秦の出発
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著者名:豊島与志雄 

 そして彼は、彼の家にいる梅安の話をした。田舎から来てるこの女中は、その郷里に小さな女の子を一人持っていた。秦は彼女に、日本の知人から貰った友禅金巾の反物を与えた。年末近くのことだった。彼女はその金巾を、夜更けまで裁縫し、最後には徹夜までした。楊さんからそのことを聞いて、彼女に問いただすと、彼女は田舎の娘のために、正月の晴衣を縫ったのだ。正月のまにあいますようにというのが、彼女の一心だった。――今年ももう年末近くで、秦は梅安のことを思い出し、蘇州の模様絹を買って与えた。彼女はいたく喜んで、娘のために裁縫をしているのである。
「こういう女を、いや、こういう人情を、ほかに上海で見かけられますか。」と秦は尋ねた。
 洪は頭を振った。
「上海がそういう人情を失ったのは、農精神を全然喪失したからです。」
 だから上海には、平時でも十万から二十万に及ぶ苦力と乞食がうようよしていたし、冬期には月に二三千人の凍餓死者を出したことも珍らしくない。彼等をすべて農村へ帰農させるべきだ。米麦の耕作の合間には、棉を栽培してもよかろうし、豚を飼育してもよかろう。もしも棉栽培が全耕地の五パーセントに達すれば、その収穫は全東亜を優に賄えるし、豚の頸毛は生糸よりも優秀な利用価値がある。好んで乞食や苦力の生活に執着する必要はないのだ。
「上海人種は、そういうことをすべて忘れています。」と秦は言った。
「左様。」と洪は同意した。「上海は、あなたが説かれるような農の意識を失っている。然し国家存立には、他の精神も必要だろうからな。」
「いや、私が言うのは、農精神を基調とした新たな構想の国民組織を行なわなければ、中国は国家として存立し得ないということです。嘗ての新生活運動だの、近頃の新国民運動だの、保甲組織だの、そういう浅薄なものでは駄目だということです。」
 洪はじっと秦を見つめた。
「つまり、あなたはどこか農村へ出て行くつもりで、それで、この私に何か後事を託そうとでも……。」
「後事を……いや、ちょっと始末をつけたいのです。」
 秦は洪の眼を見返した。洪の眼はそれでも、静かな温容を湛えて、秦を見戌っていた。
 沈黙が続いた。会談中に何回か運ばれた熱い茶が、また同じ男の手で運ばれてきた。その男が出て行った時、秦は懐をさぐって、小さな紙包を取り出した。
「これを、持主に返して貰いたいのです。」
 小卓の上に置かれた紙包を、洪はじろりと見やった。
「拝見しても宜しいか。」
「どうぞ。」
 包み紙の下の白紙には、仲毅生の名前が誌されていた。その中は油紙で、根本から切り取られた人間の耳朶が包んであった。もう黒ずんだ血をにじませて少しく干乾びていた。
 洪はそれをまた包み直して言った。
「彼奴のことは承知していた。それにしても、面倒なことをなされたものだ。」
「面倒とは……。」
「後の始末だ。一挙にやっつけた方が簡単だったろう。」
「僕が手を下したのではありません。」
「それも承知しているが……。」
 洪は立ち上って、紙包を戸棚にのせた。
 ふしぎなことに、それらの対話と受け流しとが、至って平静に為されてしまったのである。それが殊に秦の予期に反した。彼は額にかるく汗ばみ、疲労を覚えた。
 用件は済んだ。秦は立ち上って辞去した。洪は階段の上まで見送ってきた。
 最初に案内してくれた男が出て来て、秦に自動車まで付き添ってきた。
 自動車の中で、秦は長い間沈黙していた。陳振東もそばで沈黙を守っていた。二十五歳のこの強健な鋭敏な男は、なにか忌々しそうに眉根を寄せていた。

 パレスの上階の食堂で軽く夕食をとりながら、秦は呟いた。
「何か大事なことを、洪正敏に言い忘れたような気がするんだが……。」
「いや、それはもうすべて済んだ。この方面のことは簡単率直だから。」
 そして彼は突然笑いだした。
「おかしいだろう。君から見たら、僕は道化役者ようだ。或る時は夢想詩人だし、或る時は半ば狂気な女をもてあつかってる色男だし、或る時はまた仁侠の徒だからね。それも上海の仕業だ。もうこんな生活にも倦き倦きしたよ。」
