クリスマス・カロル
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著者名:ディケンズチャールズ 

「それが今日のどんな御馳走にでもよく適(あ)うので御座いますか」と、スクルージは訊ねた。
「親切に出される御馳走なら、どんな御馳走にも適うのじゃ、貧しい御馳走には特に適うんだね。」
「何故貧しい御馳走に特に適うので御座いますか。」
「そう云う御馳走は別けてもそれが入用じゃからね。」
「精霊殿!」と、スクルージは一寸考えた後で云った、「私どもの周囲のいろいろな世界のありとあらゆる存在の中で、(他の物ならとにかく)貴方がこれ等の人々の無邪気な享楽の機会を奪おうとしていられると云うことは、私はどうも不思議でなりませんよ。」
「俺(わし)が?」と、精霊は叫んだ。
「七日目毎に貴方は彼等が御馳走を喫べる便宜を奪っておしまいになるんですよ。彼等がとにかく御馳走を喰べられるのはこの日位なものだと云われているその日にですね」と、スクルージは云った。「そうじゃありませんかい。」
「俺(わし)がだ!」と、精霊は叫んだ。
「貴方は七日目毎にこう云う場所を閉めさせようとしておいでになるのでしょう?」と、スクルージは云った。「だから、同じ事になるんですよ。」
「俺(わし)がそうしようと思ってるんだって?」と、精霊は大きな声で云った。
「間違っていたら御免下さい。ですが、貴方のお名前で、少なくとも貴方のお身内のお名前で、そう云う事をして居りますのです」と、スクルージは云った。
「お前方のこの世の中にはね」と、精霊は答えた、「俺(わし)達を知っているような顔をしながら、情欲、驕慢、悪意、憎悪、嫉妬、頑迷、我利の行いを俺達の名でやっている者があるんだよ。しかもそいつ等は、かつて生きていたことがないように、俺達や、俺達の朋友親戚には一面識もない奴等なんだよ。これはよく記憶(おぼ)えて置いて、彼奴等のしたことについては、彼奴等を責めるようにして、俺達を咎めてもらいたくないものだね。」
 スクルージはそうすると約束した。それから彼等は前と同じように姿を現わさないで、町の郊外へ入り込んで行った。精霊が、その巨大な体躯にも係らず、どんな場所にもらくらくとその身を適応させることが出来たと云うことは、また彼が低い屋根の下でも、どんな高荘な広間ででも振舞うことが可能であったと同じように優雅(しとやか)に、その上いかにも神変不思議の生物らしく立っていたと云うことは、彼の顕著な特質であった。(そして、その特質をスクルージは既に麺麭屋の店で気が附いていたのである。)
 精霊が真直にスクルージの書記の家へ出掛けて行ったのは、恐らくこの精霊が彼のこの力を見せびらかすことにおいて感ずる快楽のためか、それでなくば彼の持って生れた親切にして慈悲深い、誠実なる性質と、総ての貧しき者に対する同情のためかであった。何となれば、彼は実際出懸けて行った、そして自分の着物に捕(つか)まっているスクルージを一緒に連れて行った。それから戸口の敷居の上でにっこり笑って、彼の松明から例の雫を振り掛けながら、ボブ・クラチット(註、ボブはロバートの愛称である。)の住居を祝福してやろうと立ち止まった。考えても見よ! ボブは一週間に彼自身僅かに十五ボブ(註、一ボブは一シリングの俗称である。)を得るばかりであった。――彼は土曜日毎に自分の名前の僅かに十五枚を手に入れるばかりであった。――而も現在の基督降誕祭の精霊は彼の四間(よま)の家を祝福してくれたのであった。
 その時クラチット夫人すなわちクラチットの細君は二度も裏返しをした着物で、粗末ながらにすっかり身繕いをして、しかし廉(やす)くて、六ペンスにしては好く見えるリボンで華やかに飾り立てて出て来た。そして彼女は、これもまたリボンで飾り立てている二番目娘のベリンダ・クラチットに手伝わせて、食卓布をひろげた。一方では、子息のピータア・クラチットが馬鈴薯の鍋の中に肉叉を突込んだ。そして、恐ろしく大きな襯衣(シャツ)(この日の祝儀として、ボブが彼の子息にして嗣子なるピーターに授与したる私有財産)の襟の両端を自分の口中に啣えながら、我ながらいかにも華々しくめかし込んだのに嬉しくなって、流行児の集まる公園に出懸けて自分の下着を見せたくて堪らなかった。さて、二人の一層小さいクラチット達、すなわち男の児と女の児とは、麺麭屋の戸外で鵞鳥の匂いを嗅いだが、それが自分達のだと分ったと云って、きゃあきゃあ叫びながら躍り込んで来た。そして、これ等の小クラチット達はサルビヤだの葱だのと贅沢な考えに耽りながら、食卓の周囲を躍り廻って、ピータア・クラチット君を口を極めて褒めそやした。その間に彼は(襯衣の襟が咽喉を締めそうになっていたが、別段自慢もしないで)のろのろした馬鈴薯が漸く煮えくり返りながら、取り出して皮を剥いてくれと、大きな音を立てて鍋の蓋を叩き出すまで、火を吹き熾していた。
「それはそうと、お前達の大切(だいじ)の阿父さんはどうしたんだろうね?」と、クラチット夫人は云った。「それからお前達の弟のちびのティムもだよ! それからマーサも去年の基督降誕祭には約三十分も前に帰って来ていたのにねえ。」
「マーサが来ましたよ、阿母さん!」と云いながら、一人の娘がそこに現われた。
「マーサが来ましたよ、阿母さん!」と、二人の小クラチットどもは叫んだ。「万歳! こんな鵞鳥があるよ、マーサ!」
「まあ、どうしたと云うんだね、マーサや、随分遅かったねえ!」と云いながら、クラチット夫人は幾度も彼女に接吻したり、彼是と世話を焼きたがって、相手のシォールだの帽子だのを代って取って遣ったりした。
「昨夜(ゆうべ)のうちに仕上げなければならない仕事が沢山あったのよ」と、娘は答えた、「そして、今朝はまたお掃除をしなければならなかったのでねえ、阿母さん!」
「ああああ、来たからにはもう何も云うことはないんだよ」と、クラチット夫人は云った。「煖炉の前に腰をお掛けよ。そして、先ずお煖まりな。本当に好かったねえ。」
「いけない、いけない、阿父さんが帰っていらっしゃるところだ」と、どこへでもでしゃばりたがる二人の小さいクラチットどもは呶鳴った。「お隠れよ、マーサ、お隠れよ。」
 マーサは云われるままに隠れた。阿父さんの小ボブは襟巻を、総(ふさ)を除いて少くとも三尺はだらりと下げて、時節柄見好いように継ぎを当てたり、ブラシを掛けたりした、擦り切れた服を身に着けていた。そして、ちびのティムを肩車に載せて這入って来た。可哀そうなちびのティムよ、彼は小さな撞木杖を突いて、鉄の枠で両脚を支えていた。
「ええ、マーサはどこに居るのか」と、ボブ・クラチットは四辺(あたり)を見廻しながら叫んだ。
「まだ来ませんよ」と、クラチット夫人は云った。
「まだ来ない!」と、ボブは今まで元気であったのが急に落胆(がっかり)して云った。実際、彼は教会から帰る途すがら、ずっとティムの種馬になって、ぴょんぴょん跳ねながら帰って来たのであった。「基督降誕祭だと云うのにまだ来ないって!」
 マーサは、たとい冗談にもせよ、父親が失望しているのを見たくなかった。で、まだ早いのに押入れの戸の蔭から出て来た。そして、彼の両腕の中に走り寄った。その間二人の小クラチットどもはちびのティムをぐいぐい引っ張って、鍋の中でぐつぐつ煮えている肉饅頭の歌を聞かせてやろうと台所へ連れて行った。
