女心の強ければ
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著者名:豊島与志雄 

     一

 松月別館での第一日は、あらゆる点で静かだった。二日目も静かだったが、夕刻、激しい雷雨雷鳴が襲ってきた。
 天候の異変は、却って人の心を鎮める。
 いいなあ、と長谷川梧郎は思った。
 本館では、客がたて込んでいて、騒々しく、仕事など出来そうになかった。もっとも、或る文化団体の嘱託事務のかたわら、際物の翻訳などをやっている、その翻訳の仕事だから、大したものではなく、懶けたとてさほど差支えはなかった。だが、石山耕平から長谷川を紹介された松月館主人は、数日後、長谷川に言ったのである。
「こちらは、あいにく、たて込んでおりまして、お仕事が出来にくいかも知れません。お宜しかったら、別館の方はいかがでしょうか。少し不便ですが、妹が一人いるきりで、静かなことはこの上ありません。」
 それで、長谷川は別館に移ってきた。
 本館から、温泉町を少し通り、裏へそれて、狭い田舎道をだらだら上り、だいぶ行ったところ、丘の裾に、ぽつりと建ってる二階家なのである。あたりには、農家が二つ三つあるきり。浴室はあるが、温泉はまだ通じていない。不便なこと、少しばかりではない。湯にはいるには本館まで行かねばならないし、飯はこちらでたくが、料理は本館から番頭か女中かが運んでくる。
 別館といっても、実は、便宜上の名目にすぎず、特別な客を時折泊らせるだけで、二階が二室、階下が三室、普通の住宅らしい造りである。松月館主人の妹という、三十歳前の女、表札によると三浦千代乃が、一人で住んでいる。
「わたくし一人で、御不自由でしょうけれど、御用はなんでも仰言って下さい。隣りの百姓家のお上さんも、使い走りをしてくれますから。」
 眼を外らさずにじっと見て、てきぱきした語調である。
 小鳥が少し囀ずり、蝉が少し鳴き、淋しいくらいの静けさだ。
 二階の縁側から、天城山が正面に見える。
 西空から差し出てきた積乱雲が、むくむくと脹れ上り、渦巻き黒ずみ、周辺の白銀の一線も消え、引きちぎられたように乱れ流れて、やがて天城山までも蔽いつくすと、一陣の凉風と共に、大粒の雨がさーっと来た。あとはもう天地晦冥、驟雨の中に、雷鳴が四方にこだまし、電光が縦横に走った。それが、いつ止むとも見えなかった。
 長谷川は室に寝ころんで、硝子戸越しに外を眺めた。壮快で、頭の中の塵埃まで洗い流される心地であり、しかもうっとりとしてくるのである。
 雨よ降り続け。雷よ鳴り続け。
 長い時間がたった。
 音もなく、千代乃が立ち現われて、室の入口に片膝をついていた。
「ひどい雷ですこと。二階はあぶないから、下へいらっしゃいません?」
 落雷の危険があるとすれば、二階も階下も同じことだろうし、彼女自身、少しも危ながってはいない様子だ。長谷川がむっくり身を起すと、彼女はもう先に立って降りていった。
 茶の間の長火鉢のそばには、本館から届いたらしい料理が食卓に並んでおり、銚子まで添えてあった。
「今晩も召し上りますでしょう。」
 電気が来ないから、電熱器は使えないというので、長火鉢に炭火をとって、その銅壺で酒の燗をするのである。それでも、山の中の雷雨の夕は暑くはなかった。
「昨晩は、いい御機嫌でしたわ。」
 騒々しい本館からこちらへ移ってきて、気分の調和がとれず、町に出て酒を飲んできたのだった。毎日晩酌をするわけではなかったが、酒は好きだった。
「お酒まで用意して頂いて、恐縮ですね。あなたも、あがるんでしょう。」
「そうね、少し頂こうかしら。」
 独りごとのように呟いて、彼女は茶箪笥から自分の猪口を取り出し、台所から料理の皿を持ち出してきた。
 茶の間といっても、床の間つきの六畳。その床の間には、南画風の山水の軸物に、青磁の香炉、片わきに琴が立てかけてある。長火鉢はきれいに拭きこんであり、彼女は、少し古風なと思われる髪形に、生え際凉しく高めに結いあげ、柳と燕を大きく散らした藍色の着物に、博多の一重帯をしめている。細おもての頬の肉附きが薄く、眼には強い視力がこもっていて、理智的な光りがある。細い指先で、器用にお酌をしてくれる。
「どうも……自分でやりますよ。」
 長谷川はなんだか、気持ちがしっくりしなかった。
 雷はまだやまず、蒼白い閃光が、薄暗い室にぱっぱっと差し込んできた。それが却って酒の肴になり、長谷川は手酌であおり、こんどは、千代乃の方にもお酌をしてやった。
「こちらに、女中さんはいないんですか。」
「一人いますけれど、あちらの方が忙しい時は、手伝いに、やりっきりにしておりますの。」
「しかし、こちらだって、別館でしょう。」
「そうなんですが……表札を御覧になりまして?」
 表札には、松月別館とはしてなく、ただ三浦千代乃とだけあるのだった。
「あ、あなたの家ですか。」
「そういうことになっておりますが、実は、柿沼のものなんです。」
「柿沼……。」
「わたくしの主人ですの。」
 柿沼治郎、東京の郊外で、小さな製菓会社を経営している人だとか。然し、千代乃はその主人のことを、あまり語りたくないらしかった。
「柿沼、いやな名前でしょう。わたくし、きらいですわ。」
 皮肉めいた微笑を浮べている。名前が嫌いなのか、人柄が嫌いなのか、そのへんのことは曖昧だった。
 ふと気がつくと、いつのまにか電燈がともっていた。電力が足りないらしく、ぼんやりともってるので、意識されなかったのであろう。雷鳴はもう遠退いたが、雨がしとしと降り続いている。雷雨のあととも思えないような、しめっぽい降り方だ。
「こんなところに、一人でいらして、よく淋しくありませんね。」
「もう、馴れていますもの。」
 そう言いながらも、途切れがちな話の合間には、自然と、外の気配に耳をかすらしい様子だった。
 雨音だけがしていた。
 千代乃はつと立ち上って、手洗いに行き、それから、裏口、表口、二階と、すっかり戸締りをしてしまった。
「こんな雨の晩、沢蟹がいやですわ。」
 家のそばに、小さな谷川があって、雨で水がふえると、沢蟹が岸へ這い上ってくる、それがいやだと言う。
「沢蟹なら、むしろ、可愛いじゃありませんか。」
 ところが、実際、いやなことがあったのである。
 二キロばかり下手の、渓流に沿って、杉の密林がある。そこに、先月、死体が発見された。行き倒れか、服毒自殺者か、それは分らないが、もう半ば腐爛しかけていて、前夜雨が降り、ずぶ濡れになっていた。その死体に、沢蟹がいっぱいたかっていた。
「ほんとですか。蝿とか烏なら、死体にたかることもありましょうが、まさか、沢蟹が……。」
「おおぜいの人が見たんです。誰にでも聞いてごらんなさい、みんな知っていますよ。」
 或るいはそんなこともあるかも知れない。あるとしたら、想像するだにいやな情景だ。半ば腐りかけてる濡れた死体に、沢蟹がうじゃうじゃたかっている……。
「思い出すと、いやーな気持ちですの。」
「いやな気持ちって……あなたも、見たんですか。」
「いいえ、聞いただけですけれど……。」