「いよいよ、無錫の田舎に引込むのかい。」
「うむ、丁度いい機会のようだ。引込むといっても、無錫は上海から急行で二時間のところだ。時々出て来るよ。ただ、生活は……仕事は、全然新らしい方面への出発となるだろう。」
 彼は窓から外に眼をやり、暮れかけた黄浦江のどんよりした水面を眺めた。――私たちの食卓は窓際にあったので、江上の小舟までも見えた。
「そのうちに、無錫附近を案内するよ。あの辺は、こんな濁った水ばかりでなく、清澄な小川が多い。町から少し離るれば、有名な梅園があるし、太湖の眺望も楽しめる。農村は君には興味がないとしても、無錫の町それ自体は、中国殆んど唯一の自力興起工業都市で、生糸や紡績や製粉の工場が軒を並べている。なにかしら清明で溌剌としているよ。」
「農業を言い落すのはおかしいね。」と私は微笑した。
「言うまでもないことだからさ、米や麦は最上等のものが穫れる。然しそのようなことより、無錫の軽工業地帯は、なお農精神を失っていないのが最も注目すべき点だ。農精神を失わない工業というものを、僕は考えているよ。そこに本当の生産の喜びが現代にも生きてくる……。」
 こういう事柄になると、私はいつも黙って、謹聴することにしていた。彼の思想……構想を自由に発展さしておきたかったのである。だが、その食堂で、私は他のことに気が惹かれてもいた。
 二卓ほど距てた斜め横に、どうも見覚えのあるような中年の男がいた。茶色の背広に蝶ネクタイをし、髪に油をぬっている。食卓にはビール瓶が立っていた。その男が、しきりに私たちの方に目をつけていた。秦は気付いているのかいないのか分らないが、なんだかその男の方面から顔をそ向けてる様子だった。
 果してその男は、私たちが食事をすまして珈琲を飲みかけると、静に立ってきて秦に挨拶をした。秦は露骨に冷淡な態度を示した。然し相手はあくまで慇懃な態度で話しかけ、にこやかな微笑を浮かべ続けていた。私には支那語が分らないので話の内容は不明だったが、二人の外見の対照は面白かった。秦はへんに伊達好みな服で、不愛想に取り澄しているし、相手は服装から物腰から言葉付きまで、社交馴れた紳士らしい趣きがあり、顔には微笑を絶やさないのだ。
 秦は私の方に眼配せをした。私は珈琲を飲み干したが、秦は半ば飲み残したまま立ち上った。
 廊下に出ると私は尋ねた。
「何だい、あの男は。」
「知ってるだろう、周釣さ。」
 周釣といえば、多方面に知られてる社交家で、本業は貿易商だという触れこみだった。然し、秦たち少数の者の間には、大体その本性が推察されていたのである。――周は全く各方面に知人が多く、それがまた多岐に亘っていて、政治的に、日本側とも、南京政府側とも、重慶政府側とも、延安政府側とも、また欧洲各国側とも、連絡があるようだった。彼の手を通じて、欧洲某中立国の国籍がその領事館から売られたという話もある。もっとも斯かる政治的関係は、多くは曖昧模糊たることを常とする。ただ確実なのは、某氏は何派だという政治的な符牒を、さも重大事らしく囁きふらしてることである。この囁きを以て、彼は相手の情誼と信頼とをかち得るつもりでいたらしい。
 周釣に限らず、そういう種類の男が沢山うろついていた。そして彼等相互の間では、ひそかに嫉視反目している。
「上海の性格の一面だね。」と秦は吐きだすように言った。
 その忌々しい気持をまぎらすためか、秦は室に戻るとドライ・ジンの一瓶を取り出して、小さなグラスで飲んだ。
 その機会に、私は柳丹永の「血の色見ゆ」の一件を話した。不思議にも、秦はもうそのことを知っていた。
「丹永のことについては、僕はへんに心残りを感ずる。これは僕の方の一種の霊感だが、あれは長くは生きまい。」
 秦はしみじみと言った。私はなにか冷い空気を感じて外套を着た。秦も外套を着た。このような時、蟹でも食べに出かけたいのだが、もうその季節も過ぎていた。その上、秦は何かを待ってる様子で、二三回腕時計を見た。
 彼が待ってるのは、陳振東だったらしい。陳振東がはいって来ると、彼は居ずまいを直した。
 陳はなにかてきぱきと報告した。秦はその一語一語にうなずいてみせた。それから私に言った。
「玄元禅師が、明朝、丹永のところに来てくれるそうだ。あれも安心することだろう。」