「で、ティムはどんな風でした?」と、クラチット夫人は、先ずボブが軽々しく人の云うことを本気にするのを冷かし、ボブはまた思う存分娘を抱き締めた後で、こう訊ねた。
「黄金のように上等だった」と、ボブは云った。「もっと善かったよ。あんなに永く一人で腰掛けていたもので、どうやらこう考え込んでしまったんだね。そして、誰も今まで聞いたこともないような不思議な事を考えているんだよ。帰り途で、私にこう云うんだ、教会の中で衆皆(みんな)が自分を見てくれれば可いと思った。何故なら自分は跛者だし、聖降誕祭の日に、誰が跛者の乞食を歩かせたり、盲人を見えるようにして下さったかと云うことを想い出したら、あの人達も好い気持だろうからとこう云うんだよ。」
 皆にこの話をした時、ボブの声は顫えていた。そして、ちびのティムも段々しっかりして達者になって来たと云った時には、一層それが顫えていた。
 せわしない、小さな撞木杖の音が床の上に聞えた。そして、次の言葉がまだ云い出されないうちに、ちびのティムは彼の兄や姉に護られて、もう煖炉の傍の自分の床几に戻って来た。その間ボブは袖口をまくり上げて――気の毒な者よ、あんな袖口がこの上まで汚(よご)れようがあるか何ぞのように――ジン酒と檸檬で鉢の中に一種の熱い混合物(まぜもの)を拵えた。そして、それをぐるぐる掻き廻してから、とろ火で煮るために炉側の棚の上に載せた。ピーター君と二人のちょこまかした小クラチットどもは鵞鳥を取りに出掛けたが、間もなくそれを持って仰々しい行列を作って帰って来た。
 あらゆる鳥の中で鵞鳥を最も稀有なものと、諸君が思われたかも知れないような騒ぎが続いて起った。羽の生えた怪物、それに比べては、黒い白鳥も異とするに足りない――で、実際この家では鵞鳥がまずそれと同じようなものであった。クラチット夫人は肉汁(前以て小さな鍋に用意して置いた)をシューシュー煮立たせた。ピータア君はほとんど信じられないような力で馬鈴薯を突き潰した。ベリンダ嬢はアップル・ソースに甘味をつけた。マーサは(湯から出し立ての)熱い皿を拭いた。ボブはちびのティムを食卓の小さな片隅へ連れて行って、自分の傍に腰掛けさした。二人の小クラチットどもは衆皆(みんな)のために椅子を並べた。衆皆(みんな)と云う中にはもちろん自分達の事も忘れはしなかった。そして、自分の席について見張りをしながら、自分達の盛(よそ)って貰う順番が来ないうちに早く鵞鳥が欲しいなぞと我鳴り立ててはならないと思って、口の中一杯に匙を押込んでいた。到頭お皿が並べられた。食前のお祈りも済んだ。それからクラチット夫人が大庖丁を手に取って、ゆるゆるとそれを一遍並み見渡しながら、鵞鳥の胸に突き刺そうと身構えた時、一座は息を殺してぱたりと静かになった。が、それを突き刺した時には、そして、永い間待ち焦れていた詰め物がどっと迸り出た時には、食卓の周囲から喜悦の呟き声が一斉に挙がった。そして、ちびのティムでさえ二人の小クラチットどもに励まされて、自分の小刀の柄で食卓を叩いたり、弱々しい声で万歳! と叫んだりした。
 こんな鵞鳥は決して有りっこがなかった。ボブはこんな鵞鳥がこれまで料理されたとは思われないなぞと云った。その軟かさと云い、香気と云い、大きさと云い、廉価なことと云い、皆一同の嘆称の題目であった。アップル・ソースと潰した馬鈴薯とで補えば、家中残らずで喰べるに十分の御馳走であった。まったくクラチット夫人が、(皿の上に残った小さな骨の破片をつくづく見遣りながら、)さも嬉しそうに云った通り、彼等はとうとうそれを喰べ切れなかったのだ! それでも各自は満腹した、別けても小さい者達は眼の上までサルビヤや葱に漬かっていた。ところが、今度はベリンダ嬢が皿を取り換えたので、クラチット夫人は肉饅頭を取り上げて持って来ようと、独りでその部屋を出て行った――肉饅頭を取り出すところを他の者に見られることなぞとても我慢が出来なかったほど、彼女は神経質になっていたのである。
 仮りにそれが十分火が通っていなかったとしたら! 取り出す際に、それが壊れでもしたら! 仮りにまた一同の者が鵞鳥に夢中になっていた間に、何人かが裏庭の塀を乗りこえて、それを盗んで行ったとしたら――想像しただけで、二人の小クラチットどもが蒼白になってしまったような仮定である。あらゆる種類の恐怖が想像された。
 やッ! 素晴らしい湯気だ! 肉饅頭は鍋から取り出された。洗濯日のような臭いがする! それは布片であった。互に隣り合せた料理屋とカステラ屋のまたその隣りに洗濯屋がくっついているような臭いだ! それが肉饅頭であった! 一分と経たないうちに、クラチット夫人は這入って来た――真赧になって、が、得意気ににこにこ笑いながら――火の点いた四半パイントの半分のブランディでぽっぽと燃え立っている、そして、その頂辺には聖降誕祭の柊を突き刺して飾り立てた、斑(ふ)入(い)りの砲弾のように、いかにも硬くかつしっかりした肉饅頭を持って這入って来た。
 おお、素敵な肉饅頭だ! ボブ・クラチットは、しかも落着き払って、自分はそれを結婚以来クラチット夫人が遣り遂げた成功の最も大なるものと思う旨を述べた。クラチット夫人は、心の重荷が降りた今では、自分は実は粉の分量について懸念を抱いていたことをうち明けようと思うとも云った。各自それについて何とか彼とか云った。が、何人もそれが大人数の家庭に取っては、どう見ても小さな肉饅頭であるなぞと云うものもなければ、そう考えるものもなかった。そんな事を云おうものなら、それこそ頭から異端である。クラチットの家の者で、そんな事を暗示して顔を赧らめないような者は一人だってなかったろう。
 とうとう御馳走がすっかり済んだ、食卓布は綺麗に片附けられた。煖炉も掃除されて、火が焚きつけられた。壺の調合物は味見をしたところ、申分なしとあって、林檎と蜜柑が食卓の上に、十能に一杯の栗が火の上に載せられた。それからクラチットの家族一同は、ボブ・クラチットの所謂団欒(円周)、実は半円のことであるが、それを成して、煖炉の周囲に集った。そして、ボブ・クラチットの肱の傍には家中の硝子器と云う硝子器が飾り立てられた――すなわち水飲みのコップ二個と、柄のないカスタード用コップ一個と。
 これ等の容器は、それでも、黄金の大盃と同様に壺から熱い物をなみなみと受け入れた。ボブは晴れ晴れしい顔附きでそれを注いでしまった。その間火の上にかかった栗はジウジウ汁を出したり、パチパチ音を立てて割れた。それからボブは発議した。――
「さあ皆や、一同に聖降誕祭お目出とう。神様よ、私どもを祝福して下さいませ。」
 家族の者一同はそれに和した。
「神様よ、私ども一同を祝福したまわんことを」と、皆の一番後からちびのティムが云った。
 彼は阿父さんの傍にくっついて自分の小さい床几に腰掛けていた。ボブは彼の痩せこけた小さい手を自分の手に握っていた。あたかもこの子が可愛くて、しっかり自分の傍に引き附けて置きたい、誰か自分の手許から引き離しやしないかと気遣ってでもいるように。
「精霊殿!」と、スクルージは今までに覚えのない興味を感じながら云った。「ちびのティムは生きて行かれるでしょうか。」