 少し現実すぎる話だ。そんなことより、むしろ怪談の方が他愛なくてよかった。
 酒を飲みながら、長谷川は怪談をもち出した。ひとから聞いたり、書物で読んだりした、さまざまな幽霊や妖怪変化の話。
 長谷川はもとより、千代乃も、幽霊やお化を信じなかった。然し二人とも、笑いはしなかった。怪談の特質として、たとえそのようなことは信じなくとも、なにか他界の気配に耳を傾けるような、異様な気分になっていった。
 すると千代乃は、長谷川の怪談に対抗して、超自然的な異変を持ち出してきた。幽霊やお化は全くの作りごとだが、他にいろいろ不思議なことが実際にあると言う。
 親しい友とか身内の者とかが、遠く離れていて死ぬ場合、その人の姿がぼんやりと、枕元に立ち現われる、などという話は嘘だけれど、家の棟に大きな音がしたり、柱が軋り鳴ったりすることは、実際にある。――一家の主人の運命が大きく変転する場合には、その庭の木が、時ならぬ花を咲かせたり、俄に立ち枯れたりすることが、往々ある。――人間の運命と自然現象とは、たいてい気息を通じ合っている。――キリストは、その信仰によって奇蹟を行ったのではなく、逆に、奇蹟に出逢ったことによって、キリストの信仰が大きく展開したのである。
 そういう話になると、彼女の肉附きの薄い頬は、酒の酔いもすーっと引くかのように、蒼ざめかげんに緊張し、眼はじっと見据ってくる。
 議論の余地はなく、ただ、信ずるか信じないかだけだ。
 長谷川は魅入られたような心地になって、酒を飲んだ。
 雨はまだしとしと降っていた。
「こんなこと、誰にも話したことありませんの。内緒にしといて下さいね。」
 長谷川は彼女の眼を見返した。人間の運命と自然現象との関係のことなら、単なる意見にすぎず、内緒もなにもあったものではない。
「内緒って、そんなこと、まだ何もお話しになりませんよ。」
「そうね、お話ししてもいいけれど……。」
 なにか考えこんで、それからふいに、くたりと姿勢をくずした。
「お酒、まだたくさん残っておりますわ。飲みましょう。」
 打ち明け話などなにもなく、もう彼女の眼は、睫毛をちらちらさして微笑していた。それだけが室内に宙に浮いて、屋外の闇の深さが感ぜられる夜だった。
 風もないらしいのに[#「 風もないらしいのに」は底本では「風もないらしいのに」]、硝子戸がごとりと揺れた。彼女ははっとしたように、長谷川を眺めた。
 長谷川は頬杖をつき、水をがぶがぶ飲んだ。
「お床を伸べましょうか。下でもよろしいでしょう。」
 立ち上ると、足がふらふらとしていた。
 奥の室に布団が敷かれた。長谷川のと、すぐくっつけても一つ敷かれた。
 着物をぬぎ捨てたまま、布団にもぐりこんで、ぐったりとなった。眠るともなく、とろとろとしているうちに、どちらからともなく、互の足先が触れ、次で、互の手先が触れ、それから、どちらが抱き寄せたのか寄り添ったのか、深夜のなかで分らなかった。
 夜明け近い頃、長谷川は遠く鶏の声を聞いた。それと共に、千代乃の言葉をも聞いた。
「御免なさい。わたしが誘惑したのよ。だから、あまり深く想っちゃいけないわよ。」
 それも、果して彼女が言ったのだろうか。言ったとしても、どういう意味だろう。謎の深まってゆくような気持ちのなかで、長谷川はぐっすり眠った。

     二

 ひどい濃霧だった。
 遠くの山はもとより、近くの丘も木立も、一切見えなかった。外を歩いていると、牛乳の中に浮いているような心地で、霧は眼にしみ、鼻をふさいだ。
 千代乃が出かけてるので、長谷川は遠くへは行けず、家の近くをぶらついた。それから、小さな橋の欄干にもたれて、霧の下を流れる水に見入った。
 ふと顔を挙げると、霧の帷のかなたに、千代乃の姿が、透し絵のように浮き出していた。顔の表情ははっきりせず、洗い髪を左肩に乱しかけ、右手に風呂敷包みらしいものをさげ、腰から下はぼやけている。それが、立ち止って、霧の中からこちらを見ているのだ。
 長谷川はとたんに、虚をつかれた感じだった。
 あれから数日、二人はまったく愛人同士のように暮したのである。同じ卓で食事をし、同じ室に寝、代り番こに留守居をして本館の湯に出かけ、そのくせ、戸に錠をかって一緒にあちこち歩き廻った。
「わたしたちのこと、兄さんもうすうす感づいてるようよ。」
 千代乃はそう言って、屈託もなさそうに笑い、長谷川も頬笑んだ。
 けれども、不思議なことには、二人は情熱をもって抱擁しながらも、心からの愛を誓うことがなかった。彼女は時に黙りこんで、遠い彼方に目をやり、何か考え耽った。彼はうつむいて、あの時の夜明けの、彼女の謎のような言葉をかみしめた。互に踏み越え難い一線、或るいは踏み越えてはならない一線が、暗黙のうちに劃されてるかのようだった。
 その一線は何であろうか。
 今に明るみに曝してやる、と長谷川は考えた。それは愛の親和ではなく、男性と女性との闘争に似ていた。
 霧の中の千代乃の姿は、透し絵のように捉え難い点で、彼の頭の中にある千代乃の象徴とも見えた。
 長谷川はじっと眺めやった。
 千代乃の姿は、やがて、ゆらりと動いて、こちらへ歩いて来た。すぐそばへ、橋の欄干にもたれて、並んだ。
「ひどい霧、こんなよ。」
 肩の黒髪をぱらりと背後へさばき、右腕のあたりの浴衣に左の掌をあてて見せた。霧にしめってるのであろう。それから、右手の風呂敷包みを、帯のところまで上げて見せた。
「いい物を持って来たわ。何だかあててごらんなさい。」
 長谷川は黙っていた。
「こんなとこで、なにしていらしたの。帰りましょうよ。」
「お酒、ありますか。」
「あら、昼間からあがるの。」
「こんな霧だから。」
「じゃあ、霧のはれるまで。」
「そう、霧のはれるまで。」
 歩くのにも、足元があぶなかった。
 家の中にはいると、着物がしめっぽくしっとりしてるのが、はっきり分った。
 千代乃が持って来たのは、大した物ではなく、鮑五つに栄螺七つ。ただ、取りたてのように生きがよく、形も大きく揃っていた。
 それよりも、長谷川の心を打ったのは、彼女が懐から取り出してくれた手紙だった。石山耕平から松月館へ来たのである。
 いい加減に書き流した普通の手紙で、居心地はどうか、仕事は出来るか、と尋ねていた。――宿泊料が安いかわりに、建物は粗雑だから、客が込んでると、騒々しいかも知れない。あまりうるさいようだったら、別館というのがあるから、そちらへ移ったらどうか。これは静かで、松月館主人の妹がいるはず。少し変り者らしいが、仕事の邪魔にはなるまい。隙があったら、近々、自分もちょっと行くかも知れない……。
 そのなんでもない手紙が、改めて、長谷川の現状をまざまざと見せつけてくれた。もう別館というのへ移ってしまっているのだ。仕事のことはまあよいとして、千代乃にはまりこんでしまっているのだ。
 あの夜以来の習慣となったのだが、酒は火鉢の銅壺で燗をする、その酒を長谷川は飲みながら、水貝をすくい、壺焼をつっついた。
「鮑も栄螺も、とびきり生きがいいって、自慢していましたよ。暗いところに伏せておけば、幾日ももつんですって。」
