蛸の如きもの
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著者名:豊島与志雄 

 ――大いなる蛸の如きもの、わが眼に見ゆ。
 八本の足をすぼめて立ち、入道頭をふり立て、眼玉をぎょろつかせて、ふらりふらり、ゆらりゆらりと、踊り廻り、その数、十、二十、或るいは三十、音楽のリズムの緩急には殆んど無関係に、淡い赤色の照明の中を、ふらりゆらり、くっついたり離れたり、踊り歩き、音楽が止むと、狭いホールの四方に散り、足をひろげてべたりと屈みこむのである。キャバレー・ルビーの夜のひと時。
「なぜ黙ってるの。」
 然し、何をしゃべることがあろう。誰だって、口をつぐんでひっそりしている。或るいは、口を利いてもひそひそと、黙ってるのに等しい。蛸に声が出るものか。口をくうくう鳴らし、吸盤をぴちゃぴちゃさせるだけだ。八本の肢体は足ともなれば腕ともなる。足を組み合せ、腕を組み合せ、または互に絡み合せて、吸盤をぴちゃぴちゃ……。擽ったいじゃないか。穢らわしいじゃないか。そら、バンドがまた始めやがった。こんどは踊りっ娘だ。静かに見ていろ。青い照明になったから、そう邪魔にはなるまい。
「ねえ、おなかが空いたわ。」
 今時分、なにを言ってるんだ。だから、女は食うことと眠ることだけだ、と木村に言われるんだ。もっとも、男は飲むことだけだ、と君は言ったが、これも一面の真理には違いない。
 バー・ペンギンで木村が酔っ払った時は、おかしかった。あいつ、やたらにブランデーをあおったものだから、すっかり足腰がたたなくなり、それを自分で気付かずに、ソファーから立ち上って、スタンドの方へ、なにかマダムに愛嬌をふりまきに行ったものだから……。第一、あのマダムに敬意を表するということはない。バー・ペンギンとはよく名づけた。マダムの恰好が、脚はちんちくで、胴はのっぺりして、口は反っ歯で、ペンギンそっくりじゃないか。滑稽を一種の愛嬌とするなら、まあ、こちらからも愛嬌を呈するのもよかろう。木村は眼に笑みを含んで、数歩あるいていったが、もう腰がくだけ、スタンドにつかまりそこね、腰掛にもつかまりそこね、すとんと尻もちをついてしまった。ばかりならよいが、起き上ろうとして、手足をばたばたやった。床に手をつくことを忘れたのだ。ダブルの上衣、ポマードをぬった髪、ぴかぴか光らしてるダンス用の靴、それで尻もちをついて、手足を宙にばたばた泳がしてる様子が、まったく滑稽で、俺は笑いだしたし、他の酔客も笑った。誰も助けにゆく者がない。その時、マダム・ペンギンが、さっと出て来て、彼を抱き起し、大真面目な顔で塵を払い落してやったりしている……。
 それからがあのいきさつだ。木村がマダムの体温にふれ、マダムの息を皮膚に受けたのは、恐らくあの時が最初だったろう。ペンギンの胴体がちょっと気に入ったと見える。考えてみれば、マダムが木村を抱き起した時、それだけのこととしては、少し時間が長くかかりすぎたような気がする。蛸が二つからみ合ったら、互に相手のどこかに、必ず、吸盤がふれるものだ。鳥なら羽毛が生えてるけれど、人間ともなれば、蛸と同じに、無防禦の素肌だからね。
「あたし、木村さんといつまでも続くとは思っていなかった。木村さんが浮気なことも知ってたし、あたし一人でないことも知ってた。だけど、まさか、マダムと……。口惜しいわ。マダムは若く見せてるけれど、もう四十すぎよ。だから、マダムの方で熱くなるのは、分らないこともないけれど、木村さんの……気が知れない。気が知れないというより、あたし、口惜しいわ。……口惜しい。」
 そんな風に訴えながら、京子は泣いたが、その泣き方が、多分にヒステリックだ。ヒステリックになるのは、年増の女だけとは限らないものらしい。或るいは、年上から年下へと感染するのかも知れない。かりに、マダム・ペンギンと木村とが初めに関係があって、木村が京子へ寝返ったとしたら、マダム・ペンギンのヒステリーは凄いものがあったろう。ところで、二十台の京子から、十台の小娘へ木村が寝返ったとしたら、京子のヒステリーはどんなものだったか、これは俺にも分らない。
