高尾ざんげ
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著者名:豊島与志雄 

 杉茂登で、檜山さん一人と聞くと、菊千代は階段を駆け上ってゆきました。
 息を切らして、挨拶もせず、卓上に両前腕をついて、眼をつぶりました。
 僅かな埋め火の炬燵に足を差し入れたまま檜山は黙っていました。菊千代が細そり眼を開くと、檜山は眉根に皺を寄せて、思いを遠くへやってるようでした。菊千代は大きく眼を開いて、吐息をつきました。
「遅くなって、御免なさい。でも、ほんとに、雪を蹴立てて駆けつけてきたのよ。」
「まだ降ってるの。」
「降った方がいいわね。雪見酒、今夜はあたしにも飲まして頂戴。」
 日本酒とウイスキーとのちゃんぽんには、体が温まるのか冷えるのか分りませんでした。銚子を持って来た女中に、菊千代はウイスキーの瓶をさげさせようとしました。檜山はそれを遮りました。
「身体には毒でも、精神には薬さ……飲んでしまうことがね。」
 終戦間際に、も少しのところで、檜山は北京へ行くことになっていました。東京在住の或る有力な回教徒に連絡がついており、それと同行して北京へ行き、蒙古から北支へかけての回数徒等に、特殊な働きかけをなす予定だったのです。上層部の講和運動、本土決戦の一般宣言など、後に明らかになった支離滅裂な動きのなかの小さな一つに、その回教徒工作がありました。回教徒の解放独立という純真な主旨だけ抽出して、それに尽力しようとした檜山は、終戦後次第に暴露されてゆく当時の日本の現実にすっかり圧倒されてしまいました。その上、北京行きの手当の金の一部を、既に彼は受け取っていまして、それは返還の仕方がない事情にありました。なお、多量のウイスキーまで分与されていました。それらのものを、彼は杉茂登で消費にかかったのでした。――そういうことを、檜山はしみじみと語りました。
「君によく分るまいけれど、男の世界というものは、浅間しいものさ。」
「そうでもないわ。檜山さんのお気持ち、立派だったと思うわ。」
「どこが立派だい。ばかばかしい。金はもう殆んど使ってしまったが、酒はまだ残ってるらしい。使いはたし、飲みつくして……。」
「それから、どうなさるの。」
「それが、危いものさ。」
 気弱に言いながら、檜山は眼鏡の奥からへんに眼をぎらぎら光らして、菊千代を見つめました。毒気……とも言えるものを菊千代は感じて、ちょっと身を退きかけましたが、瞬間、別な力に引き戻される心地で、それを、ウイスキーの瓶に踏み止めました。
「そんなら、飲んでおしまいなさいよ。あたしもすけてあげるわ。」
「飲めなかったら、打ち割るまでさ。」
 床の間に、花は活けずにただ青銅の花瓶が置いてありました。それをめがけて、檜山は酒瓶を振りあげました。とたんに、菊千代は両袖でその手首を抱きかかえました。
「ばかだね、身振りだけしてみたんだよ。」
「あたしも、お芝居をしてみたのよ。」
 なにか面はゆく、菊千代は立って硝子戸を開けました。月はないのに仄明るく、いつしか雪が降りだしていました。
「また降ってきたね。」
 返事がないので、振り向いてみますと、檜山は涙ぐんで眼をしばたたいていました。菊千代は驚いて、席に戻りましたが、言葉が出ませんでした。大きな感動に似たもので、頭がふらふらしました。
「僕は、どうも駄目らしい」
 ぽつりと言われたのへ、菊千代は押っ被せました。
「檜山さん、眼をつぶって二階から飛び降りる……そんなこと、考えなすったことがあって……。」
 檜山はうるんだ眼で、菊千代を眺めました。
「あたし、ほんとに酔っ払うわ。どうなっても知らないわよ。」
 菊千代は立ち上って、あわただしく階下へおりてゆき、帳場にいるお上さんのそばに、ぴたりと坐りました。
「お上さん、お願いよ。今晩、お頼みするわ。検番ぬきに、あたしもお客さんなみにね。」
 お上さんはゆっくり頷きながら、小首をかしげて、菊千代の様子をじっと眺めました。
「それから、お銚子をどうぞ。」
 事務的な調子で言い捨てて、菊千代は二階へ足早にのぼってゆきました。