「私にはあの貧しい炉辺に空いた席と、主のない撞木杖が大切に保存されてあるのが見えるよ。これ等の幻影が未来の手で一変されないで、このまま残っているものとすれば、あの子は死ぬだろうね。」
「いえ、いいえ」と、スクルージは云った。「おお、いえ、親切な精霊殿よ、あの子は助かると云って下さい。」
「ああ云う幻影が未来の手で変えられないで、そのまま残っているとすれば、俺の種族の者達はこれから先何人(だれ)も」と、精霊は答えた、「あの子をここに見出さないだろうよ。で、それがどうしたと云うのだい? あの児が死にそうなら、いっそ死んだ方がいい。そして、過剰な人口を減らした方が好い。」
 スクルージは精霊が自分の言葉を引用したのを聞いて、頭を垂れた。そして、後悔と悲嘆の情に圧倒された。
「人間よ」と、精霊は云った、「お前の心が石なら仕方ないが、少しでも人間らしい心を持っているなら、過剰とは何か、またどこにその過剰があるかを自分で見極めないうちは、あんな好くない口癖は慎んだが可いぞ。どんな人間が生くべきで、どんな人間が死ぬべきか、それをお前が決定しようと云うのかい。天の眼から見れば、この貧しい男の伜のような子供が何百万人あっても、それよりもまだお前の方が一層下らない、一層生きる値打ちのない者かも知れないのだぞ! おお神よ、草葉の上の虫けらのような奴が、塵芥の中に蠢いている饑餓に迫った兄弟どもの間に生命が多過ぎるなぞとほざくのを聞こうとは!」
 スクルージは精霊の非難の前に頭を垂れた。そして、顫えながら地面の上に眼を落とした。が、自分の名が呼ばれるのを聞くと、急いでその眼を挙げた。
「スクルージさん!」と、ボブは云った。「今日の御馳走の寄附者であるスクルージさんよ、私はあなたのために祝盃を上げます。」
「御馳走の寄附者ですって、本当にねえ」と、クラチット夫人は真赧になりながら叫んだ。「本当に此辺へでもあの人がやって来て見るがいい、思いさま毒づいて御馳走してやるんだのにねえ! あの人のことだから、それでも美味しがって存分喰べることでしょうよ。」
「ねえ、お前」と、ボブは云った。「子供達が居るじゃないか! それに聖降誕祭だよ。」
「たしかに聖降誕祭に違いありませんわね」と、彼女は云った。「スクルージさんのような、憎らしい、けちん坊で、残酷で、情を知らない人のために祝盃を上げてやるんですから。貴方だってそう云う人だとは知っているじゃありませんか、ロバート。いいえ、何人だって貴方ほどよくそれを知っている者はありませんわ、可哀相に。」
「ねえ、お前」と、ボブは穏かに返辞をした。「基督降誕祭だよ。」
「私も貴方のために、また今日の好い日のためにあの人の健康を祝いましょうよ」と、クラチット夫人は云った。「あの人のためじゃないんですよ。彼に寿命長かれ! 聖降誕祭お目出度う、新年お目出度う! あの人はさぞ愉快で幸福でしょうよ、きっとねえ。」
 子供達は彼女に倣って祝盃を挙げた。彼等のやったことに真実が籠っていなかったのは、これが始めてであった。ちびのティムも一番後から祝盃を挙げた。が、彼は少しもそれに気を留めていなかった。スクルージは実際この一家の食人鬼であった。彼の名前が口にされてからと云うもの、一座の上に暗い陰影が投げられた。そして、それは全(まる)五分間も消えずに残っていた。
 その影が消えてしまうと、彼等はスクルージと云う毒虫の片が附いたと云う単なる安心からして、前よりは十倍も元気にはしゃいだ。ボブ・クラチットはピータア君のために一つの働き口の心当りがあることや、それが獲られたら、毎週五シリング半入ることなどを一同の者に話して聞かせた。二人の少年クラチットどもはピータアが実業家になるんだと云って散々に笑った。そして、ピータア自身は、その眩惑させるような収入を受取ったら、一つ何に投資してやろうかと考え込んででもいるように、カラーの間から煖炉の火を考え深く見詰めていた。それから婦人小間物商のつまらない奉公人であったマーサは、自分がどんな種類の仕事をしなければならないかとか、一気に何時間働かなければならないかとか、明日は休日で一日自宅に居るから、明日の朝はゆっくり骨休めをするために朝寝坊をするつもりだとか云うことを話した。また、彼女はこの間一人の伯爵夫人と一人の華族様とを見たが、その貴公子は「ちょうどピータア位の身丈(せい)恰好(かっこう)であった」とも話した。ピータアはそれを聞くと、たとい読者がその場に居合せたとしても、もう彼の頭を見ることは出来なかったほど、自分のカラーを高く引張り上げたものだ。その間栗と壺とは絶えずぐるぐると廻されていた。やがて一同はちびのティムが雪の中を旅して歩く迷児(まいご)のことを歌った歌を唄うのを聞いた。彼は悲しげな小さい声を持っていた。そして、それを大層上手に唄った。
 これには別段取り立てて云うほどのことは何もなかった。彼等は固より立派な家族ではなかった。彼等は身綺麗にもしていなかった。彼等の靴は水が入らぬどころではなかった。彼等の衣服は乏しかった。ピータアは質屋の内部を知っていたかも知れない、どうも知っているらしかった。けれども、彼等は幸福であった、感謝の念に満ちていた、お互に仲が好かった、そして今日に満足していた。で、彼等の姿がぼんやりと淡くなって、しかも別れ際に精霊が例の松明から振り掛けてやった煌々たる滴りの中に一層晴れやかに見えた時、スクルージは眼を放たず一同の者を見ていた、特にちびのティムを最後まで見ていた。
 その時分にはもう段々暗くなって、雪が可なりひどく降って来た。で、スクルージと精霊とが街上を歩いていた時、台所や、客間や、その他あらゆる種類の室々で音を立てて燃え盛っている煖炉の輝かしさと云ったら凄じかった。此方では、チラチラする焔が、煖炉の前で十分に焼かれている熱い御馳走の皿や、寒気と暗黒とを閉め出すために、一たびは開いても直ぐにまた引き下ろされようとしている深紅色の窓掛と一緒になって、小ぢんまりした愉快な晩餐の用意を表わしていた。彼方では、家中の子供達が自分達の結婚した姉だの、兄だの、従兄だの、伯父だの、叔母だのを出迎えて、自分こそ一番先に挨拶をしようと、雪の中に走り出していた。また彼方には、皆頭巾を被って毛皮の長靴を履いた一群の美しい娘さんが、一度にべちゃくちゃ饒舌りながら、軽々と足を運んで、近所の家に出掛けて行った。そこへ彼等がぽっと上気しながら這入って来るのを見た独身者は災禍(わざわい)なるかな――手管のある妖女どもよ、彼等はそれを知っているのである。
 ところで、読者にして若しかく親しい集会に出掛けて行く人数から判断したとすれば、どの家も仲間を待ち設けたり、煙突の半分までも石炭の火を積み上げたりしてはいないで、折角お客様がそこへ着いても、一人も自宅にいて出迎えてくれる者はないだろうと思われるかも知れない。どの家にも祝福あれや! いかに精霊は欣喜雀躍したことぞ! いかにその胸幅を露(む)き出しにして、大きな掌をひろげたことぞ! そして、手のとどく限りあらゆる物の上に、その晴れやかで無害な快楽をその慈悲深い手で振り撒きながら、ふわふわと登って行ったことぞ! 灯火の斑点で黄昏時の薄暗い街にポツポツ点を打ちながら駆けて行く点灯夫ですら、今宵をどこかで過すために好い着物に代えていたが、その点灯夫ですら精霊が通りかかった時には声を立てて笑ったものだ――聖降誕祭の外に自分の伴侶があろうとは夢にも知らなかったけれども。
