クリスマス・カロル
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著者名:ディケンズチャールズ 

「あの女を愛したからでさ。」
「愛したからだと!」と、世の中にお目出たい聖降誕祭よりも、もっと馬鹿々々しいものはこれ一つだと云わんばかりに、スクルージは唸った。
「では左様なら!」
「いや、伯父さん、貴方は結婚しない前だって一度も来て下すったことはないじゃありませんか。何故今になってそれを来て下さらない理由にするんですよ?」
「左様なら」と、スクルージは云った。
「私は貴方に何もして貰おうと思っちゃいませんよ。何も貰おうと思っちゃいませんよ。どうして二人は仲好く出来ないのですかね。」
「左様なら」と、スクルージは云った。
「貴方がそう頑固なのを見ると、私は心から悲しくなりますよ。二人はこれまで喧嘩をしたことは――私が相手になってしたことは一度だってありません。ですが、今度は聖降誕祭に敬意を表して、仲直りをして見ようと思ったのです。私は最後まで聖降誕祭の気分を保って行くつもりですよ。ですから、聖降誕祭お目出とう、伯父さん!」
「左様なら」と、スクルージは云った。
「そして、新年お目出とう!」
「左様なら」と、スクルージは云った。彼の甥はこう云われても、一語もつっけんどんな言葉は返さないでその部屋を出て行った。彼は表側の戸口の所で立ち停って、書記に時節柄の挨拶をした。書記は冷えていたが、スクルージより温かい心を持っていた。と云うのは、彼も丁寧に挨拶を返したからである。
「まだ一人居るわい」と、スクルージは彼の声を聞き附けて呟いた。
「一週間に十五シリング貰って、女房と子供を養っている書記の奴が、聖降誕祭お目出とうだなんて云っていやがる。俺は瘋癲病院へ退き込もうかな。」
 この狂人はスクルージの甥を送り出しながら、二人の他の男を導き入れた。彼等は見るから気持の好い、恰服(かっぷく)のいい紳士であった。そして、今や帽子を脱いで、スクルージの事務室に立っていた。彼等は手に帳簿と紙とを持って、彼にお辞儀をした。
「こちらはスクルージとマアレイ商会で御座いますね?」と、その中の一人が手に持った表に照し合わせながら訊ねた。「失礼ながら貴方はスクルージさんでいらっしゃいますか、それともマアレイさんでいらっしゃいますか。」
「マアレイ君は死んでから七年になりますよ」と、スクルージは答えた。「七年前のちょうど今夜亡くなったのです。」
「もちろんマアレイさんの鷹揚なところは、生き残られたお仲間に依って代表されているので御座いましょうな」と、紳士は委任状を差出しながら云った。
 確かにその通りであった。と云うのは、彼等二人は類似の精神であったからである。鷹揚なところという気味の悪い言葉を聞いて、スクルージは顔を顰めた。そして、頭を振って、委任状を返した。
「一年中のこのお祝い季節に当たりまして、スクルージさん」と、紳士はペンを取り上げながら云った。「目下非常に苦しんでいる貧窮者どものために、多少なりとも衣食の資を拵えてやると云うことは、平日よりも一層願わしいことで御座いますよ。何千という人間が衣食に窮しているのです、何十万という人間が有り触れた生活の慰楽に事を欠いているので御座いますよ、貴方。」
「監獄はないのですかね」と、スクルージは訊ねた。
「監獄はいくらもありますよ」と、紳士は再びペンを下に置きながら云った。
「そして共立救貧院は?」とスクルージは畳みかけて訊いた。「あれは今でもやっていますか。」
「やって居ります、今でも」と、紳士は返答した。「やっていないと申上げられると好う御座いますがね。」
「踏み車や救貧法も十分に活用されていますか。」
「両方とも盛に活動していますよ。」
「おお! 私はまた貴方が最初に云われた言葉から見て、何かそう云う物の有益な運転を阻害するような事が起こったのではないかと心配しましたよ」と、スクルージは云った。「それを伺ってすっかり安心しました。」
「そう云う物ではとてもこの多数の人に対して基督教徒らしい心身の慰安を供給してやることが出来ないと云う所信の下に」と、その紳士は返辞をした。「私ども数人の物が貧民のために肉なり、飲料なり、燃料なりを買ってやる資金を募集しようと努力しているので御座います。私どもがこの際を選んだのは、それが特に、貧乏が痛感されていると共に、有福な方々が喜び楽しんでおいでの時だからで御座います。御寄附はいくらといたしましょうか。」
「皆無」と、スクルージは云った。
「匿名がお望みで?」
「いや、私は打遣っといて貰いたいのだ」と、スクルージは云った。「何が望みだとお尋ねになるから、こう御返辞をしたのです、私は自分でも聖降誕祭だって愉快にはしていない。ですもの、怠惰者を愉快にしてやる訳には行きません。私は今挙げたような造営物の維持を助けている――それだけでも随分費(かか)りますよ。暮しの立たない者はそこへ行くが可いのさ。」
「多くの人がそこへ(行こうと思っても)行かれません。また多くの人は(そんな所へ行く位なら)いっそ死んだ方が優(ま)しだと思って居りましょう。」
「いっそ死んだ方がよけりゃ」と、スクルージは云った、「そうした方が可い、そして、過剰の人口を減らす方が可う御座んすよ。それに――失礼ですが――そう云う事実は知りませんね。」
「でも、御存知の筈ですが」と、紳士は云った。
「いや、そりゃ私の知った事じゃない」と、スクルージは答えた。「人間は自分の仕事さえ好く心得てりゃ、それで沢山のものです。他人の仕事に干渉するには及ばない。私なぞは自分の仕事で年中暇なしですよ。左様なら、お二人さん!」
 自分達の主旨を押して追求したところで、とても無駄だと明白に看て取ったので、紳士達は引き下がった。スクルージは急に自分が偉くなったように感じながら、平生の彼よりはずっと気軽な気持で、再び仕事に取り掛った。
 その間にも霧と闇とはいよいよ深くなったので、人々は馬車馬の前に立って、途中その馬を案内する御用を承わりたいと申し出でながら、ゆらゆら燃える松明を持って歩き廻った。年数を経た教会の塔は――その銅鑼声の古い鐘はいつも壁の中のゴシック型の窓から何喰わぬ顔してスクルージを見下ろしていたものだが、その塔も見えなくなった。そして、あの高い所にあるあの凍った頭の中で歯ががちがち噛み合ってでもいるように、後に顫えるような震声を曳いて、雲の中で一時間目毎、十五分目毎の鐘を打った。寒さはいよいよ厳しくなった。大通りでは、路地の隅で、二三の労働者が瓦斯管の修繕をして居た。そして、火鉢の中に火を沢山燃して置いて、その周囲に襤褸を来た男達と子供達の一団が夢中になって手を煖めたり、火焔の前に眼をぱちつかせたりしながらむらがっていた。水道の栓はひとり打遣って置かれたので、その溢れ出る水は急に凍って、厭世的な氷になってしまった。柊の小枝や果実が窓の中の洋灯の熱にパチパチ弾けている店々の明るさは、通りがかりの人々の蒼い顔を真赧にした。家禽屋だの食料品屋だのの商売は素晴らしい戯談になってしまった。すなわち取引とか売買とかいうような面白くもない原則がこれと何かの関係があろうとは、到底信じられないような、華やかな観世物になってしまったのであった。市長閣下は堂々とした官邸の城砦の中で、何十人という料理番と膳部係とに、市長家として恥ずかしくないような、聖降誕祭の用意をするように吩咐けた。また前週の月曜日酒に酔って、血腥い真似をしたと云うかどで市長から五シリングの罰金に処せられた詰らない仕立屋すら、痩せた女房と赤ん坊とが牛肉を買いに駆け出して行った間に、屋根裏の部屋で明日のプディングを掻き廻していた。
 いよいよ霧は深く、寒さも加わって来た。突き刺すような、身に徹えるような、噛みつくような寒さであった。聖ダンスタンがいつもの武器を使う代りに、こんなお天気で一と撫でして、悪魔の鼻をちょいと痺れさせてやったら、その時こそ実際悪魔は大声挙げて咆吼したことでもあろう。骨が犬に咬まれるように、飢えた寒さに咬みつかれ、もぐもぐ噛じられた、一つの尖った若い鼻の持ち主がスクルージの鍵の穴から覗き込んで、聖降誕祭の頌歌を彼に振舞おうとした。が、
神は貴方がたを祝福したまわん、愉快そうな紳士方よ、
貴方がたを狼狽せしむる者は一としてなからん!
