあった。私はトッパーがその靴に眼を持っていたと信じないと同様にまったくの盲目(めくら)であるとは信じない。私の意見では、彼とスクルージの甥との間にはもう話は済んでいるらしい。そして、現在の聖降誕祭の精霊もそれを知っているのである。彼がレースの半襟を掛けた肥った方の妹を追い廻わした様子というものは、誰も知らないと思って人を馬鹿にしたものであった。火箸や十能に突き当たったり、椅子を引っくり返したり、洋琴に打っ突かったり、窓帷幄に包まって自分ながら呼吸が出来なくなったりして、彼女の行く所へはどこへでも随いて行った。彼はいつでもその肥った娘がどこに居るかを知っていた。彼は他の者は一人も捕へようとしなかった。若し諸君がわざと彼に突き当りでもしようものなら(彼等の中には実際やったものもあった)、彼も一旦は諸君を捕まえようと骨折っているような素振りをして見せたことであろうが、――それは諸君の理性を侮辱するものであろう、――直ぐにまたその肥った娘の方へ逸れて行ってしまったものだ。彼女はそりゃ公平でないと幾度も呶鳴った。実際それは公平でなかった。が、到頭彼は彼女を捕まえた。そして、彼女が絹の着物をさらさらと鳴らせたり、彼を遣り過ごそうとばたばた藻掻いたりしたにも係らず、彼は逃げ場のない片隅へ彼女を追い込めてしまった。それからあとの彼の所行というものは全く不埒千万なものであった。と云うのは、彼が自分に相手の誰であるかが分からないと云うような振りをしたのは、彼女の頭飾りに触って見なけりゃ分らない、いや、そればかりでなく、彼女の指に嵌めた指環だの頸の周りにつけた鎖だのを抑えて見て、やっと彼女であることを確かめる必要があるような振りをしたのは、卑劣とも何とも言語道断沙汰の限りであった。他の鬼が代ってその役に当っていたとき、二人は帷幄の背後で大層親密にひそひそと話しをしていたが、彼女はその事に対する自分の意見を聞かせたに違いない。
 スクルージの姪はこの目隠し遊びの仲間には入らないで、居心地のよい片隅に大きな椅子と足台とで楽々と休息していた。その片隅では精霊とスクルージとが彼女の背後に近く立っていた。が、彼女は罰金遊びには加わった。そして、アルファベット二十六文字残らずを使って自分の愛の文章を見事に組み立てた。同じようにまた『どんなに、いつ、どこで』の遊びでも彼女は偉大な力を見せた。そして、彼女の姉妹達もトッパーに云わしたら、随分敏捷な女どもには違いないが、その敏速な女どもを散々に負かして退けた。それをまたスクルージの甥は内心喜んで見ていたものだ。若い者年老った者、合せて二十人位はそこに居たろうが、彼等は皆残らずそれをやった。そして、スクルージもまたそれをやった。と云うのは、彼も今(自分の前に)行われていることの興味に引かれて、自分の声が彼等の耳に何等の響も持たないことをすっかり忘れて、時々大きな声で自分の推定を口にした。そして、それがまた中々好く中ったものだ。何故ならば、めど切れがしないと保険附きのホワイトチャペル製の一番よく尖った針でも、ぼんやりだと自分で思い込んでいるスクルージほど鋭くはないのだから。
 こう云う気分で彼がいたのは、精霊には大層気に適ったらしい。で、彼はお客が帰ってしまうまでここに居させて貰いたいと子供のようにせがみ出したほど、精霊は御機嫌の好い体で彼を見詰めていた。が、それは罷りならぬと精霊は云った。
「今度は新しい遊戯で御座います」と、スクルージは云った。「半時間、精霊殿、たった半時間!」
 それは Yes and No と云う遊戯であった。その遊戯ではスクルージの甥が何か考える役になって、他の者達は、彼が彼等の質問に、それぞれその場合に応じて、Yes とか No とか返辞をするだけで、それが何であるかを云い当てることになった。彼がその衝に当って浴びせられた、てきぱきした質問の銃火は、彼からして一つの動物について考えていることを誘(おび)き出した。それは生きている動物であった、何方かと云えば不快(いや)な動物、獰猛な動物であった、時々は唸ったり咽喉を鳴らしたりする、また時には話しもする、倫敦(ロンドン)に住んでいて、街も歩くが、見世物にはされていない、また誰かに引廻わされている訳でもない、野獣苑の中に住んで居るのでもないのだ、また市場で殺されるようなことは決してない、馬でも、驢馬でも、牝牛でも、牡牛でも、虎でも、犬でも、豚でも、猫でも、熊でもないのだ。新らしい質問が掛けられる度に、この甥は新にどっと笑い崩れた、長椅子から立ち上って床(ゆか)をドンドン踏み鳴らさずに居られないほどに、何とも云いようがないほどくすぐられて面白がった。が、とうとう例の肥った娘が同じように笑い崩れながら呶鳴った。――
「私分かりましたわ! 何だかもう知っていますよ、フレッド! 知っていますよ。」
「じゃ何だね?」と、フレッドは叫んだ。
「貴方の伯父さんのね、スクル――ジさん!」
 確かにその通りであった。一同はあっと感嘆これを久しゅうした。でも、中には「熊か」と訊いた時には、「然り」と答えられべきものであった。「否」と否定の返辞をされては、折角その方へ気が向き掛けていたとしても、スクルージ氏から他の方へ考えを転向させるに十分であったからねと抗議した者もあるにはあった。
「あの人は随分僕達を愉快にしてくれましたね、本当によ」とフレッドは云った。「それであの人の健康を祝って上げないじゃ不都合だよ。ちょうど今手許に薬味を入れた葡萄酒が一瓶あるからね。さあ、始めるよ、『スクルージ伯父さん!』」
「宜しい! スクルージの伯父さん!」と、彼等は叫んだ。
