怒りの虫
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著者名:豊島与志雄 

「昨晩もちょっと申しましたでしょう、塚本のこと。」
「だって、あなたはまだ、なんにも話して下さらないし……。」
「それでは、お考え下さいましたの。」
「考えましたが、僕には、事情がよく分らないし……。」
「あなたにとって、不愉快な話だってことはわかっております。けれど、愛情がおありでしたら、心配して下すってもよろしいと思いますわ。」
「そりゃあ、心配していますよ。然し、いくら心配しても、どうにもならないし……。」
「成り行きに任せると仰言いますの。」
「いや、なんとか打開しなければなりませんがね……。」
「あなたのお気持ちを、今日は、はっきり聞かせて頂けませんか。」
「それは、前から言ってる通りですよ。」
 陰欝な気分が次第に苛ら立ってくるのを、木山はむりに抑えた。そして酒を飲んだ。由美子も口を噤んで、猪口を手にした。
 もともと、ちょっとした火遊びみたいな軽い気持だったのが、次第に深みへはまり込んだのである。肉体の関係がついたのがいけなかった、青年同志のようにぱっと燃え立つのでもなく、老人同志のように心底から寄り添うのでもなく、ただじりじりと互に喰い込んでいった。そこへ、別居していた塚本が、愛人と別れ、自家へ帰って来るという事態が持ち上った。素人のくせに手を出した漁業に大失敗をして、危く倒産は免れたが、家産の大整理をしなければならなくなったものらしい。帰って来れば、自然、由美子と同棲することになる。由美子と木山との仲は、塚本もうすうす察知しているだろうが、元来女というものを軽蔑しきってる彼のこととて、どういう家庭生活になるか分らないのである。それが怖い、と由美子は言った。塚本が引越してくる期日は、まだはっきりしなかったが、近いうちにとの通告があった。その通告は、由美子に覚悟を強要するものだったのである。
 彼女は眼を見据えて木山に言った。
「あなたに愛情があるなら、家を出てしまえと、なぜ仰言って下さいませんか。わたしは、その一言が、あなたから聞きたかった。」
「それは、愛情とは別問題ですよ。家を出てから、どうするつもりですか。」
「わたし一人なら、どうにか暮してゆけるでしょう。あなたに御迷惑はかけません。奥さまに御迷惑もかけません。」
「金銭のことを言ってるんじゃありませんよ。人間としての生活のことです。」
「体面のことを仰言るんでしょう。世間の体面と、愛情と、どちらが貴いんでしょうか。」
「そんなこと、今の問題じゃありません。僕ははっきり言っておきますが、あなたを愛しております。だから、あなたの正しい生き方のことを考えてるんです。」
「正しい生き方……。では、塚本と一緒に暮せと仰言るんですね。別れようと仰言るんですね。」
「違いますよ。愛情は育てましょう。然し、その育て方ですが……。」
 彼は口を噤んで、眉をしかめた。窮地に追い込まれた気がしたのである。そして卓上の一点に眼を据え、酒を飲みながら考え込んだ。
≪木山は別なことに思いを走らせるのである。近頃彼は身体の違和を自覚しだしていた。殆んど毎夜のように寝汗をかいた。睡眠は浅く、熟睡の気持を味ったことがなかった。そのくせ、昼間でも、物を考えてるうちに、うとうとすることがあった。手指や足指の先に、軽い麻痺を感じた。脈搏が、時に速くなり、時に緩くなった。顱頂部にしばしば汗をかいた。眼がくらんでくる気がして、足がふらつくことがあった。顔の肉や掌の肉に、厚ぼったく脹れた感じがすることもあれば、げっそり萎びた感じがすることもあった。便通が甚しく不整だった。食慾も不整で、而も次第に減退してゆくようだった。飲酒慾だけは常に旺盛だった。物忘れが甚しく、時によると記憶全体がぼーっと陰った。全身にいつも倦怠感があった。注意力が散漫だった。これはいったいどうしたことか。肝臓にでも異変があるのかも知れないぞ。こんな肉体はもうたくさんだ。≫
 木山が呼鈴を押すのを見て、由美子は心配げに眉根を寄せた。
「またお酒でしょう。もうこれぐらいになすったら。お身体がわるいとか仰言ってたじゃありませんか。」
「なあに、大丈夫ですよ。日本酒だけなら、いくら飲んだって……。」
≪お前が要求するのは、酒、酒、ただ酒だけなのか。≫
「それでは、ほんとに愛情を育てていって下さるおつもりですね。」