と初めの文句を歌い出した刹那に、スクルージは非常に猛烈な勢いで簿記棒を引掴んだ。それがために歌唄いは仰天して、その鍵の穴を霧と、それよりももっと主人と性の合った霜とに任せて置いたまま遁げ出した。
 とうとう事務所の閉じる時刻がやって来た。厭々ながらスクルージはその腰掛から降りて、大桶の中に待ち構えていた書記に、黙ってその事実の承認を与えた。書記は早速蝋燭を消して帽子を被った。
「明日は丸一日欲しいんだろうね?」とスクルージは云った。
「ご都合が宜しければ、貴方。」
「都合は宜しくないさ」と、スクルージは云った。「また公平な事でもないさ。で、そのために半クラウンを差引こうと云い出したら、君は酷い目に遭ったと思うだろう、きっとそうだろうな!」
 書記は微かに笑った。
「しかもだ」と、スクルージは云った、「君の方じゃ仕事もしないのに一日の給料を払わせられる俺を酷い目に遭わせたとは考えないのだ。」
 書記は一年にたった一度のことだと云った。
「毎年十二月二十五日に人の懐中物を掏(す)り取るにしちゃ、まずい言い訳だ」と、スクルージは大きな外套の顎までボタンを掛けながら云った。「だが、どうしたって丸一日休まずには置かないのだろう。明くる朝はその代りに一層早く出て来なさいよ。」
 書記はそうしましょうと云うことを約束した。スクルージはぶつぶつ云いながら出て行った。事務所は瞬く間に閉じられてしまった。そして、書記は白い襟巻の長い両端を腰の下でぶらぶらさせながら、(と云うのは彼は外套を持っていなかったからで。)聖降誕祭前夜のお祝いに、子供達の列の端に附いて、コーンヒルの大通りの氷った辷り易い道の上を幾度となく往復した。それから目隠し遊びをしようと思って、全速力でカムデン・タウンの自宅へ駆け出して行った。
 スクルージは行きつけの陰気な居酒屋で、陰気な食事を済ました。そこにあった新聞をすっかり読んでしまって、あとは退屈凌ぎに銀行の通帳をいじくっていたが、やがて寝に帰った。彼はかつて死んだ仲間の所有であった部屋に住っていた。それは中庭の突き当りの陰気な一構えの建物の中にある薄暗い一組の室であった。この建物は、少年の頃に他の家々と一緒に隠れん坊の遊びをしながら、そこへ走り込んだまま、元の出口を忘れてしまったものに違いないと想像せずにはいられなかったほど、ここにある必要のないものであった。今はすっかり古びて、随分物凄いものになっていた。何しろ他の室は皆事務所に貸してあって、スクルージの外には誰も住んで居ないのだから。中庭は真暗で、その石の一つ一つをも知っている筈のスクルージですら、已むを得ず手探りで這入って行った位であった。霧と霜とは、その家の真黒な古い玄関の辺りにまごまごしていたが、ちょうどそれは天気の神がじっと悲しげに考え込みながら、閾の上に坐っているのかと思われる位であった。
 ところで、入口の戸敲きには、それは非常に大きなものであったと云う外に、別段変ったことはなかった。それは事実である。またスクルージは、そこに住っている間、朝に晩にそれを見ていたと云うことも事実である。またスクルージは、倫敦(ロンドン)市民の何人(だれ)とも、市の行政団体、市参事会、組合員などを引っ包めても――引っ包めてもと云うのは少し大胆だが、倫敦市中の何人(だれ)とも同じように、所謂想像力なるものを余り持っていなかったと云うことも事実その通りである。またスクルージは、この日の午後七年前に死んだ仲間のことを口にした切りで、それ以来少しもマアレイの上に思いを致さなかったと云うことも心に留めて置いて貰いたい。で、そうした上で、スクルージが、戸の錠前に鍵を押し込んでから、それがいつの間にどうして変ったと云うこともないのに、その戸敲きを戸敲きと見ないで、マアレイの顔と見たと云うことは、一体どうしたことであろうか、それを説明の出来る人があったら、誰でもいいから説明して貰いたい。
 マアレイの顔。それは中庭にある外の物体のように、見透かせない闇の中にあるのではなく、真暗なあなぐらの中にある腐敗した海老のように、気味の悪い光を身の周りに持っていた。それは怒ってもいなければ、猛々しい顔でもない。その昔マアレイが物を見る時の容子そっくりの容子をして、すなわちその幽霊然たる額に幽霊然たる眼鏡を掻き上げて、じっとスクルージを見遣った。頭髪は息か熱した空気でも吹きかけられているように、へんてこに動いていた。そして眼はぱっちり開いていたが、まるで動かなかった。その眼とどす黒い顔の色とはその顔をぞっと怖毛(おじけ)の立つような気味の悪いものにした。が、その顔の気味悪さは顔とは全然無関係で、顔の表情の一部分というよりも、むしろその支配を超脱しているように思われた。
 スクルージがこの現象を眼を凝らして見ると、それはまた一つの戸敲きであった。彼はどきりともしなかった、または彼の血は赤児の時から恐ろしいというような感じは知らないで通して来たが、今もその感じを意識しなかったなぞと云えば、それは嘘だ。が、しかし彼は一たび放した鍵に手を掛けて、頑強にそれを廻わした。それから中へ這入って蝋燭を点けた。
 彼は戸を閉める前に、一寸躊躇して手を控えた。そして、廊下の方へ出っ張っているマアレイの弁髪を見て脅かされることだろうと、半ばそれを待ち設けてでもいるように、先ずその戸の背後を用心深く見廻わした。が、その戸の裏には、戸敲きを留めてあった螺旋と女螺旋との外には何もなかった。そこで彼は「ぷっ! ぷっ!」と云った。そして、その戸をぴっしゃり閉めてしまった。
 その響は雷鳴のように家の中に響き渡った。階上のどの室も、酒商の借りている地下のあなぐらの中のどの樽も、それぞれ特有の反響を立てて高鳴りをしたように思われた。スクルージは反響なぞにおびえるような男ではなかった。彼はしっかり戸締りをして、廊下を横切って、階段を上って行った。しかも緩やかに。歩いている間に蝋燭の心を切りながら。
 読者諸君は、六馬立ての馬車を駆って古い階子段を駆け上がるとか、または、新に議会を通過した法令の穴を潜って馬車を駆るとか云うようなことを漠然と話していても宜しい。だが、私は誰でもあの階段の上に棺車を引き上げようと思えば上げられる、しかも壁の方に横木をやり、欄干の方へ扉を向けて、それを横にして引き上げることも出来る、しかもそれを容易くすることが出来ると云うことを云いたいのだ。そうするだけの広さは十分にあって、まだ余地がある位であった。それが恐らくスクルージの薄暗がりの中で自分の前を自動棺車が上って行くのを見たように思った原因でがなあろう。街上からは五六個の瓦斯灯の光りが射しても、十分にこの入口を照らしはしなかったろう。それだもの、スクルージの蝋燭ではかなり暗かったとは、誰にも想像がつこう。
 スクルージは、そんなことには少しも頓着しないで、上って行った。暗闇は廉(やす)いものだ。そして、スクルージはそれが好きであった。が、彼はその重い戸を閉める前に、何事もなかったか検めようとして、室々を通り抜けた。彼もそうして見たくなる位には、十分その顔の追憶を持っていたのだ。
 居間、寝室、物置。すべてが依然として元の通りになっていた。卓子の下にも、長椅子の下にも、誰もいなかった。煖炉には少しばかりの火が残っていた。匙も皿も用意してあった。粥(スクルージは鼻風を引いていた)の小鍋は炉房の棚の上にあった。寝床の下にも、誰もいなかった。押入の中にも誰もいなかった。寝間着は胡散臭い恰好をして壁に懸かっていたが、その中にも誰もいなかった。物置も普段の通りであった。古い煖炉の蓋と、古靴と、二個の魚籠と、三脚の洗面台と、火掻き棒があるばかりであった。