「あの老人がどんな人であろうが、あの人にも聖降誕祭お目出度う、新年お目出度う!」と、スクルージの甥は云った。「あの人は僕からこれを受けようとはしないだろうが、それでもまあ差し上げましょうよ、スクルージの伯父さん!」
 スクルージ伯父は人には知らないままで気も心も浮々と軽くなった。で、若し精霊が時間を与えてくれさえしたら、今の返礼として自分に気の附かない一座のために乾盃して、誰にも聞えない言葉で彼等に感謝したことであろう。が、その全場面は、彼の甥が口にした最後の一語がまだ切れない間に掻き消されてしまった。そして、彼と精霊とはまたもや旅行の途に上った。
 彼等は多くを見、遠く行った。そして、いろいろな家を訪問したが、いつも幸福な結果に終った。精霊が病床の傍に立つと、病人は元気になった。異国に行けば、人々は故郷の近くにあった。悶え苦しんでいる人の傍に行くと、彼等は将来のより大きな希望を仰いで辛抱強くなった。貧困の傍に立つと、それが富裕になった。施療院でも、病院でも、牢獄でも、あらゆる不幸の隠棲(かくれが)において、そこでは虚栄に満ちた人が自分の小さな果敢ない権勢をたのんで、しっかり戸を閉めて、精霊を閉め出してしまうようなことがないからして、彼はその祝福を授けて、スクルージにその教訓を垂れたのであった。
 これが只の一夜であったとすれば、随分長い夜であった。が、スクルージはこれについて疑いを抱いていた。と云うのは、聖降誕祭の祭日全部が自分達二人で過ごして来た時間内に圧縮されてしまったように見えたからである。また不思議なことには、スクルージはその外見が依然として変らないでいるのに、精霊は段々年を取った、眼に見えて年を取って行った。スクルージはこの変化に気が附いていたが、決して口に出しては云わなかった。が、到頭子供達のために開いた十二夜会(註、聖降誕祭から十二日目の夜お別れとして行うもの。)を出た時に、二人は野外に立っていたので、彼は精霊を見遣りながら、その毛髪が真白になっているのに気が附いた。
「精霊の寿命はそんなに短いものですか?」と、スクルージは訊ねた。
「この世における俺(わし)の生命は極くみじかいものさ」と、精霊は答えた。「今晩お仕舞いになるんだよ。」
「今晩ですって!」と、スクルージは叫んだ。
「今晩の真夜中頃だよ。お聴き! その時がもう近づいているよ。」
 鐘の音はその瞬間に十一時四十五分を報じていた。
「こんな事をお訊ねして、若し悪かったらなにとぞ勘弁して下さい」と、スクルージは精霊の着物を一心に見詰めながら云った。「それにしても、何かへんてこな、貴方のお身の一部とは思われないようなものが、裾から飛び出しているようで御座いますね。あれは足ですが、それとも爪ですか。」
「そりゃ爪かも知れないね、これでもその上に肉があるからね。」と云うのが精霊の悲しげな返辞であった。「これを御覧よ。」
 精霊はその着物の襞の間から、二人の子供を取り出した。哀れな、賤しげな、怖ろしい、ぞっとするような、悲惨(みじめ)な者どもであった。二人は精霊の足許に跪いて、その着物の外側に縋り着いた。
「おい、こらッ、これを見よ! この下を見て御覧!」
 彼等は男の児と女の児とであった。黄色く、瘠せこけて、ぼろぼろの服装をした、顔を蹙めた、欲が深そうな、しかも自屈謙遜して平這(へたば)っている。のんびりした若々しさが彼等の顔をはち切れるように肥らせて、活き活きした色でそれを染めるべきところに、老齢のそれのような、古ぼけた皺だらけの手がそれをつねったりひねったりして、ずたずたに引裂いていた。天使が玉座についても可いところに、悪魔が潜んで、見る者を脅し附けながら白眼(にら)んでいた。不可思議なる創造のあらゆる神秘を通じて、人類のいかなる変化も、いかなる堕落も、いかなる逆転も、それがいかなる程度のものであっても、この半分も恐ろしい不気味な妖怪を有しなかった。
 スクルージはぞっとして後退(あとずさ)りした。こんな風にして子供を見せられたので、彼は綺麗なお子さん達ですと云おうとしたが、言葉の方で、そんな大それた嘘の仲間入りをするよりはと、自分で自分を喰い留めてしまった。
「精霊殿、これは貴方のお子さん方ですか。」スクルージはそれ以上云うことが出来なかった。
「これは人間の子供達だよ」と、精霊は二人を見下ろしながら云った。「彼等は自分達の父親を訴えながら、俺に縋り着いているのだ。この男児は無知である。この女児は欠乏である。彼等二人ながらに気を附けよ、彼等の階級のすべての者を警戒せよ。が、特にこの男の子に用心するがいい、この子の額には、若しまだその書いたものが消されずにあるとすれば、『滅亡』とありあり書いてあるからね。それを否定して見るがいい!」と、精霊は片手を町の方へ伸ばしながら叫んだ。「そして、それを教えてくれる者をそしるがいい。それでなければ、お前の道化た目的のためにそれを承認するがいい。そして、そしてそれを一層悪いものにするがいい! そして、その結果を待っているがいい!」
「彼等は避難所も資力も持たないのですか」と、スクルージは叫んだ。
「監獄はないのかね」と、精霊は彼自身の云った言葉を繰返しながら、これを最後に彼の方へ振り向いて云った。「共同授産場はないのかな。」
 鐘は十二時を打った。
 スクルージは周囲を見廻わしながら精霊を捜したが、見当らなかった。最後の鐘の音が鳴り止んだ時、彼は老ジェコブ・マアレイの予言を想い出した。そして、眼を挙げながら、地面に沿って霧のように彼の方へやって来る、着物を着流して、頭巾を被った厳かな幻影を見た。