「そうです。いま言った通りです。」
「それでも、わたしが塚本と同じ家に住むとなると、やはりおいやでしょう。」
「そりゃあいやですね。」
「では、どうすればよろしいの。」
「あなたの決心次第です。」
「わたしの決心はもうきまっていますの。あなたさえ許して下されば、家を出てゆきます。」
「家を出て、どこへ行くんです。」
「どこでも、あなたのおよろしいところへ。」
「よろしいところって、そう急には見つかりませんよ。」
「しばらくの間なら、宿屋住居だって、ホテル住居だって、構いませんわ。それぐらいのお金は、わたし持っていますから。」
「然し、その先が問題ですよ。」
 由美子はきっとなって、木山を見つめた。
「木山さん、わたしの眼をじっと見つめて下さい。そして、本当のことを言って下さい。」
 木山は彼女の眼を見つめて言った。
「僕はあなたを愛しています。」
「それだけ。」
「それ以上に何がありますか。」
「あなたの仰言るのは、言葉だけですわ。」
「では、どうしたらいいんです。」
 彼女は上目がちに眼を宙に据えて、内心に思いをこらしてるようだった。それは暴風の前兆のようだった。木山は炬燵布団に顔を伏せた。
≪俺がいま、彼女を抱きしめてやったら、彼女の心はすぐに和らぐだろう。然し、そのことがいったい何だ。俺自身、自分の肉体に愛想がつきてるじゃないか。彼女を抱いて寝ながら、俺は夜中によく汗をかいた。かりに、アルコールが体内にぱっと燃え立つ、そのせいだとしても、見っともなく、薄汚いじゃないか。汗の臭気ほど下等なものはない。彼女だって、汗をかくことがあるし、心臓をどきつかせる。なんてざまだ。いや、俺はもっとひどい。ふだんでさえ、ぶるぶる震える手で酒杯を持ち、頭の天辺から湯気を立て、動悸を早めてる。なんていやらしい肉体だ。お前のようなものは、もうたくさんだ。別れようじゃないか。さよならだ。お前ときっぱり訣別したら、俺はどんなにか清々するだろう。ざまあ見ろ。これでさようならだ。お前がいくら追っかけて来ようと、俺はもう振り向きもしないぞ。穢らわしい奴だ。お前ばかりか、由美子の肉体だって、八重子の肉体だって、穢らわしさに変りはない。由美子のは、腋臭めいた臭気がするし、八重子のは白髪染めの臭気がする。いくら香水をふりまいてもだめだ。ざまあ見ろ。さようならだ。≫
 由美子は木山の肩を捉えて揺った。
「木山さん、起きて下さい。そして、はっきり言って頂きましょう。」
 木山は黙って、彼女の顔を眺めた。
「あなたの御本心は、私にじっと塚本のところで辛棒せよと、そうなんでしょう。」
 木山はまだ黙っていた。
「そうしてるうちに、自然と別れることになると、それをお望みでしょう。」
 木山は返事をしなかった。
「よく分りましたわ。もう御心配はかけません。わたしはわたし自身で仕末をつけます。」
 木山はふいに叫んだ。
「勝手になさるがいいでしょう。」
 そして立ち上り、室の中をぐるぐる歩き廻った。暴風の前兆は彼の方にあった。頭がくらくらし、やたらに腹が立った。
「僕の気持ちは前に言った通りです。あなたはいつまでも後戻りばかりしている。別れようと僕に言わせたいんでしょう。そんならそれでよろしい。御随意になすって下さい。」
 ぐるぐる歩いて、それから炬燵に半身を入れて仰向きに寝そべった。
≪俺は何を言ってるんだ。肉体に訣別して、そしてなにかしら精神的な愛情を求めて、あっぷあっぷしてるんじゃないか。それがどうして言葉に言い現わせないのか。なぜ率直に彼女に言えないのか。≫
 由美子の手が伸びてきて、彼は引き起された。
「別れるなら別れると、はっきり致しましょう。ふてくされた真似は、わたしいやですわ。」
「僕もいやです。」
「そんなら、どうなんですの。」
「理屈も僕はいやです。同じことを繰り返すのもいやです。あなたと別れるのもいやです。何もかもいやです。僕は自分自身までいやになってるんです。腹を立てさせないで下さい。」
 めちゃくちゃだった。ただもう酒を飲むより外はなかった。
「それでは、今迄通りでよろしいんですね。」
 話は少しも進展せず、また同じようなことが繰り返された。するうちに、木山はふいに言い出した。
「僕は決心しています。塚本さんに逢ってみるつもりです。」
 由美子は顔色を変えた。
「あなたが、まあ、そんなことを……。」
