無法者
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著者名:豊島与志雄 

「あ、場所ちがいでしたわね。やまぶきに参った時というお約束でしたから。」
「おや、君に結婚の話でもあるのかい。」とふしぎそうに吉岡が言った。
「やまぶき同様、あってなきが如く、なくてあるが如しさ。」
 志村はなにか忌々しくなって、それからは、言葉少なに酒ばかり飲んだ。
 志村が黙りこんでも、一座は賑かだった。食べものの話、戦争の話、映画や演劇の話、それから殊に人の噂は尽きなかった。ただ、どこかに一線があって、それから先へは踏み込めないようだった。
 志村は今井家へ来る前から飲んでいたので、次第に酔いが深まり、意識が途切れがちになっていった。踏み込んでならない一線を突破しようとしたらしく、何のきっかけでか、へんなことを話した。
 銀座の或るキャバレーの踊り子を誘い出して、ホテルへ行き、彼女を裸にさして、その臍を嘗め、そしてそのまま、ホテルを飛び出してしまった……。それだけの簡単な話だったようだと、志村自身は覚えている。
 どうして時間をすごしたか、志村自身にもよく分らず、その夜遅く彼は自動車で自宅に戻った。途中、銀座のキャバレーに寄ったようでもあり、寄らなかったようでもある。
 夜明け近く、志村は駭然として眼を覚した。
 或る映像が高速度で廻転したのである。
 彼はホテルのベッドに寝ていた。すぐ側に、若い女が仰向きに真裸で横たわっている。彼は静かに上半身を起して、餅のようなその腹部に顔を埋め、臍にキスした。女は死んだように横たわりながら、くく、くく、と軽く笑った。彼がキスを続けると、くく、くく、と機械的な軽い笑いが続く……。
 突然、彼の頭に別なものが浮んだ。湯殿の中だ。誰かが、流し場につっ立って、磨り硝子を通してくる明るみで、自分の臍を見ている。臍の中には、胡麻粒のような黒い垢が点在している。誰かは、その垢の胡麻粒をほじくり出そうとする。初めは少し擽ったく、やがてほろ痛くなる。それを我慢して、しきりにほじくる。ぽろりと、垢の胡麻粒が一つ取れる。跡が蒼白く残っている。誰かは更に、次の胡麻粒にとりかかる……。
 ホテルのベッドで、彼は俄かに飛び上って、ぺっぺっと唾を吐いた。そして大急ぎで服をまとい、靴をはいた。裸の女が毛布をひっかけて、痴呆のように坐っている。その方へ一瞥を投げただけで、彼はドアから逃げ出していった……。
 昨夜、志村は横町の角で自動車から降り、ふらふらと歩いて帰った。ぺっぺっと何度も唾を吐いた。たまらなく不潔な気持ちだった。ステッキを振り廻した。するうちにふと、足を止めた。その薄暗い通りに、誰かが立っていた。彼を待ち受けるように佇んでいた。中年の女だ。髪をすっきりと取り上げ、頸筋がすらりとして、肩が寒そうに薄い。襦袢の半襟だけがぼってりと厚く、帯をきゅっと引き締め、腰から下は細そりして、褄先を心持ち八文字に着こなしている。その女が、顔容は分らないが、彼の方をじっと透し見ていた。あ、と彼は声を立てた。とたんに、彼女の姿はかき消すように見えなくなった。確かに彼が識ってる女だった。誰だか分らないが、よく識ってる女だった……。
 志村は駭然と眼を覚して、夜燈の薄ら明りの中に眼を見開き、幻影の跡を追った。そして歯をくいしばりたいような気持ちで、心の中ではわーと声を立て、布団を頭から引っ被ってしまった。
 その朝、彼は酒を飲まず、終日家に引き籠り、晩にはビール一本だけ飲んだ。それから十日間ばかり、彼は来客の誰にも逢わず、電話にも出なかった。不在、どこへ行ったか分らない、いつ帰るか分らない、それだけのことを女中に言わせ、誰彼の差別はつけなかった。――それから先のことは不明である。




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