無法者
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著者名:豊島与志雄 

 志村は眉をひそめて黙りこんだ。
 房代夫人は彼の手首を押えた。
「ねえ、志村さん、お気に障ったか知れませんが、ほんとはあなたのことを心配してるんですのよ。御結婚のこともゆっくり考えておいて下さいね。ほんとにお似合のかたがございますのよ。あ、そうしましょう、こんど、やまぶきでしたか、やまぶきへお伴しますまでに、お気持ちをきめておいて下さいましね。」
「やまぶき……ほんとにいらっしゃるんですか。」
「ええ、いつでも、日をきめて下さいますれば。」
 房代夫人は立ち上った。何の話もなかったかのように、小さな眼に笑みを浮べて会釈し、広間の方へ去って行った。肥満した体の腰が太く、腰から下の姿がずんどうだった。
 志村はやたらに煙草を吹かした。泥酔後の深夜、ふと眼覚めて、気恥しいことをぽつりと思い出す、あの気持ちに似ていて、なにか叫びだしたかった。そして腹が立った。
 河口と吉岡が通りかかって、志村の前に足を止めた。二人とも少し酔っていた。
「今井夫人につかまってたようだね。」
「なにか意見されたんだろう。」
「あのひと、ちょっとうるさいからね。」
「なぜ逃げ出さなかったんだい。」
 志村は返事もせず、そっぽを向いていた。それから黙って立ち上り、二人の方は見向きもせず、広間へやって行った。
 今井房代夫人は、数人の男女客の上座について、人々の話に頷いてみせていた。志村はその側へ行き、あたりの人に聞えるぐらいな声で言った。
「来週の月曜日にしましょう。」
 房代夫人は平然と答えた。
「やまぶきのことでしょう。迎いに来て下さいますわね。」
「六時頃……。」
「お待ちしております。」
 志村は人々の視線を浴びながら、室を出て行った。