 長火鉢の前にぴたりと坐り、水色の地に波の白線を大きくうねらした浴衣の襟元をきつく合せ、散らし髪で猪口を手にしてる、彼女の姿は、なんだか情の薄い冷たさに見えた。
 その長い黒髪を、深夜、長谷川は自分の首にまきつけ、心で泣いたことがあった。けれども、眼に涙は湧かなかったのである。
 霧は濛々として、屋内にまではいってくるようだった。
「これ、見てごらんなさい。」
 石山からの手紙を差し出した。
「見ても、よろしいの。」
 彼女はざっと読んだ。反応は示さない。
「ひとを紹介しておいて、悪口ばかり言っている。」
 彼女は微笑した。
「あなたのことも、変り者だと言っている。どこが変ってるのかしら。」
「それは、石山さんの方が、変っていらっしゃるからでしょう。」
「変り者には、普通のひとが変り者に見える、ということですか。然し僕は、石山と親しくしてるが、変り者とは思いませんね。」
「でも、あのかた、女を軽蔑していらっしゃいます。」
「さあ、それはどうだか……。」
「男のひとって、たいてい、女を軽蔑していますが、それを、隠したがるでしょう。石山さんときたら、おおっぴらに、軽蔑なさるのよ。」
「それで、変り者ですか。」
 ちらと、長谷川の頭に閃めいたものがあった。猪口を置いて、真面目になった。
「あなたは、石山をよく御存じですか。」
「よくは存じませんが、あちらに滞在なすってた時、兄と一緒に、なんどか、遊びにいらしたことがありますの。お酒に酔ってくると、わたしに、琴をひいて聞かせろだの、なんだのって、うるさいかたよ。」
「そして、あなたの方では、石山を誘惑しそこなったんでしょう。」
「誘惑……。」
 小首をかしげて、千代乃は怪訝そうだった。
「僕ははっきり覚えています。御免なさい、わたしが誘惑したのよ、とあなたは、あの朝がた、僕に言いました。」
「あ、あのこと、実は、本当なの。」
 平然と、そして頬笑みさえ浮べて、彼女は話すのである。
 彼女は先ず兄に説いた。本館は騒々しくて、長谷川さんのようなお仕事には無理だろうから、こちらへ移られてはどうだろうか。それを兄が承知すると、彼女は辰さんを解放してやった。辰さんというのは、裏の野菜畑の手入れや本館の雑用などをしてる、臨時雇いの爺さんで、彼女が一人きりの時には、こちらに泊りに来ることになっていた。その辰さんには、長谷川さんが滞在なさるからと言って、近くにある自分の家へ、夜は帰すことにした。それからあの大雷大雨の夜。酒や怪談……。
 余りに淡々と話されると、却って嘘のようだった。
「こちらへも、時々お客さんがあるのでしょう。そんな風に、いつも誘惑なさるんですか。」
「まあ、そんなこと、誰に向って仰言るの。」
「それでは、どうして、僕に目をつけたんですか。」
 彼女は眉根をちらと寄せて、それから急に、真剣な面持ちになった。
「ためしてみたんです。」
「え、僕を。」
「いいえ、わたしのこと。」
「御自分をためしたんですか。」
「もうためしてしまったから、打ち明けましょうか。」
 それがまた、超自然的なことだった。
 或る夜、それも深夜、床の間に立てかけてある琴の、十三本の絃が、じゃじゃんと、一度にかき鳴らされた。そしても一度、じゃじゃんと。彼女は眠っていたのだが、事前にふっと眼を覚して、確かにそれを聞いた。あとはしいんとして、ことりとの物音もない。怪しんで起き上り、そこらを見調べたが、琴にも、どこにも、異状はなく、鼠一匹いなかった。
 翌日の夜、また同じことが起った。
 一種の奇蹟なのだ。奇蹟は、運命の転廻を意味する。それをためしてみたのである。
「あなたを、相手に選んだこと、御免なさい。」
 口では御免なさいと言いながら、少しもあやまってる風はなかった。
「そして、ためした結果は、どうなんです。」
「まだ、ためしただけで、あとのことは、待ってるだけですの。」
 そうなると、これはもうはたから窺□すべからざる事柄だ。
 長谷川は最後の反撥を試みた。
「それにしても、あなたはいいましたよ、あまり深く想ってはいけないと。そのことも、僕ははっきり覚えています。」
 千代乃は黙っていた。
「僕も、もう三十五にもなるし、多少の分別はあります。あなたの迷惑になるようなことはしません。然し、深く想おうと、浅く想おうと、それは僕の自由にさしといて下すっても、いいでしょう。」
「いいえ、違いますの。そんなことじゃありません。」
「では、どういうことですか。」
「わたし自分のことなの。」
「僕は、僕の方のことを言ってるんですが……。」
「違います。わたしのことよ……分らないの?」
 ふいに、片手を差しのべ、彼を打つまねをしかけたが、とたんにその手を引っこめ、ぽつりと瞼にたまった涙を、指の甲で拭いた。それを押し隠すように立ち上って、縁側に出てゆき、硝子戸を開いて、外を眺めた。
 長谷川にとっては、全く思いもかけない所作だった。彼はただ酒を飲むより外はなかった。
 千代乃は座に戻ってきて、まだ硝子戸の方へ眼をやりながら言った。
「お酒は、もうよしましょうよ。霧がはれかかってきたようなの。裏山にでも登ってみましょうか。霧の上から富士山が見えてくるところは、きれいですよ。」
 何を言ってることやら、気まぐれにも程がある、と長谷川は思った。裏山の頂からは富士山がよく見えたが、それももう彼には面白くなかった。
「こんど、天城山に登ってみましょうか。」
 それも気まぐれらしいが、天城山なら彼も気が惹かれた。
「行ってもいいですね。」
 もう話を元に戻すすべはなさそうだった。
 彼は残りの酒を飲み、本館へ湯にはいりに出かけた。
 彼女の言ったことすべてが、本当のようでもあり、嘘のようでもあった。何の手掛りもなく、掴みどころがなかった。
 霧のはれるまで……彼はそれを思い出して、口の中で呟いた。
 霧はじっさいはれかかっていた。ぼーっと日の光りがさしていた。
 長谷川はもうなんにも考えないことにきめ、無心の気持ちを求めて、ぶらぶら歩いた。松月館にいっても、むっつりと黙りこみ、そして長々と湯に浸った。帰りは田舎道を遠廻りして、農家の鶏小屋などを覗いて廻った。
 そして事もなく日が暮れ、早めに戸締りをしてしまった千代乃と、またちょっと酒を飲んだ。御飯は食べる気になれなかった。
 天城登山のことなどを、何気なく話しあった。
「天城山の渓流には、沢蟹がいますか。」
「いますでしょう。」
「この辺には、ちっともいませんね。」
 本館からの帰りに、長谷川は沢蟹を探したが、一匹も見つからなかったのである。
「雨が降れば、出て来ますよ。」
「こないだのような晩にでしょう。」
「あら。」
 千代乃は睥むまねをして、そして笑った。
 死体と沢蟹の話も、もう遠くなっていた。
 突然、裏口の戸が激しく叩かれた。遠慮のない叩き方だった。
 千代乃が立ってゆき、戸を開くと、辰さんが提灯をさげて佇んでいた。
「旦那が見えましたよ。いま、湯にはいっておいでだが、食事は、あちらか、こちらか、さて、どっちかな。なにか、御用はありませんか。」
 家の中まで筒ぬけの大きな声だ。
 千代乃はまた戸締りをして戻ってきた。
