囚われ人
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著者名:豊島与志雄 

 ――そこで、どうだろう、罪滅しの意味で、正夫君に何か贈物をしようじゃないか。第一、ここにこうしてじっと突っ立ってるのは、気が利かんね。俺はじっとしてるのが嫌いだ。動き廻りたいよ。何か面白いことはないかなあ。遊びごとはないかなあ。いや、それは後のことだ。先ず正夫君への贈物だ。どうだい、賛成しないかね。
煙吉は順々に呼びかける。相手は返事と共にこっくりこっくり二回頷く。
 煙吉――酒太郎はどうだね。
 酒太郎――よかろう。賛成だ。
 煙吉――愛子はどうだね。
 愛子――いいわ。賛成よ。
 煙吉――時彦はどうだね。
 時彦――よかろう。賛成だ。
 煙吉――正夫君、みんなそれぞれ、君に贈物をするよ。珍らしくもなかろうが、心こめた品だから、立ち上って、お辞儀をし、鄭重に受け取るんだよ。
奇怪な行列が始った。煙吉を先頭にして、一同、ゆっくりと正夫の方へ進んで行く。だが正夫は、ちらと一同を見て、卓につっ伏し、両の掌で額をかかえ、息を殺したように動きもしない。その代り、円卓の正面に坐っていた議一が、立ち上って、一同の後を見送る。
煙吉は正夫に近づき、正夫の様子を眺めて、ちょっと立ち止るが、首を振って、また歩き出す。いつのまにどこから取り出したのか、一同はめいめい、片手に品物を持っている。そして正夫の前に、煙吉は煙草の缶を捧げる。酒太郎は酒瓶を、愛子は蜂蜜の瓶を、時彦は鉄側の時計を、順次に正夫の前に捧げる。
正夫は突っ伏したまま身じろぎもしない。それには構わず、煙吉を先頭に一同は、踊るような足取りで、正夫のまわりを、一回、二回、三回と、ぐるぐる廻って、元の円卓の方へ戻ってゆく。
 煙吉――これで、正夫君への贈物は済んだ。
 愛子――こんどはあたしたちも、少し御馳走になりたいものね。
 酒太郎――そうだ、こちらも酒盛をしよう。
酒太郎が酒瓶を出すと、一同はそれぞれ、正夫に与えたのと同じ品物を取り出す。
 酒太郎――おい時彦、時計なんか仕様がないじゃねえか。もっと景気のいいものを出せよ。
時彦はにっこり笑って、時計を両の掌に包みこみ、その掌を開くと、まるで奇術のように、時計は沢山の小さな丸い玉になっていた。半透明の丸玉で、恰も真珠のようだ。それを彼は、卓上にざーとあける。
 時彦――食べてみろ、うまいから。その代り、断っておくが、これを食べると、なかなか眠られなくなる。それでもいいか。
 酒太郎――いいとも、どうせ夜明しだ。
一同は真珠めいた菓子に手を出し、かじってみる。うまいうまい、という歎声。そして酒を飲み始める。酒太郎はなお、酒の小瓶を幾つも出して、皆に勧める。一同ラッパ飲みをする。
間。
次第に酔いが廻ってくる。手当り次第に、酒を飲み、煙草をふかし、真珠菓子をかじり、蜂蜜まで嘗める。――その乱雑な光景を、議一は少しわきの方に突っ立ったまま、茫然と眺めている。
 愛子――あんた、そんなところに突っ立ったきりで、どうしたのよ。ばかみたい。こっちい来て、仲間にはいりなさいよ。構わないわよ。
議一はおずおず近寄って、酒盛の仲間にはいる。そして彼一人だけ、椅子に腰を下す。
 煙吉――少し動きたくなった。歌でもうたいたくなった。お前たちはどうだい。
 時彦――よしきた。元気にいこう。
時彦が音頭を取って、ラ・マルセイエーズを歌い出し、一同それに和して歌いながら卓を叩いて拍子を取る。議一ひとり黙っている。
 愛子――あんた、なぜ歌わないの。
 議一――僕は、そんなバター臭い歌は知らないんだよ。
 愛子――まあ、フランスの国歌じゃないの。そんなら、何を知ってるの。
 議一――そうさなあ。ノーエ節ぐらいなもんかな。
 愛子――ノーエ節……。ああ、富士の白雪というあれでしょう。
 酒太郎――宜しい、こんどはあれにしよう。ぐるぐる廻って、際限なく歌える。この円卓みたいなもんだ。
一同はノーエ節を歌いながら、円卓のまわりを踊るように歩き始める。歌は終りからまた初めへと連続し、彼等は円卓のまわりを何回も廻る。――ただ議一だけ、腰掛けたままでいる。
ふと、時彦は議一の側に立ち止って、その顔を覗き込む。
 時彦――やあ、これは不思議だ、俺のあの菓子を食ったのに、この男は居眠りをしている。眠られる筈はないんだがなあ。