 京子は女らしい皮肉を言って、バー・ペンギンから他の店へ移った。
「こんな風儀のわるいところにはおられません。」
 自分だけは風儀がよいつもりでいる。だから女とは他愛ないものだ。俺がそう言ってからかうと、京子は怒って、留七のトンカツとカキフライをぺろりと食べてしまった。
 留七は小さな店だが、ここのトンカツは東京一の大きさだ。美味ではあるが、大皿一杯の大きさだから、容易には食いきれない。これを、驚くことには二つも平らげた女がいる。
 京子はまあ中肉中背だが、光子はそれより少し背が低く痩せている。鼻がつんと高く、眼に鋭い光りがあって、謂わば貴族的にインテリ的に見える。
 光子はしんから怒っていた。京子よりも本気で怒っていた。洋裁店で、デザインもやり、ミシンも踏んでるのだが、客筋から届けられた南京豆を朋輩といっしょに食べてる時、光子があまり貪りすぎると皆から非難された。
「だって、痩せぎすの食い辛棒だなんて、ひどいことを言うんですもの。」
 それはそうに違いない。肥った女よりも痩せた女の方が大食いであることは、昔からきまっている。そんなことより、たかが南京豆をかじりながら、どうして口喧嘩などになったか、その方が興味深い問題だが、それは御婦人のデリケートな神経に関することで、他からの窺□をなかなか許さないのだ。
 光子は涙ぐんでいた。口惜しいとか悲しいとかいう涙でなく、立腹の涙であることは、額に少し青筋を浮べてることで分る。
「癪にさわるから、南京豆の殼を、力いっぱい投げつけてやったし、室中に投げ散らしてやった。」
 それでみると、殼のままの豆だったらしい。あれを、ばりばりむいて、ぼりぼりかじって、喧嘩してる、若い女たちの場面は、ちょっと挨拶に困るしろものだ。
 腹を立てるより、腹の中にトンカツでもつめこんだ方がよかろうと、留七へ誘うと、その皮肉には全く無反応で、まだ南京豆の一件を怒りながら、巨大なトンカツを二つも食べてしまった。おつきあいに、俺も一つ平らげた。
 京子と別れた時は、もう日が暮れていた。
 掘割の水がどんよりと暗く、それに街の灯が映り、風もないのに柳の若葉がそよいでいる。こんな時、ふしぎに、空の星が見えないものだ。いや、空を仰ぎ見ないものだ。眼は水面に重く垂れ、腹の中にはトンカツが停滞している。むかし、或る歌人が、トンカツのメランコリー、ビフテキのヒポコンデリーを、歌ったことがあった。だが、そんなのよりもっともっと気重いのである。
 石垣の下、掘割の中の狭い洲に、なにか黒いものがうごめいている。おもむろに、匍いずるように、移動している。人間じゃあるまい。蛸のような恰好で、ひょっこり、ひょっこり、移動している。あれが立ち上ったら、きっと人間になるだろう。
 気重さは、漠然たる怖れに変る。
 あ。天啓のように閃めくものがある。
 ――われ夢を失えり。
 失えりと気付くことは、持ちたしと望むことである。
 夢を持つには、平素の心掛けが第一であろうが、然し、時と場合によって、臨機応変の方策がないでもなかろう。
 都市はふしぎなもので、如何に整然とした都市にあっても、流れや淀みを至る所に作る。淀みには陰性が住み、流れには陽性が住む。東京のような戦災都市では、その差がまた甚しい。少しく行けば、たちまちにして喧騒の巷である。
 電車の響音、自動車の警笛、群集の靴音、それらを超えて空中に鳴り響く広告塔のラウド・スピーカー。これはまさに陽性的暴力だ。然しこれらの暴力の干渉外に、ネオン・サインの射照外に、ひっそりした隅々がある。ひっそりしてはいるが、然し、それは盲点ではない。そこに、酒の酔いと夢と哲理とがとぐろを巻く。
 その一つの、杉小屋には大勢の常連が集まっている。経営者の好みで、焼けビルの一階の広間を、日本酒に縁のある杉の木材で改装し、杉で作ったがらくた道具を置き並べた酒場だ。
