霊感
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■暇つぶし何某■

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著者名:豊島与志雄 

     第一話

 都内某寺の、墓地の一隅に、ちと風変りな碑があります。火山岩の石塊を積みあげて、高い塚を築き、その頂に、平たい石碑を立てたものです。碑面に、身禄山とありますが、その昔、身禄という行者があって、深山に籠り、禅の悟道に参入して生を終えた、その人のために建てた碑です。大正十二年再建とありますが、大正十二年といえば関東大地震の年で、恐らく、土台の石畳の一部が壊れるか、碑が傾くかして、それを修理したのでしょう。全体の構築はたいへん古く、碑の背後には、樫の古木が茂っています。
 この身禄山を、附近の人々は、ミロクサンと呼んでいます。文字面の音をそのまま取って、身禄さまではなく、身禄さんと、親しい気持ちをこめたものです。そして朝な夕な、誰がするともなく、白紙に塩や白米を盛ったのが、身禄さんの前に供えられています。
 この身禄さんを、三年ほど前までは、ほとんど誰も顧みる者がありませんでした。塚全体が荒れはて、茅草や灌木が生え、といっても火山岩を畳みあげたものですから、気味わるい茂みを作るほどではなく、あたりの立木の蔭にひっそりとして、つまり、人目につかない状態のまま、うち捨ててあったのです。
 ただ、江口未亡人とその娘さんとは、身禄さんのそばを通りかかる時、いつも、ちょっと頭を下げました。身禄さんを信仰するかどうとかいうのではなく、自然にそういう習わしになっていました。
 戦後のこととて、寺の境内も墓地も、手入が行届いておらず、板塀や垣根なども壊れたままで、通行自由な有様でした。江口さんの家から大通りへ出るのには、墓地をつきぬけるのが一番の近道で、その近道のそばに身禄さんがあるので、そこを通りかかることが多かったのです。そして通りかかると、江口さんも娘さんも、何ということなしに、軽く頭を下げました。
 ところが、その江口さんの家に、いろいろ思うに任せぬことがあったり、娘さんの健康がすぐれなかったりして、春の末頃から、江口さんはなんだか気持ちが沈みがちで、不安な影を胸うちに感ずるようになりました。
 そのことを、江口さんは、日頃懇意にしているA女を訪れた際、世間話のついでに、訴えてみました。
 A女はいわゆる戦争未亡人で、普通のひとですが、実は、彼女自身では誰にも口外しませんでしたけれど、神仏二道の行を深く積んでいて、特殊な能力を会得していました。それを、江口さんは知っていました。二人とも四十五歳ばかりの年配で、未亡人同士なものですから、普通の主婦たちよりは、立ち入った交際が出来たのでしょう。
 江口さんはA女の顔色を窺いながら、言いました。
「なんだか気になるから、ちょっと、みて下さいませんか。」
「みるって、なにをですの。」
「まあ、とぼけなくっても、いいじゃありませんか。」
「べつに、とぼけるわけではありませんけれど……。でも、たいへんなことになると、わたくしが困りますからねえ。」
「大丈夫、御迷惑はおかけしませんから……。」
 A女はじっと宙に眼を据えました。もともと痩せてる頬ですが、その蒼白い皮膚が引き緊りました。
「だいたい分りますが……。とにかく、助経して下さい。」
 江口さんも一通りは読経が出来るのでした。
 A女は数珠を手にして、祭壇の前にぴたりと端坐しました。地袋の上の棚に、壁の丸窓を背にして、一方に仏壇があり、一方には白木の小さな廚子に北辰妙見と木花開耶姫とが祭ってあります。
 静かに読経が始まりました。
無上甚深微妙法 百千萬劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来第一義
 それから声が高くなって、「開経偈」を誦し終ると、他の経文はぬきにして、いきなり御題目にはいりました。
 繰り返し繰り返し、御題目を唱えていますうちに、やがて、A女は声がつまってくるのを感じました。肱を張って合掌してる両手に、痺れるほど力をこめ、なお御題目を唱え続けましたが、その声は次第に低く細くなり、瞑目してる瞼のうちに顕現したものがあります。
 音なき声が聞えます。
 ――ミロクだぞ。
 間を置いて、また聞えます。
 ――近々に火が出るから、気をつけたがよかろう。
 間を置いて、また聞えます。
 ――火伏せの神ゆえ、出来るだけは守護してやる。
 それから、問答とも知れず会得とも知れない、微妙な境地にはいります。
 御題目の声が、次第に安らかに出てきました。気が晴れ、A女は眼を開き、なお暫し御題目を唱え、それからぴたりと切って、最後に、「宝塔偈」と「発願」とを誦し終りました。
 A女は江口さんの方へ向き直り、見据えるようにしていました。
「ミロクというかた、御存じですか。」
 江口さんはふしぎそうにA女の顔を見上げました。
「身禄さんなら、知っています。」
「どういうかたですか。」
 そこで江口さんは、身禄さんのことを話し、通りがかりにただなんとなくお時儀をしていることを打ち明けました。
「それで分りました。そのミロクさんは、御近所の土地の火伏せの神です。近々のうちに火事が起るかも知れませんから、大事にならないよう、お詣りをなさいませ。お塩とお米をお供えなさるだけで、結構です。なるべく皆さん大勢で、お詣りなさったが宜しいでしょう。うち捨てておかれては、災難が起ります。わたくしも、近日、お詣りしてあげましょう。」