 すっかり安心して、彼は戸を閉めて、錠を下ろした。二重に錠を下ろした、それは彼の習慣ではなかった。こうして先ず不意打ちを喰う恐れをなくして置いて、彼は頸飾を外した。寝間着を着て上靴を穿いて、寝帽を被った。それから粥を啜ろうとして煖炉の前に坐った。
 実際それは極めてとろい火であった。こんな厳寒の晩には有れども無きが如きものであった。で、余儀なくその火の近くへ寄って腰を下ろして、長い間その上に伸しかかっていた。そうしなければ、こんな一握の焚物からは暖かいと云うほんの僅かな感じでも引き出すことは出来なかったのだ。煖炉はずっと以前に和蘭のある商人が拵えた古い物で、周囲には聖書の中の物語を絵模様にした、風変りな和蘭の瓦が敷き詰めてあった。カインや、アベルや、パロの娘達や、シバの女王達、羽布団のような雲に乗って空から降ってくる天の使者や、アブラハムや、ベルシャザアや、牛酪皿に乗って海に出て行こうとしている使者達や、幾百と云う彼の心を惹く人物がそこに描かれていた。しかも七年前に死んだマアレイのあの顔が古えの予言者の鞭のように現れて来て、総ての人間を丸呑みにしてしまった。若しこの滑っこい瓦がいずれも最初は白無地に出来ていて、その表に取りとまりのない彼の考えの断片から取って、何かの絵を形成する力を持っていたとしたら、どの瓦にも老マアレイの頭が写し出されたことであろう。
「馬鹿な!」と、スクルージは云った。そして、室の中をあちこちと歩いた。
 五六度往ったり来たりした後で、彼はまた腰を下ろした。彼が椅子の背に頭を凭せかけた時、不図一つの呼鈴に眼が着いた。それはこの室の中に懸っていて、今は忘れられたある目的のために、この建物の最上階にある一つの室と相通ずるようになっていた、この頃は使われない呼鈴であった。で、見上げた途端に、この呼鈴がゆらゆら揺れだしたので、彼は非常に驚いた。いや、不思議な何とも云われない恐怖の念に襲われた。最初は、ほとんど音も立てないほど、極めて緩やかに揺れていた。が、じきに高く鳴り出した。そして、家の中のどの鈴も皆同じように鳴り出した。
 これが続いたのは半分か一分位のものであったろう。が、それは一時間も続いたように思われた。呼鈴は鳴り出したときと同じく、一斉に止んだ。その後に、階下のずっと下の方で、チャランチャランと云う、ちょうど誰かが酒屋のあなぐらの中にある酒樽の上を重い鎖でも引き摺っているような音が続いた。その時スクルージは化物屋敷では幽霊が鎖を引き摺っているものだと云われたのを聞いたことがあるように追想した。
 あなぐらの戸はぶん[#「ぶん」は底本では「ふん」]と唸りを立てて開いた。それから彼は前よりも高くなったその物音を階下の床の上に聞いた。それから階子段を上って来るのを、それから真直に彼の室の戸口の方へやって来るのを聞いた。
「まだ馬鹿な真似をしてやがる!」と、スクルージは云った。「誰がそれを本気に受けるものか。」
 とは云ったものの、一瞬の躊躇もなく、それが重い戸を通り抜けて室の中へ、しかも彼の眼の前まで這入り込んで来た時には、彼も顔色が変った。それが這入って来た瞬間に、消えかかっていた(蝋燭の)焔はちょうど「私は彼を知っている! マアレイの幽霊だ!」とでも叫ぶように、ぱっと跳ね上がって、また暗くなった。
 同じ顔、紛れもない同じ顔であった。弁髪を着けた、いつもの胴衣に、洋袴に、長靴を着けた、マアレイであった。靴に附いた※(ふさ)[#「糸+遂」、24-18]は、弁髪や、上衣の裾や、頭の髪と同じように逆立っていた。彼の曳き摺って来た鎖は腰の周りに絡みついていた。それは長いもので、ちょうど尻尾のように、彼をぐるぐる捲いていた。それは(スクルージは精密にそれを観察して見た)、弗箱や、鍵や、海老錠や、台帳や、証券や、鋼鉄で細工をした重い財嚢やで出来ていた。彼の体躯は透き通っていた。そのために、スクルージは、彼を観察して、胴衣を透かして見遣りながら、上衣の背後に附いている二つの釦子(ぼたん)を見ることが出来た位であった。
 スクルージはマアレイが腸(はらわた)を持たないと云われていたのを度々聞いたことがあった。が、今までは決してそれを本当にしてはいなかった。
 いや、今でもそれを本当にはしなかった。彼は幽霊をしげしげ[#「しげしげ」は底本では「しけじけ」]と見遣って、それが自分の前に立っているのだとは承知してはいたけれども、その死のように冷い眼の人をぞっとさせるような影響を感じてはいたけれども、また頭から顎へかけて捲き附けていた褶んだ半帛の布目に気が附いてはいたけれども――こんな物を捲き附けているのを彼は以前見たことがなかった、――それでもまだ彼は本当に出来なくって、我と我が感覚を疑おうとした。
「どうしたね!」と、スクルージは例の通り皮肉に冷淡に云った。「何ぞ私に用があるのかね。」
「沢山あるよ。」――マアレイの声だ、疑うところはない。
「貴方は誰ですか?」
「誰であったかと訊いて貰いたいね。」
「じゃ、貴方は誰であったか」と、スクルージは声を高めて云った。「幽霊にしては、いやにやかましいね。」彼は「些細なことまで」と云おうとしたのだが、この方が一層この場に応(ふさ)わしいと思って取り代えた。(註、「幽霊にしては」と「些細なことまで」が原語では語呂の上の「しゃれ」になっているのである。)
「存生中は、私は貴方の仲間、ジェコブ・マアレイだったよ。」
「貴方は――貴方は腰を掛けられるかね」と、スクルージはどうかなと思うように相手を見ながら訊ねた。
「出来るよ。」
「じゃ、お掛けなさい。」
 スクルージがこの問を発したのは、こんな透明な幽霊でも椅子なぞに掛けられるものかどうか、彼には分らなかったからである。そして、それが出来ないという場合には、幽霊も面倒な弁解の必要を免れまいと感じたからである。ところが、幽霊はそんな事には馴れ切っているように、煖炉の向う側に腰を下ろした。
「お前さんは私を信じないね」と、幽霊は云った。
「信じないさ」と、スクルージは云った。
「私の実在については、お前さんの感覚以上にどんな証拠があると思っているのかね。」
「私には分らないよ」と、スクルージは云った。
「じゃ、何だって自分の感覚を疑うのか。」
「だって」と、スクルージは云った、「些細な事が感覚には影響するものだからね。胃の工合が少し狂っても感覚を詐欺師にしてしまうよ。お前さんは消化し切れなかった牛肉の一片かも知れない。芥子の一点か、乾酪の小片か、生煮えの薯の砕片位のものかも知れないよ。お前さんが何であろうと、お前さんには墓場よりも肉汁の気の方が余計にあるね。」
 スクルージはあまり戯談なぞ云う男ではなかった。またこの時は心中決して剽軽な気持になってもいなかった。実を云えば、彼はただ自分の心を紛らしたり、恐怖を鎮めたりする手段として、気の利いた事でも云って見ようとしたのであった。それと云うのも、その幽霊の声が骨の髄まで彼を周章せしめたからであった。
 一秒でも黙って、このじっと据わった、どんよりと光のない眼を見詰めて腰掛けていようものなら、それこそ自分の生命に関わりそうに、スクルージは感じた。それに、その幽霊が幽霊自身の地獄の風を身の周りに持っていると云うことも、何か知ら非常に恐ろしい気がした。スクルージは自分が直接その風を受けたのではなかった。しかしそれは明白に事実であった。と云うのは、この幽霊は全然身動きもしないで腰掛けていたけれども、その毛髪や、着物の裾や長靴の※[#「糸+遂」、27-7]が、竈から昇る熱気にでも吹かれているように、始終動いていたからである。