「逢ったっていいじゃありませんか。僕たちのことは、どうせ塚本さんにも知れてる筈です。逢った上で、きっぱり話をつけましょう。」
「いけません。わたしいやです。第一、奥さまをどうなさるつもりですか。」
「誤解しないで下さい。家内とは関係のないことです。ただ、塚本さんに逢って、僕たちのことをはっきりさしておきたいんです。」
≪また、何を言ってるんだ。腹立ちまぎれの出たらめな思いつきに過ぎないじゃないか。果して実行の意志があるか。彼女からそれを言い出されたとすれば、お前はきっぱり断ったに違いない。出たらめを言うな。ばかなことを言い出して、ますます話をこんぐらかすばかりじゃないか。お前はいったいどうしようというんだ。≫
 由美子は黙りこんでしまった。それからふいに、彼にキスを求めた。
「分りましたわ、あなたのお気持ち。わたし安心して時期を待ちましょう。」
「時期ですって……。」
「いよいよの時まで、静かに待っておりますわ。」
「よろしい、僕に任せておいて下さい。」
 そしてまた、約束のしるしの冷いキスをした。
 それだけで、そして酒を飲むだけで、温い情愛は湧いてこなかった。
≪俺はまったくどうかしてるようだ。なぜ彼女をやさしくいたわってやれないのか。自分自身をやさしくいたわってやれないのか。これはまさしく肝臓のせいだ。肝臓がどこか悪いのだ。肝臓の悪い肉体なんか、ちきしょう、打っちゃってしまえ。≫
 木山は不快な気分に陥っていった。女中が風呂のことを聞きに来たが、彼は一言で断った。
 由美子ももう言葉少なになり、へんに打ち沈んでいた。
「今日は、これで帰ることにしましょうか。ちょっと、用もありますから。」
「そうですね。僕も、もうちょっと飲んでから、そうだ、出かけることにしよう。」
 あやふやな話のまま、自動車を呼んで、由美子は先に帰っていった。
「二三日のうち、またお目にかかれますかしら。」
「ええ、いつでも、明日でもよろしい。お電話下さい。」
「こんどは、のんびりとお目にかかりましょうね。」
 彼女の最後の言葉を、木山は炬燵にもぐり込んで反芻してみた。
≪のんびりと、ゆったりと、たのしく……初めのうちはそうだったが、どうして今日のようなことになったのか。彼女の態度も悪いが、原因は俺にもあるらしい。肝臓だ。肝臓が悪いんだ。≫
 彼は他にちょっと廻ろうかと思いついたが、疲労を覚えたし、酔ってもいたので、やめてしまい、改めて、芸者を二人呼んで酒を飲み続けた。意識が中断し、時間も停止し、何をどうしたか判然とせず、いつ自宅に帰ったかも分らず、翌朝遅く眼を覚して、初めて人心地がついた。

 木山は朝から酒を飲んだ。夜明け頃ふと眼を覚して、ぐっしょり寝汗をかいていたのに、気持ちを悪くしていたし、起き上って顔を洗う時、洗面所に歯磨粉が散らかっていたので、女中を叱りつけ、叱りつけたことで却って気持ちを悪くしていた。そして酒を飲みながら、顱頂部に汗がにじんできたので、気持ちは少しも直らなかった。
 そこへ、八重子夫人が下らない話を持ち出してきた。
 彼女は元来体が弱く、消化不良に悩んでいた。医者にかかるほどではなく、売薬で間に合せていたが、近来、按摩を毎日のように呼んでいた。いつもきまった按摩で、眼も見え、わりに小綺麗な中年の女だった。その按摩が、昨日は差支えあって、代りに婆さん按摩が来た。その婆さんの話である。
 奥さまはなるほど胃がお悪うございますねと、仔細に首を傾けながら、胃病の症状を幾つか話した。その中で、一つへんなのがあった。もう六十あまりの老夫人で、長年胃病に悩み、あちこちの医者にかかったが、どうしても治らなかった。ところが近頃、おかしな症状が起ってきた。物を食べると、胃袋の中のどこかに閊えるのである。汁物までが閊えるのである。そして暫くすると、その閊えたものが、胃袋の底へ、ごっとん、ごっとん、さがってゆく。そして初めて胸が開ける思いをする。柔かい物ばかりでなく、汁物までがそうだから、おかしい。どこに閊えるのか分らないが、確かに閊えて、そしてやがて、ごっとん、ごっとん、下ってゆくのである。医者にみせても原因は分らないし、この節ではもう諦めて、ごっとん、ごっとんを、却って楽しみに待つのだった。
 その話を、按摩はただ座興にしたらしいが、自分で胃弱を悩んでる八重子には、へんに気味悪く響いた。
「いやですわ、胃の中でごっとんごっとん音がするなんて。胃袋が瓢箪みたいにくびれたんでしょうか。」