皆そこに集まってくる。
 煙吉――眠られなくなるって、本当かね。
 時彦――俺は嘘は言わない。
 煙吉――それじゃあ此奴、狸寝入りか。
煙吉は議一の背中を殴る。他の者も一緒になって殴る。議一は眼を覚して、あたりを見廻す。
 煙吉――お前、ほんとに眠ってたのか。
 議一――自分自身がどっかへ、すーっと消し飛んでゆくような気持ちだった。そして夢を見た。
 煙吉――どんな夢だ。
 議一――河の深い淵だった。上手の方は、浅い瀬で、きれいな水がさらさらと流れていた。その水が流れ下って、深い淵になっている。心のうちで、その淵を見つめていると、淵はだんだん深くなる。底知れず深くなる。そして水は濁り黒ずんで、澱みきっている。底の方がどうなっているか、見当もつかない。たぶん空気も通っていないんだろう。水は腐ってるんだろう。魚も寄りつかないらしい。そうした深い淵が、ずっと下流まで続いていた。淵の一方は高い急な崖で、僕はその崖の上にいた。崖から淵の方を覗き込むと、恐ろしい力で吸い込まれるようだった。否応なく、運命的に、僕は淵に落ち込むことになっていた。僕は一生懸命に抵抗した。崖縁にしがみついた。だが、ずるずる滑り落ちてゆく。どうにもならない。そら、もうすぐ淵だ。上からは石ころが落ちてくる。どんどん落ちて来て、背中に当る。もう駄目だと思った。そして眼が覚めたんだ。
 煙吉――ほほう、そんな夢か。それじゃあお前は、俺たちに感謝していいよ。俺たちのお陰で、お前は淵に落ち込まなかったんだからな。
 議一――夢の中のことだよ。
 煙吉――夢にしてもさ。俺たちがお前を叩き起してやったんだ。
 議一――魘されてでもいたのかい。まったく、あの深い淵はいやだった。胸がむかつくようだ。
 酒太郎――夢の話なんか止せよ。胸がむかつくようなら、もっと酒でも飲め。
 愛子――この真珠菓子を食べたのが、いけなかったんじゃないの。
 時彦――ばか言うな。これを食べたくせに[#「食べたくせに」は底本では「言べたくせに」]居眠りなんかするから、いけないんだ。然し、この男はちょっと変ってるな。夢の話も捨てたもんじゃない。ちっとばかり、気骨を持ってるようだ。
 酒太郎――なあに、気骨もくそもあるものか。さあ、飲め飲め。
議一はぼんやり酒瓶を取り上げる。一同も再び飲み食いを始める。席は乱雑になる。
間。
不思議なことが起った。議一を除いて、他の者たちは、後ろから髪の毛でも引っ張られるかのように、時々、手を挙げて後頭部を打ち払う仕種をし、振り向きもする。
 酒太郎――誰だ、俺の髪の毛を引っ張るのは。
 煙吉――誰だ、髪の毛を引っ張るのは。
 愛子――だめよ、髪の毛なんか引っ張っちゃあ。
 時彦――いたずらは止せよ。
その都度、互に顔を見合せて、怪訝な面持ちになる。
 時彦――どうもおかしいぞ。俺たちは誰も、ひとの髪の毛なんか引っ張ってはいないね。そして誰からか引っ張られてる。振り向いても誰もいない。然し引っ張られてることは確かだ。これは、酔っ払ったせいじゃない。何かある。奇怪極まる。
 愛子――なんでしょうね。あたしなんだか怖くなっちゃった。
 酒太郎――なあに、こんどやったら、俺が引っ捕えてみせる。
 煙吉――世の中には理外の理ということもある。お化じゃないか。お化だったら面白いぞ。お化、出て来い。
何かの気配を感じて、警戒するかのように、一同は一つ所に寄り集まる。
一同の正面、つまり正夫を背後にして円卓の一端に、ぼんやりと人影が現われる。白髪の老女で、薄鼠色の和服を着ているが、全体がぼやけて形体は定かでない。――このあたりから、正夫は顔を挙げて、やはり卓上に頬杖をついているが、眼は伏せず、一同の方をぼんやり眺めている。
 老女――お前さんたちの髪の毛を引っ張ったのは、このわたしだよ。なあに、ちょっとした悪戯さ。気味わるがらなくてもいいよ。悪意はないんだからね。
 ――お前さんたちには、古い馴染みだ。わたしの夫、正夫の父がね、やはり正夫のようだった。いえ、正夫が父に似たんだろうよ。父の方はたいへんな酒好きで、とても正夫どころではなかった。毎日朝酒を飲んで、昼酒を飲んで、そしてまた寝酒を飲んだものさ。もっとも、それは亡くなる前のことだがね。煙草は始終口から離さなかったよ。若い時から女道楽で、老いてますます盛んな方だった。どこやらに、落し胤も幾人かある筈だ。そんなだから、したがって懶け者で、まとまった仕事をしたこともなく、ぶらぶら遊んでばかりいたよ。そして肝臓と腎臓とを悪くして、亡くなってしまった。