「柿沼さんですか。」
「そうなの。」
 彼女は落着きはらって、猪口を取り上げ、飲んだ。
「いつも、ふいにやって来るのよ。だから、少しぐらい酔っていたって構やしないわ。」
 だが、長谷川はさすがに落着けなかった。千代乃の様子が、太々しいとさえ思われた。黙りこんで、急いで酒を飲み、二階に上っていった。千代乃があとからついて来て、布団を敷いてくれた。
「あ、忘れていた。髪を結わなくちゃならないわ。」
 長谷川の眼をじっと見て、指先の方を痛いほど握りしめた。
「おやすみなさい。」
 彼女の長い散らし髪が、長谷川の眼の底に残った。
 久しぶりに寝る二階の寝床は、なにか新鮮な感じだった。彼は腹這いになって煙草をふかした。
 千代乃がまた上ってきた。お盆の上に、銚子と猪口、薬缶とコップが並べられていた。
「どちらでも、およろしい方を。」
 そして眼でちらりと笑った。
「さっきね、辰さん、あれで、気を利かしたつもりなのよ。分って?」
 味方があるから大丈夫だというつもりなのであろうか。けれども、長谷川はそのために却って苛ら立ちを感じた。
「おやすみなさい。」
 長谷川は返事をせずに、銚子を取り上げ、コップで飲んだ。

     三

 柿沼治郎は三泊だけで東京へ帰って行ったが、その中二日間、彼は用件を持っていたらしく、外に出歩いたり、来客があったりした。殊に松月館主人の松木恵一とは、たいてい一緒だった。
 長谷川は二階の室に引籠りがちで、仕事に専念しようとした。然し寝ころんでることが多く、とりとめもない妄想に耽っては、あとで、自ら気付いて苦笑した。
 心に、隙間があったのだ。その隙間から、なまぬるい風が流れこんできて、ざわざわと、妄想をかき立てる。下品な浅間しい妄想ばかりだった。
 濃霧の中を千代乃が持って来てくれたもの、鮑五つに栄螺七つ、それをみな、彼女は自分に食べさせてくれるだろうか、或るいは柿沼の食膳にも出すだろうかと、長谷川はしきりに推測してみた。あの晩たしか幾個食べたから、まだ幾個残ってるはずだ……。
 自分で気がついてみると、これは滑稽を通りこして浅間しかった。このようなことをよくも考えめぐらしたものだと、驚かれるのだった。たとえ正確に計算出来たとしても、鮑や栄螺のたぐい、売ってる店はあるだろうし、いつでも、買えるだろう。ばかばかしいことだ。また、あの残りを彼女が柿沼に食べさせようと食べさせまいと、そんなことにいったい何の意味があるか。
 一種の嫉妬であったろうか。嫉妬には灰汁の苦さと蜜の甘さがあるものだが、それがなかった。
 長谷川は朝食がおそく、昼食をぬきにして、夕食をとる。その給仕は、本館から来る女中がすることもあり、千代乃がすることもあった。だが彼はむしろ、独りでゆっくり食べることを好み、千代乃を階下へ追いやった。
「分ってるわ。気になさらないでね。」
 千代乃の態度には、何のこだわりも見えなかった。それが却って、長谷川には物足りなかった。
 千代乃ばかりではなく、松木にせよ、柿沼にせよ、ほとんど長谷川を眼中に置いてないかのようだった。他の来客と一緒に、酒宴をし、高笑いをした。それが実は、当然だったとも言えよう。二階の一旅客に気兼ねする理由など、全くなかったはずだ。
 然し長谷川にしてみれば、それが、自分の地位の急な転落とも感ぜられたのである。謂わば、主賓から一挙に居候に成り下ったのである。あてがいぶちの食事をぼそぼそ食べ、そこにごろりと寝ころんで、暮れかかった空を眺めていると、へんに佗びしい気持ちになった。食後の皿小鉢をさげにさえ、誰もなかなかやって来ないのである。
「もうお済みになりまして?」
 千代乃が上って来て声をかけても、彼は起き上らず、返事もしなかった。
 千代乃は縁側に佇んで、彼方の天城山の暮色を眺めた。
「ひまになったら、天城山に登りましょうね。」
 彼はただ機械的に頷いて、心の中では、ひまになったら、とその言葉を苦々しく繰り返した。
 すべてなにもかもひまになったら、だった。彼女はいま、ひまではないのだ。主人の柿沼の相手をし、兄の松木の相手をし、其他の人々の相手もしなければならないのだ。そんなことのために彼女は存在しているのであろうか。
 惜しい……その思いに長谷川はぶつかった。惜しい、そして残念だ……。
 彼女の面影が、宙に浮き出してありありと見えてくる。強い視力のこもってる眼が、じっとこちらを見ているし、肉附きの薄い細面の頬が、きっと引き緊って蒼ざめている。何かを待っているのだ。
 あのまま、あんな連中のなかに、打ち捨ててはおけない。惜しい、そして残念だ。
 この感情を愛そのものだとは、長谷川は自認しかねた。然し、憐愍には甚だ遠く、恋愛に甚だ近いものだった。しかもいま、彼は彼女の相手になり得る地位にいないのだ。
 長谷川は突然立ち上って、外に出で、町や野道を歩き、ビールを飲み、煙草をふかし、それでも自分自身をもて余して、帰って来、また室の中に寝そべった。
 階下からは、琴の音が響いてきた。千代乃が弾いているのだ。不思議なことに、彼女はこれまで琴に手を触れようとしなかったが、柿沼が来てからは、ひまさえあれば琴を弾くようになった。コロリンシャン、コロリンシャン……やたらにひっかき廻している。それも柿沼へのサーヴィスなのであろうか。いや、なにか違う。
 長谷川が寝ころんで聞いていると、琴の音はいつまでも絶えそうになかった。彼は琴曲のことには不案内だったが、歌物ではないらしく、ただ手の技を主とする緩急高低の音色の連続だ。変化はあっても似たり寄ったりで、人の精神へではなく情緒へだけ絡みついてくる。何を訴えようとしているのであろうか。
 長谷川は、また、謎を投げつけられたような気持ちになるのだった。琴の前に坐ってる千代乃の姿は、想像しただけでも、あの洗い髪の彼女と、あの理知的な彼女と、両方に引っ張りだこになって、しっくりした落着きがなかった。
 このことで、長谷川は更に苛ら立ちを覚えて、琴の音から気を外らそうとした。室の中を飛び廻ってる蝿に、注意を集めてみた。その羽音がどこかに消えると、琴の音も遠くかすかになり、やがて、足音もなく千代乃が立ち現れて、にっこりと眼付きで笑みかけ、指先を痛いほどきゅっと握りしめる……自惚れきった妄想だ。
 彼はいつも、ひとり放り出されていたに過ぎない。
 だが、この間に長谷川は、爺やの辰さんから、いろいろなことを聞き出した。辰さんはこちらに用がふえて来てることが多く、合間には畑の野菜物、遅蒔きの茄子や大根の手入れをしていた。その仕事を長谷川が通りがかりに佇んで眺めていると、辰さんの方からしばしば話しかけてきた。つまらない世間話ばかりだったが、その中には千代乃のことも出て来た。
 千代乃と兄の松木恵一との姓が異ってるのは、千代乃は母方の三浦姓をついでるからだとのこと。また、柿沼治郎には本妻があって、もう長年、肺の病気のため、どこかの療養所にはいってる由。その本妻の没後には、柿沼は千代乃と正式に結婚する約束になってる由。
 辰さんはずけずけと口を利いた。