「この楊子は見えるだろうね?」と、スクルージは今挙げたような理由の下に、早速突撃に立ち戻りながら、また一つにはただの一秒間でもよいから、幽霊の石のような凝視を側(わき)へ逸(そ)らしたいと望みながら訊いた。
「見えるよ」と、幽霊が答えた。
「楊子の方を見ていないじゃないか」と、スクルージは云った。
「でも、見えるんだよ」と、幽霊は云った。「見ていなくてもね。」
「なるほど!」と、スクルージは答えた。「私はただこれを丸呑みにしさえすれば可いのだ。そして、一生の間自分で拵えた化物の一隊に始終いじめられてりゃ世話はないや。馬鹿々々しい、本当に馬鹿々々しいやい!」
 これを聞くと、幽霊は怖ろしい叫び声を挙げた。そして、物凄い、慄然(ぞっ)とするような物音を立てて、その鎖を揺振(ゆすぶ)ったので、スクルージは気絶してはならないと、しっかりと椅子に獅噛み着いた。しかし幽霊が室内でこんな物を巻いているのはちと暖か過ぎるとでも云うように頭からその繃帯を取り外したので、その下顎がだらりと胸に重ね落ちた時には、彼の恐怖は前よりもどんなに大きかったことであろう!
 スクルージはいきなり跪いて、顔の前に両手を合せた。
「お助け!」と彼は云った。「恐ろしい幽霊様、どうして貴方は私をお苦しめになるのだ?」
「世間の欲に眼の暮れた男よ」と、幽霊は答えた。「お前は私を信ずるかどうじゃ?」
「信じます」と、スクルージは云った。「信じないでは居られませぬ。ですが、何故幽霊が出るのですか。また何だって私の許へやって来るのですか。」
「誰しも人間というものは」と、幽霊は返答した。「自分の中にある魂が世間の同胞の間へ出て行って、あちこちとひろく旅行して廻らなければならないものだ。若しその魂が生きているうちに出て歩かなければ、死んでからそうするように申し渡されているのだ。世界中をうろつき歩いて、――ああ悲しいかな!――そして、この世に居たら共に与かることも出来たろうし、幸福に転ずることも出来たろうが、今は自分の与かることの出来ない事柄を目撃するように、その魂は運命を定められているのだよ。」
 幽霊は再び叫び声を挙げた。そして、その鎖を揺振って、その幻影のような両手を絞った。
「貴方は縛られておいでですね」と、スクルージは顫えながら云った。「どういう訳ですか。」
「私が存命中に鍛えた鎖を身に着けているのさ」と幽霊は答えた。「私は一輪ずつ、一ヤードずつ、拵えて行った。そして、自分の勝手で捲き附けたのだ。自分の勝手で身に着けたのだ。お前さんはこの鎖の型に見覚えがないかね。」
 スクルージはいよいよますます慄えた。
「それとも」と、幽霊は言葉をつづけた、「お前さんは自分でも背負っているその頑丈な捲環の重さと長さを知りたいかね。それは七年前の聖降誕祭の前晩にも、これに負けないくらい重くて長かったよ。その後もお前さんは苦労してそれを殖やして来たからね。今は素晴らしく重い鎖になってるよ。」
 スクルージは、もしか自分もあんな五六十尋もあるような鉄の綱で取り巻かれているのじゃないかと、周囲の床の上を見廻した。しかし何も見ることは出来なかった。
「ジェコブ(註、これは猶太人に多い名であるそうな。スクルージの洗礼名エベネザアも同様。)」と、彼は憐みを乞うように云った。「老ジェコブ・マアレイよ、もっと話しをしておくれ。気の引き立つようなことを云っておくれ、ジェコブよ。」
「何も上げるものはないよ」と、幽霊は答えた。「そんなものは他の世界から来るのだ、エベネザア・スクルージよ。そして、他の使者がもっと質の違った人間の許へもって行くのよ。それにまた私は自分の云いたいことを話す訳にも行かない。後もうほんの少しの時間しか許されていないのだからね。私は休むことも停まってることも出来ない。どこにもぐずぐずしてることも出来ない。私の魂は私どもの事務所より外へ出たことがなかった。――よく聴いておいでよ――生きてる間、私の魂は私どもの帳場の狭い天地より一歩も出なかった。そして、今や飽き飽きするような長たらしい旅程が私の前に横わっているんだよ。」
 スクルージが考え込む時には、いつでもズボンのポッケットに両手を突っ込むのが癖であった。幽霊の云ったことをつくづく考え運らしながら、今も彼はそうしていた。が、眼も挙げなければ、立ち上がりもしなかった。
「極くゆっくりとやって来たのでしょうね。」と、スクルージは謙遜で丁寧ではあったが、事務的な口調で訊いた。
「ゆっくりだ!」と、幽霊は相手の言葉を繰り返した。
「死んで七年」と、スクルージは考えるように云った。「その間始終歩き通しでしょう?」
「始終だとも」と、幽霊は云った。「休息もなければ、安心もない。絶え間なく後悔に苦しめられてるんだよ。」
「では、よほど速く歩いてるのですか」と、スクルージは訊いた。
「風の翼に乗ってよ」と、幽霊は答えた。
「それじゃ七年間には随分沢山の道程(みちのり)が歩かれたでしょう」と、スクルージは云った。
 幽霊は、それを聞いて、もう一度叫び声を挙げた。そして、区がそれを安眠妨害として告発しても差支えなかろうと思われるような、怖ろしい物音を真夜中に立てて、鏈をガチャガチャと鳴らした。
「おお! 縛られた、二重に足枷を嵌められた捕虜よ」と、幽霊は叫んだ、「不死の人々のこの世のためにせらるる不断の努力の幾時代も、この世の受け得る善のまだことごとく展開し切らないうちに、永劫の常闇の中に葬られざるを得ないと云うことを知らないとは。どんな境遇にあるにせよ、その小さな範囲内で、それぞれその性に合った働きをしている基督教徒の魂が、いずれも自分に与えられた人の為に尽す力の広大なのに比べて、その一生の余りに短きに過ぐるを嘆じていると云うことを知らないとは。一生の機会を誤用したことに対しては、いくら永い間後悔を続けてもそれを償うに足りないと云うことを知らないとは! しかも私はそう云う人間であった! ああ、私はそう云う人間であったのだ!」
「だがしかし、お前さんはいつも立派な事務家でしたがね」と、スクルージは言い淀みながら云った。彼は今や相手の言葉を我が身に当て嵌めて考え出したのである。
「事務だって!」と、幽霊はまたもや其の手を揉み合せながら叫んだ。「人類が私の事務だったよ。社会の安寧が私の事務だった。慈善と、恵みと、堪忍と、博愛と、すべてが私のすべき事務だったよ。商売上の取引なぞは、私の職務という広大無辺な海洋中の水一滴に過ぎなかったのだ。」幽霊は、これが有らゆる自分の無益な悲嘆の源泉であるぞと云わんばかりに、腕を一杯に伸ばしてその鎖を持ち上げた。そして、それを再び床の上にどさりと投げ出した。
「一年のこの時節には」と幽霊は云った、「私は一番苦しむのだ。何故私は同胞の群がっている中を眼を伏せたまま通り抜けたろう! そして、東方の博士達を一貧家に導いたあのお有難い星を仰いで見なかったろう! 世の中にあの星の光が私を導いてくれるような貧しい家は無かったのか。」
 スクルージは、幽霊がこんな調子で話し続けて行くのを聞いて、非常に落胆した。そして、無性にがたがたと慄え出した。
「よく聞いていなよ!」と、幽霊は叫んだ。「私の時間はもう尽きかかっているのだからね。」
「はい、聞いていますよ」と、スクルージは云った。「ですが、どうかお手柔らかに願いたい! 余り言葉を飾らないで下さい。ジェコブ君、お願いですよ。」
「どう云う理由で私がこうしてお前さんの眼に見えるような恰好でお前さんの前に現れるようになったかと云うことは、私は語ることを許されていない。姿は見せなかったが、私は幾日も幾日もお前さんの傍に坐っていたのだよ。」
 それは聞いて決して気持の好い話ではなかった。スクルージは慄え上った。そして、前額から汗を拭き取った。
