化生のもの
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著者名:豊島与志雄 

「精巧な彫りのある、太い金の指輪、いつもはめていらっしゃるあれですの。」
「ああ、あんなもの、なんでもないじゃありませんか。」
「では、おばさま、お貰いなさいませよ。おばさまになら、きっと下さるわ。」
「そうね。貰いましょうか、ほほほ。」
「あんなの、アメリカ趣味とでも言うんでしょうかしら。」
「さ、どうだか。それより、一時代前の日本趣味とでも言ったほうが、よろしそうですね。」
「とにかく、ア・ラ・モードではございませんわね。あんなの、いつの時代にでも、オール・ド・モードのたぐいでしょう。あのかた自身も、そうですわ。」
「なによ、そのオールなんとか……。」
 美枝子はもう心がそこになく、何を思い出したか、くすくすと笑った。
「わたくしね、おばさま、英語の勉強をはじめましたの。すっかり忘れていたので、自分でもびっくりしましたわ。」
「若いうちに、なんでもやってみるものですよ。先生は……。」
「それが、あまり上手ではないんですけれど……。」
「どなた。外人のかたですか。」
「お上手らしくないから、もちろん、日本人ですの。あの……浅野さん。」
「あ、そう。」
 何気なく返事をしながら、恒子はじっと美枝子の様子を窺った。美枝子は話を外らした。
「それから、おばさま、どうなんでしょうかしら、株の方……。」
「あ、忘れていました。大丈夫、安心しててよさそうですよ。さっきね、高木の奥さまにお目にかかって……御存じでしょう、総理府のあのかたの奥さま……それとなく探ってみますと、船の方は見込みが多そうですよ。あんたもまた、無鉄砲に背負いこみすぎてるようですけれど、まあ今のところ、なんとか辛棒するんですね。望みがありそうですから、手放さないことですね。」
「おばさまは、どうなさいますの。」
「わたしも、時期を待つことにしましょう。それから、ちょっと、あんたを紹介したい方があるから、あちらへ行きましょうか。」
 立ちかけて、俄に、恒子は美枝子の手を押えた。
「ところで、あのこと、このままでよろしいかしら。」
「あのことって……。」
「なんですか、顔を赤めて……。」恒子は頬笑んだ。「噂のたてっぱなしで、ほおっといて宜しいかしら。もっとも、相手のひとが誰だか、それこそ、まったく根も葉もないことだし、あんたもこうして、平気で人中に出てるんだから、間もなく噂も消えてしまうことでしょうけれど、なにしろ、問題が問題ですからね。」
「だって、今更、取り消すわけにもまいりませんでしょう。」
「だからさ、わたしがまた一骨折りしなければならないかと思って……。」
 美枝子は眼を足先に落した。
「ほおっといて、大丈夫だと思いますの。もう噂はこりごりですもの。それに、わたくしも、どうせ覚悟の上のことですから。」
 恒子はまだ不安心らしく、美枝子の顔を覗き込んだ。それから、気を変えるように立ち上った。
「あまり心配させないで下さいよ。」
 二人は黙って歩き出した。