   第四章 最後の精霊

 幽霊は徐々に、厳かに、黙々として近づいて来た。それが彼の傍に近く来た時、スクルージは地に膝を突いた。何故ならば、精霊は自分の動いているその空気中へ陰鬱と神秘とを振り撒いているように思われたからである。
 精霊は真黒な衣に包まれていた。その頭も、顔も、姿もそれに隠されて、前へ差し伸べた片方の手を除いては、何にも眼に見えるものとてなかった、この手がなかったら、夜からその姿を見別けることも、それを包囲している暗黒からそれを区別することも困難であったろう。
 彼はそれが自分の傍へ来た時、その精霊の背が高く堂々としていることを感じた。そして、そう云う不可思議なものがそこに居ると云うことのために、自分の心が一種厳粛な畏怖の念に充されたのを感じた。それ以上は彼も知らなかった。と云うのは、精霊は口も利かなければ、身動きもしなかったから。
「私はこれから来る聖降誕祭の精霊殿のお前に居りますので?」と、スクルージは云った。
 精霊は返辞をしないで、その手で前の方を指した。
「貴方はこれまでは起らなかったが、これから先に起ろおうとしている事柄の幻影を私に見せようとしていらっしゃるので御座いますね」と、スクルージは言葉を続けた。「そうで御座いますか、精霊殿?」
 精霊が頭を傾(かし)げでもしたように、その衣の上の方の部分はその襞の中に一瞬間収縮した。これが彼の受けた唯一の返辞であった。
 スクルージもこの頃はもう大分幽霊のお相手に馴れていたとは云え、この押し黙った形像に対しては脚がぶるぶる顫えたほど恐ろしかった。そして、いざこれから精霊の後に随いて出て行こうと身構えした時には、どうやら真直(まっすぐ)に立ってさえいられないことを発見した。精霊も彼のこの様子に気が附いて、少し待って落ち着かせて遣ろうとでもするように、一寸立ち停まった。
 が、スクルージはこれがためにますます具合が悪くなった。自分の方では極力眼を見張って見ても、幽霊の片方の手と一団の大きな黒衣の塊の外に何物をも見ることが出来ないのに、あの薄黒い経帷子の背後では、幽霊の眼が自分をじっと見詰めているのだと思うと、漠然とした、何とも知れない恐怖で身体中がぞっとした。
「未来の精霊殿!」と、彼は叫んだ。「私は今までお目に懸かった幽霊の中で貴方が一番怖ろしゅう御座います。しかし貴方の目的は私のために善い事をして下さるのだと承知して居りますので、また私も今までの私とは違った人間になって生活したいと望んで居りますので、貴方のお附合をする心得で居ります、それも心から有難く思ってするので御座います。どうか私に言葉を懸けて下さいませんでしょうか。」
 精霊は何とも彼に返辞をしなかった。ただその手は自分達の前に真直に向けられていた。
「御案内下さい!」と、スクルージは云った。「さあ御案内下さい! 夜はずんずん経ってしまいます。そして、私に取っては尊い時間で御座います。私は存じています。御案内下さい、精霊殿!」
 精霊は前に彼の方へ近づいて来た時と同じように動き出した。スクルージはその著物の影に包まれて後に随いて行った。彼はその影が自分を持ち上げて、ずんずん運んで行くように思った。
 二人は市内へ這入って来たような気がほとんどしなかった、と云うのは、むしろ市の方で二人の周囲に忽然湧き出して、自ら進んで二人を取り捲いたように思われたからである。が、(いずれにしても)彼等は市の中心にいた。すなわち取引所に、商人どもの集っている中にいた。商人どもは忙しそうに往来したり、衣嚢の中で金子をざくざく鳴らせたり、幾群れかになって話しをしたり、時計を眺めたり、何やら考え込みながら自分の持っている大きな黄金の刻印を弄(いじ)ったりしていた。その他スクルージがそれまでによく見掛たような、いろいろな事をしていた。
 精霊は実業家どもの小さな一群の傍に立った。スクルージは例の手が彼等を指差しているのを見て、彼等の談話を聴こうと進み出た。
「いや」と、恐ろしく頤の大きな肥った大漢が云った。「どちらにしても、それについちゃ好くは知りませんがね。ただあの男が死んだってことを知っているだけですよ」
「いつ死んだのですか」と、もう一人の男が訊ねた。
「昨晩だと思います。」
「だって、一体いかがしたと云うのでしょうな?」と、またもう一人の男が非常に大きな嗅煙草の箱から煙草をうんと取り出しながら訊いた。「あの男ばかりは永劫死にそうもないように思ってましたがね。」
「そいつは誰にも分りませんね」と、最初の男が欠呻まじりに云った。
「一体あの金子はいかがしたのでしょうね?」と、鼻の端に雄の七面鳥のえらのような瘤をぶらぶら下げた赤ら顔の紳士が云った。
「それも聞きませんでしたね」と、頤の大きな男がまた欠呻をしながら云った、「恐らく同業組合の手にでも渡されるんでしょうよ。(とにかく)私には遺して行きませんでしたね。私の知っているのはこれっきりさ。」
 この冗談で一同はどっと笑った。
「極く安直(あんちょく)なお葬(とむらい)でしょうな」と、同じ男が云った。「何しろ会葬者があると云うことは全然(まるで)聞かないからね。どうです、我々で一団体つくって義勇兵になっては?」
「お弁当が出るなら行っても可いがね」と、鼻の端に瘤のある紳士は云った。「だが、その一人になるなら、喰わせるだけは喰わせて貰わなくっちゃね。」
 一同また大笑いをした。