 檜山と菊千代との仲は、急に深くなってゆきました。スケート・リンクの真中に足がかりが出来たようなものでしたが、それも、あちこちへ滑りだす危険が無くなったというだけのことで、踏んまえた場所がずるずると深く沈んでゆく感じでした。
 檜山の親友の山田さんの話では、檜山は少しずつ勉強を始めたようでしたが、まだ全く本気にはなれないでいるとのことでした。菊千代の方では、他のお座敷に出ることがひどくばかばかしくなってきました。それに丁度、預金の支払制限と封鎖、流通紙幣の新旧切替えとなり、杉茂登にも二人名義の不義理が重なってゆきました。檜山は多少の株券を売却し、大切な蔵書にも手をつけかけてる様子でしたが、外泊が度重なるにつれて、妻子のある家庭では紛議がもちあがりかけてるようでした。菊千代の方でも、梶さんの一種の戦死のあとのことゝて、さすがに朋輩間の蔭口も聞き捨てにならぬものがありました。新小松の菊千代といえば、相当に意気と張りとで立ったもう姐さん株でありましたが、その沽券も崩れかけてきたようなひがみ心が、彼女自身のうちに芽を出しかけてきました。そこへまた、熱海で堅気になってる梅葉姐さんから、熱海へ戻って来ないかと熱心な勧誘がありました。――東京の焼け残りの狭い家に、幾人ものひとたちと同居してるよりは、熱海の静かな家に住んだ方がよかろうということ、どうせ花柳界はまた閉鎖になる運命にあるらしいこと、熱海には今のところ、長唄と踊りの適当な師匠がないので、菊千代が来てくれれば、皆が喜ぶだろうし、長唄を教え踊りの手ほどきなどして、充分に生活も出来るだろうということ……。梅葉姐さんは東京まで出て来て菊千代に説きました。
「あの、先生とのことも聞きましたよ。だけど、末長く続くものでもありますまい。それとも、別れられないというのなら、熱海にいても、逢えるではありませんか。芸者稼業なんかより、遊芸の師匠の方がりっぱでよくはありませんか。田舎のお母さんや兄さんたちも、その方を喜んで下さるに違いありませんよ。」
 菊千代は長い間うつむいていましたが、やがてきっぱりと眼を挙げて答えました。
「よく分ったわ。もうちょっと、考えさしてね。」
 然し、考えることなどありませんでした。ただ気持ちの問題だけでした。眼をつぶって二階から飛びおりたようなあの気持ち、それをどうすればよいのでしょう。また、檜山さんは或る時、船を焼くという話をしたことがありました。昔のこと、遠い国のこと、知らない土地を占領に出かけた勇敢な人々は、海を渡って来た自分の船をそこで焼き捨てて、帰りの退路を自分で絶ち切ってしまったとか。それと同じ気持ちだと檜山さんは言いました。その檜山さんの気持ちをどうすればよいのでしょう。
 菊千代はその頃、俥が嫌いになって、はでなお座敷着でないのを幸に、考えながら歩いて杉茂登へ行きました。堀割の水に灯がちらほら映っているのを、我知らず足を止めて眺め入ることもありました。すぐ向うは焼け跡で、五月の青草の匂いが風に乗ってきました。戦争はもう遠い過去に追いやられていましたが、しかし、あとには、ただむなしい空虚が残っていました。
 ひしと胸にせまる悲しさを懐いて、菊千代は何の喜びもなく杉茂登のいつもの室にはいってゆきました。
 檜山はへんに酔っぱらって寝そべっていました。
「やはり、歩いて来たの。」
「ええ。」
 にっこり笑おうとしたのが、頬にこびりついてしまって、菊千代は項垂れました。
「ちょっと、そのまま立っておいでよ。」
 腑に落ちないで佇んでる菊千代の足先を、いきなり、檜山は両腕に抱きかかえて胸に頬に押しあてました。
「あら、そんなこと……。」
 折り重なって倒れたのを、檜山はたすけ起して、自分もきちっと端坐しました。
「君の足に感謝したんだよ。僕はどうしても、君と別れられそうもない。」
「そんなら……。」
 言いかけて菊千代はやめました。やはり、檜山も別れることを考え悩んでいたのでしょう。けれどその時、檜山は眼を異様に光らして、別な意味にとりました。
「ねえ、死ぬ気かい。」
 菊千代は頭を振りました。
「こんどは、生きるのよ。」
「こんど……。」
「二階から飛びおりたり、船を焼きすてたりして、もう死んだのよ。だから、こんどは……。」
「それもよかろう。」
 から元気か本当の元気か、そのけじめもつかない気持ちで、二人は酒を飲みはじめました。話もとぎれて、気がめいりそうなので、菊千代は小唄を口ずさんで微笑しましたが、ふと、清香さんを呼んでみる気になりました。
 清香が来るのを待つ間に、菊千代は檜山に劣らず酒をあおり、酒の勢いで梅葉姐さんからの話をしてみました。
「誰がそんなことを考えたんだい。」
「だから、梅葉姐さんよ。」
 檜山は両手で頭をかかえて、卓上に眼を据えました。まるで殴られでもしたかのようでした。
「だけど、そんなことになったら、なんだか違うわね。」
「なにが……。」
「今と違うわ。」
「そりゃあ、違うけれど……。」
「その方がいいの。」
「よくはないよ。だけど、ためしに、半月ばかりやってみるか。」
「ためしに半月ばかり……。」
「いや、一週間でよかろう。僕もついていくよ。」
「ほんとに行きましょうか。」
 然しそれが、温泉へ遊びに行くのか、生活を立て直しに行くのか、まだはっきりしないうちに、菊千代は突然、胸がつまって涙を落しました。
「え、どうしたの。」
 檜山は菊千代の手を執りました。菊千代はその手を握り返してにっこり笑いました。
「もっと飲みましょうよ。」
 そして、清香が来た時には、菊千代はもうすっかり酔っていました。
「あたし酔ってるのよ。あんたも酔いなさい。」
 清香は善良な笑みを浮べました。
「たいそうな元気ね。」
「そうよ。酔ってもね、気は確かよ。」
 菊千代はふらふらと立ち上りました。
「心は確かよ。」
 そのまま出て行って、暫くすると、三味線をかかえた女中を連れて戻ってきました。
「あんた弾いてよ。あたし踊るから。」
 爪弾きで、『高尾ざんげ』を清香は弾きだしました。
「はや持来ぬと……あすこからでいいわ。」
 枕屏風を塚に見立てて、菊千代は高尾の霊になりました。するりとはいりこむことが出来たのを、自分でも感じて、振りが自在に運びました。細長い眼が心持ちつり上り、頬の肉が痛そうなまでに引き緊り、上体も足もすらりと伸びて弾性をもって撓みました……。そして踊りぬいて、中途で息を切らし、そこに屈みこんでしまいました。
「もういいわ。」大きく息をつきました「分ったわ。生き身を捨てた気持ち、分ったわ。」
 いつまでも凝視し続けてる檜山の前に来て、菊千代は淋しそうに微笑みました。
「熱海のこと、大丈夫よ。ね、分って下さる。分ったら、もっと飲まして。」
 清香は怪訝な面持ちで、二人に酌をしてやりました。