「そうして坐っているのも、私の難行苦行の中で決して易しい方ではないよ」と、幽霊は言葉を続けた。「私は今晩ここへ、お前さんにはまだ私のような運命を免れる機会も望みもあると云うことを教えて上げるためにやって来たのだ。つまり私の手で調べて上げた機会と望みがあるんだね、エベネザー君よ。」
「お前さんはいつも私には親切な友達でしたよ」とスクルージは云った。「どうも有難う!」
「お前さんはお見舞いを受けるよ」と、幽霊は言葉を次いだ、「三人の幽霊に。」スクルージの顔はちょうど幽霊の顎が垂れ下がったと同じ程度に垂れ下がった。
「それがお前さんの云った機会と望みのことなんですか、ジェコブ君。」と、彼はおどおどした声で訊いた。
「そうだ。」
「私は――私はいっそ来て頂きたくないので」と、スクルージは云った。
「三人の幽霊の訪問を受けなけりゃ」と、幽霊は云った、「到底私の踏んだ道を避けることは出来ないよ。明日一時の鐘が鳴ったら、第一の幽霊が来るからそう思っていなさい。」
「皆一緒に来て頂いて、一時に済ましてしまう訳には行きませんかな、ジェコブ君」と、スクルージは相手の気を引いて見た。
「その明くる晩の同じ時刻には、第二の幽霊が来るからそう思っていなさい。またその次ぎの晩の十二時の最後の打ち音が鳴り止んだときに、第三の幽霊が来るからそう思っていなさい。もうこの上私と会おうと思いなさるな。そして、二人の間にあったことを貴方自身のために記憶(おぼ)えて置くように、好く気を附けなさい!」
 この言葉を云い終わった時、幽霊は卓子の上から例の繃帯を取って、以前と同じように、頭のまわりにそれを捲きつけた。その顎が繃帯で上下一緒に合わさった時に、その歯の立てたガチリと云う音で、スクルージもそれと知った。彼は思い切って再び眼を挙げて見た。見ると、この超自然の訪客は腕一杯にぐるぐるとその鎖を捲きつけたまま、直立不動の姿勢で彼と向い合って立っているのであった。
 幽霊はスクルージの前からだんだんと後退りして行った。そして、それが一歩退く毎に、窓は自然に少しずつ開いて、幽霊が窓に達した時には、すっかり開き切っていた。幽霊はスクルージに傍へ来いと手招ぎした、スクルージはその通りにした。二人が互に二歩の距たりに立った時、マアレイの幽霊はその手を挙げて、これより傍へ近づかないように注意した。スクルージは立停まった。これは相手の云うことを聴いて立ち停まったと云うよりも、むしろ吃驚して恐れて立ち停まったのであった。と云うのは、幽霊が手を挙げた瞬間に、空中の雑然たる物音が、連絡のない悲嘆と後悔の響きが、何とも云われないほど悲しげな、自らを責めるような慟哭の声が彼の耳に聞えて来たからである。幽霊は一寸耳を澄まして聴いていた後で、自分もその悲しげな哀歌に声を合せた。そして、物寂しい暗夜の中へうかぶように出て行った。
 スクルージは、自分の好奇心に前後を忘れて、窓の所まで随いて行った。彼は外を眺め遣った。
 空中は、落着きのない急ぎ足で彼方此方をうろつき廻り、そして、歩きながらも呻吟している妖怪変化で満たされていた。そのどれもこれもがマアレイの幽霊と同じような鎖を身につけていた、中に二三の者は(これは有罪会社の輩かも知れない)一緒に繋がれていた。一として縛られていないのはなかった。存命中スクルージに親しく知られて居たものも沢山あった。彼は、白い胴服(チョッキ)を着て、踵に素晴らしく大きな鉄製の金庫を引きずっている一人の年寄の幽霊とは生前随分懇意にしていたのであった。その幽霊は、下の入口の踏段の上に見えている赤ん坊を連れた見すぼらしい女を助けてやることが出来ないと云うので、痛々しげに泣き喚いていた。彼等全体の不幸は、明かに、彼等が人事に携わってそれを善くしようと望んでいて、しかも永久にその力を失ったと云う所にあるのであった。
 これ等の生物が霧の中に消え去ったのか、それとも霧の方で彼等を包んでしまったのか、彼には何れとも分らなかった。しかし彼等も、その幽霊の声々も共に消えてしまった。そして、夜は彼が家に歩いて帰った時と同じようにひっそりとなった。
 スクルージは窓を閉めた。そして、幽霊の這入って来た戸を検めた。それは彼が自分の手で錠を卸して置いた通りに、ちゃんと二重に錠が卸してあった。閂にも異常はなかった。彼は「馬鹿々々しい!」と云おうとしたが、口に出し掛けたまま已めた。そして、自分の受けた感動からか、それとも昼間の労れからか、それともあの世を一寸垣間見たためか、それとも幽霊の不景気な会話のためか、それともまた時間のおそいためか知らないが、非常に休息の必要を感じていたので、着物も脱がないで、そのまま寝床へ這入って、すぐにぐっすりと寝込んだ仕舞った。

   第二章 第一の精霊

 スクルージが眼を覚ましたときには、寝床から外を覗いて見ても、その室の不透明な壁と透明な窓との見分けがほとんど附かない位暗かった。彼は鼬のようにきょろきょろした眼で闇を貫いて見定めようと骨を折っていた。その時近所の教会の鐘が十五分鐘を四たび打った。で、彼は時の鐘を聞こうと耳を澄ました。
 彼が非常に驚いたことには、重い鐘は六つから七つと続けて打った、七つから八つと続けて打った。そして、正確に十二まで続けて打って、そこでぴたりと止んだ。十二時! 彼が床についた時には二時を過ぎていた。時計が狂っているのだ。機械の中に氷柱が這入り込んだものに違いない。十二時とは!
 彼はこの途轍もない時計を訂正しようと、自分の時打ち懐中時計の弾条(ばね)に手を触れた。その急速な小さな鼓動は十二打った、そして停まった。
「何だって」と、スクルージは云った、「全(まる)一日寝過ごして、次の晩の夜更けまで眠っていたなんて、そんな事はある筈がない。だが、何か太陽に異変でも起って、これが午(ひる)の十二時だと云う筈もあるまいて!」
 そうだとすれば大変なことなので、彼は寝床から這い出して、探り探り窓の所まで行った。ところが、何も見えないので、已むを得ず寝間着の袖で霜を拭い落した。で、ほんの少し許り見ることが出来た。彼がやっと見分けることの出来たのは、ただまだ非常に霧が深く、耐らないほど寒くて、大騒ぎをしながらあちらこちらと走り廻っている人々の物音なぞは少しもなかったと云うことであった。若し夜が白昼を追い払って、この世界を占領したとすれば、そう云う物音は当然起っていた筈である。これは非常な安心であった。何故なら、勘定すべき日というものがなくなったら、「この第一振出為替手形一覧後三日以内に、エベネザー・スクルージ若しくはその指定人に支払うべし」云々は、単に合衆国の担保に過ぎなくなったろうと思われるからである。
 スクルージはまた寝床に這入った。そして、それを考えた、考えた、繰り返し繰り返し考えたが、さっぱり訳が分らなかった。考えれば考えるほど、いよいよこんぐらかってしまった。考えまいとすればするほど、ますます考えざるを得なかった。
 マアレイの幽霊は無性に彼を悩ました。彼はよくよく詮議した揚句、それは全然夢であったと胸の中で定めるたんびに、心は、強い弾機(ばね)が放たれたように、再び元の位置に飛び返って、「夢であったか、それとも夢ではなかったのか」と、始めから遣り直さるべきものとして同じ問題を持ち出した。
 鐘が更に十五分鐘を三たび鳴らすまで、スクルージはこうして横たわっていた。その時突然、鐘が一時を打った時には、最初のお見舞いを受けねばならぬことを幽霊の戒告して行ったことを想い出した。彼はその時間が過ぎてしまうまで、眼を覚ましたまま横になっていようと決心した。ところで、彼がもはや眠られないことは天国に行かれないと同様であることを想えば、これは恐らく彼の力の及ぶ限りでは一番賢い決心であったろう。