 それでほっと息をついた様子で、A女は頬笑み、姿勢をくずして、ふだんの親しい調子に戻りました。
 江口さんはなお、いろいろ相談しました。A女は助言してやりました。それから他愛ない世間話となりました。
 ところで、江口さんが住んでいる家というのが、戦争前は下宿屋でもしていたらしい大きな家で、室がたくさんあって、十近くもの家族が住み、それぞれ自炊しているのです。
 身禄さんのことを江口さんは気にかけて、吹聴して廻りました。A女のことは堅く口止めされていました故、ただ漠然とどこからともなく聞いてきたことにして話しました。すると、だいたい三つの説にわかれました。そういうことならまあお詣りをしておこう、という当り障りのないのが一つ。そのようなことはどうでも宜しい、という無関心なのが一つ。この科学の世の中にばかなことを言うものではない、という反対なのが一つ。一向まとまりはつきませんでした。
 ただ、江口さんとほかに二家族だけが、身禄さんに時々お詣りをしました。碑のまわりを掃除したり、草をむしったりしました。A女もまた、江口さんに案内されて、お詣りをし、読経を捧げました。
 そして、二ヶ月ばかりたったある夜、不思議なことが起りました。
 深夜、A女はふと眼を覚しました。へんに息苦しく、異様な気持ちでした。瞳を宙に凝らしていますと、音なき声が聞えました。
 ――水行。
 しかし、その声を聞いたあとで、A女は我に返って、これは厄介なことになったな、と思いました。夏のことではありましたが、夜中に起き上って水を浴びるのは、難儀なことに違いありません。それでも、水行というその無音の声には、どうしても逆らえませんでした。
 彼女は起き上って、風呂場にはいり、浴槽に水道の水を注ぎ、そして素裸となりました。
 さて水行といっても、バケツで浴びるか、手桶で浴びるか、または洗面器で浴びるかは、その場に至って自然に決定されることです。幾杯浴びるかも、自然に決定されることです。自分の意志によってではありません。過去の経験で彼女はそれをよく知っていました。
 その夜、彼女は洗面器を取り上げました。それに水を汲んで肩から浴びました。一杯目はひやりとして、二杯目からはすっきりとして、そして七杯浴びると、ぴたり、手が止りました。
 体を拭き、寝間着をひっかけて、室に戻り、衣紋掛の衣類に着替えました。その室は彼女にとって、日常の居室でもあり、寝室でもあり、祈祷所でもありました。彼女は布団を片脇に押しやって、祭壇の前に坐りました。
 燈明をあげ、礼拝してちょっと眼をつぶったとたんに、声を立てました。
「あ。」
 はっきり見えたのです。大きな二階家の、二階の中程にある、小さな四角な窓から、煙が濛々と吹き出しています……。身禄さん……。「開経偈」を誦しました。次に、「如来寿量品第十六」を誦しました。
自我得佛来 所経諸劫数
無量百千萬 億戴阿僧祇
常説法教化 無数億衆生
令入於佛道 ……………
 この経を二回繰り返し、それから御題目にはいって、身禄さんを心に念じました。気も軽く、身も軽くなり、自然に、「宝塔偈」と「発願」とを誦しました。
 燈明を消し、寝間着に着替えて、彼女は安らかに眠りました。
 翌日になっても、彼女はもう昨夜のことなど気にかからず、家庭の仕事に取りかかりました。
 その日の、夕陽がまだ高い頃、江口さんがやって来ました。急いで来たとみえて、額に汗をにじまし、息を切らしています。A女の顔を見ると、いきなり言いました。
「やっぱり、火が出ましたよ。でも、ボヤでよかった。」
「わたくしには、もう分っておりました。まあお上りなさいよ。」
「いえ、そうしてはおられませんの。」
 玄関での立ち話しでした。
「どうして、お分りになりましたの。」
 A女は昨夜のことを話しました。その落着き払った様子を、江口さんは呆れたように眺めていましたが、こんどはせかせかと、事の次第を話しました。
 その日の正午頃、二階の中程に住んでる人の室から、火が出ました。アイロンをうっかりつけっ放しにして、買い物に出たあと、過熱のために畳をこがし、襖にも火がついたらしいとのことでした。発見された時は、もう窓から濛々と黒煙が出ていました。みんなで寄ってたかって消し止め、幸に大事に至らないで済みましたが、一時は大騒ぎだったそうです。
「あなたが仰言った通りよ。身祿さんて、すごいんですね。それとも、護って下すったのかしら。将来の警告かも知れませんわね。とにかく、よくお祈りしておいて下さいね。」
「ええ、もう大丈夫でしょう。」
「いやに落着いていらっしゃるのね。わたくし、大急ぎでお知らせに上ったんですのよ。まだいろいろ用があるし、また伺いますわ。」
 江口さんは急いで帰ってゆきました。
 それから、小火の後始末が一段落つきますと、江口さんは、A女の名前だけは祕して、前後のことをやや詳しく人々に語りました。それはただ偶然の一致に過ぎないと、やはり取り合わない者もありましたが、身祿さんにお詣りする者はずっと多くなり、寺の住職にたのんで、供養の塔婆も建てられました。
 江口さんはなお、身禄さんのお祭りをしようとまで考えましたが、余り大袈裟にしない方がよろしかろうとの、A女の助言に、すべて従うことにしました。

◇ピンチです!◇
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