「ふうむ、して見ると、諸君のうちでは結局僕が一番廉潔なんだね」と、最初の話手は云った。「僕はこれまでまだ一度も黒い手嚢を嵌めたこともなければ、お葬礼の弁当を喫べたこともないからね。しかし誰か行く者がありゃ、僕も行きますよ。考えて見れば、僕は決してあの人の一番親密な友人でなかったとは云えませんよ。途で会えば、いつでも立ち停って話しをしたものですからね。や、いずれまた。」
 話手も聴手もぶらぶら歩き出した。そして、他の群へ混ってしまった。スクルージはこの人達を知っていた。で、説明を求めるために精霊の方を見遣った。
 幽霊はだんだん進んである街の中へ滑り込んだ。幽霊の指は立ち話しをしている二人の人を指した。スクルージは今の説明はこの中にあるのだろうと思って、再び耳を傾けた。
 彼はこの人達もまたよく知り抜いていた。彼等は実業家であった。大金持で、しかも非常に有力な。彼はこの人達からよく思われようと始終心掛けていた。つまり商売上の見地から見て、厳密に商売上の見地から見て、よく思われようと云うのである。
「や、今日は?」と、一人が云った。
「や、今日は?」と、片方が挨拶した。
「ところで」と、最初の男が云った。「彼奴もとうとうくたばりましたね、あの地獄行きがさ。ええ?」
「そうだそうですね」と、相手は返辞をした。「随分お寒いじゃありませんか、ええ?」
「聖降誕祭の季節なら、これが順当でしょう。時に貴方は氷滑りをなさいませんでしたかね。」
「いえ、いいえ。まだ他に考えることがありますからね。左様なら!」
 このほかに一語もなかった。これがこの二人の会見で、会話で、そして別れであった。
 最初スクルージは精霊が外見上こんな些細な会話に重きを置いているのにあきれかえろうとしていた。が、これには何か隠れた目算があるに違いないと気が附いたので、それは多分何であろうかとつくづく考えて見た。あの会話が元の共同者なるジェコブの死に何等かの関係があろうとはどうも想像されない、と云うのは、それは過去のことで、この精霊の領域は未来であるから。それかと云って、自分と直接関係のある人で、あの会話の当て嵌まりそうな者は一人も考えられなかった。しかし何人にそれが当て嵌まろうとも、彼自身の改心のために何か隠れた教訓が含まれていることは少しも疑われないので、彼は自分の聞いたことや見たことは一々大切に記憶えて置こうと決心した。そして、自分の影像が現われたら、特にそれに注意しようと決心した。と云うのは、彼の未来の姿の行状が自分の見失った手掛りを与えてくれるだろうし、またこれ等の謎の解決を容易にしてくれるだろうと云う期待を持っていたからである。
 彼は自分の姿を求めて、その場で四辺を見廻わした、が、自分の居馴れた片隅には他の男が立っていた。そして、時計は自分がいつもそこに出掛けている時刻を指していたけれども、玄関から流れ込んで来る群衆の中に自分に似寄った影も見えなかった。とは云え、それはさして彼を驚かさなかった。何しろ心の中に生活の一変を考え廻らしていたし、またその変化の中では新たに生れた自分の決心が実現されるものと考えてもいたし、望んでもいたからである。
 静かに黒く、精霊はその手を差し伸べたまま彼の傍に立っていた。彼が考えに沈んだ探究から眼を覚ました時、精霊の手の向き具合と自分に対するその位置から推定して、例の見えざる眼は鋭く自分を見詰めているなと思った。そう思うと、彼はぞっと身顫いが出て、ぞくぞく寒気がして来た。
 二人はその繁劇な場面を捨てて、市中の余り人にも知られない方面へ這入り込んで行った。スクルージも兼てそこの見当も、またこの好くない噂も聞いてはいたが、今までまだ一度も足を踏み入れたことはなかった。その往来は不潔で狭かった。店も住宅もみすぼらしいものであった。人々は半ば裸体で、酔払って、だらしなく、醜くかった。路地や拱門路からは、それだけの数の下肥溜めがあると同じように、疎らに家の立っている街上へ、胸の悪くなるような臭気と、塵埃と、生物とを吐き出していた。そして、その一廓全体が罪悪と汚臭と不幸とでぷんぷん臭っていた。
 このいかがわしい罪悪の巣窟の奥の方に、葺卸屋根の下に、軒の低い、廂の出張った店があって、そこでは鉄物や、古襤褸や、空壜、骨類、脂のべとべとした腸屑(わたくず)などを買入れていた。内部の床の上には、銹ついた鍵だの、釘だの、鎖だの、蝶番いだの、鑪だの、秤皿だの、分銅だの、その他あらゆる種類の鉄の廃物が山の様に積まれてあった。何人も精査することを好まないような秘密が醜い襤褸の山や、腐った脂身の塊りや、骨の墓場の中に育まれかつ隠されていた。古煉瓦で造った炭煖炉を傍にして、七十歳に近いかとも思われる白髪の悪漢が自分の売買する代物の間に坐り込んでいた。この男は一本の綱の上に懸け渡した種々雑多な襤褸布を穢(むさ)くるしい幕にして、戸外の冷たい風を防いでいた。そして、穏やかな隠居所にぬくぬく暖まりながら、呑気に烟草を喫(ふ)かしていた。
 スクルージと精霊とがこの男の前に来ると、ちょうどその時一人の女が大きな包みを持って店の中へこそこそと這入り込んで来た。が、その女がまだ這入ったか這入り切らぬうちに、もう一人の女が同じように包みを抱えて這入って来た。そして、この女のすぐ後から褪(は)げた黒い服を来た一人の男が随いて這入った。二人の女も互に顔見合せて吃驚したものだが、この男は二人を見て同じように吃驚した。暫時は、煙管を啣えた老爺までが一緒になって、ぽかんとあきれ返っていたが、やがて三人一緒にどっと笑い出した。
