秦の出発
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:豊島与志雄 

「それにしても、上海と田舎と、どちらに住みたいと思いますか。」
「それは思想によって決定されることです。」
「いや、思想を離れて、単に気持の上で、この濁流……腐りかけた牛肉の味と、さっぱりした野菜の味と、どちらによけい魅力を感じますか。」
「そのようなことは、単なる感傷です。」
 ここで、秦は通訳をやめて、私に言った。
「陳君には感傷が大敵なんだ。丹永のもとに帰ってやれと僕に言うのも、感傷とは違った意味だ。常に感傷を目の敵にしている。感傷の多い筈の若者が、こういう信条で育っていって、末はどうなるか、ちょっと僕は恐ろしい気もする。陳君と話していると、思想は別として、理想とか信念とかいうものも、感傷と紙一重の差であることに気がついて、冷りとする時がある。然し僕はやはり、感傷をも郤けないで、理想や信念と共に、心の糧としてゆきたいのだ。陳君にもこれから感傷を少し吹きこんでやるつもりだ。」
 私はうなずいて答えた。
「その通り陳君に言ってみ給え。」
「言ったことがある。」
「すると……。」
「ひどく嫌な顔をしていた。」
 陳は私たちの話の内容をほぼ察したのだろう、嫌な顔をして、拗ねたようにジンを手酌で飲んだ。私と秦は見合って微笑した。然しその晩、秦は大西路の家に帰った。別れぎわに、三人は強烈なジンで、上海のために乾杯したのである。

 数日後、秦啓源はほぼ決定的に上海を去って無錫近郊の田舎に向った。上海から僅かに急行で二時間の所だが、なにか遠方へ出発するような気味合いがあった。陳振東と女中の梅安とが同行した。大西路の家には、楊さんと他の二人の男が留守居している。
 私は駅まで見送りに行き、同じく見送りの数人の中から、洪正敏を紹介されて、少しく驚いた。洪正敏が秦の手をしかと握りしめた様子には、一種の愛情が見えた。
 序に言っておこう。仲毅生のことは洪正敏の手で後始末がされた。彼は可なりの金額を貰って、広東へ追いやられた。なにか狡猾なまた向う見ずな、左耳の無いこの男が、広東でどういうことをしたかは、別な物語に属する。然しそのことについて、私はまだ詳しくは知らない。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:29 KB

担当:undef