 その配慮は適宜だったし、秦の霊感もただの杞憂ではなかったと、あとで思いあわされた。――先廻りして言っておこう。丹永は翌日の朝、可なり多量の喀血をした。一時意識を失い、次に恐怖に襲われた。恐怖の後に、平静な衰耗状態に陥った。そこへ、粗服のなかに顔面だけが明朗に輝いてる玄元禅師が来た。禅師は二時間ばかり丹永のそばに坐っていた。祈祷もなく、説教めいたこともなく、沈黙のうちに時々短い言葉を彼女にかけた。彼女も短い言葉で返事をした。午後になると、彼女の表情は、硬直か緊張か見分けのつかない状態のうちに凝り固まった。医者のことを言われると、はっと眼が覚めたように執拗に拒絶した。晩になっても同じ有様で、その夜更け、彼女は秦の手先に縋っていたが、その手の力が俄にゆるむと、ごく静かに、殆んど苦悶もなく、息絶えてしまった。――この柳丹永のことについては、いつか、心静かに私は語りたいと思う。
 パレス・ホテルの一室で、私は丹永のことを思い浮べていた。陳振東が秦になにか言うと、秦は微笑して私に言った。
「陳君は、大西路の家に帰れと僕に勧めているんだ。」
「勿論、そうしなくてはいけないよ。」と私は答えた。
「あちらに帰ると、上海が薄らぐ。もう一晩、上海を楽しんでもよかろう。」
 それにはなにか皮肉な残忍なものが籠っていた。私はそのものから眼をそらして、陳振東に話しかけた――以下の対話は、秦が中間で通訳してくれたものである。
「陳君は、上海をどう思いますか。」
「下らないが面白いと思います。」
「というと、人間の低俗さとそれに対する興味ですか。」
「少し違います。……まあ、腐りかけた牛肉の旨さですね。」
 見たところ平凡でただ強健な彼は、明晰な見解を具えていた。
「それでは、容易に上海を捨て難いでしょう。」
「いつでも捨てます。然し私は、秦さんについて田舎へ行きますが、時々こちらへも出て来ます。連絡係りです。」
「それにしても、上海と田舎と、どちらに住みたいと思いますか。」
「それは思想によって決定されることです。」
「いや、思想を離れて、単に気持の上で、この濁流……腐りかけた牛肉の味と、さっぱりした野菜の味と、どちらによけい魅力を感じますか。」
「そのようなことは、単なる感傷です。」
 ここで、秦は通訳をやめて、私に言った。
「陳君には感傷が大敵なんだ。丹永のもとに帰ってやれと僕に言うのも、感傷とは違った意味だ。常に感傷を目の敵にしている。感傷の多い筈の若者が、こういう信条で育っていって、末はどうなるか、ちょっと僕は恐ろしい気もする。陳君と話していると、思想は別として、理想とか信念とかいうものも、感傷と紙一重の差であることに気がついて、冷りとする時がある。然し僕はやはり、感傷をも郤けないで、理想や信念と共に、心の糧としてゆきたいのだ。陳君にもこれから感傷を少し吹きこんでやるつもりだ。」
 私はうなずいて答えた。
「その通り陳君に言ってみ給え。」
「言ったことがある。」
「すると……。」
「ひどく嫌な顔をしていた。」
 陳は私たちの話の内容をほぼ察したのだろう、嫌な顔をして、拗ねたようにジンを手酌で飲んだ。私と秦は見合って微笑した。然しその晩、秦は大西路の家に帰った。別れぎわに、三人は強烈なジンで、上海のために乾杯したのである。

 数日後、秦啓源はほぼ決定的に上海を去って無錫近郊の田舎に向った。上海から僅かに急行で二時間の所だが、なにか遠方へ出発するような気味合いがあった。陳振東と女中の梅安とが同行した。大西路の家には、楊さんと他の二人の男が留守居している。
 私は駅まで見送りに行き、同じく見送りの数人の中から、洪正敏を紹介されて、少しく驚いた。洪正敏が秦の手をしかと握りしめた様子には、一種の愛情が見えた。
 序に言っておこう。仲毅生のことは洪正敏の手で後始末がされた。彼は可なりの金額を貰って、広東へ追いやられた。なにか狡猾なまた向う見ずな、左耳の無いこの男が、広東でどういうことをしたかは、別な物語に属する。然しそのことについて、私はまだ詳しくは知らない。




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