 志村は房代夫人との約束をすっぽかすつもりだった。フグの茶漬けなどといううまくもないものを食う物好きもないものだし、やまぶきという割烹旅館のことも固よりでたらめである。房代夫人もそれぐらいのことはだいたい感づいてる筈だった。
 ただ、志村はなんとなく腹の虫が納まらなかった。房代夫人の打明け話は、彼を侮辱するような毒素を多く含んでいた。彼女自身は恐らくそのことを意識していなかったろうが、それとこれとは別問題だ。
 一般女性の浅間しさというものを、志村は漠然と感じてはいたが、直接それに頭をぶっつけた気がした。あの数々の話そのものが、女性の浅間しさを暴露したものであり、そんな話が伝えられてること自体も、同然であった。外にもどんな話が流布されてるか分らなかった。そしてその浅間しさが、志村を侮辱してくるのである。
 男女間の性的行為に魅力を感じなくなったのは、無軌道な行動のせいだったろうか。あるいは、魅力を感じなくなったために、無軌道な行動をするようになったのだろうか。それが志村自身にも分らなかった。恐らく両者は相互関係にあったのだろう。それにしても、一般に女性があれほど浅間しいものでなかったなら、もっと立派な品性のものであったなら、と志村は自ら言った、俺はこんな侮辱を受けないですんだろう。
 そうは思っても、志村はやはり腹の虫が納まらなかった。むしゃくしゃして、朝酒を飲み、晩酒を飲んだ。酒の習慣というものはおかしなもので、朝に飲むと、晩にも飲みたくなり、晩に飲むと、朝にも飲みたくなる。きりがないのだ。
 月曜の朝、志村が自宅で酒を飲んでいると、房代夫人から電話があった。志村は眉をひそめて、電話口に出た。――房代夫人は約束を忘れていなかったのである。ただ、少しく模様変えをしたいから、やまぶきには室を取らないでおいてほしいとのこと、そして必ず彼女の家に来るようにとのこと、六時には待ってるから忘れないようにとのこと、それだけ繰り返し念を押して、「御機嫌よろしゅう。」
 志村は舌打ちして、もう成り行きに任せることにきめた。
 午後、彼は会社に顔を出し、夕刻、行きつけの小料理屋で酒を飲み、飲んでるうちに時間を過ごして、今井家へ行ったのは七時頃だった。
 女中は志村の顔を見るとすぐ、十畳の日本座敷の方へ案内した。懇意な顔が揃っていた。河口と吉岡、有松夫人と久木未亡人、それに房代夫人、五人で食卓をかこんでいた。フグ料理の大皿が並び、酒の銚子が何本も出ていた。
 房代夫人はくだけた調子で志村を迎えた。自宅ではいつもそうなのである。
「六時のお約束でしたのに、なにしていらしたの。お後れなすった罰に、出迎えませんでしたわ。」
 志村が座席に落着くと、彼女は眼でちらちら笑いながら言った。
「やまぶきへお伴する約束でしたけれど、そのような割烹旅館なんか、どうせでたらめなことにきまってますから、宅でフグ料理を差上げることに致しましたの。ここが割烹旅館のおつもりで、酔いつぶれてお泊りなすっても、宜しゅうございますわ。」
 有松夫人と久木未亡人は眼を見合って頼笑み、河口と吉岡は笑いだした。志村に関するいろんなことがぶちまけられては、酒の肴にされていたに違いなかった。有松夫人も久木未亡人も、志村が例の「内緒話」を囁いた相手なのだ。
 志村は度胸をきめて、猪口を取り上げた。
 旅行中で不在の主人の代理だと、房代夫人は言って、床の間の掛軸を指し示した。今井氏が愛撫してる竹田の山川画で、その斜め下の花瓶には、寒菊が清楚に活けてあった。
 房代夫人とならば、たとい割烹旅館に泊りに行こうと危険なことはないと、この自宅では明かに分った。彼女が肥満していて、立てば腰から下がずんどうで、坐ればどっしりと揺がない、その故ではなかった。なにか愛慾ばなれのした中性的なものが彼女にはあった。今井氏が贔屓にしてる年増芸者の面影を、志村は頭に思い浮べた。
「志村さん、なにを考え込んでいらっしゃいますの。」と房代夫人は言った。「御結婚のこと、お覚悟はきまりましたの。」
「あのような話、きめないことに覚悟しています。」
「あ、場所ちがいでしたわね。やまぶきに参った時というお約束でしたから。」
「おや、君に結婚の話でもあるのかい。」とふしぎそうに吉岡が言った。
「やまぶき同様、あってなきが如く、なくてあるが如しさ。」
 志村はなにか忌々しくなって、それからは、言葉少なに酒ばかり飲んだ。
 志村が黙りこんでも、一座は賑かだった。食べものの話、戦争の話、映画や演劇の話、それから殊に人の噂は尽きなかった。ただ、どこかに一線があって、それから先へは踏み込めないようだった。
 志村は今井家へ来る前から飲んでいたので、次第に酔いが深まり、意識が途切れがちになっていった。踏み込んでならない一線を突破しようとしたらしく、何のきっかけでか、へんなことを話した。
 銀座の或るキャバレーの踊り子を誘い出して、ホテルへ行き、彼女を裸にさして、その臍を嘗め、そしてそのまま、ホテルを飛び出してしまった……。それだけの簡単な話だったようだと、志村自身は覚えている。
 どうして時間をすごしたか、志村自身にもよく分らず、その夜遅く彼は自動車で自宅に戻った。途中、銀座のキャバレーに寄ったようでもあり、寄らなかったようでもある。
 夜明け近く、志村は駭然として眼を覚した。
 或る映像が高速度で廻転したのである。
 彼はホテルのベッドに寝ていた。すぐ側に、若い女が仰向きに真裸で横たわっている。彼は静かに上半身を起して、餅のようなその腹部に顔を埋め、臍にキスした。女は死んだように横たわりながら、くく、くく、と軽く笑った。彼がキスを続けると、くく、くく、と機械的な軽い笑いが続く……。
 突然、彼の頭に別なものが浮んだ。湯殿の中だ。誰かが、流し場につっ立って、磨り硝子を通してくる明るみで、自分の臍を見ている。臍の中には、胡麻粒のような黒い垢が点在している。誰かは、その垢の胡麻粒をほじくり出そうとする。初めは少し擽ったく、やがてほろ痛くなる。それを我慢して、しきりにほじくる。ぽろりと、垢の胡麻粒が一つ取れる。跡が蒼白く残っている。誰かは更に、次の胡麻粒にとりかかる……。
 ホテルのベッドで、彼は俄かに飛び上って、ぺっぺっと唾を吐いた。そして大急ぎで服をまとい、靴をはいた。裸の女が毛布をひっかけて、痴呆のように坐っている。その方へ一瞥を投げただけで、彼はドアから逃げ出していった……。
 昨夜、志村は横町の角で自動車から降り、ふらふらと歩いて帰った。ぺっぺっと何度も唾を吐いた。たまらなく不潔な気持ちだった。ステッキを振り廻した。するうちにふと、足を止めた。その薄暗い通りに、誰かが立っていた。彼を待ち受けるように佇んでいた。中年の女だ。髪をすっきりと取り上げ、頸筋がすらりとして、肩が寒そうに薄い。襦袢の半襟だけがぼってりと厚く、帯をきゅっと引き締め、腰から下は細そりして、褄先を心持ち八文字に着こなしている。その女が、顔容は分らないが、彼の方をじっと透し見ていた。あ、と彼は声を立てた。とたんに、彼女の姿はかき消すように見えなくなった。確かに彼が識ってる女だった。誰だか分らないが、よく識ってる女だった……。
 志村は駭然と眼を覚して、夜燈の薄ら明りの中に眼を見開き、幻影の跡を追った。そして歯をくいしばりたいような気持ちで、心の中ではわーと声を立て、布団を頭から引っ被ってしまった。
 その朝、彼は酒を飲まず、終日家に引き籠り、晩にはビール一本だけ飲んだ。それから十日間ばかり、彼は来客の誰にも逢わず、電話にも出なかった。不在、どこへ行ったか分らない、いつ帰るか分らない、それだけのことを女中に言わせ、誰彼の差別はつけなかった。――それから先のことは不明である。




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