 ――そんな男だけれど、ただ一つ取り柄があった。物にこだわらないことだよ。恬淡というか、無頓着というか、一つのものに執着することがなかった。酒を飲んでも酒に呑まれることはなかった。煙草をいくら吸っても、煙草に吸い込まれることはなかった。女好きではあったが、女に丸めこまれることはなかった。その点を、わたしから見れば偉いと思うよ。何事も、心から執着しなければ本当のことは分らない、と言われてるけれど、また逆に、執着したために分らなくなることも、しばしばあるからね。
 ――そこへゆくと、この節の男たちは、みみっちくなったものだ。何にでもすぐに溺れ込んでしまうからね。酒に溺れる、煙草に溺れる、女に溺れる、仕事に溺れる……。溺れないものがあるかね。溺れたらもう駄目だよ。水に溺れた者が水から逼い出して来たためしがあるかね。水から出るのは、もう死体になってからだ。
 ――だから、お前さんたちも用心するがいいよ。うっかりすると、とんだ殺人罪を犯すことになる。なにしろ相手が相手だ。何にでも溺れたがってるものね。泳ぎを知らない者が、旱魃だからって、深い淵に飛び込むような真似を、すぐにしたがるからね。
 ――それに、お前さんたちの方にも、罪があるよ。みんな慾が深くなってきた。つかまえたらもう放さないという慾心さ。さもしいものだ。きっとお前さんたち、昔と違って、貧乏になったんだろうね。貧すれば貪するさ。でも、自分の分限を知らなければいけないよ。のさばるのはまあよいが、慾張ってはいけない。注意しておくがね、あまり慾張ると、元も子も無くしてしまうよ。分ったかね、分ったらそれでいいさ。
老女の姿、掻き消すように消えてしまう。一同はほっとしたように、酒を飲みだす。
暫く無言。
 酒太郎――忌々しい婆だ。
 煙吉――俺たちに意見をしていきやがった。
 愛子――あのひとに髪の毛を引っ張られたかと思うと、頭中がむずむずしてくる。
 時彦――然し、みごとにやっつけられたね。
 煙吉――誰がさ。
 時彦――俺たちみんなだ。
 煙吉――いや、俺はやっつけられたとは思わん。
 愛子――あたしもそうは思わんよ。時代が違って、物の考え方が違っただけのことさ。
 酒太郎――だが、俺たち、貧乏になったんだろう、には参ったね。まったく、下落したんだからね。
 煙吉――下落したって構わん。何もかもがそうじゃないか。
一同は何かがやがや言いながら、自暴自棄のように飲み食いする。その光景は、ますます乱雑になる。
不思議なことに、室内にいるのはどうも彼等だけではないような感じだった。私(筆者)は初めからそういう印象を受けていた。眼に見えるのは彼等だけだが、まだ他にもいろんな人物がどこかに潜んでいる、そういう気配だった。もとより、それらの者は、姿を現わしもせず、口を利きもしなかったが、確かにその室内にいるに違いなかった。実体の分らないそれらの者のため、室内の雰囲気はへんに乱されて、落着かない不安なものになっていた。だから、老女の姿が現われたり消えたりしても、私にはさほど意外ではなかった。眼に見える者たちの饗宴にしても、影の人物がたくさん参加してるような感じだった。然しそれら影の人物が、なかなか姿を現わさないのは、私の甚だ遺憾とするところである。
一人黙っていた議一が、ふと、こちらを向いて顔を挙げてる正夫に気付き、その方を凝視し、そして立ち上る。
 議一――正夫君、さっきのお婆さんは、ほんとに君のお母さんかね。本人はそのように言っていたが……。
正夫は頬杖をついたまま、もう顔を伏せず、不敵な笑みを浮べる。
 正夫――さあどうだか、よくは分らない。
 議一――なんだって。君は母親をも見分けられないようになったのか。
 正夫――そっちを向いていたから、後ろ姿だけでははっきり分らなかった。
 議一――そんなら立って来るなり、言葉をかけるなりして、確かめたらいいじゃないか。
 正夫――その興味もなかった。
 議一――興味の問題じゃない。心情の問題だ。