 常連だけで殆んど満員である。ここには、バンドはもとより無い。ラジオも蓄音器もかけない。各自が勝手なことを声高に饒舌っている。ギリシャ哲学、近代政治、労働組合、アプレ・ゲールの理念、なんでも聞かれないものはない。ところが、ふしぎなことには、それらの高声な論議も、すーっと宙に吸われて、広間の空気はいやにひっそりしているのだ。コンクリーの四壁の音響反射のわるいせいか、天井の高いせいか、どのグループの人声も宙に消えて、ただ、饒舌ってる人のゼスチュアーだけがあとに残る。それはやはり、蛸坊主の秘密会合に似ている。
 蛸坊主の会合だから、さすがに腕もあり足もある。だが、その腕や足のゼスチュアーも、ここではあまり役に立たない。給仕の女たちは、紺絣にモンペ姿の品行方正な少女だ。蛸坊主どもが如何にも色気たっぷりに、腕や足をさし伸べようと、その吸盤は、深遠な論理の声音が宙に消え失せると同様、宙に迷って何の手応えも得られない。
 ひっそりした空気がかもし出され、酔いと夢とがはぐくまれるのだ。一隅のボックスで、中腰になって盛んに饒舌り立ててた青年が、どうしたことか[#「どうしたことか」は底本では「どうしたことが」]、相手の青年から、平手でぴしりと頬を殴られた。すると彼もまた、相手の頬に平手打ちをくわせ、卓上のコップを取って、ぱしっと床に投げつけ、微塵に砕いた。その時、隣りのボックスから一人の壮年が立ち上り、振り上げてる彼の腕を捉えて言う。
「やめろ、やめろ。やるなら、表に出てやれ。」
 やれ、という言葉が、酒をやれという調子に響く。
 青年は見向きもせず、はははと笑い、ボックスの奥に引っ込んで、相手とこそこそ話しだし、壮年も自分のボックスに引っ込んで、杯を挙げてるらしい。
 彼等は互に知り合いなのだろうか、それとも未知の間なのだろうか、さっぱり見当がつかない。見たところ、ただ、蛸が蛸壺からちょっと覗き出し、またこそこそと引っ込んだ、それだけのことに過ぎない。屋内の空気は水中のように静かだ。
 硝子の破片を掃きよせてる少女を横目で見やりながら、マネージャーの森田は言う。
「器物を壊されるのが、いちばん困りますよ。」
 至極もっともなことだ。
「然しわたしのうちでは、何を壊されようと、決して賠償して貰わないことにしています。」
 当然じゃないか。当然すぎて、面白くもおかしくもない。
 言うことは平凡だが、それでも、森田の眼はいい。くるくると動くどんぐり眼で、聊かの濁りも留めず、いつも四方八方を見てるような、方向定かならぬ視線だ。時に瞼をつぶって、その内部でなにか考え、またぱっと打ち開き、目玉がぐるぐると廻転する。見てる方で眩しい思いがする。
 眼の中に入れても痛くない、という愛情の表現があるが、森田の眼は、多くのものをやさしく抱擁してるに違いない。ただ、も少し静かにしていてくれるといい。酒の満ちた杯のように。今丁度、卓上の杯には酒が満ちている。電灯が映って、円やかにぼーっと閃めき……。
 あ。
 俺は酒杯の中にいた。
 空中を飛行しているのだ。空は青一色に円く、海も青一色に円い。地球が凸形に円く見えるのは地上にある時で、上空からは凹形に円く見える。壮大な瑠璃の酒杯を二つ重ねた、その中を、飛行機は飛んでいる。酒杯の縁の合せ目は、ぼーっと明るい閃めきだ。島が見えてくる。不規則に幾つも並んでいる。その上にさしかかると、海はますます青くなり、島々の周囲を白波が取り囲む。無人の岩山があり、その頂までさーっと白波が覆い、白波はまたさーっと引いて、黒い突兀たる岩山が現われ、それをまた白波が覆う。白色と青色との永遠の戯れだ。琉球上空の飛行である。
 その琉球の、瑠璃色の海を思わせる眼を持ってる、沖繩生れの女中が、あの家にいる。切れの長い澄みきった眼で、真黒な瞳をじっと注いでくる。小麥色の引きしまった頬に、ふさふさした黒髪。南国調だ。パパイヤ、マンゴウ、ドリアン……それほど香気の強い果物は更に南方へ譲って、せめて、木影の凉風に泡盛の一杯。
 二階には立派な座敷があるが、入口の土間に、白木の卓を並べた小さな飲み場がある。沖繩料理の白汁をすすり豚肉をつつきながら、泡盛を小杯でなめる。沖繩の人たちが行儀よく屯ろして、小声で話している。戦後、懐郷の念に禁じ難いものもあるであろう。だが、彼等が出て行ったあと、こんどは不行儀なことが始まる。
