高尾ざんげ
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著者名:豊島与志雄 

 ひしと胸にせまる悲しさを懐いて、菊千代は何の喜びもなく杉茂登のいつもの室にはいってゆきました。
 檜山はへんに酔っぱらって寝そべっていました。
「やはり、歩いて来たの。」
「ええ。」
 にっこり笑おうとしたのが、頬にこびりついてしまって、菊千代は項垂れました。
「ちょっと、そのまま立っておいでよ。」
 腑に落ちないで佇んでる菊千代の足先を、いきなり、檜山は両腕に抱きかかえて胸に頬に押しあてました。
「あら、そんなこと……。」
 折り重なって倒れたのを、檜山はたすけ起して、自分もきちっと端坐しました。
「君の足に感謝したんだよ。僕はどうしても、君と別れられそうもない。」
「そんなら……。」
 言いかけて菊千代はやめました。やはり、檜山も別れることを考え悩んでいたのでしょう。けれどその時、檜山は眼を異様に光らして、別な意味にとりました。
「ねえ、死ぬ気かい。」
 菊千代は頭を振りました。
「こんどは、生きるのよ。」
「こんど……。」
「二階から飛びおりたり、船を焼きすてたりして、もう死んだのよ。だから、こんどは……。」
「それもよかろう。」
 から元気か本当の元気か、そのけじめもつかない気持ちで、二人は酒を飲みはじめました。話もとぎれて、気がめいりそうなので、菊千代は小唄を口ずさんで微笑しましたが、ふと、清香さんを呼んでみる気になりました。
 清香が来るのを待つ間に、菊千代は檜山に劣らず酒をあおり、酒の勢いで梅葉姐さんからの話をしてみました。
「誰がそんなことを考えたんだい。」
「だから、梅葉姐さんよ。」
 檜山は両手で頭をかかえて、卓上に眼を据えました。まるで殴られでもしたかのようでした。
「だけど、そんなことになったら、なんだか違うわね。」
「なにが……。」
「今と違うわ。」
「そりゃあ、違うけれど……。」
「その方がいいの。」
「よくはないよ。だけど、ためしに、半月ばかりやってみるか。」
「ためしに半月ばかり……。」
「いや、一週間でよかろう。僕もついていくよ。」
「ほんとに行きましょうか。」
 然しそれが、温泉へ遊びに行くのか、生活を立て直しに行くのか、まだはっきりしないうちに、菊千代は突然、胸がつまって涙を落しました。
「え、どうしたの。」
 檜山は菊千代の手を執りました。菊千代はその手を握り返してにっこり笑いました。
「もっと飲みましょうよ。」
 そして、清香が来た時には、菊千代はもうすっかり酔っていました。
「あたし酔ってるのよ。あんたも酔いなさい。」
 清香は善良な笑みを浮べました。
「たいそうな元気ね。」
「そうよ。酔ってもね、気は確かよ。」
 菊千代はふらふらと立ち上りました。
「心は確かよ。」
 そのまま出て行って、暫くすると、三味線をかかえた女中を連れて戻ってきました。
「あんた弾いてよ。あたし踊るから。」
 爪弾きで、『高尾ざんげ』を清香は弾きだしました。
「はや持来ぬと……あすこからでいいわ。」
 枕屏風を塚に見立てて、菊千代は高尾の霊になりました。するりとはいりこむことが出来たのを、自分でも感じて、振りが自在に運びました。細長い眼が心持ちつり上り、頬の肉が痛そうなまでに引き緊り、上体も足もすらりと伸びて弾性をもって撓みました……。そして踊りぬいて、中途で息を切らし、そこに屈みこんでしまいました。
「もういいわ。」大きく息をつきました「分ったわ。生き身を捨てた気持ち、分ったわ。」
 いつまでも凝視し続けてる檜山の前に来て、菊千代は淋しそうに微笑みました。
「熱海のこと、大丈夫よ。ね、分って下さる。分ったら、もっと飲まして。」
 清香は怪訝な面持ちで、二人に酌をしてやりました。

 それから一ヶ月ほど後、菊千代は正式に芸妓の廃業をして、熱海へ引き移りました。家は梅葉姐さんの持ち物で、こじんまりした洒落た構えでした。万事のこと梅葉姐さんが世話してくれて、小女を一人使い、長唄と踊りの手ほどきに出稽古をすることになりました。

 それからまた一ヶ月ほどたった頃、ちょっと、檜山がやって来ました。互にまじまじと顔と顔を見合ったほど、なんだか二人とも変っていました。菊千代はいくらか肥って健康そうになり、そのくせどこか老いこんだ様子に見えました。檜山は少し痩せて、その代り精力的な様子に見えました。
 檜山は旅館へ案内されるものと思っていましたが、菊千代の住居の方へ連れてゆかれました。
「あたしの旦那ってことになってるのよ。宿屋なんかに行くより、その方が、人目にもつかないし、あたしの貫祿……おかしいわね、梅葉姐さんそう言ったわ……貫祿のためにいいんですって。」
 梅葉姐さんの配慮が、幾重にも菊千代を包みこんでいるようでした。
 然し、その菊千代の住居の座敷、各種の箪笥や鏡や人形やこまごました什器類が数えきれないほど沢山、しかもそれぞれ処を得て、置き並べてある中に、檜山は招じこまれて、なんだか自分だけが余計なもののように感ぜられました。家具什器に対してばかりでなく、菊千代の生活にとっても、自分だけが余計なもののように感じられました。
 その思いが、いろいろな話の間にも消えないで、檜山は突然言いました。
「君の生活がりっぱにうち立てられたせいか、ここにいると、僕はなんだか余計者だって気がするよ。」
 菊千代はちょっと淋しそうな顔をしました。
「あたしの方こそそうなの。せめて、お便りだけでも自由に出来るといいわ。山田さんを通してでは、なんだか頼りないし、遠慮もあるし……。」
 言いさして、菊千代は意外にもにっこり笑いました。
「でも、それでいいの。あんまり自由だと却って長続きがしないんですって。」
「梅葉さんが言ったのかい。」
 菊千代は笑って、戸棚からウイスキーの瓶を取り出しました。
「感心でしょう。口も開けないであるのよ。」
 二三杯のんで、そして二人で海辺へ散歩に出ました。残照がまだ明るく海の上に映えて、初島がたいへん近く見え、その先は茫漠と暮れかけていました。




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