 正夫――僕にとっては、今のところ、自分一人のことで一杯だ。然し、あのひとが言ったことは、なかなか参考になった。或は、僕になにか教えるつもりで言ったのかも知れない。ただ、世代の違いから来る不理解な点があるのは、止むを得ないだろう。
 議一――どういう点が不理解なんだ。
 正夫――解決の方法が違う。
 議一――何の解決なんだ。
 正夫――それはいずれ見せてやるよ。
 愛子――あら、正夫さんが話をしてるわ。
一同は正夫の方を見る。――おかしなことに、彼等は最初立ち上った時からずっと立ち続けてるのだ。
 酒太郎――ほう、悪びれずにこっちを見てるね。その通り、元気を出すんだ。そして、まあ酒でも飲めよ。俺たちはもうずいぶん酔っ払った。さっき、君のお母さんとかいうひとから、だいぶ意見をされたが、君も聞いたろう。面白いことを言うひとだ。酒に溺れる、煙草に溺れる、女に溺れる、仕事に溺れる、それが現代の通弊だってさ。通弊というものは、然し、時代思潮みたいなもので、一通りは身につけておくべきものだ。だから、溺れて構わん。どうだ、こっちに来ないか。それとも、俺たちの方で押しかけて行こうか。
 議一――おい、君たち、もっと静かにしてくれ。正夫君は初めから、もう暫く放っといて貰いたいと、僕に頼んだ。その通りにしておいてやろうじゃないか。
 煙吉――だから、俺たちは、静かに贈物を捧げたんだ。よけいな干渉はしないよ。
 時彦――それも、時によりけりだ。どうも、正夫君を一人きりにしておきたくないね。
 愛子――そうよ、そうよ。あたし行って、連れて来よう。
 煙吉――まあ待て。
正夫は卓上にある品々を眺める。酒瓶を取って、ぐっと飲む。蜂蜜の瓶を取って、口一杯嘗める。再び酒をぐっと飲む。時計を取り上げて、時刻を見る。それから、缶の煙草を一本取って、悠々と吹かす。――その一々の動作を、一同は見守る。
 正夫――僕がここでやってることが、どういう意味だか、君たちに分るか。お別れの挨拶だぞ。もうたくさんだ、きっぱり別れよう。だが、僕は卑怯に逃げ隠れするのではない。僕にも多少の意地と体面とがある。そして君たちに思い知らせてやりたいんだ。そうだ、思い知らせてやる、こいつは素晴しいことだ。見ておれ、思い知らせてやるから。
正夫は卓上の品々、酒瓶と蜜瓶と煙草缶と時計を、一つずつ取り上げ、窓へ投げつける。窓硝子の壊れる音がして、品々は外の闇の中に消える。――硝子の砕け散った窓が、ぽっかり口を開いている。正夫は一瞬、身を飜えすと、駆け出して行って、窓の穴から外へ飛び出してしまう。
 議一――あ、いけない。しまった。
議一は窓へ駆けつける。一同も駆けつける。他の窓も開けて、外を透し見る。
 議一――ここは四階だ。無事に飛び降りられるものではない。体は粉微塵だ。行ってやろう。
一同は足をめぐらして、窓と反対側にある扉を開き、廊下へ出て行く。
その時私(筆者)は、彼等の足音ばかりでなく、他のざわめきをも、確かに聞いた。眼に見える彼等ばかりでなく、他に多くの者が室内にいたに違いない。そして正夫は、それら多くの者の前に、曝しものとなっていたのであろう。それを思って、私はぞっとした。だが、一人残らず皆が出て行った後、室内はしんしんと静まり返り、更に深く静まり返ってゆくのが、耳にも感じ肌にも感じられて、何とも言えない恐ろしい思いだった。開け放されたままの窓から、開け放されたままの扉へと、冷たい夜気が流れていった。ふと見廻すと、円卓の上の饗宴の品々は、奇蹟のように消え失せていた。どうなったのであろうか。まさか彼等は魔法使ではなかったろうが、不思議極まる事態だった。考えてる時、また奇怪にも、天井の電灯がふっと消えた。室内は闇にとざされた。
寸時の躊躇の後、私は手探り足探りで、窓の方へ近づいて行った。窓口が、仄かな明るみで浮き出していた。窓から身を乗り出して覗いてみたが、戸外には深々と闇が湛えているきりだった。樹木も見えず、他の建物も見えなかった。窓の下方の地面も見えず、何一つ見えず、燈火も見えず、人声どころか、物音一つ聞えなかった。正夫や、其他の者たちは、どうなったのであろうか。忽然と消え失せたとしか思えなかった。私は夢をみたのであろうか。茫然とそこに佇むばかりだった。




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