 ところで、今や精霊から一言の警告もなかったのに、突然二人は冬枯れた物寂しい沼地の上に立った。そこには巨人の埋葬地ででもあったかのように、荒い石の怖ろしく大きな塊がそちこちに転っていた。水は心のままにどこへでも流れ拡がっていた。いや、結氷が水を幽閉して置かなかったら、きっとそうしていたであろう。苔とはりえにしだと、粗い毒々しい雑草の外には何も生えていなかった。西の方に低く夕陽が一筋火のように真赤な線を残して消えてしまった。それが一瞬間荒漠たる四辺の風物の上に、陰惨な眼のようにあかあかとぎらついていたが、だんだん低く、低くその眼を顰めながら、やがて真暗な夜の濃い暗闇の中に見えなくなってしまった。
「ここはどう云う所で御座いますか」と、スクルージは訊ねた。
「鉱夫どもの住んでいるところだよ、彼等は地の底で働いているのだ」と、精霊は返辞をした。「だが、彼等は俺を知っているよ、御覧!」
 一軒の小屋の窓から灯火が射していた。そして、それを目懸けて二人は足早に進んで行った。泥土や石の壁を突き抜けて、真赤な火の周りに集っている愉快そうな一団の人々を見附けた。非常に年を取った爺と媼とが、その子供達や、孫達や、それからまたその下の曾孫達と一緒に、祭日の晴着に美々しく飾り立てていた。その爺は不毛の荒地をたけり狂う風の音にとかく消圧(けお)されがちな声で、一同の者に聖降誕祭の歌を唄ってやっていた。それは彼が少年時代の極く古い歌であった。一同の者は時々声を和して歌った。彼等が声を高めると、爺さんもきっと元気が出て声を高めた。が、彼等が止めてしまうと、爺さんの元気もきっと銷沈してしまった。
 精霊はここに停滞してはいなかった、スクルージをして彼の着衣に捕まらせた、そして、沼地の上を通過しながら、さてどこへ急いだか。海へではないか。そうだ、海へ。スクルージは振り返って、自分達の背後に陸の突端を、怖ろしげな岩石が連っているのを見て慄然とした。水は自分の擦り減らした恐ろしい洞窟の中に逆捲き怒号して狂奔して、この地面を下から覆そうと烈しく押し寄せていたが、その水の轟々たる響には彼の耳も聾いてしまった。
 海岸から幾浬か離れて、一年中荒れ通しに波に衝かれ揉まれている物凄い暗礁の上に、ぽっつりと寂しげな灯台が建てられていた。海藻の大きな堆積がその土台石に絡まり着いて、海鳥は――海藻が水から生れたように、風から生れたかとも想われるような――彼等がその上をすくうようにして飛んでいる波と同じように、その灯台の周囲を舞い上ったり、舞い下ったりしていた。
 が、こんな所でさえ、灯光の番をしていた二人の男が火を焚いていた、それが厚い石の壁に造られた風窓から物凄い海の上に一条の輝かしい光線を射出した。向い合せに坐っていた荒削りの食卓越しに、ごつごつした手を握り合せながら、彼等は火酒の盃に酔って、お互いに聖降誕祭の祝辞を述べ合ったものだ。そして、彼等の一人、しかも年長
者の方が――古い船の船首についている人形が傷められ瘢痕づけられているように、風雨のために顔中傷められ瘢痕づけられた年長者の方が、それ自身本来暴風雨(はやて)のような、頑丈な歌を唄い出した。
 再び精霊は真黒な、絶えず持ち上げている海の上を走り続けた――どこまでも、どこまでも――彼がスクルージに云ったところに拠れば、どの海岸からも遙かに離れているので、とうとうとある一艘の船の上に降りた。二人は舵車を手にした舵手や、船首に立っている見張り人や、当直をしている士官達の傍に立った。各自それぞれの配置についている彼等の姿は、いずれも暗く幽霊のように見えた。しかしその中の誰も彼もが聖降誕祭の歌を口吟んだり、聖降誕祭らしいことを考えたり、または低声でありし昔の降誕祭の話を――それには早く家郷へ帰りたいと云う希望が自然と含まれているが、その希望を加えて話したりしていた。そして、その船に乗っている者は、起きていようが眠っていようが、善い人であろうが悪い人であろうが、誰も彼もこの日は一年中のどんな日よりも、より親切な言葉を他人に掛けていた。そして、ある程度まで今日の祝いを共に楽しんでいた。そして、誰も彼も自分の心に懸けている遠方の人達を想い遣ると共に、またその遠方の人達も自分のことを想い出して喜んでいることをよく承知していた。
 風の呻きに耳を傾けたり、またはその深さは死の様に深遠な秘密であるところの未だ知られない奈落の上に拡がっている寂しい暗い闇を貫いて、どこまでも進んで行くと云うことは、何と云う厳粛なる事柄であるかと考えたりして、こうして気を取られている間に、一つの心からなる笑い声を聞くと云うことは、スクルージに取って大きな驚愕に相違なかった。しかも、それが自分の甥の笑い声だと知ることは、そして、一つの晴れやかな、乾いた、明るい部屋の中に、自分の傍に微笑しながら立っている精霊と一緒に自分自身を発見すると云うことは、スクルージに取って一層大いなる驚愕であった。で、その精霊はいかにも相手が気に適ったと云うような機嫌の好さで以て、その同じ甥をじっと眺めているのであった。
「は! は!」と、スクルージの甥は笑った。「は、は、は!」
 若し読者諸君にしてこのスクルージの甥よりはもっと笑いにおいて恵まれている男を知るような機会があったら、そんな機会はありそうにもないが、(万々一あったとしたら、)私の云い得ることはただこれだけである、(曰く)私もまたその男を知りたいものだと。私にその男を紹介して下さい、私はどうかしてその人と知己になりましょうよ。
 疾病や悲哀に感染がある一方に、世の中には笑いや上機嫌ほど不可抗力的に伝染するものがないと云うことは、物事の公明にして公平なるかつ貴き調節である。スクルージの甥がこうして脇腹を抑えたり、頭をぐるぐる廻したり、途方もない蹙(しか)め面(つら)に顔を痙攣(ひきつ)らせたりしながら笑いこけていると、スクルージの姪に当るその妻もまた彼と同様にきゃっきゃっと心から笑っていた。それから一座の友達どもも決して敗(ひ)けは取らないで、どっと閧の声を上げて笑い崩れた。
「はッ、はッ、はッ、は、は、は!」
「あの人は聖降誕祭なんて馬鹿らしいと云いましたよ、本当にさ」と、スクルージの甥は云った。「あの人はまたそう信じているんですね。」
「一層好くないことだわ、フレッド」と、スクルージの姪は腹立たしそうに云った。こう云う婦人達は愛すべきかな、彼等は何でも中途半端にして置くと云うことはない。いつでも大真面目である。
 彼女は非常に美しかった。図抜けて美しかった。えくぼのある、吃驚したような、素敵な顔をして接吻されるために造られたかと思われるような――確にその通りでもあるのだが――豊かな小さい口をしていた。頤の辺りには、あらゆる種類の小さな可愛らしい斑点があって、それが笑うと一緒に溶けてしまったものだ。それからどんな可憐な少女の頭にも見られないような、極めて晴れやかな一対の眼を持っていた。引括めて云えば、彼女は気を揉ませるなとでも云いたいような女であった。しかし世話女房式な、おお、どこまでも世話女房式な女であった。