「ねえ、泡盛は酔いますねえ。泡盛は酔いの仕上げだ。」
 縞のネクタイの結び目を乱し、縞のワイシャツを袖口から長く出してる、浅黒い顔の男である。
「ことに、ここのは本場ものですからね。」
 景気のいいことを言ってるかと思うと、急にめそめそしてくる。
「あちこちで飲んで、月給を半分ほど使っちゃいましたよ。これじゃあ、女房の春の着替えも受け出せませんや。女房のやつ、何と言うかな……。南無泡盛大明神、われに知恵を授け給え、というわけで、一杯やってるんですが、酒は涙か……何とかと言って……。」
 卓に顔を伏せて、ほんとに泣いてるのである。まったく、なっちゃいない。他人でなかったら殴りとばすところだ。
「泣くなと言ったって、これが泣かずにいらりょうか。はははは。」
 もうけろりとしている。
「みんな帰っちゃった。僕一人を残してですよ。薄情な奴等ばかりだ。僕は孤独です。絶対に孤独です。そして悲しいんです。」
 また顔を伏せてしまう。
 沖繩生れの遼子が出て来て、彼の前腕に、かるく手先を添える。和服の襟をきりっと合せ、首を真直に、すらりとした立ち姿、自然に差し延ばした手の曲線、サロンの女主人公とも言える恰好である。
「三上さん、また酔いましたね。もうお銚子もからになったから、これでお帰りになったがよろしいわ。」
 きれいな音声だ。
「僕は悲しいんです。帰ります、帰ります。」
 驚くほどの従順さで、彼はよろよろと出て行く。その後ろ姿を、遼子は微笑で見送る。
 恥かしくないのか、彼女の微笑に対して。いや、恥かしいよりも、やはり、悲しいのだ。誰も彼も悲しいのだ。ビルの影から、唇の赤い洋装の背の低い女がつと出て来て、自分を影の中に置き、相手に燈火を受けさせる位置で、囁きかけ、ねえ、と顔色をうかがい、あそんで、と視線を胸から腰へすべらし、ゆかない、で足先まで見て取り、ズボンの膝がすり切れ靴が泥まみれになっておれば、ぷいと横を向いてしまう、その女の、商売柄の眼の鋭さも、また、男のみすぼらしい服装も、恥かしいより寧ろ悲しくはないか。
 なにが悲しいものかと、抵抗出来る人は幸だ。
 ――われは沖繩の紺碧の海を思う。
 あの海になら、死体が浮んでも恐らく美しかろう。東京の掘割のは醜悪だ。いつぞや、しかも白昼、橋のあたりを、胸と脚をあらわにした女体が、潮の加減でふわりふわり流れていた。通行人がいつしか群集とたまって、それを眺めた。誰も一言も発せず、ただ眺めてるだけだ。さほど人通りの多い橋でもないので、何かの奇抜な広告のマネキンではなく、まさしく死体だ。どろどろに濁ってるそんなところに、どうして浮いているのか、死体に聞いたって分りようはない。
 そのことがあってから、俺はその附近を通るのを、なるべく避けるようにしている。
 然し、都心地の掘割はたいてい続いていて、同じ濁った水が交流しているし、どこへ行くにも掘割を越さねばならない。水は人の心を和らげ慰めるが、夜分だけでなく、昼間もそうであるように、これらの掘割を清らかにしたいものだ。沖繩の海、沖繩の海の水。
 河岸ぷちに屈みこんで、街の灯のちらちら映ってる掘割の水面を眺めていると、またしても蛸の幻想が浮んでくる。泥ぐさい生ぐさい臭いのせいであろうか。石垣の下の干潟に、なにか黒いものが動めいてるようだ。水の中に、なにかが動めいて泡を立ててるようだ。そいつが、すーっと立ち上って、大入道の頭を持ちあげてきたら、どうする。抵抗出来ないじゃないか。
 後ろのビルの上階にも、一つの大入道がいることを、俺は故あって知っている。空襲中、捨値に売り出された家具類を買いあさり、田舎に運び蔵して、大金を儲けた。戦後、ヤミ物資の取り引きをして、また大金を儲けた。近頃、社会状態が落ち着くと、もう何事にも手を出さず、あの上階の事務所のソファーにふんぞり返って、ただ天下の形勢を観望している。情婦はいつもただ一人、だが時々取り変え、事務所にも美人の女秘書を置いて、コーヒーをわかせ、ウイスキーを注がせている。そいつがまったく、頭の禿げた蛸入道だ。
 ――大いなる蛸の如きもの、陸上にも水中にもあり。