「松月館も、先代までは盛んなもんでしたよ。それが、今はあの通り、まあ三流どころになったもんだから、旦那がやきもきなさるのも無理はありませんや。」
 やきもきの内容というのは、つまり、若月という、家は小さいが一流の旅館が、内々で売り物に出てるのを、柿沼外数名に出資させて、買収しようとかかってることらしい。
 そういう商売上の事柄は、長谷川にとっては興味もなく、秋茄子の話や大根の間引きの話の方が、よほど面白かった。
 辰さんは不平を言った。
「奥さんも訳がわからん。お客さん一人の時は、泊りに来ないでいいと言っといて、御亭主が見えるというと、またわたしを泊らせるんですからなあ。もっとも、用もふえたがね……。」
 そんな何気ない言葉に、却って、長谷川は虚をつかれるような思いがした。一方、やけくその気持ちも動いた。ともすると、千代乃を愛してるのか憎んでるのか、分らなくなることもあった。
 そして最後に、思いがけないものにぶつかった。
 朝の陽差しが煙るように陰り、さーっと細い雨がきて、それが暫く降り続き、また急に陽が照ってきた。その雨脚や陽脚を、長谷川は二階から眺めていたが、ふと、庭の片隅に眼がとまった。自然石が配置されてる石南花の茂みの中に、鳥らしいものがひそんでいる。鶏か鳶か鷹か、とにかく大きなやつで、地面に頭を突っ込むようにしている。それが、いつまでもじっと動かない。何かを食おうとしているのであろうか。何かに捕えられているのであろうか。身動きをしない。
 長谷川は急いで降りてゆき、玄関の下駄をつっかけて、見に行ってみた。側で見ると、思ったほど大きくはなく、普通の山鳩で、頭をぐったり地面に押しつけ、横倒しになっている。死んでるのだ。褐色の羽子に雨滴がたまっている。
 その山鳩の足先に、長谷川は手を差し伸べた。濡れた死体は硬ばっていて、ぶらさげても、びくともしなかった。ぶらさげて、さてどうしようかと、長谷川は迷った。
「山鳩のようですね。」
 縁側から声がした。頭髪を五分刈りにした男がそこに立っていた。長谷川は前に見かけたことがあるので、柿沼治郎だと分った。
「死んでいますね。その辺に置いといて下さい。あとで片付けさせましょう。」
 全く無関心な、冷やかな調子だった。
 長谷川は山鳩の死体を庭石の上に置き、手を打ち払い、本能的に煙草を浴衣の袂にさぐったが、無かった。
 柿沼は縁側に煙草盆を持ち出した。
「さあ、どうぞ。」
 招ぜられるまま、長谷川はやって行き、煙草を一本取り上げた。
「毎日、御勉強のようですね。」
「いや、つまらん仕事です。」
「御挨拶もしませんでしたが、少し、お邪魔だったでしょう。今日、午後、たちます。あとはまた静かですから、ゆっくり御逗留なすって下さい。」
 事務的に響く淡々とした調子だった。
 その時、長谷川は、後々まで残る深い印象を受けた。――山鳩の死体をぶらさげてた自分の滑稽な恰好。遠くから視線を交わしたことはあるが、初めて近々と出会ったのにしてはおかしな対話。それらのことをも忘れるほどの印象なのだった。
 柿沼は背がやや低い方で、頸は短く、肉付きは逞しく緊っており、五分刈りの頭は大きく見え、顔は浅黒く、鼻の太い丸顔……まあ普通に見かける事業家のタイプだった。ただ、その眼差しに、なにか陰にこもった影があった。直接に相手を見ないで、紙一重ごしに覗ってるというところがあった。松月館主人の眼差し、相手の意向に迎合しながら別なことを考えてるような眼差しとは、全く別種なもので、初めから相手の意向などは無視し、しかも自分自身をも影の中に潜み隠してるのである。言葉の冷淡な無関心な調子も、それに由るのであろうか。更に、その眼差しに宿ってる一種の影は、憂暗な色合を帯びていて、額の上まで拡がっている、というよりは寧ろ、額全体に憂暗なものが漂っていて、それが眼差しにまで影を落しているのだ。
 そういう印象に、長谷川はなにか心暗くなり、柿沼の顔から眼を外らした。
「お邪魔しました。」
 言い捨てて、歩きだし、それから、手の煙草も投げ捨てた。
 烙印、額に烙印、というものがあるとすれば、柿沼の憂暗の影はそれではなかろうか。
 長谷川は掌で、自分の額をしきりにこすった。
 今まで忘れていたというのではないが、なんとなく避けていたことに、彼は思い当った。
 もう、千代乃に対する本心を、はっきりさせなければならないのだ。たかが柿沼の第二号と……そんなふざけたことではない。一個の三浦千代乃とのことだ。
 一人になって考えてみよう、と彼は思った。柿沼がたってしまえば、もう、どこへ行こうと、誰かに、或るいは自分の気持ちに、ここから逃げ出したと後ろ指をさされることもないのだ。
 朗かとまではゆかず、悲壮めいた気持ちで、長谷川は林の中を歩き、渓流のほとりをさまよい、水車のそばに佇んだ。そして、本館へ湯にはいりに行った時、お上さんに、明日たつ旨を伝え、勘定書を求めておいた。
「まあ、左様ですか。何にもおかまいもしませんで……。」
 善良なお上さんは、一晩泊りの客にも長逗留の客にも、同じような態度なのだ。
 柿沼がたってしまうと、別館は以前通りの静けさに返ったが、千代乃はなにか苛ら立ち、そしてなにか思いつめてるようだった。
 彼女は二階に長谷川の夕食を運んでき、酒も出してくれた。
「これはわたしから、お名残りのお酒です。大丈夫、柿沼の飲み残しではありませんから。」
 ぶっつけに彼女は言った。
「では、あなたも少しお飲みなさい。」
「ええ、ほんの少し……。」
 彼女は猪口を受けた。
 だが、二人とも黙りがちだった。
「長谷川さん。」彼女はじっと彼の眼を見つめた。「あなたは、どうしても明日、お帰りなさるの。」
「ええ。」
 長谷川は軽く頷いた。
「東京へ?」
「一応、帰ります。」
「明日でなくては、いけませんの。」
「明日と限ったことはありませんが、とにかく、ここをたちます。」
「東京へは、明後日でも宜しいんですね。」
 長谷川は彼女の顔を見たが、表情では何も読み取れなかった。
「どういう意味ですか。」
「いえ、それだけ承っておけばいいんですの。」
 長谷川は言質を取られたのを感じた。そのあとは、とりとめもない言葉だけで、そして沈黙がちな食事。
 千代乃はなにか忙しそうだった。
 夜は、辰さんが早くにやって来て、早く寝てしまった。
 長谷川も早めに寝た。自分でも案外なほど、千代乃の肉体に未練を感じなかった。余りに考えすぎたからだったろうか。

     四

 風があって、空には白い雲が飛んでいた。その朝になって長谷川に千代乃は言った。
「わたしも、ちょっと東京へ行くことにしましたの。御一緒にね。途中、湯ヶ原で降りましょう。天城山の代りよ。」
 彼女は楽しそうに笑った。昨夜とちがって、何の屈託もなく朗かそうだった。
 長谷川は呆れた。だが、もう成り行きに任せようと覚悟をきめた。
 松木夫婦や女中たちの見送りの手前も、彼女は平然と、長谷川に続いて自動車に乗りこんだ。
 時間はゆっくりあった。国鉄本線へ乗り換える前、三島神社で遊んだ。
「あなた、別館へと言って、別にお茶代をお置きなすったわね。今朝兄さんからあれを貰って、わたしへんな気がしたわ。」