「打捨(うっちゃ)って置いても、どうせ日傭い女は一番に来るのだ」と、最初に這入って来た女は叫んだ。「どうせ二番目には洗濯婆さんが来るのだ、それから三番目にはどうせ葬儀屋さんがやって来るのさ。ちょっと、老爺さん、これが物の拍子と云うものだよ。ああ三人が揃いも揃って云い合せたようにここで出喰わすとはねえ!」
「お前方は一番好い場所で出会ったのさ」と、老ジョーは口から煙管(パイプ)を離しながら云った。「さあ居間へ通らっしゃい。お前はもうずっと以前から一々断らないでもそこへ通られるようになっているんだ。それから自余(あと)の二人も満更知らぬ顔ではない。まあ待て、俺が店の戸を閉めるまでよ。ああ、何と云うきしむ戸だい! この店にも店自身に緊着(くっつ)いてるこの蝶番いのように錆びた鉄っ片れは他にありゃしねえよ、本当にさ。それにまた俺の骨ほど古びた骨はここにもないからね。ははは! 俺達は皆この職業(しょうばい)に似合ってるさ、まったく似合いの夫婦と云うものだね。さあ居間へお這入り。さあ居間へ!」
 居間というのは襤褸の帷幄(カーテン)の背後になっている空間であった。その老爺は階段の絨緞を抑えて置く古い鉄棒で火を掻き集めた。そして、持っていた煙管(パイプ)の羅宇(らう)で燻っている洋灯の心を直しながら(もう夜になっていたので、)再びその煙管を口へ持って行った。
 彼がこんな事をしている間に、既にもう饒舌ったことのある女は床の上に自分の包みを抛り出して、これ見よがしの様子をしながら床几の上に腰を下ろした――両腕を膝の上で組み合せて、他の二人を馬鹿にしたようにしゃあしゃあと見やりながら。
「で、どうしたと云うんだね! 何がどうしたと云うんだえ、ええディルバアのお主婦さん?」と、その女は云った。「誰だって自分のためを思ってする権利はあるのさ。あの人なんざ始終そうだったんだよ。」
「そりゃそうだとも、実際!」と、洗濯婆は云った。「何人(だれ)もあの人以上にそうしたものはないよ。」
「じゃ、まあそう可怖(おっかな)そうにきょろきょろ立っていなくとも好う御座んさあね、お婆さん、誰が知ってるもんですか。それに此方(こちとら)だってお互に何も弱点(あら)の拾いっこをしようと云うんじゃないでしょう、そうじゃないかね。」
「そうじゃないともさ!」と、ディルバーの主婦さんとその男とは一緒に云った。「もちろんそんな積りはないとも。」
「それなら結構だよ」と、その女は呶鳴った。「それでもう沢山なのさ。これ位僅かな物を失くしたとて、誰が困るものかね。まさか死んだ人が困りもしないだろうしねえ。」
「まったくそうだよ」と、ディルバーの主婦さんは笑いながら云った。
「死んでからも、これが身に着けていたかったら、あの因業親爺がさ」と、例の女は言葉を続けた。「生きている時に、何故人間並にしていなかったんだい? 人間並にさえしてりゃ、お前、いくら死病に取り憑かれたからとて、誰かあの人の世話位する者はある筈だよ、ああして一人ぽっちであそこに寝たまま、最後の息を引き取らなくたってねえ。」
「まったくそりゃ本当の話だよ」と、ディルバーの主婦さんは云った。「あの人に罰が当ったんだねえ」
「もう少し酷い罰が当てて貰いたかったねえ」と、例の女は答えた。「なに、もっと他の品に手が着けられたら、大丈夫お前さん、もう少し酷い罰を当てて遣ったんだよ。その包みを解いておくれな、ジョー爺さんや。そして、値段をつけて見ておくれな。なに、明白(はっきり)と云うが可いのさ。私ゃ一番先だって構やしないし、また皆さんに見ていられたって別段怖(こわ)かないんだよ。私達はここで出会わさない前から、お互様に他人(ひと)の物をくすねていたことは好く承知しているんだからねえ。別段罪にゃならないやね。さあ包みをお開けよ、ジョー。」
 が、二人の仲間にも侠気があって、仲々そうはさせて置かなかった。禿げちょろの黒の服を着けた男が真先駆けに砦の裂目を攀じ登って、自分の分捕品を持ち出した。それは量高(かさだか)の物ではなかった。印刻が一つ二つ、鉛筆入れが一個、袖口(カフス)ボタンが一組、それに安物の襟留めと、これだけであった。品物はジョー爺さんの手で一々検められ、値踏みされた。爺さんはそれぞれの品に対して自分がこれだけなら出してもいいと云う値段を壁の上に白墨で記した。そしていよいよこれだけで、後にはもう何もないと見ると、その総額を締め合せた。
「これがお前さんの分だよ」と、ジョーは云った。「釜で煮られるからと云っても、この上は六ペンスだって出せないよ。さ、お次は誰だい?」
 ディルバーの主婦さんがその次であった。上敷とタウェルの類、少し許りの衣裳、旧式の銀の茶匙二本、一挺の角砂糖挟み、それに長靴二三足。彼女の勘定も前と同じように壁の上に記された。
「俺は婦人にはいつも余計に出し過ぎてね。これが俺の悪い癖さ。またそれがために損ばかりしているのさ」と、ジョー老爺は云った。「これがお前さんの勘定だよ。この上一文でも増せなどと云って、まだこれを決着しないものにする気なら、俺は折角奮発したのを後悔して、半クラウン位差引く積りだよ。」
「さあ、今夜は私の荷物をお解きよ、ジョーさん。」と、最初の女が云った。
 ジョーはその包みを開き好いように両膝を突いて、幾つも幾つもの結び目を解いてからに、大きな重そうな巻き物になった何だか黒っぽい布片(きれ)を引き摺り出した。
「こりゃ何だね?」と、ジョーは云った。「寝台の帷幄(カーテン)かい。」
「ああ!」と、例の女は腕組みをしたまま、前へ屈身(こご)むようにして、笑いながら返辞をした、「寝台の帷幄だよ。」
「お前さんもまさかあの人をあそこに寝かしたまま、環ぐるみそっくりこれを引っ外して来たと云う積りじゃなかろうね。」と、ジョーは云った。