 蛸の魔除けには、煙草に限る。キャバレー・ルビーで貰った一本の葉巻を、チョッキのポケットから取り出して、ライターで火をつけようとするが、なかなかつかない。
「おじさん、なにしてるのよ。」
 見返ると、これは侏儒だ。青いジャケツに黒いズボン、足には何をはいてることやら、柳の幹影から足音もなく出て来て、近々とそばに寄り立つ。俺のライターの光で、無害なものと見極めたのだろう。こいつも、蛸入道を怖がってるに違いない。なにしろ、薄暗い河岸ぷちのことだ。
 虚勢を張って、蛸を釣ってるんだ、と答えたが、小僧は笑いもしない。
「こんなとこ、蛸なんかいるものか。鯉ならいるよ。おじさん、鯉を釣ってるのかい。」
 これは気に入った。立ち上り、うまいことを言うほうびだと、百円札を一枚差出すと、小僧は俺の顔をじろじろ眺め、紙幣を引ったくり、ありがとう、声といっしょに消えてしまった。
 これも、幻影であろうか。無償の行為だ。胸がすーっとした。毒気がぬけたのだ。
 河岸ぷちを離れ、何処に行くという当はないが、も少し歩くことだ。
 騒音の暴力はもうなく、ネオンの光りだけが明るい。そこを突っ切ろうとすると、高木老人にぱったり出逢った。
「やあ、これはこれは、珍らしいところで……。」
 なにが珍らしいものか。珍らしいのは先様のことだ。更に珍らしいことには、高木老人は酔っていて上機嫌である。
「わたしは、今日はとても嬉しい。も少し飲みましょう。どこか、君の知ってるうちに連れて行きなさい。」
 既にだいぶはいってるらしい。
「いや、わたしはダンスはやらない。キャバレーも好まない。どこかこう、静かなところがよろしい。」
 そんならまあ、杉小屋か。老人の腕を執ると、二人の歩調も自然に合う。
「さっき、百合子に逢いましてね、いよいよ確かなところを見届けました。あれなら、もう大丈夫です。」
 歩きながらいきなり言い出されたのでは、何のことやらさっぱり分らない。
「ずいぶん苦心しましたよ。時おり行っては、それとなく様子を見、チップにしては少し多額の金を、ひそかに渡すんですからね。百合子はびっくりした顔つきで、初めは断りましたが、事情があって……と言うと、素直に受け取るようになりました。もっとも、それがどんな事情だか、理解したわけではないらしい。ほんとに理解されても困る。まあそれはとにかく、あすこは人目が多いから、これには弱りましたよ。第一、貞夫に出っくわしでもしたら、恥さらしだし、貞夫が来るかどうか、表から覗いてみるわけにもゆかず……弱りましたよ。」
 貞夫というのは、高木老人の令息であり、百合子というのは、カフェーかなんかの女給らしい。老人が息子と顔を合せないように用心しいしい、恐らくはそのカフェーの前を、なんどかこそこそと行きつ戻りつしたろう光景は、ちょっと微笑ましいじゃないか。
「もっとも、わたしがあすこに出かけて行ったのは、貞夫の身体が自由にならない時間、調べ物とか、会合とか、一日がかりの外出とか、そういう場合に限るのだが、それは、一つ家に住んでる親子だから、わたしに分らない筈はない。然し、万一のことがありますからね。用心は用心。用心のための苦心ですよ。」
 もうだいぶ遅く、杉小屋はさほど混んでいない。隅っこのボックスの中に身をひそめて、酒杯を挙げる。
「ほう、これはいい家だ。」
 ボックスの奥に腰を落ち着けてから、高木老人は初めて屋内を見廻し、しきりに感心してるのである。
 ところで、高木老人の話というのが、親馬鹿の標本みたいなものだ。至極平凡なことで、息子の貞夫が女給の百合子に惚れ、金につまり、両親に告白し、結婚の許諾を求めたが、母親の頑強な反対に出会い、欝々として自殺さえしかねまじき態度を取った。母親は一歩も譲ろうとしない。父親、高木老人は、心配の余り、先ず百合子の人柄を観察してみることに決心した。逢ってみると、善良そうな性質らしい。然し場所柄として、金銭のため悪い男に誘惑される恐れもあり、老人は時おり、貞夫にではなく百合子に、或る程度の金を与えてきた。――どうせ大した金高ではあるまい。