 板倉邸でティー・パーティーが催された日、而も真昼間、妙な事件が起った。
 板倉邸は広い敷地で、コンクリートの塀に取り巻かれていた。その塀から出外れてしばらく行くと、左手が五メートルばかりの低い崖になっており、崖の下に小さな泥池があった。そのへん、崖の下は一面、戦災の焼け跡で小さな人家がぽつぽつ建ってるきりで、雑草の荒地と菜園とが入り交っていた。泥池は湧き水だが、赤く濁って、もう子供たちもそこでは遊ばず、木片を浮べて放置されたままだった。その泥池の崖上に、松が数本、ひょろひょろと植っていた。
 その松の木立のところで、突然、二人の男が格闘を始めたのである。二人とも洋服姿の、相当な身なりだった。一人は五十年配の肥満した男で、一人はまだ若く痩せ型だった。年寄りの方がぶらりぶらり歩いてゆくのを、若い方が追っかけてきて、なにかちょっと言葉をかけ、いきなり殴りつけたものらしい。そして暫く揉み合ってるうちに、年寄りの方が、突き落されるか足を滑らすかして、子供みたいに崖下へ転げ落ち、泥池にはまってしまった。若い方は、それを上から眺めて、しばく[#「しばく」はママ]突っ立っていたが、自分の帽子を拾うと、足早にすたすた行ってしまった。
 その光景を目撃したのは、通りがかりの二三人に過ぎなかった。短時間のことで、訳が分らなかった。馳けつけてみると、男は池の中に坐りこむようにして、ぽかんとしていた。それからのこのこ逼い出してきた。見物人は小径伝いに降りてゆき、彼を崖上に援け上げた。大した怪我もなさそうだった。
「この近所に、自動車はないかね。」
 びっくりするほど元気なそして横柄な調子で、彼は尋ねた。
 この近所に自動車はなかなか見当るまいと聞いて、彼はちょっと考えてる風だったが、帽子は忘れ、泥水にずぶ濡れになったまま、すたすた歩き出して、板倉邸の方へ行き、その裏口へはいってしまった。見物人は呆気に取られた形だった。
 その男が、星山浩二だった。星山は板倉邸へ裏口からはいってゆき、下男をよんで、ティー・パーティーの際だからと秘密に頼み、遠い自宅へ電話をかけて、着換えを持って自動車の迎いを依頼し、下男部屋を借りて身体を洗った。額と腕に擦り傷があるだけだった。まだ可なり酔っていた。
「酔ってたため、崖から落ちても、怪我がなくて済んだよ、ははは。」
 彼は磊落そうに笑った。
 それだけのことだったが、然し、秘密には済まなかった。板倉の家人たちにはすぐに知れ渡った。格闘を目撃した者もいたのである。然し、様子を見に来た警官に向って、星山は、下らないことだと言い、襲われたのは事実だが、顔見知りの男だし、物取りでもないことだし、内分に願うと言った。
 事件は一応落着した。
 その話が、翌日の夕方、立花恒子の耳にはいった。彼女はティー・パーティーを早めに辞去したため、その時は知らなかったのである。なにか胸に思い当ることがあって、彼女は板倉邸へ電話し、なお事情を確かめた。考えこみながら夕食をすましたが、どうにも落着かず、自動車を駆って小泉美枝子を訪れた。
 美枝子が出て来るまで、恒子は応接室の中をぐるぐる歩いていた。
 彼女は立ったまま、美枝子の腕を掴んだ。
「まあ、あんた、知ってるの。」
「どうなさいましたの、おばさま。」
 美枝子はにこやかに彼女を迎え、隅の方のソファーに招じた。
 恒子は急に気落ちした思いで、美枝子の顔をしげしげと眺めた。思い惑った末、漸く言い出した。
「昨日、あの板倉さんのティー・パーティーの日にね、星山さんが、途中で誰かに襲われなすったこと、知ってますか。」
「あ、あのことでございますか、おばさま。存じておりますわ。」
「それなら、わたしに電話ぐらいして下すってもよろしいでしょう。」
「だって、つまらないことですもの。」
「いえ、わたしが言うのは、星山さんのことではありません。どういう人が、どういうわけで襲ったか、それがすこし気になって、わざわざ、こうして出て来たんですよ。わたしたち、星山さんとはああした係り合いがあるでしょう。だから、もしも、その襲った人にも係り合いがあったら、どうしますか。こんどは、噂だけでは済みませんからね。警察の方からも人が来たそうですよ。」
「そのようなこと、御心配なすっていらしゃいますの[#「いらしゃいますの」はママ]。それでは、おばさまにお目にかけるものがございます。」
 美枝子は立ってゆき、間もなく、一つの封筒を持って来た。
 封筒にはただ、「小泉美枝子様、必親展」とだけしてあった。
「今日の午後、宅の郵便箱にはいっておりましたの。御本人が自分で投げ込んでいったものと思われます。」
 恒子は封筒を開いた。粗末な紙に几帳面な[#「几帳面な」は底本では「凡帳面な」]細字が竝んでいた。