 神社の境内で、彼女は突然そんなことを言いだして、くくくと笑った。
 襟元凉しく髪を取り上げ、はでな明石縮に絽の帯、白足袋にフェルトの草履、そしてハンドバッグに日傘、ちょっと物見遊山という身なりだった。その側で長谷川は、色あせた麻服の自分を、供の男めいて顧みられ、上衣をぬいでやけにシャツの襟をひろげた。
 湯ヶ原の旅館は、その嫁さんが千代乃のお琴友だちとかで、前夜の千代乃の電話で、室の用意がしてあった。渓流に上高く臨んだ室で、水音はうるさいが凉しかった。
 湯を一浴びしてから、千代乃は嫁さんのところへ行き、なかなか戻って来なかった。長谷川は水音に耳をかしながら、うっとりと仮睡の心地にあった。神経がへんに疲れてるようだった。
 夕食の料理が運ばれて来たのは遅く、それとほとんど同時ぐらいに千代乃は戻って来た。
「御免なさい。久しぶりだったものだから、すっかり話しこんでしまって……。」
 そんなことはどうでもよく、長谷川はただ投げやりな気持ちで、酒の猪口を取り上げた。
「あなた、前からそんなに、お酒あがっていらしたの。それとも……。」
「それとも……なんですか。」
 千代乃の眼に光りが湛えた。
「わたしとのこと、後悔なすってるんじゃないの。」
「どうしまして。光栄としてるんです。」
「冗談ぬきにしてよ。なんだか不機嫌そうね。」
「不機嫌どころか、これで、たいへん嬉しいんです。」
 そんな言葉がすらすら出るのが、長谷川自身でも意外だった。たしかに、松月館とは気分が違っていた。
「今日は、真面目にお話したいことがあるのよ。だから……。水の音がちょっとうるさいわね。」
「なあに、聞きようですよ。僕はさっき、あれを聞きながら、うとうとしちゃった。あ、ここのお嫁さん、あなたの琴のお友だちですって。水音も、お琴の音みたいなもので……。」
「あら、こないだのことを言っていらっしゃるの。」
 彼女は声を立てて笑った。
「あれ、わたしの策略よ。大成功だったわ。」
 彼女はそれを独りで楽しむかのように、なかなか話さなかったが、いちど口を切ると、例の通り、明けすけにぶちまけてしまった。
 つまり、辰さんの話の若月旅館の一件なのである。松木はそれを買い取ろうと、盛んに柿沼を口説いた。柿沼の方でも、大規模の製菓会社がいろいろ出来てきた現在では、彼の小さな会社は、戦後の一頃のような利益がないばかりか、次第に経営さえ困難になって来たので、もともとその土地出身者ではあり、松木の旅館業経験をたよりに、後図をはかる気にもなって、二、三の共同出資者を物色し始めた。その方はまあそれとして、若月旅館をいったい誰が実際に切り廻してゆくか。人任せには出来ない。大体のことは松木がやるとしても、松木には松月旅館があるし、松木の妻も善良すぎて手が廻りかねるし、結局千代乃を実務の監督に据えようと、そこに話が向いてきたものらしい。前々からの懸案なのである。
「このわたしを、宿屋のお上さんに、そして女中頭に、すえようとたくらんでるのよ。ねえ、この年齢で、可哀そうでしょう。」
 だから、千代乃は反対をとなえた。然し、いくら嫌だと言い張っても、むつかしい条件をいろいろ持ち出しても、結局は無視されそうになったので、最も単純素朴な策略を思いついたのである。お琴の勉強をほんとにやりたくなったので、たとえ若月旅館にはいるとしても、毎日、朝から晩まで、お琴ばかり弾くが、それでもよいか。例えばこんな風にと、彼女は示威運動に、あの二日間、一生懸命に琴をかき鳴らした。
 長谷川は腹をかかえて笑った。
「呆れたひとだ。」
「呆れたでしょう。柿沼も兄さんも呆れかえって、話はうやむやになっちゃったの。でもわたしの方は、おかげで、忘れかけてた千鳥の曲のおさらいがすっかり出来てしまった。」
 得意そうに微笑してる彼女は、まるで無邪気な少女のように見えた。だが、薄暮の空遠くに眼をやって、呟いた。
「窮すれば、通ずる……。」
「しかし、温泉旅館のお上さんというのも、わるかありませんよ。」
「女中頭にしたって、そりゃあそうよ。」
「普通のひとの羨むぐらいな、りっぱな地位身分じゃありませんか。」
「地位身分……そうだわ。それがわたしの気に入らないの。」
「それじゃあ、ただの女中なら?」
「同じことです。」
 きっぱり言いきって、彼女は眼を見据えて考えこんだ。
「わたし、便利すぎたんだわ。」
 なんのことか、長谷川には分らなかった。
「何にでも役立つという、便利なものがあったら、面白いでしょうね。室の中の、ここがすいてるからと、そこに据える。ここが淋しいからと、そこに据える。こんな役に立つといっては、それに使う。そのような便利な道具があったら、面白いでしょうね。」
 皮肉な影が眼に浮んでいた。
「宿屋のお上さんに、丁度いい。女中頭に、丁度いい。病気の女房代りに、丁度いい。お妾さんに、丁度いい。第二夫人に、丁度いい。別荘番に、丁度いい。何にでも役に立って、便利なんだわ。」
 顔をきっと挙げて、まともに長谷川を見た。
「長谷川さん、あなたまでが、情婦に丁度いい、なんて言ったら、承知しないわよ。」
 言葉はヒステリーみたいだが、調子は少しふざけていて、眼にはまだ皮肉な影があった。
 長谷川もそれに応じた。
「それじゃあ、千代乃さん、色男に丁度いい、なんて言ったら、僕も承知しませんよ。」
「承知しないで、どうなさるの。」
「殺してしまう。」
「そんなら、わたしも、あなたを殺そうかしら……。」
「ええ、どうぞ。」
「死んで下さる?」
「殺されたら、死ぬより外はないでしょう。」
「そうね、殺されたら死ぬより外はない……。」
 突然、一陣の風のように、真剣な気合が流れた。
「誓いましょう。」
 彼女に応じて、長谷川が手を差し出すと、その五本の指を、彼女は力一杯に握りしめた。
「痛い。」
 長谷川は手先をうち振った。彼女はまた手を差し出して挑んだ。その五本の指を、長谷川は力こめて握ってやった。細そりした指先だが、彼女は別に痛がらず、長谷川は力ぬけがした。
 黙っていると、川の水音だけが耳につく。たいへん深い下の方を流れるような水音だった。戸外はもう暗い夜だった。
 千代乃は女中を呼んで、酒を求めた。
「今晩、酔ってもいいでしょう。その代り、すっかりお話しするわ。」
「そう、泥でも砂でも、吐いてしまいなさい。」
「まるで、罪人のようね。罪人かも知れないわ。わたし、復讐したんだから。」
「復讐……僕に?」
「まあ、せっかちね。」
 千代乃の言葉は、断片的で、独断的で、まるで飛石伝いに歩くようなものだった。
 それを総合してみれば、つまり、彼女は柿沼や松木に復讐したのである。彼女を現在の境遇に陥れたのは、柿沼と松木との共謀によるもので、柿沼の病妻の死後には正式に結婚するという約束はあるにせよ、共謀の裏に相互の利害関係がひそんでることは確かだった。彼女は物品の如く売買されたのだ。そして彼女はなにも知らないうちに、ほとんど暴力的に肉体を奪われた。そして今度は、甘言を以って、旅館経営に徴用されかかっていた。そこに一度はいり込んだら、もう恐らくは一生、脱け出すことは出来ず、五十歳近い柿沼の最後の看病にまで、利用されることであろう。愛情もなく、生き甲斐もないのである。彼女は反撥し、反抗した。嘗て彼女も、恋愛を経験したことがあり、相手の男は戦争中に陣没したが、忘れかけていたその青春が、また芽を出した。長谷川が、どこやらその男に似ていたのだ。身を以てする復讐、そして身を以てする復活。彼女は長谷川を虜にした……。