「へんなお爺さんですよ」と、スクルージの甥は云った。「それが本当の所でさ。そして、もっと愉快で面白い人である筈なんだが、そうは行かないんですね。ですが、あの人の悪い事にはまた自然(ひとりで)にそれだけの報いがあるでしょうから、何も私が彼是あの人を悪く云うことはありませんよ。」
「あの方はたいへんなお金持なのでしょう、ねえフレッド」と、スクルージの姪は云い出して見た。「少なくとも、貴方は始終私にはそう仰しゃいますわ。」
「それがどうしたと云うの?」と、スクルージの甥は云った。「あの人の財産はあの人
に取って何の役にも立たないのだ。あの人はそれで何等の善い事もしない。それで自分の居まわりを気持ちよくもしない。いや、あの人はそれで行く行く僕達を好くして遣ろうと――はッ、は、は! そう考えるだけの満足も持たないんだからね。」
「私もうあの人には我慢出来ませんわ」と、スクルージの姪は云った。スクルージの姪の姉妹も、その他の婦人達も皆同意見であると云った。
「いや、僕は我慢出来るよ」と、スクルージの甥は云った。「僕はあの人が気の毒なのだ。僕は怒ろうと思っても、あの人には怒れないんだよ。あの人の可厭(いや)なむら気で誰が苦しむんだい? いつでもあの人自身じゃないか。たとえばさ、あの人は僕達が嫌いだと云うようなことを思い附く。するともう、ここへ来て一緒に飯も喫べてくれようとはしない。で、その結果はどうだと云うのだい? 大層な御馳走を喫べ損ったと云う訳でもないがね。」
「実際、あの方は大層結構な御馳走を喰べ損ったんだと思いますわ」と、スクルージの姪は相手を遮った。他の人達も皆そうだと云った。そして、彼等は今御馳走を喰べたばかりで、食卓の上に茶菓を載せたまま、洋灯を傍にして煖炉の周囲に集まっていたのであるから、十分審査官の資格を具えたものと認定されなければならなかった。
「なるほど! そう云われれば僕も嬉しいね」と、スクルージの甥は云った。「だって、僕は近頃の若い主婦達に余り大した信用を置いていないのだからね。トッパー君、君はどう思うね?」
 トッパーはスクルージの姪の姉妹達の一人に明らかに眼を着けていた。と云うのは、独身者は悲惨(みじめ)な仲間外れで、そう云う問題に対して意見を吐く権利がないと返辞したからであった。これを聞いて、スクルージの姪の姉妹――薔薇を挿した方じゃなくて、レースの半襟を掛けた肥った方が――顔を真赧にした。
「さあ、先を仰しゃいよ、フレッド」と、スクルージの姪は両手を敲きながら云った。「この人は云い出した事を決してお終いまで云ったことがない。本当に可笑しな人よ!」
 スクルージの甥はまた夢中になって笑いこけた。そして、その感染を防ぐことは不可能であったので――肥った方の妹などは香気のある醋酸でそれを防ごうと一生懸命にやって見たけれども――座にある者どもは一斉に彼のお手本に倣った。
「僕はただこう云おうと思ったのさ」と、スクルージの甥は云った。「あの人が僕達を嫌って、僕達と一緒に愉快に遊ばない結果はね、僕が考えるところでは、些(ちっ)ともあの人の不利益にはならない快適な時間を失ったことになると云うのですよ。確かにあの人は、あの黴臭い古事務所や、塵埃だらけの部屋の中に自分一人で考え込んでいたんじゃ、とても見附けられないような愉快な相手を失っていますね。あの人が好(す)こうが好くまいが、僕は毎年こう云う機会をあの人に与える積りですよ。だって僕はあの人が気の毒で耐らないんですからね。あの人は死ぬまで聖降誕祭を罵っているかも知れない。が、それについてもっと好く考え直さない訳にゃ行かないでしょうよ――僕はあの人に挑戦する――僕が上機嫌で、来る年も来る年も、『伯父さん、御機嫌はいかがですか』と訪ねて行くのを見たらね。いや、あの憐れな書記に五十ポンドでも遺して置くような心持にして遣れたら、それだけでも何分かの事はあった訳だからね。それに、僕は昨日あの人の心を顛動させて遣ったように思うんだよ。」
 彼がスクルージの心を顛倒させたなぞと云うのが可笑しいと云って、今度は一同が笑い番になった。が、彼は心の底から気立ての好い人で、とにかく彼等が笑いさえすれば何を笑おうと余り気に懸けていなかったので、自分も一緒になって笑って一同の哄笑[#「哄笑」は底本では「洪笑」]を励ますようにした。そして、愉快そうに瓶を廻わした。
 お茶が済んでから、一同は二三の音楽をやった。と云うのは、彼等は音楽好きの一家であったから。そして、グリーやキャッチを唄った時には、仲々皆手に入ったものであった。殊にトッパーは巧妙な唄い手らしく最低音で唸って退けたものだが、それを唄いながら、格別前額に太い筋も立てなければ顔中真赧になりもしなかった。スクルージの姪は竪琴を上手に弾いた。そして、いろいろな曲を弾いた中に、一寸した小曲(ほんの詰らないもの、二分間で覚えてさっさと口笛で吹かれそうなもの)を弾いたが、これはスクルージが過去の聖降誕祭の精霊に依って憶い出させて貰った通りに、寄宿学校からスクルージを連れに帰ったあの女の子が好くやっていたものであった。この一節が鳴り渡ったとき、その精霊がかつて彼に示して呉れたすべての事柄が残らず彼の心に浮んで来た。彼の心はだんだん和いで来た。そして、数年前に幾度かこの曲を聴くことが出来たら、彼はジェコブ・マアレイを埋葬した寺男の鍬に頼らずして、自分自身の手で自分の幸福のために人の世の親切を培い得たかも知れなかったと考えるようになった。
 が、彼等も専ら音楽ばかりして、その夜を過ごしはしなかった。暫時すると、彼等は罰金遊びを始めた。と云うのは、時には子供になるのも好い事であるからである。そして、それには、その偉大なる創立者自身が子供であるところからして、聖降誕祭の時が一番好い。まあ、お待ちなさい。まず第一には目隠し遊びがあった。もちろんあった。私はトッパーがその靴に眼を持っていたと信じないと同様にまったくの盲目(めくら)であるとは信じない。私の意見では、彼とスクルージの甥との間にはもう話は済んでいるらしい。そして、現在の聖降誕祭の精霊もそれを知っているのである。彼がレースの半襟を掛けた肥った方の妹を追い廻わした様子というものは、誰も知らないと思って人を馬鹿にしたものであった。火箸や十能に突き当たったり、椅子を引っくり返したり、洋琴に打っ突かったり、窓帷幄に包まって自分ながら呼吸が出来なくなったりして、彼女の行く所へはどこへでも随いて行った。彼はいつでもその肥った娘がどこに居るかを知っていた。彼は他の者は一人も捕へようとしなかった。若し諸君がわざと彼に突き当りでもしようものなら(彼等の中には実際やったものもあった)、彼も一旦は諸君を捕まえようと骨折っているような素振りをして見せたことであろうが、――それは諸君の理性を侮辱するものであろう、――直ぐにまたその肥った娘の方へ逸れて行ってしまったものだ。彼女はそりゃ公平でないと幾度も呶鳴った。実際それは公平でなかった。が、到頭彼は彼女を捕まえた。そして、彼女が絹の着物をさらさらと鳴らせたり、彼を遣り過ごそうとばたばた藻掻いたりしたにも係らず、彼は逃げ場のない片隅へ彼女を追い込めてしまった。それからあとの彼の所行というものは全く不埒千万なものであった。と云うのは、彼が自分に相手の誰であるかが分からないと云うような振りをしたのは、彼女の頭飾りに触って見なけりゃ分らない、いや、そればかりでなく、彼女の指に嵌めた指環だの頸の周りにつけた鎖だのを抑えて見て、やっと彼女であることを確かめる必要があるような振りをしたのは、卑劣とも何とも言語道断沙汰の限りであった。他の鬼が代ってその役に当っていたとき、二人は帷幄の背後で大層親密にひそひそと話しをしていたが、彼女はその事に対する自分の意見を聞かせたに違いない。
