新妻の手記
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著者名:豊島与志雄 

 母の代りに美津子が参りますと、吉川は簡単に伝えた。すると、その理由を説明せよと追求された。説明出来るような理由なんか、何もなかった。もう宜しい、留守居は頼まん、といきなりやられた。母にと頼んだのであって、美津子に頼んだのではない、というのである。美津子はまだ嫁に来て日も浅く、こちらのこともよく知らない。母がいるのに、美津子を呼び寄せたとあっては、世間の義理に反するし、先方の実家に対しても申訳がない。そういう道理が、三人とも分らないのか。新嫁を代りに行かせるという母にしろ、それを承諾した美津子にしろ、そんなばかなことを言いに来た貞一にしろ、どれもこれも分らずやばかりだ。もう断然留守居は頼まん。そういうひどい剣幕だった。吉川は驚いて、ひたすらお詑びを言った。すると今度は、いったい日常どんな暮し方をしてるのかと、仔細に聞かれた。至極平和な日常のことを、ありのまま伝えると、母にもう隠居しろと言え、こんどわたしが隠居を勧告してやる、そう言われた。そして吉川は酒を飲ませられた。伯父さまもやたらに飲んだ。たいへん憤慨してるようだった。
「わたしの言ったことを、そのままよく伝えておけ、と伯父さんは言ったけれど、僕にも、なんだかよく腑に落ちないんだ。伯父さんはいったい、堅っ苦しすぎる。なにも、僕を叱りつけなくってもよさそうだ。」
 吉川の方で憤慨していた。伯父さまの言葉をそのまま伝えたのも、一つの欝憤晴らしだったのだろう。――然し私には、伯父さまの言ったことが理解出来る気がした。
 みんな黙り込んでしまった。母は溜息をついて、冷えきった紅茶に酒を垂らした。
「分りました。」と母は声を抑えて言った。「あちらでそのつもりならこちらでも、もう留守居なんかに行ってやりません。」
 それから間を置いて、少し震える声で言った。
「わたしは隠居しますよ。ええ、隠居しますとも。」
 母まで怒ってるようで、もうめちゃくちゃだった。私には取りなすすべがなかった。
 母は黙って寝室へ去り、吉川はまた酒を飲んで、同じく黙って寝室へ去った。私は後片付けをして、炬燵でしばらく考えこんだ。家庭の雰囲気がばらばらになったような、そしてへんにしみじみとした夜だった。このような夜は、嫁いで来て初めてのことである。
 翌朝まで、その気分は残っていた。母はまだ怒ってるようだった。
 ところがその午後、母は私に言った。
「わたしは、いろいろ考えましたがね、やはり隠居することにきめましたよ。」私の方でびっくりした。
「あら、隠居なんて、おかしいじゃございませんか。」
「いいえ、意地にもしてみせます。わたしはただ、この家を護り通すために、長年苦労してきました。家を護り通す、そのことだけを心掛けて族行もしませんでした。けれど、もう大丈夫でしょう。家の中の仕事がなくなるのは、何より淋しいことですが、ほかに楽しみを見つけましょう。あなたがしっかりやっていって下さいよ。それから、文学の方も、忘れずに勉強して下さいよ。」
「お母さま、急にそんなこと言い出しなすって、どうなすったの。今迄通りで宜しいじゃございませんか。」
「ええ、今迄通りで、別に変ったことはしませんよ。」
 母はまじまじと私の顔を見て、淋しそうな頬笑みを浮べた。
 その時から、私にも母の気持ちが分ってきたようだ。母の言葉の家を、家庭の意味に私は理解する。結婚した女にとって、家庭は一城一廓と同じもので、主婦はその一城一廓の主人だと、誰かの文句にあったように覚えている。家庭の中で任意に処理出来る仕事を持つことは、一城の主人たる証左であり、そういう仕事を失うことは、主人たる地位を失うことに外ならないだろう。母はそういう仕事に執着してきたに違いない。そのためには、私を女中同様の地位に放置しても意に介しなかった。また、三週間かそこいらの間、他家へ留守居に行くことも、本当の女中でない嫁の私が控えているため、少くともその間は、城主たる権力を私に引渡すことになるのを、たとい無意識にせよ感じたのだろう。その気持ちの奥底を、隠居云々の切先で抉られたのだろう。主婦の悲しい宿命である。そしてこの宿命は、家庭という観念の変革なくては、免れることが出来ない。おお、なんとばかばかしい観念であることか。それは政治的権力の観念とよく似寄っている。そんなものは、実は私には用がなかった筈だ。女中の地位などということに私が突き当ったのも、家庭の旧観念に私が囚われていたからではないか。家庭内の権威と、文学への夢想と、私を対象としての母の矛盾した態度は、いま、私には悲しいことに見える。
 だが、一週間ばかりの間は何のことも起らなかった。駒込の伯父さまからは何の便りもなかったようだ。私はつとめて、そして安らかな微笑を以て、万事につけ、今日はお洗濯をして宜しいでしょうかを、母に尋ねた。母はいつもの通り指図をしてくれた。
 そして或る晩、母はふいに、しばらくの間、和歌山にある生家へ行ってきたいと言いだした。久しく行かないから、先祖の墓参かたがた訪れるのだと言う。引き留める理由はなにもなかった。駒込の伯父さんへの口実も立つと、吉川は陰で私に、ばかなことを言った。男というものは、女の心理についてはまったく近視眼であるらしい。
「淋しいでしょうけれど、辛棒して下さいよ。どんなに長くなっても一ヶ月で帰って来ます。」
 母はそう言って、家計簿をはじめすべてのものを、私の手に渡した。
 思えば、表面は全く平穏無事で、何の風波もなかった。然し、母の心の中には、さまざまな暴風雨が荒れたことだろうと、私は自分の心中を顧みながら、推察するのである。私の方では、家庭という観念に変革が起って、新たな探求をこれから実践しなければならない。母はどういう途を歩むつもりであろうか。遅くも一ヶ月後には帰ってくることは確かだ。私は母を悲しみ、また心から愛している。これからは理解がゆこうとゆくまいと、何でも母に打ち明けて話すことにしようかしら。決して物の分らないひとではない。
 東京駅まで、私は母を見送った。母は静かなやさしい眼色だった。列車の去ってゆくのを眺めて、私は眼に涙をためた。それから、この手記を書くことを思いついた。自分自身のためにである。吉川にも決して見せはしない。けれども母には見せる気になるかも分らないし、その気にならないかも分らない。私の心境だってまだあやふやなのである。
 母の不在の間に、翻訳をも少し進捗さしておきたいと思う。一冊の書物にでもまとめることが出来たら、母はどんなにか喜ぶことだろう。これとても、私にまだ残ってる感傷なのであろうか。




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