 八重子は眉間に皺を寄せていた。
 木山は頭を拭きながら言った。
「ばかな。神経のせいだろう。」
「神経のせいにしても、そうなったら、どうなんでしょうね。わたくし、ぞっとしますわ。」
「だから、医者にみせなさいと、いつも言ってるじゃないか。」
「あなたがおみせなさるなら、わたくしもそうしますわ。あなたの方こそ、きっとどこかお悪いんですよ。寝汗をおかきなすったり、頭から汗をお出しなすったり……。」
 木山はいやな顔をして口を噤んだ。何度も繰り返されたことだったのである。木山が医者にかかるなら、自分も医者にかかる、さもなければ……と八重子は主張した。主張というほど強いものではなかったが、繰り返されると、なにか頑迷なものに感ぜられた。そしてそのつど、寝汗だの頭の汗だのが持ち出されるのである。
「ほんとに、医者におみせなすったら……。」
 木山は腹が立ってきた。
「それより、胃袋の中のごっとんごっとんの方が先だろう。僕も、動悸がどっきんどっきんしたら、医者にみせるよ。」
 言ってしまってから、木山はますます不快になった。実際、脈搏が早くなっていたのである。白髪染めの八重子の髪の臭いが、気のせいか鼻についてきた。
 彼はいい加減に酒を切り上げて、外出の仕度を始めた。
 そこへ、事務所から、というより地方新聞の出張所から、電話がかかってきた。
 その地方の神社の一つに、みごとな松並木を持ってるのがあった。その松のうち、二本ほど、昨年から枯れかかっていた。県の技手の調査によると、松食虫の害らしいとのことで、伐採の議が起ったが、古老たちの反対で、まあもう暫く様子を見てみようということになっていた。ところが、どうも生き返る見込みがなさそうだから、暑くならないうちに切り倒して、害虫の蔓延を防ごうということになったが、有力な反対が起った。なにしろ一種の神木に関することであり、慎重を期する必要があるので、も一度、専門の博士に鑑定を仰ぎたい。ついては、木山宇平がこんどあちらへ行く際に、その博士を同道願えないものだろうか。そういう頼みだった。
 木山は忘れていたが、明後日、彼は出張する予定だったのである。
 木山は聞いていて、かっとなった。事務員を怒鳴りつけた。
「予定はあくまでも予定だ。僕があちらへ行こうと行くまいと、それは僕の勝手じゃないか。僕の方にだって都合があるからね。」
 彼は由美子のことを思い出していた。
「松の木のことなんか、今明日にさし迫った問題じゃあるまい。」
 くどくどと、弁解の言葉が受話器に伝わってきた。
「だいたい、ばかげた話だ。何が神木かね。まだそんな迷信が残ってるのか。さっさと切り倒せばいいじゃないか。」
 くどくどと、また弁解の言葉だった。
「そんなこと、取り合うのがばからしい。電報を打つんだ。松食虫に相違ないから、切り倒せと、電報にするんだ。」
 なおくどくどと、弁解の言葉だった。
「そんな下らない用は打ち切ってしまえ。僕は今日は行かないからね。」
 二十分ほども怒り散らして、木山は電話口を離れた。
 彼は書斎に上ってゆき、茶の間に下りてき、庭をぶらつき、それからまた酒を飲みだした。眉をしかめながら、黙々として飲んだ。
 女中を呼んで、すぐに風呂をわかすように言いつけた。
 そして時折、小刻みに頭を震わしてるのだった。
 八重子は慴えたように、彼の様子をひそかに見守るばかりで、口が利けなかった。
 彼はなんだか皮肉な笑みを浮べて、八重子に言った。
「僕はやはり、お前を愛していたようだ。勘弁なさい。医者にもかかる。お前も医者にかかれよ。胃袋のなかの、ごっとんごっとんか。」
 彼はまた黙りこんで、酒を飲んだ。それから、少し気分がわるいから昼寝をすると言って、布団を敷かした。
「風呂がわいたら起してくれよ。」
 八重子は暫くそばについていたが、寝息の音が聞えてきたので、そっと室から出た。
 一時間ばかりたった後、風呂がわいたので、八重子は木山を起しにいった。木山は少しく布団から乗り出し、半眼を見開き、片手を畳に投げ出して、もう息絶えていた。
 呆気ない最期だった。医者の診断は脳溢血だった。
 後になって、八重子は言った。
「怒りの虫にとっつかれたと言うひともありましたが、それにしては、安らかな死に顔でした。」




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