 そこまでは、甚だ平凡であり、通俗小説の筋書きに等しかった。
 然し、彼女の心理には、特殊なものがひそんでいた。超自然的な奇蹟、人間の運命、その両者の関連など、普通の理知からはみ出した信念があった。深夜に琴がひとりでに鳴り響いたのも、彼女にとっては一種の啓示であり、あの日の大雷雨も、彼女にとっては一種の啓示であった。そして長谷川との肉体の交渉は、到達点ではなく、出発点に過ぎなかった。出発して、そして何処に到るかは、ただ神のみぞ知る。
 千代乃は、頬の皮膚を薄紙のように張りきり、眼に深い光りを漲らして、長谷川を見つめた。
「覚悟していらっしゃい。わたし、もう一生あなたを離さないし、あなたから離れないから。」
 長谷川もいつしか、覚悟をきめていた。
 遁れられない運命だと、なんとなく彼女の説にかぶれかかっているのである。
「僕だって、もう覚悟はしている。その代り、あなたも、あの言葉は取り消しますね。あまり深く想っちゃいけないということ……。」
「あの時はそうだったの。でも、今は違います。」
「では、条件なしですね。」
「ええ、無条件。」
 無条件の……降伏か、勝利か……そんなことが、ちらと長谷川の頭に浮んだが、彼はすぐ眉をしかめた。まるで違ったものだ。そして無条件ということは、ひどく自由であると共に、ぬきさしならぬ感じだった。
「無条件に……。」彼女は言葉を探す風だった。「生きていきましょう。」
 長谷川は頷いた。
「わたし、東京には、三田に伯母さんがあるから、柿沼のところには行かないで、そちらに泊ることにしているの。あなたのこと、その伯母さんに打ち明けて構いませんか。」
「構いません。」
「分ったわ。大丈夫、打ち明けなんかしません。でも、遊びにいらしてね。いい伯母さんよ。」
「それでも、なんだか……。」
「いやよ。毎日来て下さらなくちゃ、いや……。」
 駄々をこねるように、彼女は長谷川の肩に頭をもたせかけて、身体ごと揺った。酔ってるのか、甘えてるのか、恐らくは彼女自身にも分らなかったろう。長谷川も陶然として、彼女に甘えたくなった。
 渓流の音は、不思議にもう耳につかなかった。その代り、空に月が出ていた。長谷川は立ち上り、月を仰いで、それから電燈を消した。室半分、青白い月光だった。

     五

 ――長谷川梧郎に宛てた三浦千代乃の手紙――
 こちらへ帰って参りましてから、十日あまりになります。そしてようやく、なにもかも申し上げられる気持ちになりました。この山の中では、朝夕はもう凉しく、野には秋草の花が咲き、薄の穂が出ておりますけれど、ただいまは夜更け、月や星がきれいでしょうけれど、それも私には無縁、ただ虫の声だけが胸にひびきます。涙ぐんでいるのではございません。夜の深い静けさのなかに、むしろ、頬笑んでいるとでも申しましょうか。けれども、私としては、こんな時に頬笑むのは、泣くよりも、もっと淋しいことですの。
 三田の伯母さんは私に、「あんたは気がかちすぎているから、だめ、」と申しました。ちょっと私の弱点をついたような、それでいて実は理解のない、いやな言葉です。「だめ、」というのは、私の生活の問題についてのこと。御存じの通り、娘の敏子さんはデパートの店員をつとめ、伯母さんはその方の関係で、針仕事をしたりミシンをふんだり、そして二階は二人の学生に間貸しをして、それでじみに暮しております。私もそのように、自分で働いて生活したく、いろいろ尋ねたり相談したりしましたが、結局、私は気が勝ちすぎているからだめだそうです。自分の腕で働いてじみに暮すには、私には我慢が足りない、辛棒がしきれない、というのでしょうか。
 けれども私は、どのような苦しいことでも、どのような辛いことでも、やってみようと決心しておりました。覚悟をきめておりました。敏子さんのように、デパート勤めも致しましょう。伯母さんのように、針仕事やミシン仕事も致しましょう。出来ることなら、ダンスを習ってダンサーにもなりましょう。こちらで旅館の仕事を少し手伝ったことがある経験を生かして、小さな酒場を開いてもよろしく、場合によっては芸者になっても構いません。芸者は少くとも愛情によって行動出来ます。今の私の生活は、檻の中に入れられてる売女に等しいではありませんか。そこから脱出しなければならないと、一生懸命にもがいておりました。気紛れではございません。
 それを、伯母さんは少しも真に受けてくれませんでした。あなたに御相談したこともありますが、あなたはいつもにやにや笑ってばかりいて、本気で聞いて下さいませんでしたわね。もっとも、私の話しかたも少しふざけておりましたし、そのようなことよりも、私たちにはもっと重大なことがありました。ほんとの愛情がありました。この愛情のためになら、死んでもかまわないと、今では私は思っております。
 東京での日々は、ほんとに楽しゅうございました。伯母さんの家へいらして下すったことも、嬉しく思っております。もっとも、初めは私からお願いしたのでしたが、毎日のように訪ねて来て下すったのを、あなたの愛情の深さの故だと感じております。御一緒に出歩いて、コーヒーを飲んだり、映画や芝居を見たり、ホテルへ参ったり……そしてなにをお話したか、言葉の上のことはすっかり忘れてしまいました。
 でも、ふと言葉がとぎれた時、しぜんに黙りこんだ時、あなたはなにか考え込んでおしまいなさることがありました。あのホテルの室で、窓際に両肱をついて、暗い夜空にぼんやり眼をやっていらっしゃるので、私はそっと時計を見てみましたら、あなたは十分間、きっかり十分間、振り向きもなさらず、身動きもなさいませんでした。その放心というか、瞑想というか、沈思というか、そのような折のあなたの胸の中に忍びこんで、その奥底を私は打診したかったのですが、やめました。なにも、後悔していらっしゃることなどないと、信じますもの。けれど、こんどは、今後はあなたのその胸の中に、私は遠慮なく忍びこんで、そこに手を触れてみますから、覚悟していらっしゃいませ。
 けれども、実は、そんなことはどうでも宜しいのです。あなたの胸に、なにか後悔の影みたいなものがちらと差そうと、もう私は気に致しません。私自身、どんな手傷を受けようとも、もう気に致しません。
 柿沼に復讐してやる下心も、私にあるにはありましたが、その復讐も、向うには少しも手傷を与えず、却って私自身が手傷を受けたようです。私自身というのがわるければ、私の過去が、手傷を受けたのです。私はただ、自分の過去に復讐したに過ぎないのかも知れません。
 しかし、過去のことなんかどうでもよい、自分は新らしく復活したのだと、私は信じもし、感じてもおりました。過去をして過去を葬らしめよ、将来をして将来を生かしめよと、私は心の中で叫んでおりました。生活の立て直しをはかったのも、そのためでした。