「そうだよ、そう云う積りなんだよ」と、その女は答えた。「だって、いけないかね。」
「お前さんは身代造りに生れついてるんだねえ」と、ジョーは云った。「今にきっと一身代造るよ。」
「そうさ、私も手を伸ばすだけで何がしでもその中に握れるような場合に、あの爺さんのようなあんな奴のためにその手を引っ込めるような、そんな遠慮はしない積りだよ、ジョーさん、お前さんに約束して置いても可いがね」と、例の女は冷やかに返答した。「その油を毛布の上へ垂らさないようにしておくれよ。」
「あの人の毛布かね」と、ジョーは訊ねた。
「あの人のでなけりゃ、誰のだと云うんだよ」と、女は答えた。「あの人も(ああなっては)毛布がなくたって風邪を引きもしまいじゃないか、本当の話がさ。」
「まさか伝染病で死んだんじゃあるまいね、ええ?」と、老ジョーは仕事の手を止めて、(相手を)見上げながら云った。
「そんな事はびくびくしないでも可いよ」と、女は云い返した。「そんな事でもありゃ、いくら私だってこんな物のためにいつまでも彼奴の周りをうろついているほど、彼奴のお相手が好きじゃないんだからね。ああ! その襯衣(シャツ)が見たけりゃ、お前さんの眼が痛くなるまで好く御覧なさいだ。だが、いくら見ても、穴一つ見附ける訳にゃ行かないだろうよ、擦り切れ一つだってさ。これが彼奴の持っていた一番上等のだからね。また実際好い物だよ。私でもこれを手に入れなかろうものなら、他の奴等はむざむざと打捨(うっちゃ)ってしまうところなんだよ。」
「打捨(うっちゃ)るってどう云うことなんだい?」と、老ジョーは訊ねた。
「彼奴に着せたまま一緒に埋めてやるのに極まってらあね」と、その女は笑いながら答えた。「誰か知らんが、そんな真似をする馬鹿野郎があったのさ。でも、(良い按排に)私が(それを見附けて、)もう一度脱がして持って来ちまったんだよ。そんな目的には(キャリコで沢山さ。)キャリコで間に合わなかったら、キャリコなんてえものは何にだって役に立ちはしないよ。死骸には(麻の襯衣)同様しっくり似合うものね。彼奴があの(麻の)襯衣を着ていた時見っともなく見えたよりも、見っともなく見える筈はないよ。」
 スクルージは慄然としながらこの対話に耳を傾けていた。例の老爺さんの洋灯から出る乏しい光の下に、銘々の分捕品を取り捲いて、彼等が坐っていた時、彼はたとい、彼等が死骸其者を売買する醜怪な悪鬼どもであったとしても、よもこれより烈しくはあるまいと思われるほどの憎悪と嫌忌の情を以てそれを見やったものだ。
 老ジョーが銭の入っているフランネルの嚢を取り出して、床の上に銘々の所得を数え立てた時に、例の女は「はッ、はァ!」と、笑った。「これが事の結末(むすび)でさあね。彼奴が生きていた時分は、誰でも彼でも脅(おど)かして傍(そば)へ寄せ附けなかったものだが、そのお蔭で死んでから私達を儲けさしてくれたよ。はッ、はッ、はァ!」
「精霊殿!」と、スクルージは頭から足の爪先までぶるぶると顫えながら云った。「分りました。分りました。この不幸な人間のように私もなるかも知れませんね。今では、私の生活もそちらの方へ向いて居ります。南無三、こりゃどうしたのでしょう!」
 目の前の光景が一変したので、彼はぎょっとして後へ退った。彼は今やほとんど一つの寝床に触れようとしていたのだ。帷幄も何もない露出(むきだ)しの寝床である。その寝床の上には、ぼろぼろの敷布に蔽われて、何物かが横わっていた。それは何とも物は云わないが、畏ろしい言葉でそれが何物であるかを宣言していた。
 この部屋は非常に暗かった、どんな風の部屋であるか知りたいと思う内心の衝動に従って、スクルージはその部屋の中をぐるりと見廻わしては見たが、少しでも精密に見分けようとするには余りに暗かった。戸外の空中に昇りかけた(朝の太陽の)薄白い光が真直に寝床の上に落ちた。するとその寝床の上に、何も彼も剥ぎ取られ、奪われて、誰一人見張っている者もなければ、泣いてやる者もなく、世話の仕手(して)もないままで、この男の死体が横わっていた。
 スクルージは精霊の方を見やった。そのびくともしない手は死体の頭部を指していた。覆い物は、一寸それを持ち上げただけでも、スクルージの方で指一本を動かしただけでも、その面部を露出しただろうと思われるほど、いかにもぞんざいに当てがわれていた。彼はその事について考えた。そうするのがいかにも造作ないことだと云うことにも気が附いた、結局そうしたいとも思って見た。が自分の傍からこの精霊を退散させる力が自分にないと同様に、この覆い物を引(ひ)き剥(め)くるだけの力がどうしても彼にはなかった。
 お、冷たい、冷たい、硬直な、怖ろしい死よ、ここに汝の祭壇を設(しつら)えよ。そして、汝の命令のままになるような、さまざまの恐怖をもてその祭壇を装飾せよ。こは汝の領国なればなり。ながらしかし愛されたる、尊敬せられたる、名誉づけられたる頭からは、その髪の毛一本たりとも汝の恐ろしき目的のために動かすことは出来ないし、その目鼻立ちの一つでも見苦しいものにすることは出来ない。何もそれはその手が重くて、放せば再びだらりと垂れるからではない。またその心臓も脈も静かに動かないからではない。否、その手は生前気前よく、鷹揚で、誠実であったからである。その心は勇敢で、暖かで、優しかったからである。そして、その脈搏は真の人間のそれであったからである。斬れよ、死よ、斬れよ! そして、彼の善行がその傷口から飛び出して、永遠の生命を世界中に種蒔くのを見よ!
