広場のべンチ
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著者名:豊島与志雄 

 公園と言うには余りに狭く、街路に面した一種の広場で、そこの、篠懸の木の根本に、ベンチが一つ置かれていた。重い曇り空から、細雨が粗らに落ちていて、木斛の葉も柳の葉も、夾竹桃の茂みも、しっとり濡れていたが、篠懸の葉下のベンチはまだ乾いていた。
 そのベンチに、野呂十内が独り腰掛けていた。手提鞄を膝に置いて両手で抱え、帽子の縁を深く垂らし、眼を地面に落して、我を忘れたように考え込んでるのである。
 雨を避けてその木陰に逃げこんだのでは、勿論なかった。街路を通る人々のうちにも、傘をさしてる者は極めて少なかった。濃霧とも見做せるほどの細雨である。ただ、空の曇りかたが如何にも重苦しかった。
 十内は溜息をついた。
 先刻、街路の人通りからはぐれるように、広場へふみこんで、ベンチに腰を下す時、殆んど無意識にあたりを見廻した、その動作の感覚が、まだ残っていた。
 あの顔、青服の少女の顔が、また見えてくるかも知れなかった。
 十内が寄寓してる家から、電車通りへ出る道筋の一つに、神社の境内を通過してゆくのがあった。少し遠廻りではあるが、静かだった。裏手からはいって、立ち並んでる大木と社殿との間を通ると、神社の正面に出る。石の鳥居がある。そこから一段低くなってる広地は、縁日などにいろんな催し物が行われる場所だが、ふだんは、木影深くひっそりとしている。その外れに、また石の鳥居があって、そこから急な石段となる。二十段ばかり降りると、ちょっと平地となり、下にまた二十段ばかり続く。
 上部の石段を降りて、平地で息をつき、それから下部の石段を降りかかった時、十内は息をのんだ。下方の空間に、ぽっかりと、あの少女の顔が浮き出していたのである。
 もっとも、それが最初ではなかったようだ。夢ともうつつともなく、前にも一度見たことがある。夜明け頃、まだ眠ったまま、なにか考えごとをしている気持ちだったが、心の眼には、仄白い丸いものが映っていた。それが静止してるとも廻転してるともつかず、ただ明暗の差だけがちらちらしているうちに、額から、眼、鼻、口と、次第に形をととのえて、少女の顔となった。はっと、眼をさますと、室内にまで漂い込んでる薄明るみに、蚊帳が白々と垂れていた。
 石段の下方の空間に現われたのは、もっとはっきりした顔だった。
 長い髪の毛は垂らしているらしく、前髪だけをお河童風に短く切り揃えて、白い額の上部に影を置いている。高い広い額だ。鼻筋がすっきりと清い。眼と口は判然としない。顔全体が静止しながらゆるく廻転してる故であろうか。それとも幻覚の故であろうか。だが、その顔だけで、首から上のぼやけた顔だけで、あ、あの少女だ、と十内には分った。
 忘れていたわけではない。
 強いて記憶の外に放り出していたのである。戦闘、敗戦、俘虜、内地帰還、離散した家族、物資の闇取引など、生活環境の激変は、過去の一切を忘却の淵に埋没させるに好都合だった。然し、その忘却の深淵の中にも、ちょっと気を向ければ、厳然たる事実の岩頭がいくつも見出せるのだった。青服の少女もその一つである。
 揚子江から可なり離れた処に、十内の属する部隊はいた。広漠たる大陸の土地の、所謂点だけの占拠だから、局部的なゲリラ戦は絶え間がなかった。
 遠くに見える兵陵地帯の裾に、小さな部落があって、そこが敵性スパイの本拠と目されていた。僅かな油断の隙間に、こちらが手痛い損害を蒙った、その腹癒せもあって、夜間ひそかに、小部隊で掃蕩に出かけた、ところが、行ってみると、その部落には人影一つなかった。その代り、十数戸の僻村にして意外にも、物資が豊富にあった。甕の中、桶の中、床下など、穀類や脂肪類や酒類が隠匿されていた。秘密運搬のルートに当っていたのであろうか。それとも、他に何か目的を持っていたのであろうか。
 困苦欠乏は前線の兵隊につきものである。この小部隊の兵たちは、突進すべき敵を見失い、警戒すべき情況も認め得ないで、飲食物の方へ飛びついていった。久しぶりの珍味だった、けれどもさすがに、公然たる饗宴とはいかなかった。薄暗い灯影のもとで、言葉少なに腹を満したのである。