 御別れしなければならなくなりました。私は田舎へ引込みます。愛情にかけて、万事を御許し下さい。
 詳しい御話を承わってから、私はHを憎みました。校舎増築について前からHを知っていただけに、猶更、憎悪の念が深まりました。あなたは一笑に附しておいでになりましたが、噂話其他により、またS夫人の仲介により、世間的にあなたの顔へ泥を塗ったのは、みなHが原因です。
 あなたが私の頬を打たれた真意はどこにあったのでしょうか。あなた自身の自己解放の契機と、私は理解します。然しそればかりではなく、Hへの復讐、ひいては男性一般への復讐も、交っていたに違いありません。
 板倉家の観菊の会へあなたがおいでになることを、私は知っていました。それは何でもありません。然し、Hも行くことを私は偶然知り、憤慨しました。あなたの身辺にHが存在することは、あなたを涜すことです。尚且、嫉妬反目の念も私にあったことは否定しません。
 私は殆んど無意識的に、板倉家の近くを彷徨しました。中にはいって行くことの出来ない自分自身を苛立ちました。その時、板倉家から出て来るHを見かけました。酒に酔ってるらしい彼の足取りは、更に私を激昂させました。
 私は彼を追いかけ、崖のところで呼び止めておいて、迂濶にもあなたの名前を口走り、彼の頬を殴りつけました。あなたの名前を口に出したのは、全く迂濶でしたが、然し私は冷静でありました。あなたに代っての復讐という気もあったのです。
 彼は私に抵抗し、組打となりました。一瞬、私には殺意が萌しました。これは重大なことです。然し幸にも、彼は崖から転落して、その下の泥沼にはまり込みました。もし彼が酒に酔っていなかったら、彼は大兵肥満で強力ですから、私の方が締め殺されるか、泥沼に投込まれるかしたことでしょう。
 Hは私を知っております。校舎増築のことでです。Hとしては、私をこのまま放任してはおきますまい。必ずや陰険な仕返しをするに違いありません。そうなると、自然、あなたの御名前も出ることになるかも知れません。私はあなたに累を及ぼすことを何よりも恐れます。
 私は一方ならぬ恩義を御宅から受けています。然るに、何を以て私はあなたに御報いしたでしょうか。私は自殺をも考えました。然し、それは却って悪結果になるかも知れません。
 私はいつも非常な恐怖と悲哀と歓喜とに嘖まれました。自分の道ならぬ恋愛を怖れました。地位や身分や境遇から考えても、いずれは御別れしなければならないと悲しみました。なおそれらを超えて、あなたの愛情に浸ることは天国的な喜びでした。私は深夜、独りで、どんなにか涕泣し且つ絶叫したことでしょう。
 然し、もう凡て終りです。現実は苛酷です。私は身を退きます。恋する者にとっては、恋人は神聖無垢なものでなければなりません。私にとってあなたは神聖無垢です。それが、私のために、たとい一点の汚点でも附いたら、私は堪え切れませんでしょう。私の胸の奥に神聖無垢なあなたが永久に留ることを、御信じ下さいますでしょうか。私は今、あなたに対する感謝と愛とで一杯です。同時に、世間というものに対する憎悪で一杯です。
 私は田舎に戻り、一切のことを妻に告白するつもりです。妻は理解してくれるでしょう。明朝、学校へは辞表を出します。それから、この手紙を御宅の郵便箱へ届けます。お目にかかる勇気はとてもありません。T様の方へは、よろしく御取りなしおき下さい。

 手紙の署名は、ただM・Aとあった。
 恒子は大きく溜息をついた。
「ねえ、おばさま、法律か哲学の文章みたいでございましょう。」
 恒子は飛びあがって、美枝子の手を押えた。
「これ、ほんとうのことですか。」
「さあ、御本人が書いたのですから、たぶん……。」
「あんた、冗談じゃありませんよ。よく平気でおられますねえ。」
「だって、ほかに仕様がございませんわ。それに、もう済んでしまったことですから。」
「まだ、昨日からのことですよ。もし間違って、新聞にでも書かれたらどうします。万一のことがあったら、揉み消してもらうように、手を廻しておいてもいいんですけれど……。」
「大丈夫ですよ、おばさま。昨日から今日で、すんでしまったんですもの。そしてじきに、明日になりますわ。」
「明日……またなにか始めるつもりですか。」
「いいえ。」美枝子は頬笑んだ。「もうおばさまに御心配かけませんわ。」
「ああ、なんだか分らなくなってきた……。もっとよく考えてみます。あんたも考えておきなさいよ。明日、宅へ来て下さいね。」
「伺いますけれど、おばさま、ほんとに、大丈夫でございますよ。」
 恒子はまだなんだかそわそわしていた。卓上に置き放しの手紙を、美枝子の懐に押し込んでやり、冷えた紅茶を一口飲み、すぐに立ち上った。
 表には自動車が待たしてあった。
「御機嫌よろしゅう。」
 自動車を見送って、美枝子は、皮肉めいた笑みを頬に浮べながら、家にはいった。そのあとに続いて、女中が玄関の扉を閉した。




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