 その十五分は非常に長くて、彼は一度ならず、我知らずうとうととして、時計の音を聞き漏らしたに違いないと考えた位であった。とうとうそれが彼の聞き耳を立てた耳へ不意に聞えて来た。
「ヂン、ドン!」
「十五分過ぎ!」とスクルージは数えながら云った。
「ヂン、ドン!」
「三十分過ぎ!」
「ヂン、ドン!」
「もう後(あと)十五分」と、スクルージは云った。
「ヂン、ドン!」
「いよいよそれだ!」と、スクルージは占めたとばかりに云った、「しかも何事もない!」
 彼は時の鐘が鳴らないうちにかく云った。が、その鐘は今や深い、鈍い、空洞(うつろ)な、陰鬱な一時を打った。たちまち室中に光が閃き渡って、寝床の帷幄(カーテン)が引き捲くられた。
 彼の寝床の帷幄は、私は敢て断言するが、一つの手で側(わき)へ引き寄せられた。足下(あしもと)の帷幄でも、背後(うしろ)の帷幄でもない、顔が向いていた方の帷幄なのだ。彼の寝床の帷幄は側へ引き寄せられた。そして、スクルージは、飛び起きて半坐りになりながら、帷幄を引いたその人間ならぬ訪客と面と面を突き合せた。ちょうど私が今読者諸君に接近していると同じように密接して。そして、私は精神的には諸君のつい手近に立っているのである。
 それは不思議な物の姿であった――子供のような。しかも子供に似てると云うよりは老人に似てると云った方が可いかも知れない。(老人と云ってもただの老人ではない)、一種の超自然的な媒介物を通じて見られるので、だんだん眼界から遠退いて行って、子供の躯幹にまで縮小された観を呈していると云ったような、そう云う老人に似ているのである。で、その幽霊の頸のまわりや背中を下に垂れ下がっていた髪の毛は、年齢(とし)の所為(せい)でもあるように白くなっていた。しかもその顔には一筋の皺もなく、皮膚は瑞々(みずみず)した盛りの色沢(つや)を持っていた。腕は非常に長くて筋肉が張り切っていた。手も同様で、並々ならぬ把握力を持っているように見えた。極めて繊細に造られたその脚も足も、上肢と同じく露出(むきだし)であった。幽霊は純白の長衣を身に着けていた。そして、その腰の周りには光沢のある帯を締めていたが、その光沢は実に美しいものであった。幽霊は手に生々(いきいき)した緑色の柊の一枝を持っていた。その冬らしい表徴とは妙に矛盾した、夏の花でその着物を飾っていた。が、その幽霊の身のまわりで一番不思議なものと云えば、その頭の頂辺(てっぺん)からして明煌々たる光りが噴出していることであった。その光りのために前に挙げたようなものが総て見えたのである。そして、その光りこそ疑いもなくその幽霊が、もっと不愉快な時々には、今はその腋の下に挟んで持っている大きな消灯器(ひけし)を帽子の代りに使用している理由であった。
 とは云え、スクルージがだんだん落ち着いてその幽霊を見遣った時には、これですらそれの有する最も不思議な性質とは云えなかった。と云うのは、その帯の今ここがぴかりと光ったかと想うと、次には他の所がぴかりと輝いたり、また今明るかったと思う所が次の瞬間にはもう暗くなったりするに伴れて、同じように幽霊の姿それ自体も、今一本腕の化物になったかと思うと、今度は一本脚になり、また二十本脚になり、また頭のない二本脚になり、また胴体のない頭だけになると云うように、その瞭然(はっきり)した部分が始終揺れ動いていた。で、それ等の消えていく部分は濃い暗闇の中に溶け込んでしまって、その中に在っては輪廓一つ見えなかったものだ。そして、それを不思議だと思っているうちに、幽霊は再び元の姿になるのであった、元のように瞭然(はっきり)として鮮明な元の姿に。
「貴方があのお出での前触れのあった精霊でいらっしゃいますか」と、スクルージは訊ねた。
「左様!」
 その声は静かで優しかった。彼の側にこれほど近く寄っているのではなく、ずっと触れてでもいるように、へんてこに低かった。
「何誰(どなた)で、またどういう方でいらっしゃいますか」と、スクルージは問い詰めた。
「私は過去の聖降誕祭の幽霊だよ。」
「ずっと古い過去のですか」と、スクルージはその侏儒のような身丈(せい)恰好(かっこう)に眼を留めながら訊いた。
「いや、お前さんの過去だよ。」
 たとい誰かが訊ねたとしても、恐らくスクルージはその理由を語ることが出来なかったろう。が、彼はどう云うものか、その精霊に帽子を被せて見たいものだと云う特別な望みを抱いた。で、それを被るように相手に頼んだ。
「何!」と幽霊は叫んだ、「お前さんはもう俗世界の手で、私の与える光明を消そうと思うのか。俗衆の我欲がこの帽子を拵えて、長の年月の間にずっと私を強いて無理に額眉深にそれを被らせて来たものだ。お前さんもその一人だが、それだけでもう沢山じゃないかね。」
 スクルージは、決して腹を立てさせるつもりではなかった、また自分の一生の中いつの時代にも故意に精霊を侮辱した覚えなぞはないと、うやうやしげに弁解した。それから彼は思い切って、何用あってここへはやって来たのかと訊ねた。
「お前さんの安寧のためにだよ」と、幽霊は云った。
 スクルージはそれは大変に有難う御座いますと礼を述べた。しかし一晩邪魔されずに休息した方が、それにはもっと利き目があったろうと考えずにはいられなかった。精霊は彼がそう考えているのを見て取ったに違いない。と云うのは、すぐにこう云ったからである。
「じゃ、お前さんの済度のためだよ。さあいいか!」
 こう云いながら、幽霊はその頑丈な手を差し伸べて、彼の腕をそっと掴まえた。
「さあ立て! 一緒に歩くんだよ。」
 天気と時刻とが徒歩の目的に適していないと云ったところで、寝床が温かで、寒暖計はずっと氷点以下に降っていると抗弁したところで、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けていないのだと抗言(あらが)って見たところで、また当時自分は風邪を引いていると争ったところで、そんな事はスクルージに取っては何の役にも立たなかったろう。婦人の手のように優しくはあったが、その把握には抵抗すべからざるものがあった。彼は立ち上がった。が、精霊が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。
「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てた、「ですから落ちてしまいますよ。」
「そこへ一寸私の手を当てさせろ」と幽霊はスクルージの胸に手を載せながら云った。「そうすれば、お前さんはこんな事位でない、もっと危険な場合にも支えて貰われるんだよ。」
 こう云っているうちに、彼等は壁[#「壁」は底本では「塵」]を突き抜けて、左右に畠の広々とした田舎道に立った。倫敦(ロンドン)の町はすっかり消えてなくなった。その痕跡すら見られなかった。暗闇も霧もそれと共に消えてしまった。それは地上に雪の積っている、晴れた、冷い、冬の日であった。
「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周囲を見廻して、両手を固く握り合せながら云った。「私はここで生れたのだ。子供の時にはここで育ったのだ!」
 精霊は穏かに彼を見詰めていた。精霊が優しく触ったのは、軽くてほんの瞬間的のものではあったが、この老人の触覚には尚まざまざと残っているように思われた。彼は空中に漂っている様々な香気に気が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられていた、様々な考えや、希望や、喜びや、心配と結び着いていた。