 夜が明けてから、改めて屋内の探索がなされた。野呂十内もこの小部隊にはいっていて、あちこちを検分した。そして或る家の奥室に踏み込むと、愕然と立ち辣んだ。
 小さな室で、戸棚と小卓に並んで、狭く長い寝台が壁際に設けられていて、その上に、一人の少女が坐っていた。少女は青色の服をまとって、身動きもせず、まじろぎもせず、はいってきた十内の方にひたと顔を向けたままだった。
 高い小窓からさす薄ら明りの中だったが、彼女の顔は蒼ざめて、まるで血の気を失ってるようだった。十五六才ごろであろうか、髪を編んで後ろに垂らし、前髪だけ取り分けて短く切り揃えている。額が高く広く、鼻筋がすっと清らに通っている。口は少し開きかげんで、物言いたげに見えるが、切れの長い眼は全く無心に見開かれてるだけで、何の表情も帯びていず、強いて言えば白痴のそれである。
 その顔に、十内はいきなり当面して、言い知れぬ衝動を受けた。人形なのか、人間なのか、人間ならば、生きてるのか、死んでるのか、そういう思いが真先に来たが、次に、なにかぞっと不気味な感じがした。没表情な白痴のような眼が、それなりに澄みきって、黒い瞳の奥底から、恐怖と絶望の毒気みたいなものを放射している。然しそれは十内の独り合点だったかも知れない。
 少女はかすかに膝頭を動かし、握り合せてる両手で脇を押えた。その時十内に気付いた。彼女は青服を上半身にまとまってるだけで、折り曲げてる両脚の方は裸だった。誰かに肉体を犯されたのではないか、この少女が。十内は思わず眼を見張った。浅間しさに、その眼を外らしたが、持ってゆきどころがなく、またも彼女の眼とぴたり合った。恐怖と絶望の毒気を吐きつける呆けた眼だ。
 なにか強い力で結び合されたかのように、眼と眼をひたと見合せてるうちに、十内は飛び上った。そして次の瞬間の行動は、十内自身でもはっきり説明がつかないものだった。
 後になって十内は、或る友人のさりげない話を聞いて、内心ひやりとしたことがある。
 その友人の家に、鼠がよくいてわるさをした。罠や薬剤を用いるのも億劫だし、大人気ないので、ただ追っ払うだけにしておいた。鼠の方ではだんだん図々しくなって、人のいる室にまで進出してきた。
 或る晩、彼が夜更しで仕事をしていると、細君がそっとやって来て、茶の間に鼠がはいってるようだと告げた。不届き千万な奴、痛みつけてやれと、足音をぬすんで忍び寄り、襖を閉め切って、鼠をそこに閉じ込めることが出来た。それから電燈をつけ、棒を手にして、鼠を追い廻した。茶箪笥の棚、鴨居の上、長火鉢の陰など、鼠は素速く逃げ廻ったが、しまいにやっと姿を消した。あちこち見調べたら、地袋の棚の上に竹筒の花瓶があるので、その中を懐中電燈で照らしてみると、果していた。鼠は竹筒の中に蹲まって、じっとこちらを見上げていた。懐中電燈の光りで、その顔がまざまざと見えた。もう逃げようともしないで、ただこちらを見ている。丸い眼を一杯見開いてまばたきもせず、こちらを見ている。つまり、懐中電燈の光り中で、鼠とぴったり眼を見合った恰好なのだ。
 そうなると、もういけなかった。彼は頭を振り、室の襖を開け放し、棒で竹筒を突き倒し、鼠を逃がしてやった。
 じっと眼を見合せたのは、それと同じだが、十内のあの場合は、事の次第が全く違っていた。その上、十内は兵士であり武装していた、彼は飛び上って、銃剣で相手を刺殺した。青服の少女は声も立てなかった。
 或るいは、彼女はほんとうに白痴だったのかも知れない。部落中の者が逃げ去った後まで、一人でそこに残っていたからである。或るいは、彼女は特別な意志と意図のもとに、そこに潜んでいたところを、酒に酔った兵のために身を汚され、恐怖と絶望の底に陥っていたのかも知れない。十内の本能的な反応はそれを語るようである。
 では、十内はなぜ彼女を刺殺したのか。惨酷な罪悪と、その痕跡とに対して、憤激したからであったろう。実際そこに、罪悪が現存し、その痕跡が現存していた。彼女の眼はそれを訴えていた。
 然し、その二つを抹殺することによって、十内は別な罪を犯してしまった。彼女の眼を思い起す毎に、十内は身震いするほどの憎悪を覚えた。やがて時がたつにつれて、憎悪の感は薄らぎ、彼女の眼も遠くぼやけていった。
 そして今になって、別な顔が見えてきたのである。