 何等の声がスクルージの耳にこれ等の言葉を囁いたのではない。しかも彼は寝床の上を見やった時に、まざまざとこんな言葉を聞いた。彼は考えた、万一この人間が今生き返ることが出来たとしたら、先ず第一に考えることはどんな事であろうかと。貪欲か、冷酷な取引か、差し込むような苦しい心遣いか。こう云うものは彼を結構な結果に導いてくれた、まったくね!
「この人はこう云うことで私に親切にしてくれた、ああ云うことで優しくしてくれた、そして、その優しい一言を忘れないために、私はこの人に親切にして上げるんだ」と云って呉れるような、一人の男も、一人の女も、一人の子供も持たないで、彼は暗い空虚な家の中に寝ていた。一疋の猫が入口の戸を引掻いていた、炉石の下ではがりがり噛じっている鼠の音がした。これ等のものは死の部屋に在って何を欲するのか、何をそんなに落ち着かないでそわそわしているのか、スクルージはとても考えて見るだけの勇気がなかった。
「精霊殿!」と、彼は云った。「これは恐ろしい所です。ここを離れたところで、ここで得た教訓は忘れませんよ、それだけは私の云うことを信じて下さい。さあ参りましょう!」
 ところが、精霊はまだじっと一本の指でその頭部を指していた。
「もう解りました」と、スクルージは返辞をした。「私も出来ればそうしたいのですがね。ですが、私にはそれだけの力がないのです、精霊殿。それだけの力がないのです。」
 またもや精霊は彼の方を見ているらしかった。
「この男が死んだために少しでも心を動かされたものがこの都の中にあったら」と、スクルージはもうこの上見てはいられないような気持で云った。「なにとぞその人を私に見せて下さい。精霊殿、お願いで御座います!」
 精霊は一瞬間彼の前にその真黒な衣を翼のように拡げた。そして、それを引いた時には、そこに昼間の部屋が現われた。その部屋には、一人の母親とその子供達とが居た。
 その女は誰かを待っているのであった。それも頻りに物案じ顔に待ち侘びているのであった。と云うのは、彼女が部屋の中を頻りに往ったり来たりして、何か音のする度に吃驚して飛び上がったり、窓から戸外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には針仕事をしようとしても手に着かなかったりした。そして、(傍で)遊んでいる子供達の声を平気で聞いていられないほど苛々していたからである。
 やっと待ち焦れていた戸を敲く音が聞えた。彼女は急いで入口に彼女の良人を迎えた。良人と云うのは、まだ若くはあるが、気疲れで、滅入り切ったような顔をした男であった。が、今やその顔には著しい表情が現われていた、自分ながら恥かしいことに思って、抑えようと努めてはいるが、どうも圧え切れないような、容易ならぬ喜びの表情であった。
 その男は炉の側(はた)に自分のためにとて蓄(と)って置かれてあった御馳走の前に腰を下ろした。それから彼女がどんな様子かと力なげに訊いた時に、(それも長い間沈黙していた後で、)彼は何と返辞をしたものかと当惑しているように見えた。
「好かったのですか」と、彼女は相手を助けるように云った。「それとも悪いのですか。」
「悪いんだ」と、彼は答えた。
「私達はすっかり身代限りですね?」
「いや、まだ望みはあるんだ、キャロラインよ。」
「あの人の気が折れれば」と、彼女は意外に思って云った、「望みはありますわ! 万一そんな奇蹟が起ったのなら、決して望みのない訳ではありませんよ。」
「気の折れるどころではないのさ」と、彼女の良人は云った。「あの人は死んだんだよ。」
 彼女の顔つきが真実を語っているものなら、彼女は温和(おとな)しい我慢強い女であった。が、彼女はそれを聞いて、心の中に有難いと思った。そして、両手を握ったまま、そうと口走った。次の瞬間には、彼女も神の宥免を願った。そして、(相手を)気の毒がった。が、最初の心持が彼女の衷心からの感情であった。
「昨宵お前に話したあの生酔いの女が私に云ったことね、それ、私があの人に会って、一週間の延期を頼もうとした時にさ。それを私は単に私に会いたくない口実だと思ったんだが、それはまったく真実(ほんとう)のことだったんだね。ただ病気が重いと云うだけじゃなかったんだ、その時はもう死にかけていたんだよ。」
「それで私達の借金は誰の手に移されるんでしょうね?」
「そりゃ分からないよ。だが、それまでには、こちらも金子の用意が出来るだろうよ。たとい出来ないにしても、あの人の後嗣(あとつぎ)がまたあんな無慈悲な債権者だとすれば、よっぽど運が悪いと云うものさ。何しろ今夜は心配なしにゆっくりと眠られるよ、キャロライン!」
 出来るだけその心持を隠すようにはしていたが、二人の心はだんだん軽くなって行った。子供達は解らないながらもその話を聞こうとして、鳴りを鎮めて周囲に集まっていたが、その顔はだんだん晴れ晴れして来た。そして、これこそこの男の死んだために幸福になった家庭であった。この出来事に依って惹起された感情の中で、精霊が彼に示すことの出来た唯一のものは喜悦のそれであった。
「人の死に関係したことで、何か優しみのあることを見せて下さいな」と、スクルージは云った。「でないと、今しがた出て来たあの暗い部屋がね、精霊殿、いつまでも私の眼の前にちらついているでしょうからね。」
 精霊は彼の平生歩き馴れた街々を通り脱けて、彼を案内して行った。歩いて行く間に、スクルージは自分の姿を見出そうと彼方此方を見廻わしたものだ。が、どこにもそれは見附からなかった。彼等は前に訪問したことのある貧しいボブ・クラチットの家に這入った。すると、母親と子供達とは煖炉の周りに集まって坐っていた。
 静かであった。非常に物静かであった。例の騒がしい小クラチットどもは立像のように片隅にじっと塊(かた)まって、自分の前に一册の本を拡げているピータアを見上げながら腰掛けていた。母親と娘達とは一生懸命に針仕事をしていた。が、確かに彼等は非常に静かにしていた。
「『また孩子(おさなご)を取りて、彼等の中に立てて、さて‥‥』」
 スクルージはそれまでどこでこう云う言葉を聞いたことがあるか。彼はそれまでそれを夢に見たこともなかった。彼と精霊とがその閾を跨いだ時に、その少年がその言葉を読み上げたものに違いない。だが彼はどうしてその先を読み続けないのか。
 母親は卓子の上にその仕事を置いて、顔に手を当てた。
「どうも色が眼にさわってねえ」と、彼女は云った。
 色が? ああ、可哀そうなちびのティムよ!