 ところが、思いがけないことが起ってきました。
 その前に、申しておかなければならないことがあります。三田の伯母さんの家に滞在して、あなたから来て頂いたり、御一緒に出歩いたり致しましたが、その陰に、実は度胸をすえていたことがあります。伯母さんを、そしてあの家を、柿沼はよく存じているのです。以前、私は、柿沼の阿佐ヶ谷の家に行ったり、伯母さんの家に行ったりしていましたが、近頃では、伯母さんの家にしか泊らないことにしておりますし、柿沼は用事があれば、伯母さんの家へやって来ることになっていました。それで、こんども、柿沼が来るかも知れないが、来るなら来てもよいと、度胸をすえていたのです。
 柿沼は一度も来ませんでした。もっとも、私が東京に出たことを、柿沼には知らせていませんでしたが、兄からたぶん知らせたことでしょう。また、伯母さんに私から柿沼の来否を尋ねたことは、一度もありませんでしたが、伯母さんも私に柿沼のことは一言も申しませんでした。お互に、知らん顔をしていたのです。あなたのことについても同様です。
 はっきり申しましょう。私は度胸をすえてはいたものの、柿沼が一度も来なかったこと、或るいは来なかったらしいことが、却って私には気重いものとなって感ぜられました。私は柿沼に反感をこそ懐け、一片の愛情も持ってはいませんし、また、あなたにそっと打ち明けましたように、もうだいぶ前から口実を設けて、柿沼とは性的交渉を絶っていました。それなのに、伯母さんの家へ一度も柿沼が私を訪ねて来なかったことを、どうして気にかけたのでしょうか。
 外でもありません。私は柿沼をなんだか怖がっていたのです。あなたは柿沼をよく御存じありませんけれど、あの人のうちには、なにか重苦しいもの、陰鬱なもの、凶悪らしいものがあります。悪人だとさえ思われることがあります。表面きって私と喧嘩することもなく、私を怒鳴りつけることもなく、癇癪を起すこともなく、いつも黙ってじっとしておりますが、心の中ではどんなことを考えているか、どんなことをたくらんでいるか、それが私には恐ろしいのです。しごく冷静に計画的に、ひとを殺すことさえしかねないと、私はぞっとすることがあります。
 そういう危惧の念、不吉な感じは、あの人の実体……と申してはへんですが、あの人の身体が、遠くにかすんでゆくに随って、ますます濃くなって私につきまとってくるように思われました。いつも私は、あの人の眼からではなく、あの人の持ってる不吉なものから、狙われているような気持ちでした。あの人が伯母さんの家に一度も姿を見せなかったことが、却って、私には薄気味わるく思われるのでした。
 そういうところへ、全く思いもかけない通知が参りました。柿沼から私へ宛てたものです。
 信州の高原地の療養所にいた常子さんが亡くなったのです。常子さんというのは、柿沼の奥さんです。二人の娘さんは数日前から先方へ行っているが、柿沼もすぐに行き、あちらで火葬にして、帰ってきてから葬儀を行うから、私にも参列してくれとの案内でした。文面には、ただ事務的なものしか私には感じられませんでした。
 その手紙のあとを追うようにして、伊豆の兄から電報が参りました。常子さんの死亡と葬儀、私の喪服は兄が持ってゆくと、これも事務的な電文です。
 私は手紙や電報をくり返し読み、一生懸命に考え、やたらに腹立たしくなり、それから、無断で、逆にこちらへ帰って来てしまいました。無断で、と申すのは、あの人たちに対してです。
 伯母さんにだけは、内緒に、私の気持ちを打ち明けました。伯母さんは私に賛成もせず、反対もせず、黙って聞いてくれて、悲しそうに眼をしばたたいていました。
 あなたには、ただ急用が出来たからとだけ申しました。柿沼や兄や常子さんなど、私にとってはもう過去のものを、あなたとの間に介在させたくなかったのです。過去をして過去を葬らしめよ。けれども、いずれ詳しくお知らせするという約束を、少し後れましたけれど、今ようやく果すことが出来るようになりました。東京駅でお別れする時、あなたはとても美しい眼つきをしていらっしゃいました。男のかたは、悲しい時や淋しい時の方が、美しい眼つきにおなりになるものなのでしょうか。あ、よけいなことを……御免あそばせ、と申さなければならないほどふざけているのではございません。あの時のあなたの眼つきは深く私の心に残っておりますし、それにお応えして、この手紙を書いております。
 さて、簡単に申せば、柿沼の手紙と兄の電報とを前にして、私は葬式の光景を頭に描いてみたのです。
 祭壇には、常子さんの遺骨が花や供物に埋もれ、常子さんの写真が一際高くかかげられております。たぶん、お丈夫な時の写真でしょうが、私は初対面なのです。嫉妬などはいささかも感じませんが、私はどういう顔つきでその写真を見上げたら宜しいでしょうか。
 祭壇の前に、親戚の人たちや知人たちが立ち並んでおります。順々にお焼香を致します。私はたぶん親戚の末席となるでしょう。私のことを知ってるひとも知らないひとも、みな、好奇の眼つきで私を眺めるにちがいありません。私は喪服はきらいではありませんが、たくさんの好奇の眼に射すくめられて、しとやかに首垂れたものか、皮肉に微笑したものか、挙措に迷うことでしょう。
 しかも、いちどそこに立ち並べば、私には次の席が予約されております。こんどは、柿沼と二人のお嬢さんとの間の席です。柿沼の後妻、お嬢さんたちの継母です。この二人の娘さんを私はきらいではありません。一人はもう女学校を卒業しており、一人はまだ女学生で、どちらも無口な淋しそうな人柄です。けれども、私の方、ママハハというのは少しひどすぎます。ノチゾイというのは少しひどすぎます。オメカケの方がまだましなくらいです。
 そういう葬式の席へ、それから予約の席へ、私はただ事務的に招待されたのです。いえ、招待もされず、ただ、そこが私の席だときめられたのです。柿沼と兄と、それから誰かが、そうきめたのです。その席がぽかんと空いています。私はのこのこ出て行って、そこに腰をすえるべきでしょうか。長谷川さん、あなたならどうなさいますか。
 私は、自分にあてられたその空席に、背を向けました。そしてこちらへ帰って参りました。若月旅館のお上さんの席は、やたらにお琴をかき鳴らしてごまかしましたが、こんどの席については、逃げだすより外に、ごまかしの仕方がありませんでした。
 けれども、私としては、逃げるというような卑怯な気持ちでは、少しもありませんでした。むしろ、積極的な反抗でした。精一杯の抵抗でした。おわかりになりますかしら。そしてこれだけの力が私にあったことを、ほめて下さいますかしら。
 もうこうなったからには、なおさら、私はあなたに寄り縋ります。覚悟していて下さい。宜しいでしょうね。と言っても、あなたのお側に、なにかの席を欲しがってるのではありません。心と心との宿命的な誓い、それだけが欲しいのです。

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