 別な顔、ではあるが、それがあの青服の少女の顔だと、どうして直ちに分ったのであろうか。自分の方に大きな罪悪があった、そのことが、意識されてきたからであろうか。
 局面が違ってきたのである。
 十内は先日、朝鮮戦乱のニュース映画を見た。
 鉄道線路に沿って、避難民が列をなして歩いていた。皆ぼろぼろの服をつけ、足はたいてい跣で、小さな荷物を提げ、とぼとぼと歩いていた。恐らく、行く先も定かでないであろう。その夜の食事も当がないであろう。
 老人があり、子供があり、若い男女も老人か子供のように頼りない姿である。赤児を背負った婆さんもある。そしてそれらの人々が、奇妙に、全く見知らぬ赤の他人の間柄に見える。互に言葉をかけ合うこともなさそうである。ただ黙ってとぼとぼと歩いている。身内の者、親子、兄弟、夫婦など、どこかではぐれ見失って、見知らぬ者ばかりの群れのようである。
 言葉も記憶もない家畜の群れのようなその行列が、道路ではなく、鉄道線路に沿って歩いていることが、殊に佗びしく悲しい。一本の鉄道線路、それは無限に先へ先へと延びてる感じである。彼等はいつまで歩き続けることだろうか。
 そういう難民が、朝鮮中部の狭い地域で、既に百万に達すると言われる。町も村も破壊されつくし[#「破壊されつくし」は底本では「破懐されつくし」]、山や谷の樹木も焼き払われ、史上嘗て見ないほどの惨害だと言われる。
 誰の仕業か。ただ無意味な戦争の仕業である。
 見ていて、十内は涙ぐんだ。中途で映画館を飛び出した。平然と見ておられる観衆に反感を持った。
 更に強い反感が身近かにも起った。
 十内が社員の一人となってる平洋商事会社は、もともと、軍隊時代に知り合った数名の仲間で設立したもので、初めは軍関係の秘密ストック品を殆んど無償で入手して、莫大な利益を得た。それからずっと闇取引を行ってきたが、ここ一二年、経済界が一先ず安定してくるに従い、仕事らしいものをしなくなった。まあ資金回収を主として、待機の姿勢を取るのだと、代表者の岩田武男はうそぶいていたし、誰もそれに不平を言わなかった。各自が毎月、手当とも配当ともつかない金を貰い、勝手な行動をして、会社は休業同様な状態だった。経理面は岩田一人の手に握られていた。
 最近になって、おかしな片言隻語が、下っ端の野呂十内の耳にもはいってきた。会社は社員そっくり抱えたまま身売りをする、との説もあった。一挙に解散してしまう、との説もあった。半官半民の会社に編成替えされる、との説もあった。其他いろいろで、互に矛盾することばかりだった。
 十内は会社に大して関心を持っていなかったが、事のついでに、それとなく聞き探ってみたところ、要領を得ない返事ばかりで、誰にも真相はわかっていないらしかった。そのうちに唯一人、如何にも自信ありげに、また秘密らしく、十内の耳に囁いてくれる者があった。それによると、岩田は当局筋に取り入って、警察予備隊の枢要な地位を獲得しており、未発表だが、それはもう確定した事実だとのことだった。これからは俺たちの天下だ、と彼はつけ加えた。彼もたぶん、岩田と同じ方面に進むに違いなかった。
 十内は唖然としたが、考えてみれば、不思議なことではなかった。なにか、自分一人が迂闊だったようである。
 全く気が付かなかったのだ。日本再軍備を唱道する声さえ起っていたのである。警察予備隊とは軍隊の異名にすぎないらしくもあった。
 迂闊だっただけに、思いがけない壁にぶつかった気持ちだった。岩田や其他数名は、もうはっきりと将来を決定してるに違いなかった。
 今日、十内は赤松重造の事務所へ行った。前以て電話で打合せはしてあったが、赤松は無雑作に五十万円の現金を渡してくれた。もっとも、この節どういうからくりがあるのか、平洋社へは現金がすらすらとはいってくることが多かった。貸借の精算だと岩田は言っていた。赤松は五十万の現金を十内に渡し終って、煙草をふかしながら言った。きれいに支払いしました代りに、こんどは、私の方をもお引立て願いますと、皮肉な語調だった。
 語調ばかりでなく、赤松は煙草の煙の向うで、ちょっと意地悪そうに見える皮肉な微笑を、短い口髭のほとりに漂わしていた。まああなた方で、しっかりやって下さい、とも言った。
 あなた方、とは何事だ、と十内は思った。然し第三者からのその一言は、十内の胸を打つものがあった。岩田とその一味の行動は、もはや確定的とみてよかった。