「もう快(よ)くなりましたよ」と、クラチットの主婦(かみ)さんは云った。「蝋燭の光では、黒い物は眼を弱らせるね。私は、阿父さんがお帰りの時分には、どんな事があっても、どんよりした眼をお目にかけまいと思ってるんだよ。そろそろもうお帰りの時分だね。」
「過ぎた位ですよ」と、ピータアは前の書物を閉じながら云った。「だが、阿父さんはこの四五日今までよりは少しゆっくり歩いて戻ってらっしゃるようだと思いますよ、ねえ阿母さん。」
 彼等はまたもやひっそりとなった。が、漸くにして、彼女は云った、それもしっかりした元気の好い声で――それは一度慄えただけであった。――
「阿父さんは好くちびのティムを肩車に乗せてお歩きになったものだがねえ、それもずいぶん速くさ。」
「僕もおぼえています」と、ピータアは叫んだ。「たびたび見ましたよ。」
「わたしも覚えていますわ」と、他の一人が叫んだ。つまり皆が皆覚えているのであった。
「何しろあの児は軽かったからね」と、彼女は一心に仕事を続けながら、再び云った。「それに阿父さんはあの児を可愛がっておいでだったので、肩車に乗せるのが些(ちっ)とも苦にならなかったのだよ、些とも。ああ阿父さんのお帰りだ!」
 彼女は急いで迎えに出た。そして、襟巻に包(くる)まった小ボブ――実際彼には慰安者(註、原語では襟巻と慰安者の両語相通ず。)が必要であった、可哀そうに――が這入って来た。彼のためにお茶が炉棚の上に用意されていた。そして、一同の者は誰が一番沢山彼にそのお茶の給仕をするかと、めいめい先を争ってやって見た。その時二人の小クラチットどもは彼の膝の上に乗って、それぞれその小さい頬を彼の顔に押し当てた――「阿父さん、気に懸けないで頂戴ね、泣かないで下さいね」とでも云うように。
 ボブは彼等と一緒に愉快そうであった。そして、家内中の者にも機嫌よく話しをした。彼は卓子の上の縫物を見やった。そして、クラチットのお主婦(かみ)さんや娘どもの出精と手ばやさとを褒めた。(そんなに精を出したら、)日曜日(註、この日が葬式の日と定められたものらしい。)のずっと前に仕上げてしまうだろうよと云ったものだ。
「日曜日ですって! それじゃあなたは今日行って来たんですね? ロバート」と、彼の妻は云った。
「ああそうだよ」と、ボブは返辞をした。「お前も行かれると好かったんだがね。あの青々した所を見たら、お前もさぞ晴れ晴れしたろうからね。なに、これから度々見られるんだ。いつか私は日曜日にはいつもあそこへ行く約束をあの子にしたよ。ああ小さい、小さい子供よ」と、ボブは叫んだ。「私の小さい子供よ。」
 彼は急においおい泣き出した。どうしても我慢することが出来なかったのだ。それを我慢することが出来るようなら、彼とその子供とは、恐らくは彼等が現在あるよりもずっと遠く離れてしまったことであろう。
 彼はその室を出て、階段を上って二階の室へ這入った。そこには景気よく灯火(あかり)が点いて、聖降誕祭のお飾りが飾ってあった。そこにはまた死んだ子の傍へくっ附けるようにして、一脚の椅子が置いてあった。そして、つい今し方まで誰かがそこに腰掛けていたらしい形跡があった。憐れなボブはその椅子に腰を下ろした。そして、少時考えていた後で、やや気が落ち着いた時、彼は死んだ子の冷たい顔に接吻した。こうして彼は死んだものはもう仕方がないと諦めた。そして、再び晴れやかな気持になって降りて行った。
 一同の者は煖炉の周囲にかたまって話し合った。娘達と母親はまだ針仕事をしていた。ボブはスクルージの甥が非常に親切にしてくれたと一同の者に話した。彼とはやっと一度位しか会ったことがないのだが、今日途中で会った時、自分が少し弱っているのを見て、――「お前も知っての通り、ほんの少し許り弱っていたんだね」と、ボブは云った。――何か心配なことが出来たのかと訊いてくれた。「それを聞いて」と、ボブは云った。「だって、あの方はとても愉快に話しをする方だものね、そこで私も訳を話したのさ。すると、『そりゃ本当にお気の毒だね、クラチット君、貴方の優しい御家内のためにも心からお気の気だと思うよ』と云って下さった。時に、どうしてあの人がそんな事を知っているんだろうね? 私には分からないよ。」
「何を知っているのですって、貴方?」
「だって、お前が優しい妻(さい)だと云うことをさ」と、ボブは答えた。
「誰でもそんなことは知ってますよ」と、ピータアは云った。
「よく云ってくれた、ピータア」と、ボブは叫んだ。「誰でも知ってて貰いたいね。『貴方の優しい御家内のためには心からお気の毒で』と、あの方は云って下すったよ。それから『何か貴方のお役に立つことが出来れば』と、名刺を下すってね、『これが私の住居(すまい)です。なにとぞ御遠慮なく来て下さい』と云って下さったのさ。私がそんなに喜んだのは、なにもあの方が私達のために何かして下さることが出来るからってえんじゃない。いや、それもないことはないが、それよりもただあの方の親切が嬉しかったんだよ、親切がさ。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:177 KB

担当:undef