「わたしは今晩、最後の仕上げをしましたよ。金を渡しておいて、ちと恥かしかったが、どこかへ行ってみようか、一日か半日、温泉へでも遊びに行こうか、とそう言って誘ってみますと、百合子、ぱっと紅くなりました。それから、どういうものか、縮らした髪を片手でかきあげる真似をして、あの白い額の、細おもての顔を、きりっと引きしめ、眼をそらしながら、言うことがいいじゃありませんか。わたくし、そんな女ではございません。ねえ、どうです。わたくし、そんな女ではございません。」
 これじゃあ、甘っちょろくて話にならん。高木老人と貞夫との親子は、顔立ちがよく似ているし、高木老人の振舞いも訝しかったろうし、百合子は恐らく、事の真相とまでは分らなくとも、なにか怪しいと感づいていたに違いない。女はこんな時、巧みな芝居をするものだ。貞夫にも老人にもなんとも言わず、黙っていて、最後にただ一言、わたくしそんな女ではございません。
 それにしても、おかしいのは高木老人の話しっぷりだ。初めから、如何にも嬉々として楽しそうだった。最後の仕上げの件にしても、聊か色っぽすぎる。まるで惚気話みたいじゃないか。案外、百合子を好きになってるのであるまいか。老人の錯覚で、親切と愛情とを弁別出来なくなってるのではあるまいか。もし百合子が、彼の手を温かく握りしめて、連れていって頂戴、とでも言おうものなら……その後のことは神のみぞ知る。
 高木老人は打ち明け話をしながら、時にはにこにこ、時にはにやりにやり、それから時おり眼に涙を浮べている。いったい、心の底のその奥は、嬉しいのか悲しいのか、不感症になりかけたのを自覚しない老いぼれ蛸。
 俺もどうやら蛸壺に腰を落ち着けすぎたようだ。憂欝の気がかぶさってくる。立ち上って、電車がもう無くなりますよ、と言ってやると高木老人はあわてて立ち上り、勘定をすますが早いか、さっと出て行ってしまった。表の傾斜に滑り転んだかも知れない。
「おかしな年寄りですね。」
 森田が微笑している。俺は指先で頭に渦巻きを描いてみせた。
 俺だって頭が少し変梃だ。強烈な酒でもほしい。マダム・ペンギンのところか、京子のところか……それも今は億劫だし、遼子のところへはちと行きにくい。高木老人のおかげで、沖繩の海も見失ってしまった心地だ。森田が拵えてくれる怪しげなカクテルを飲むことにする。
 体も意識も、ふらふらと、明滅する感じだ。
 森田が戸外まで送って出て、空を仰ぐ。
「あしたも、天気らしいな。」
 独語には、俺は返事をしないことにきめている。第一、天気模様なんかどうだっていいじゃないか。
 手っ取り早く、輪タクだ。
 体がはいるだけの空間の、その幌の中は、別天地だ。蛸坊主からも脅かされず、沖繩の海からも誘なわれず、俺はうとうとと居眠る。そして夢を見た。
 両側に欄干のある、橋らしい大道だ。はっきりした橋ではないが、橋のようでもある。その両方の欄干に沿って、二人の女が歩いている。そぞろ歩きのように、ゆっくりゆっくり歩いてゆく。欄干のつきるところまで行って、左側の女がくるりと振り向き、右側の女もくるりと振り向き、おや、というように軽く会釈を交わす。右側の女の顔は、はっきり見えて、よく識ってるのだが、名前は思い出せない。左側の女の顔は、ただ黒ずんで、なにも見えないが、右側の女と同一人だ。誰だったろう。右側の女が、左側の女の方へ寄っていって、囁くように言う。
「伊佐子さん、御病気でしたって、もうおよろしいの。」
 左側の女は、頷きの会釈をする。
 そこで、ぱっと火事のように明るくなって、夢は消えた。
 なあんだ、あの二人は伊佐子だったのか。伊佐子なら、識ってる筈、俺のむかしの恋人だ。
 火事は、そうでなかった。明るい燈火が幌にさし込んだだけで、また薄闇になってしまう。俺はまた夢うつつに思う、伊佐子なら識ってる筈だ。
 強いて眼を開いたが、薄闇だ。
 ――二重の人を、われ見たり。
 輪タクは、ことことことこと、走ってゆく。真直に走ってゆく。




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