 だが、そのことと、あの朝鮮戦乱の悲惨な情景とを、どう結びつけて考えたらよいだろうか。いや、どう整理したらよいだろうか。数年前の軍隊生活の苦い経験を思い起しただけでも、十内は途方にくれた。
 紙幣束のはいってる鞄を抱えながら、重い曇り空の下を、十内は思い沈んで歩いた。霧雨というよりはもっとはっきりした細雨が、はらはらと降ってきた。だが、空気は淀んで、掘割の汚水には漣の小皺も立たず、岸の柳の並木の葉にも小揺ぎがなかった。
 その、柳と掘割との間の空間に、また、あの青服の少女の顔が浮んだ。切り下げた前髪、広い額と清い鼻筋、それだけの仄白い顔が、ぼんやりと宙に浮いて見えた。太陽の面に幾重も幾重も紗のヴェールをかけたかのように、その顔がほんのりと白く静止して、そして、それ自体なにかくるくる廻転していた。
 それが、今は、十内には親しく思えた。
 あのあたりには、平地に小さなクリークが多くて、赤濁りの水中に、藻の花が咲いていたり、睡蓮科の大きな葉っぱが揺れていたりした。岸には楊柳が多かった。
 東京の都心近くの掘割の水は、もっと汚く黒濁りがして、水草などはなかった。その代り、岸の柳はすんなりと枝垂れていた。
 そこに浮んだ少女の顔は、やはり大体の輪廓だけで、あの物言いたげな口元も、それから殊に、あの恐怖と絶望の毒気の訴えも、全く見分けられなかった。けれどあの顔だとはっきり分った。
 なにか妙なことになったのだ。その顔が十内に親しく思えたのである。
 眼を閉じて暫し佇むと、もう少女の顔は消えた。十内は思い沈んで、ぼんやり歩いていった。
 河岸通りを過ぎると、横手に公園ともつかない広場があり、誰もいなかったので、十内はそこにはいり込み、篠懸の下のベンチに腰を下した。たいへん疲れた心地だった。
 郷里の伯母の姿が思い出された。
 彼女は農家の広い縁側に坐って、ぼろ布をいじっていた。他の者はみな田圃に出ており、十内の母も兄も墓地に埋っていた。十内が東京に出てゆくのを、伯母はやさしく引立めようとした[#「引立めようとした」はママ]。ここにいなさい、ここにいつまでもいなさい、もうあんなところに行きなさんな、と伯母は言った。
 あんなところ、そうだ、十内は省みて、東京をあんな所と感じた。
 血腥い事件や狡猾な葛藤が、毎日の新聞紙を賑わしており、それからまた、婦人警官だの警察予備隊だの、更には、世界各地から集まってくる軍備だとか戦争とかの報道。忌わしい坩堝だった。
 伯母の顔は日焼けがして、都会人の皮膚の幾倍もの厚さをしていた。その額に深い皺が寄って、土地の起伏を思わせるものがあった。
 その額の皺、その土地の起伏、そしてそこの農民たち、生活の困苦窮乏が表面に見えてはいるが、掘り返したら、新らしい清らかなものが見出せないであろうか。
 あの青服の少女も、農家の娘だった。
 その少女の幻影が、なぜかくも身に親しいものとなったのか、十内自身にも分らなかった。贖罪の心からか、神を想う心情からか、そのようなことは十内の思惟を超える事柄だったが、とにかく、あの少女の幻影を安らかに埋めるには、伯母の膝許が最も好適の地と感ぜられた。
 十内が寄寓してる家の近くで、この頃、毎日早朝、きまって五時に、太鼓の音が聞えた。神社か、神官の家か、または個人の邸宅か、それは分らなかったが、みそぎ祓いでもしているのであろうか、ドーン、ドーン、と初めは緩かに、それから次第に急に、ドンドン、と続き、それが三度ばかり繰り返されるのである。何の調律もないただ単調なだけのその音が、へんに十内の心に泌みた。
 その太鼓の音は、ただ平和な民衆の気持ちに通じるものがあった。
 伯母が暮してる田舎では、盆踊りの囃に、三味線ではなく太鼓が使われるのだった。太鼓の音につれて、老若男女が夜更けまで踊り楽しみ、その円舞の中央に明るく焚火が燃え続けるのである。
 十内は広場のベンチから立ち上り、上衣に露の玉となってたまってる雨滴を払い落した。もう晴れ晴れとした顔付だった。五十万円の紙幣がはいってる手提鞄を、ぼろ屑のように打ち振りながら、しっかりした足取りで、濡れた地面を踏みしめて歩み去った。




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