 スクルージの姪はこの目隠し遊びの仲間には入らないで、居心地のよい片隅に大きな椅子と足台とで楽々と休息していた。その片隅では精霊とスクルージとが彼女の背後に近く立っていた。が、彼女は罰金遊びには加わった。そして、アルファベット二十六文字残らずを使って自分の愛の文章を見事に組み立てた。同じようにまた『どんなに、いつ、どこで』の遊びでも彼女は偉大な力を見せた。そして、彼女の姉妹達もトッパーに云わしたら、随分敏捷な女どもには違いないが、その敏速な女どもを散々に負かして退けた。それをまたスクルージの甥は内心喜んで見ていたものだ。若い者年老った者、合せて二十人位はそこに居たろうが、彼等は皆残らずそれをやった。そして、スクルージもまたそれをやった。と云うのは、彼も今(自分の前に)行われていることの興味に引かれて、自分の声が彼等の耳に何等の響も持たないことをすっかり忘れて、時々大きな声で自分の推定を口にした。そして、それがまた中々好く中ったものだ。何故ならば、めど切れがしないと保険附きのホワイトチャペル製の一番よく尖った針でも、ぼんやりだと自分で思い込んでいるスクルージほど鋭くはないのだから。
 こう云う気分で彼がいたのは、精霊には大層気に適ったらしい。で、彼はお客が帰ってしまうまでここに居させて貰いたいと子供のようにせがみ出したほど、精霊は御機嫌の好い体で彼を見詰めていた。が、それは罷りならぬと精霊は云った。
「今度は新しい遊戯で御座います」と、スクルージは云った。「半時間、精霊殿、たった半時間!」
 それは Yes and No と云う遊戯であった。その遊戯ではスクルージの甥が何か考える役になって、他の者達は、彼が彼等の質問に、それぞれその場合に応じて、Yes とか No とか返辞をするだけで、それが何であるかを云い当てることになった。彼がその衝に当って浴びせられた、てきぱきした質問の銃火は、彼からして一つの動物について考えていることを誘(おび)き出した。それは生きている動物であった、何方かと云えば不快(いや)な動物、獰猛な動物であった、時々は唸ったり咽喉を鳴らしたりする、また時には話しもする、倫敦(ロンドン)に住んでいて、街も歩くが、見世物にはされていない、また誰かに引廻わされている訳でもない、野獣苑の中に住んで居るのでもないのだ、また市場で殺されるようなことは決してない、馬でも、驢馬でも、牝牛でも、牡牛でも、虎でも、犬でも、豚でも、猫でも、熊でもないのだ。新らしい質問が掛けられる度に、この甥は新にどっと笑い崩れた、長椅子から立ち上って床(ゆか)をドンドン踏み鳴らさずに居られないほどに、何とも云いようがないほどくすぐられて面白がった。が、とうとう例の肥った娘が同じように笑い崩れながら呶鳴った。――
「私分かりましたわ! 何だかもう知っていますよ、フレッド! 知っていますよ。」
「じゃ何だね?」と、フレッドは叫んだ。
「貴方の伯父さんのね、スクル――ジさん!」
 確かにその通りであった。一同はあっと感嘆これを久しゅうした。でも、中には「熊か」と訊いた時には、「然り」と答えられべきものであった。「否」と否定の返辞をされては、折角その方へ気が向き掛けていたとしても、スクルージ氏から他の方へ考えを転向させるに十分であったからねと抗議した者もあるにはあった。
「あの人は随分僕達を愉快にしてくれましたね、本当によ」とフレッドは云った。「それであの人の健康を祝って上げないじゃ不都合だよ。ちょうど今手許に薬味を入れた葡萄酒が一瓶あるからね。さあ、始めるよ、『スクルージ伯父さん!』」
「宜しい! スクルージの伯父さん!」と、彼等は叫んだ。
「あの老人がどんな人であろうが、あの人にも聖降誕祭お目出度う、新年お目出度う!」と、スクルージの甥は云った。「あの人は僕からこれを受けようとはしないだろうが、それでもまあ差し上げましょうよ、スクルージの伯父さん!」
 スクルージ伯父は人には知らないままで気も心も浮々と軽くなった。で、若し精霊が時間を与えてくれさえしたら、今の返礼として自分に気の附かない一座のために乾盃して、誰にも聞えない言葉で彼等に感謝したことであろう。が、その全場面は、彼の甥が口にした最後の一語がまだ切れない間に掻き消されてしまった。そして、彼と精霊とはまたもや旅行の途に上った。
 彼等は多くを見、遠く行った。そして、いろいろな家を訪問したが、いつも幸福な結果に終った。精霊が病床の傍に立つと、病人は元気になった。異国に行けば、人々は故郷の近くにあった。悶え苦しんでいる人の傍に行くと、彼等は将来のより大きな希望を仰いで辛抱強くなった。貧困の傍に立つと、それが富裕になった。施療院でも、病院でも、牢獄でも、あらゆる不幸の隠棲(かくれが)において、そこでは虚栄に満ちた人が自分の小さな果敢ない権勢をたのんで、しっかり戸を閉めて、精霊を閉め出してしまうようなことがないからして、彼はその祝福を授けて、スクルージにその教訓を垂れたのであった。
 これが只の一夜であったとすれば、随分長い夜であった。が、スクルージはこれについて疑いを抱いていた。と云うのは、聖降誕祭の祭日全部が自分達二人で過ごして来た時間内に圧縮されてしまったように見えたからである。また不思議なことには、スクルージはその外見が依然として変らないでいるのに、精霊は段々年を取った、眼に見えて年を取って行った。スクルージはこの変化に気が附いていたが、決して口に出しては云わなかった。が、到頭子供達のために開いた十二夜会(註、聖降誕祭から十二日目の夜お別れとして行うもの。)を出た時に、二人は野外に立っていたので、彼は精霊を見遣りながら、その毛髪が真白になっているのに気が附いた。
「精霊の寿命はそんなに短いものですか?」と、スクルージは訊ねた。
「この世における俺(わし)の生命は極くみじかいものさ」と、精霊は答えた。「今晩お仕舞いになるんだよ。」
「今晩ですって!」と、スクルージは叫んだ。
「今晩の真夜中頃だよ。お聴き! その時がもう近づいているよ。」
 鐘の音はその瞬間に十一時四十五分を報じていた。
「こんな事をお訊ねして、若し悪かったらなにとぞ勘弁して下さい」と、スクルージは精霊の着物を一心に見詰めながら云った。「それにしても、何かへんてこな、貴方のお身の一部とは思われないようなものが、裾から飛び出しているようで御座いますね。あれは足ですが、それとも爪ですか。」
「そりゃ爪かも知れないね、これでもその上に肉があるからね。」と云うのが精霊の悲しげな返辞であった。「これを御覧よ。」
 精霊はその着物の襞の間から、二人の子供を取り出した。哀れな、賤しげな、怖ろしい、ぞっとするような、悲惨(みじめ)な者どもであった。二人は精霊の足許に跪いて、その着物の外側に縋り着いた。