「お前さんの唇は慄えているね」と、幽霊は云った。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」
 スクルージは平生に似合わず声を吃らせながら、これは面瘡(にきび)だと呟いた。そして、どこへなりと連れて行って下さいと幽霊に頼んだ。
「お前さんこの道を覚えているかね?」と、精霊は訊ねた。
「覚えていますとも!」と、スクルージは勢い込んで叫んだ、「目隠をしても歩けますよ。」
「あんなに長い年月それを忘れていたと云うのは、どうも不思議だね!」と、幽霊は云った。「さあ行こうよ。」
 二人はその往還に沿って歩いて行った。スクルージには、目に当るほどの門も、柱も、木も一々見覚えがあった。こうして歩いて行くうちに、遥か彼方に橋だの、教会だの、曲り紆(くね)った河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくじゃらの小馬が、その背に男の子達を乗せて、二人の方へ駆けて来るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車に乗っかっている他の子供達に声を掛けていた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきゃっきゃっと声を立てて喚び合った。で、仕舞には清々(すがすが)しい冬の空気までそれを聞いて笑い出したほど、広い田野が一面に嬉しげな音楽で満たされた位であった。
「これはただ昔あったものの影に過ぎないのだ」と、幽霊は云った。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」
 陽気な旅人どもは近づいて来た。で、彼等が近づいて来た時、スクルージは一々彼等を見覚えていて、その名前を挙げた。どうして彼は彼等に会ったのをあんなに法外に悦んだのか。彼等が通り過ぎてしまった時、何だって彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上ったのか。各自の家路に向って帰るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互いに聖降誕祭お目出とうと言い交わすのを聞いた時、何だって彼の胸に嬉しさが込み上げて来たか。一体スクルージに取って聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出とうがちゃんちゃら可笑しいやい! 今まで聖降誕祭が何か役に立ったことがあるかい。
「学校はまだすっかり退(ひ)けてはいないよ」と、幽霊は云った。「友達に置いてけぼりにされた、独りぼっちの子がまだそこに残っているよ。」
 スクルージはその子を知っていると云った。そして、彼は啜り泣きを始めた。
 彼等はよく覚えている小路を取って、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を頂いた小さな円頂閣のある、そして、その円頂閣に鐘の下がっている、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行った。それは大きな家であったが、また零落した家でもあった。広々とした台所もほとんど使われないで、その塵は湿って苔蒸していた、窓も毀れていた、門も立ち腐れになっていた。鶏はくっくっと鳴いて、厩舎の中を威張りくさって歩いていた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面にはびこっていた。室内も同じように昔の堂々たる面影を留めてはいなかった。陰気な見附けの廊下に這入って、幾つも開け放しになった室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切って、洞然としていた。空気は土臭い匂いがして、場所は寒々として何もなかった、それがあまりに朝はやく起きて見たが、喰う物も何もないのと、どこか似通うところがあった。
 彼等は、幽霊とスクルージとは、見附けの廊下を横切って、その家の背後にある戸口の所まで行った。その戸口は二人の押すがままに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰気な室を展げて見せた。木地のままの樅板の腰掛と机とが幾筋にも並んでいるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しそうな少年が微温火(とろび)の前で本を読んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れていたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。
 家の中に潜んでいる反響も、天井裏の二十日鼠がちゅうちゅう鳴いて取組み合いをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元気のない白楊[#「白楊」は底本では「柏楊」]の葉の落ち尽した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたようにばたばたするのも、いや、煖炉の中で火の撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるような影響を与えないものはなかった、また彼の涙を一層惜し気もなく流させないものはなかった。
 精霊は彼の腕に手を掛けて、読書に夢中になっている若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外国の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚するほどありありとかつはっきりとした一人の男が、帯に斧を挟んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立った。
「何だって、アリ・ババじゃないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。そうだ、そうだ、私は知ってる! ある聖降誕祭の時節に、あそこにいるあの独りぼっちの子がたった一人ここに置いてけぼりにされていた時、始めてあの老爺さんがちょうどああ云う風をしてやって来たのだ。可哀そうな子だな! それからあのヴァレンタインも」と、スクルージは云った、「それからあの乱暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠っているうちに股引を穿いたまま、ダマスカスの門前に捨てて置かれたのは、何とか云う名前の男だったな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王(サルタン)の馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立っている! 好い気味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴がまた何の権利があって姫君の婿になろうなぞとしたのだ!」
 スクルージが笑うような泣くような突拍子もない声で、こんな事に自分の真面目な所をすっかり曝け出しているのを聞いたり、彼のいかにも嬉しそうな興奮した顔を見たりしようものなら、本当に倫敦市の商売仲間は吃驚したことであろう。