 それから一ヶ月ほど後、菊千代は正式に芸妓の廃業をして、熱海へ引き移りました。家は梅葉姐さんの持ち物で、こじんまりした洒落た構えでした。万事のこと梅葉姐さんが世話してくれて、小女を一人使い、長唄と踊りの手ほどきに出稽古をすることになりました。

 それからまた一ヶ月ほどたった頃、ちょっと、檜山がやって来ました。互にまじまじと顔と顔を見合ったほど、なんだか二人とも変っていました。菊千代はいくらか肥って健康そうになり、そのくせどこか老いこんだ様子に見えました。檜山は少し痩せて、その代り精力的な様子に見えました。
 檜山は旅館へ案内されるものと思っていましたが、菊千代の住居の方へ連れてゆかれました。
「あたしの旦那ってことになってるのよ。宿屋なんかに行くより、その方が、人目にもつかないし、あたしの貫祿……おかしいわね、梅葉姐さんそう言ったわ……貫祿のためにいいんですって。」
 梅葉姐さんの配慮が、幾重にも菊千代を包みこんでいるようでした。
 然し、その菊千代の住居の座敷、各種の箪笥や鏡や人形やこまごました什器類が数えきれないほど沢山、しかもそれぞれ処を得て、置き並べてある中に、檜山は招じこまれて、なんだか自分だけが余計なもののように感ぜられました。家具什器に対してばかりでなく、菊千代の生活にとっても、自分だけが余計なもののように感じられました。
 その思いが、いろいろな話の間にも消えないで、檜山は突然言いました。
「君の生活がりっぱにうち立てられたせいか、ここにいると、僕はなんだか余計者だって気がするよ。」
 菊千代はちょっと淋しそうな顔をしました。
「あたしの方こそそうなの。せめて、お便りだけでも自由に出来るといいわ。山田さんを通してでは、なんだか頼りないし、遠慮もあるし……。」
 言いさして、菊千代は意外にもにっこり笑いました。
「でも、それでいいの。あんまり自由だと却って長続きがしないんですって。」
「梅葉さんが言ったのかい。」
 菊千代は笑って、戸棚からウイスキーの瓶を取り出しました。
「感心でしょう。口も開けないであるのよ。」
 二三杯のんで、そして二人で海辺へ散歩に出ました。残照がまだ明るく海の上に映えて、初島がたいへん近く見え、その先は茫漠と暮れかけていました。




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