「おい、こらッ、これを見よ! この下を見て御覧!」
 彼等は男の児と女の児とであった。黄色く、瘠せこけて、ぼろぼろの服装をした、顔を蹙めた、欲が深そうな、しかも自屈謙遜して平這(へたば)っている。のんびりした若々しさが彼等の顔をはち切れるように肥らせて、活き活きした色でそれを染めるべきところに、老齢のそれのような、古ぼけた皺だらけの手がそれをつねったりひねったりして、ずたずたに引裂いていた。天使が玉座についても可いところに、悪魔が潜んで、見る者を脅し附けながら白眼(にら)んでいた。不可思議なる創造のあらゆる神秘を通じて、人類のいかなる変化も、いかなる堕落も、いかなる逆転も、それがいかなる程度のものであっても、この半分も恐ろしい不気味な妖怪を有しなかった。
 スクルージはぞっとして後退(あとずさ)りした。こんな風にして子供を見せられたので、彼は綺麗なお子さん達ですと云おうとしたが、言葉の方で、そんな大それた嘘の仲間入りをするよりはと、自分で自分を喰い留めてしまった。
「精霊殿、これは貴方のお子さん方ですか。」スクルージはそれ以上云うことが出来なかった。
「これは人間の子供達だよ」と、精霊は二人を見下ろしながら云った。「彼等は自分達の父親を訴えながら、俺に縋り着いているのだ。この男児は無知である。この女児は欠乏である。彼等二人ながらに気を附けよ、彼等の階級のすべての者を警戒せよ。が、特にこの男の子に用心するがいい、この子の額には、若しまだその書いたものが消されずにあるとすれば、『滅亡』とありあり書いてあるからね。それを否定して見るがいい!」と、精霊は片手を町の方へ伸ばしながら叫んだ。「そして、それを教えてくれる者をそしるがいい。それでなければ、お前の道化た目的のためにそれを承認するがいい。そして、そしてそれを一層悪いものにするがいい! そして、その結果を待っているがいい!」
「彼等は避難所も資力も持たないのですか」と、スクルージは叫んだ。
「監獄はないのかね」と、精霊は彼自身の云った言葉を繰返しながら、これを最後に彼の方へ振り向いて云った。「共同授産場はないのかな。」
 鐘は十二時を打った。
 スクルージは周囲を見廻わしながら精霊を捜したが、見当らなかった。最後の鐘の音が鳴り止んだ時、彼は老ジェコブ・マアレイの予言を想い出した。そして、眼を挙げながら、地面に沿って霧のように彼の方へやって来る、着物を着流して、頭巾を被った厳かな幻影を見た。

   第四章 最後の精霊

 幽霊は徐々に、厳かに、黙々として近づいて来た。それが彼の傍に近く来た時、スクルージは地に膝を突いた。何故ならば、精霊は自分の動いているその空気中へ陰鬱と神秘とを振り撒いているように思われたからである。
 精霊は真黒な衣に包まれていた。その頭も、顔も、姿もそれに隠されて、前へ差し伸べた片方の手を除いては、何にも眼に見えるものとてなかった、この手がなかったら、夜からその姿を見別けることも、それを包囲している暗黒からそれを区別することも困難であったろう。
 彼はそれが自分の傍へ来た時、その精霊の背が高く堂々としていることを感じた。そして、そう云う不可思議なものがそこに居ると云うことのために、自分の心が一種厳粛な畏怖の念に充されたのを感じた。それ以上は彼も知らなかった。と云うのは、精霊は口も利かなければ、身動きもしなかったから。
「私はこれから来る聖降誕祭の精霊殿のお前に居りますので?」と、スクルージは云った。
 精霊は返辞をしないで、その手で前の方を指した。
「貴方はこれまでは起らなかったが、これから先に起ろおうとしている事柄の幻影を私に見せようとしていらっしゃるので御座いますね」と、スクルージは言葉を続けた。「そうで御座いますか、精霊殿?」
 精霊が頭を傾(かし)げでもしたように、その衣の上の方の部分はその襞の中に一瞬間収縮した。これが彼の受けた唯一の返辞であった。
 スクルージもこの頃はもう大分幽霊のお相手に馴れていたとは云え、この押し黙った形像に対しては脚がぶるぶる顫えたほど恐ろしかった。そして、いざこれから精霊の後に随いて出て行こうと身構えした時には、どうやら真直(まっすぐ)に立ってさえいられないことを発見した。精霊も彼のこの様子に気が附いて、少し待って落ち着かせて遣ろうとでもするように、一寸立ち停まった。
 が、スクルージはこれがためにますます具合が悪くなった。自分の方では極力眼を見張って見ても、幽霊の片方の手と一団の大きな黒衣の塊の外に何物をも見ることが出来ないのに、あの薄黒い経帷子の背後では、幽霊の眼が自分をじっと見詰めているのだと思うと、漠然とした、何とも知れない恐怖で身体中がぞっとした。
「未来の精霊殿!」と、彼は叫んだ。「私は今までお目に懸かった幽霊の中で貴方が一番怖ろしゅう御座います。しかし貴方の目的は私のために善い事をして下さるのだと承知して居りますので、また私も今までの私とは違った人間になって生活したいと望んで居りますので、貴方のお附合をする心得で居ります、それも心から有難く思ってするので御座います。どうか私に言葉を懸けて下さいませんでしょうか。」
 精霊は何とも彼に返辞をしなかった。ただその手は自分達の前に真直に向けられていた。
「御案内下さい!」と、スクルージは云った。「さあ御案内下さい! 夜はずんずん経ってしまいます。そして、私に取っては尊い時間で御座います。私は存じています。御案内下さい、精霊殿!」
 精霊は前に彼の方へ近づいて来た時と同じように動き出した。スクルージはその著物の影に包まれて後に随いて行った。彼はその影が自分を持ち上げて、ずんずん運んで行くように思った。
 二人は市内へ這入って来たような気がほとんどしなかった、と云うのは、むしろ市の方で二人の周囲に忽然湧き出して、自ら進んで二人を取り捲いたように思われたからである。が、(いずれにしても)彼等は市の中心にいた。すなわち取引所に、商人どもの集っている中にいた。商人どもは忙しそうに往来したり、衣嚢の中で金子をざくざく鳴らせたり、幾群れかになって話しをしたり、時計を眺めたり、何やら考え込みながら自分の持っている大きな黄金の刻印を弄(いじ)ったりしていた。その他スクルージがそれまでによく見掛たような、いろいろな事をしていた。
 精霊は実業家どもの小さな一群の傍に立った。スクルージは例の手が彼等を指差しているのを見て、彼等の談話を聴こうと進み出た。
「いや」と、恐ろしく頤の大きな肥った大漢が云った。「どちらにしても、それについちゃ好くは知りませんがね。ただあの男が死んだってことを知っているだけですよ」
「いつ死んだのですか」と、もう一人の男が訊ねた。
「昨晩だと思います。」
「だって、一体いかがしたと云うのでしょうな?」と、またもう一人の男が非常に大きな嗅煙草の箱から煙草をうんと取り出しながら訊いた。「あの男ばかりは永劫死にそうもないように思ってましたがね。」
「そいつは誰にも分りませんね」と、最初の男が欠呻まじりに云った。
「一体あの金子はいかがしたのでしょうね?」と、鼻の端に雄の七面鳥のえらのような瘤をぶらぶら下げた赤ら顔の紳士が云った。
「それも聞きませんでしたね」と、頤の大きな男がまた欠呻をしながら云った、「恐らく同業組合の手にでも渡されるんでしょうよ。(とにかく)私には遺して行きませんでしたね。私の知っているのはこれっきりさ。」
