怒りの虫
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著者名:豊島与志雄 


「ええ、いつでも、明日でもよろしい。お電話下さい。」
「こんどは、のんびりとお目にかかりましょうね。」
 彼女の最後の言葉を、木山は炬燵にもぐり込んで反芻してみた。
≪のんびりと、ゆったりと、たのしく……初めのうちはそうだったが、どうして今日のようなことになったのか。彼女の態度も悪いが、原因は俺にもあるらしい。肝臓だ。肝臓が悪いんだ。≫
 彼は他にちょっと廻ろうかと思いついたが、疲労を覚えたし、酔ってもいたので、やめてしまい、改めて、芸者を二人呼んで酒を飲み続けた。意識が中断し、時間も停止し、何をどうしたか判然とせず、いつ自宅に帰ったかも分らず、翌朝遅く眼を覚して、初めて人心地がついた。

 木山は朝から酒を飲んだ。夜明け頃ふと眼を覚して、ぐっしょり寝汗をかいていたのに、気持ちを悪くしていたし、起き上って顔を洗う時、洗面所に歯磨粉が散らかっていたので、女中を叱りつけ、叱りつけたことで却って気持ちを悪くしていた。そして酒を飲みながら、顱頂部に汗がにじんできたので、気持ちは少しも直らなかった。
 そこへ、八重子夫人が下らない話を持ち出してきた。
 彼女は元来体が弱く、消化不良に悩んでいた。医者にかかるほどではなく、売薬で間に合せていたが、近来、按摩を毎日のように呼んでいた。いつもきまった按摩で、眼も見え、わりに小綺麗な中年の女だった。その按摩が、昨日は差支えあって、代りに婆さん按摩が来た。その婆さんの話である。
 奥さまはなるほど胃がお悪うございますねと、仔細に首を傾けながら、胃病の症状を幾つか話した。その中で、一つへんなのがあった。もう六十あまりの老夫人で、長年胃病に悩み、あちこちの医者にかかったが、どうしても治らなかった。ところが近頃、おかしな症状が起ってきた。物を食べると、胃袋の中のどこかに閊えるのである。汁物までが閊えるのである。そして暫くすると、その閊えたものが、胃袋の底へ、ごっとん、ごっとん、さがってゆく。そして初めて胸が開ける思いをする。柔かい物ばかりでなく、汁物までがそうだから、おかしい。どこに閊えるのか分らないが、確かに閊えて、そしてやがて、ごっとん、ごっとん、下ってゆくのである。医者にみせても原因は分らないし、この節ではもう諦めて、ごっとん、ごっとんを、却って楽しみに待つのだった。
 その話を、按摩はただ座興にしたらしいが、自分で胃弱を悩んでる八重子には、へんに気味悪く響いた。
「いやですわ、胃の中でごっとんごっとん音がするなんて。胃袋が瓢箪みたいにくびれたんでしょうか。」
 八重子は眉間に皺を寄せていた。
 木山は頭を拭きながら言った。
「ばかな。神経のせいだろう。」
「神経のせいにしても、そうなったら、どうなんでしょうね。わたくし、ぞっとしますわ。」
「だから、医者にみせなさいと、いつも言ってるじゃないか。」
「あなたがおみせなさるなら、わたくしもそうしますわ。あなたの方こそ、きっとどこかお悪いんですよ。寝汗をおかきなすったり、頭から汗をお出しなすったり……。」
 木山はいやな顔をして口を噤んだ。何度も繰り返されたことだったのである。木山が医者にかかるなら、自分も医者にかかる、さもなければ……と八重子は主張した。主張というほど強いものではなかったが、繰り返されると、なにか頑迷なものに感ぜられた。そしてそのつど、寝汗だの頭の汗だのが持ち出されるのである。
「ほんとに、医者におみせなすったら……。」
 木山は腹が立ってきた。
「それより、胃袋の中のごっとんごっとんの方が先だろう。僕も、動悸がどっきんどっきんしたら、医者にみせるよ。」
 言ってしまってから、木山はますます不快になった。実際、脈搏が早くなっていたのである。白髪染めの八重子の髪の臭いが、気のせいか鼻についてきた。
 彼はいい加減に酒を切り上げて、外出の仕度を始めた。
 そこへ、事務所から、というより地方新聞の出張所から、電話がかかってきた。
 その地方の神社の一つに、みごとな松並木を持ってるのがあった。その松のうち、二本ほど、昨年から枯れかかっていた。県の技手の調査によると、松食虫の害らしいとのことで、伐採の議が起ったが、古老たちの反対で、まあもう暫く様子を見てみようということになっていた。ところが、どうも生き返る見込みがなさそうだから、暑くならないうちに切り倒して、害虫の蔓延を防ごうということになったが、有力な反対が起った。なにしろ一種の神木に関することであり、慎重を期する必要があるので、も一度、専門の博士に鑑定を仰ぎたい。ついては、木山宇平がこんどあちらへ行く際に、その博士を同道願えないものだろうか。そういう頼みだった。
 木山は忘れていたが、明後日、彼は出張する予定だったのである。
 木山は聞いていて、かっとなった。事務員を怒鳴りつけた。
「予定はあくまでも予定だ。僕があちらへ行こうと行くまいと、それは僕の勝手じゃないか。僕の方にだって都合があるからね。」
 彼は由美子のことを思い出していた。
「松の木のことなんか、今明日にさし迫った問題じゃあるまい。」
 くどくどと、弁解の言葉が受話器に伝わってきた。
「だいたい、ばかげた話だ。何が神木かね。まだそんな迷信が残ってるのか。さっさと切り倒せばいいじゃないか。」
 くどくどと、また弁解の言葉だった。
「そんなこと、取り合うのがばからしい。電報を打つんだ。松食虫に相違ないから、切り倒せと、電報にするんだ。」
 なおくどくどと、弁解の言葉だった。
「そんな下らない用は打ち切ってしまえ。僕は今日は行かないからね。」
 二十分ほども怒り散らして、木山は電話口を離れた。
 彼は書斎に上ってゆき、茶の間に下りてき、庭をぶらつき、それからまた酒を飲みだした。眉をしかめながら、黙々として飲んだ。
 女中を呼んで、すぐに風呂をわかすように言いつけた。
 そして時折、小刻みに頭を震わしてるのだった。
 八重子は慴えたように、彼の様子をひそかに見守るばかりで、口が利けなかった。
 彼はなんだか皮肉な笑みを浮べて、八重子に言った。
「僕はやはり、お前を愛していたようだ。勘弁なさい。医者にもかかる。お前も医者にかかれよ。胃袋のなかの、ごっとんごっとんか。」
 彼はまた黙りこんで、酒を飲んだ。それから、少し気分がわるいから昼寝をすると言って、布団を敷かした。
「風呂がわいたら起してくれよ。」
 八重子は暫くそばについていたが、寝息の音が聞えてきたので、そっと室から出た。
 一時間ばかりたった後、風呂がわいたので、八重子は木山を起しにいった。木山は少しく布団から乗り出し、半眼を見開き、片手を畳に投げ出して、もう息絶えていた。
 呆気ない最期だった。医者の診断は脳溢血だった。
 後になって、八重子は言った。
「怒りの虫にとっつかれたと言うひともありましたが、それにしては、安らかな死に顔でした。」




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