「あすこに鸚鵡がいる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の体躯に黄色い尻尾、頭の頂辺(てっぺん)から萵苣(ちしゃ)[#「萵苣」は底本では「萵苔」]のようなものを生(は)やして。あすこに鸚鵡がいるよ。可哀そうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして帰って来た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀そうなロビン・クルーソー、どこへ行って来たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見ていたのだと思ったが、そうじゃなかった。鸚鵡だった、御存じの通りに。あすこに金曜日(フライデー)が行く。小さな入江を目がけて命からがら駆[#「駆」は底本では「騙」]け出して行く、しっかり! おーい! しっかり!」
 それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な気の変りようで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀そうな子だな!」と云った。そして、再び泣いた。
「ああ、ああして遣りたかったな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四辺を見廻わしながら呟いた。「だが。もう間に合わないよ。」
「一体どうしたと云うんだね?」
「何でもないんです」と、スクルージは云った。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌っていた子供がありましたがね。何か遣れば可かったとこう思ったんですよ、それだけの事です。」
 幽霊は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もっと他の聖降誕祭を見ようじゃないか」と云いながら、その手を振った。
 こう云う言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずっと大きくなった。そして、部屋は幾分暗く、かつ一層汚くなった。羽目板は縮み上がって、窓には亀裂が入った。天井からは漆喰の破片(かけら)が落ちて来て、その代りに下地の木片が見えるようになった。しかしどうしてこう云う事になったかと云うことは、読者に分らないと同様に、スクルージにも分っていなかった、ただそれがまったくその通りであったと云うことは、何事もかつてその通りに起ったのだと云うことは、他の子供達が皆楽しい聖降誕祭の休日をするとて家へ帰って行ったのに、ここでもまた彼ひとり残っていたと云うことだけは、彼にも分っていた。
 彼は今や読書していなかった、落胆(がっかり)したように往ったり来たりしていた。スクルージは幽霊の方を見遣った。そして、悲しげに頭を振りながら、心配そうに戸口の方をじろりと見遣った。
 その戸が開いた。そして、その少年よりもずっと年下の小娘が箭を射るように飛び込んで来た。そして、彼の首のまわりに両腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。
「ねえ兄さん、私兄さんのお迎いに来たのよ」と、その小っぽけな手を叩いたり、身体を二つに折って笑ったりしながら、その子は云った。「一緒に自宅(うち)へ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」
「自宅へだって? ファンよ」と、少年は問い返した。
「そうよ!」と、その子ははしゃぎ切って云った。「帰りっ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんもこれまでよりはずっと善くして下さるので、本当にもう自宅は天国のようよ! この間の晩寝ようと思ったら、それはそれは優しく物を言って下すったから、私も気が強くなって、もう一度、兄さんが自宅へ帰って来てもいいかって訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、ああ、帰って来るんだともだって。そして、兄さんのお迎いに来るように私を馬車へ乗せて下さったのよ。で、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云った、「そして、もう二度とはここへ帰って来ないのよ。でも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」
「お前はもうすっかり大人だね、ファン!」と、少年は叫んだ。
 彼女は手を打って笑った。そして、彼の頭に触ろうとしたが、あまり小さかったので、また笑って爪先で立ち上りながら、やっと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引っ張って行った。で、彼は得たり賢しと彼女に随って出て行った。
 誰かが玄関で「スクルージさんの鞄を下ろして来い、そら!」と怖しい声で呶鳴った。そして、その広間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいような謙譲の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依ってすっかり彼を慄え上がらせてしまった。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本当にかつてこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と云っても可いような寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。そこには壁に地面が掛けてあり、窓には天体儀と地球儀とが置いてあったが、両方とも寒さで蝋のようになっていた。ここで校長はへんてこに軽い葡萄酒の容器と、へんてこに重い菓子の一塊片(ひとかけら)とを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分ずつ分けて遣った。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやった。ところが、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答えたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂辺に括り着けられていたので、子供達はただもう心から悦んで校長に暇を告げた。そして、それに乗り込んで、菜園の中の曲路を笑いさざめきながら駆り去った。廻転のはやい車輪は、常磐木の黒ずんだ葉から水烟のように霜だの雪だのを蹴散らして行った。
「いつも脾弱(ひよわ)な、一と吹きの風にも萎んでしまいそうな児だった」と、幽霊は云った、「だが、心は大きな児だよ!」
「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しゃる通りです。私はそれを否認しようとは思いません、精霊どの。いやもう決して!」

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