 この冗談で一同はどっと笑った。
「極く安直(あんちょく)なお葬(とむらい)でしょうな」と、同じ男が云った。「何しろ会葬者があると云うことは全然(まるで)聞かないからね。どうです、我々で一団体つくって義勇兵になっては?」
「お弁当が出るなら行っても可いがね」と、鼻の端に瘤のある紳士は云った。「だが、その一人になるなら、喰わせるだけは喰わせて貰わなくっちゃね。」
 一同また大笑いをした。
「ふうむ、して見ると、諸君のうちでは結局僕が一番廉潔なんだね」と、最初の話手は云った。「僕はこれまでまだ一度も黒い手嚢を嵌めたこともなければ、お葬礼の弁当を喫べたこともないからね。しかし誰か行く者がありゃ、僕も行きますよ。考えて見れば、僕は決してあの人の一番親密な友人でなかったとは云えませんよ。途で会えば、いつでも立ち停って話しをしたものですからね。や、いずれまた。」
 話手も聴手もぶらぶら歩き出した。そして、他の群へ混ってしまった。スクルージはこの人達を知っていた。で、説明を求めるために精霊の方を見遣った。
 幽霊はだんだん進んである街の中へ滑り込んだ。幽霊の指は立ち話しをしている二人の人を指した。スクルージは今の説明はこの中にあるのだろうと思って、再び耳を傾けた。
 彼はこの人達もまたよく知り抜いていた。彼等は実業家であった。大金持で、しかも非常に有力な。彼はこの人達からよく思われようと始終心掛けていた。つまり商売上の見地から見て、厳密に商売上の見地から見て、よく思われようと云うのである。
「や、今日は?」と、一人が云った。
「や、今日は?」と、片方が挨拶した。
「ところで」と、最初の男が云った。「彼奴もとうとうくたばりましたね、あの地獄行きがさ。ええ?」
「そうだそうですね」と、相手は返辞をした。「随分お寒いじゃありませんか、ええ?」
「聖降誕祭の季節なら、これが順当でしょう。時に貴方は氷滑りをなさいませんでしたかね。」
「いえ、いいえ。まだ他に考えることがありますからね。左様なら!」
 このほかに一語もなかった。これがこの二人の会見で、会話で、そして別れであった。
 最初スクルージは精霊が外見上こんな些細な会話に重きを置いているのにあきれかえろうとしていた。が、これには何か隠れた目算があるに違いないと気が附いたので、それは多分何であろうかとつくづく考えて見た。あの会話が元の共同者なるジェコブの死に何等かの関係があろうとはどうも想像されない、と云うのは、それは過去のことで、この精霊の領域は未来であるから。それかと云って、自分と直接関係のある人で、あの会話の当て嵌まりそうな者は一人も考えられなかった。しかし何人にそれが当て嵌まろうとも、彼自身の改心のために何か隠れた教訓が含まれていることは少しも疑われないので、彼は自分の聞いたことや見たことは一々大切に記憶えて置こうと決心した。そして、自分の影像が現われたら、特にそれに注意しようと決心した。と云うのは、彼の未来の姿の行状が自分の見失った手掛りを与えてくれるだろうし、またこれ等の謎の解決を容易にしてくれるだろうと云う期待を持っていたからである。
 彼は自分の姿を求めて、その場で四辺を見廻わした、が、自分の居馴れた片隅には他の男が立っていた。そして、時計は自分がいつもそこに出掛けている時刻を指していたけれども、玄関から流れ込んで来る群衆の中に自分に似寄った影も見えなかった。とは云え、それはさして彼を驚かさなかった。何しろ心の中に生活の一変を考え廻らしていたし、またその変化の中では新たに生れた自分の決心が実現されるものと考えてもいたし、望んでもいたからである。
 静かに黒く、精霊はその手を差し伸べたまま彼の傍に立っていた。彼が考えに沈んだ探究から眼を覚ました時、精霊の手の向き具合と自分に対するその位置から推定して、例の見えざる眼は鋭く自分を見詰めているなと思った。そう思うと、彼はぞっと身顫いが出て、ぞくぞく寒気がして来た。
 二人はその繁劇な場面を捨てて、市中の余り人にも知られない方面へ這入り込んで行った。スクルージも兼てそこの見当も、またこの好くない噂も聞いてはいたが、今までまだ一度も足を踏み入れたことはなかった。その往来は不潔で狭かった。店も住宅もみすぼらしいものであった。人々は半ば裸体で、酔払って、だらしなく、醜くかった。路地や拱門路からは、それだけの数の下肥溜めがあると同じように、疎らに家の立っている街上へ、胸の悪くなるような臭気と、塵埃と、生物とを吐き出していた。そして、その一廓全体が罪悪と汚臭と不幸とでぷんぷん臭っていた。
 このいかがわしい罪悪の巣窟の奥の方に、葺卸屋根の下に、軒の低い、廂の出張った店があって、そこでは鉄物や、古襤褸や、空壜、骨類、脂のべとべとした腸屑(わたくず)などを買入れていた。内部の床の上には、銹ついた鍵だの、釘だの、鎖だの、蝶番いだの、鑪だの、秤皿だの、分銅だの、その他あらゆる種類の鉄の廃物が山の様に積まれてあった。何人も精査することを好まないような秘密が醜い襤褸の山や、腐った脂身の塊りや、骨の墓場の中に育まれかつ隠されていた。古煉瓦で造った炭煖炉を傍にして、七十歳に近いかとも思われる白髪の悪漢が自分の売買する代物の間に坐り込んでいた。この男は一本の綱の上に懸け渡した種々雑多な襤褸布を穢(むさ)くるしい幕にして、戸外の冷たい風を防いでいた。そして、穏やかな隠居所にぬくぬく暖まりながら、呑気に烟草を喫(ふ)かしていた。
 スクルージと精霊とがこの男の前に来ると、ちょうどその時一人の女が大きな包みを持って店の中へこそこそと這入り込んで来た。が、その女がまだ這入ったか這入り切らぬうちに、もう一人の女が同じように包みを抱えて這入って来た。そして、この女のすぐ後から褪(は)げた黒い服を来た一人の男が随いて這入った。二人の女も互に顔見合せて吃驚したものだが、この男は二人を見て同じように吃驚した。暫時は、煙管を啣えた老爺までが一緒になって、ぽかんとあきれ返っていたが、やがて三人一緒にどっと笑い出した。
「打捨(うっちゃ)って置いても、どうせ日傭い女は一番に来るのだ」と、最初に這入って来た女は叫んだ。「どうせ二番目には洗濯婆さんが来るのだ、それから三番目にはどうせ葬儀屋さんがやって来るのさ。ちょっと、老爺さん、これが物の拍子と云うものだよ。ああ三人が揃いも揃って云い合せたようにここで出喰わすとはねえ!」
「お前方は一番好い場所で出会ったのさ」と、老ジョーは口から煙管(パイプ)を離しながら云った。「さあ居間へ通らっしゃい。お前はもうずっと以前から一々断らないでもそこへ通られるようになっているんだ。それから自余(あと)の二人も満更知らぬ顔ではない。まあ待て、俺が店の戸を閉めるまでよ。ああ、何と云うきしむ戸だい! この店にも店自身に緊着(くっつ)いてるこの蝶番いのように錆びた鉄っ片れは他にありゃしねえよ、本当にさ。それにまた俺の骨ほど古びた骨はここにもないからね。ははは! 俺達は皆この職業(しょうばい)に似合ってるさ、まったく似合いの夫婦と云うものだね。さあ居間へお這入り。
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