ひでり狐
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著者名:豊島与志雄 

      一

 ある夏、大変なひでりがしました。一月(ひとつき)ばかりの間、雨は一粒も降らず、ぎらぎらした日が照って、川の水はかれ、畑の土はまっ白に乾(かわ)き、水田(みずた)まで乾いてひわれました。そして田畑の作物(さくもつ)はもとより草や木までも、萎(しな)びて枯(か)れかかりました。
 田舎(いなか)の人達は心配でたまりませんでした。そのままでゆけば、田畑の作物はみなだめになって、秋の収穫は何もなくなります。困ったものだと、空ばかり眺めましたが、雲一つない青空にはいつも、暑い日が照ってるきりでした。
 そこで、方々の村では、鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)に集まって雨乞(あまご)いをしました。御幣(ごへい)をたくさん立て、いろんなものを供(そな)えて、雨が降るようにと鎮守の神に祈りました。
 そういうことが幾日(いくにち)か続いたある日、涼しい風が吹きだして、山の向こうからまっ黒な雲が、むくむくとふくれ上がってきました。
「そら雲が出た……まっ黒な大きい雲だ……だんだん空に広がってきた……今日は雨が降るぞ……」そんなことを言い合って、人々は躍(おど)り上がらんばかりに喜びました。そのうちにも、雲は次第(しだい)に空一面に広がって、あたりが薄暗(うすぐら)くなったかと思うまに、ざーっと大粒の雨が降り出しました。そして一度降り出すと、まるで天の底がぬけたかと思われるくらい、二日の間、大降(おおぶ)りに降り続きました。
 川の水はいっぱいになり、水田にはたっぷり水がたまり、畑の土は黒くしめり、作物は生き返ったように伸び上がりました。そのありさまを、雨の後の晴々(はればれ)とした日の光の中に眺めた時、村の人々は涙が出るほど喜びました。
「これもみんな鎮守(ちんじゅ)様のお影(かげ)だ」
 そう言って、皆は鎮守の社(やしろ)で御礼の酒盛(さかもり)をしました。それぞれ出来る限りのごちそうをこしらえ、赤の御飯をたき、金持ちは大きな酒樽(さかだる)まで買ってきて、まず第一に鎮守様に供(そな)え、それから、皆で、飲んだり食べたり歌ったりしました。
 その酒盛の一日がすむと、皆田畑に出かけて勇ましく働きだしました。

      二

 その村に、徳兵衛(とくべえ)という男がいました。ひとり者で、少し薄馬鹿(うすばか)ななまけ者で、家を一軒もつことが出来なくて、村の長者の物置小屋に住まわしてもらっていました。
 鎮守の社で雨の御礼の酒盛があった翌日の朝早く、徳兵衛は長者の言いつけで、肴(さかな)を入れた籠(かご)と大きな酒の徳利(とくり)とをさげて、鎮守(ちんじゅ)様に供(そな)えに行きました。
 そして、村はずれの森の中の、鎮守の社(やしろ)の前まで来ますと、びっくりして立ち止まりました。神殿(しんでん)の前にいろんなごちそうが並んでいますところに、大きな狐(きつね)が一匹うずくまっていて、ぺろぺろごちそうを食べています。
「おやあ……太い畜生(ちくしょう)だ」
 肴籠(さかなかご)と酒徳利(さかどくり)とをそこに置いて、げんこつを握り固めながら、社の上に飛び上がりざま、狐に飛びかかっていきました。と、狐はひらりと身をかわして、横っ飛びに森の中へ逃げていって、見えなくなってしまいました。
 徳兵衛はしばらくぼんやりしていましたが、思い出したように、肴と酒とを神殿の前に供えて、それからじっと考えこみました。
「またあいつが戻ってくるかも知れない。ちょっと番をしていてやろう」
 そこにかがみこんで待ち受けましたが、狐はもう戻って来ませんでした。するうちに、うまそうなごちそうや酒の匂(にお)いが鼻についてきて、辛抱(しんぼう)しきれなくなりました。
「狐でさえ食べてるんだから、おれが少し頂戴(ちょうだい)したところで、まさか罰(ばち)は当たるまい」
 そう思って、ほんの少しのつもりで手を出したのが始まりで、だんだん大胆(だいたん)になってきて、ごちそうをやたらに食い、酒をやたらに飲みましたので、腹はいっぱいになり酒の酔いは廻って、いい心持ちにうとうと居眠(いねむ)ってしまいました。
 眼を覚ました時は、もう日が高く昇っていて、じりじりとした暑さになっていました。彼は酔っぱらったぼんやりした頭で考えました。
「ひどい暑さだなあ。こんな中をたんぼに出るのは、とてもかなわない。よい工夫(くふう)はないかな。……まてよ、せっかく村の人達が供(そな)えたごちそうや酒を、狐(きつね)の奴(やつ)め、食い荒らしに来ていやがった。もったいないことだ。おれがこれから一つ、番人についていてやろうかな。そして鎮守(ちんじゅ)様が召し上がった後を頂戴(ちょうだい)する分には、何も差し支(つか)えはなかろう。うむ、そうだ。……それにしても、村の人達に見つかっては、具合(ぐあい)が悪い………」
 そこで彼は、方々探し廻って、結局社殿(しゃでん)の床の下を隠れ場所に選びました。
 それから彼は、もう村の中へ戻って行きませんでした。昼間は、社殿の床の下にもぐりこみ、古むしろを敷いた上に、木の切株(きりかぶ)を枕にして、うとうと昼寝をしました。社殿の床は高くて日陰で、涼しい風が吹き込んできて、いい気持ちでした。晩になると、のっそりはい出してきて、神殿の前に供えてあるものを飲み食いしました。退屈(たいくつ)すると、森の中や、少し遠く川の土手(どて)なんかを、ぶらぶら歩き廻りました。それから夜遅く戻ってきて、蚊(か)にさされないよう、頭からむしろをかぶって寝ました。朝早く起き出して、またごちそうや酒を頂戴して、いっぱいになった腹と酔っぱらった体とを、床の下のむしろの上に投げ出して、うとうとと昼寝を続けました。
 村の人達は、雨が降ったのを有難(ありがた)がって、ごちそうや酒を毎日毎日鎮守様に供えに来ました。徳兵衛一人では食べきれないほど、たくさんの供物(くもつ)がありました。

      三

 長者の家では、徳兵衛が出ていったきり戻って来ませんので、どうしたのかと心配し始めました。それを聞いて村の人達も、やがて心配し始めました。
 一日、二日、三日……いくら待っても徳兵衛は姿を見せませんでした。どこへ行ったのか、死んだのか生きてるのか、さっぱりわかりませんでした。
 するうちに、徳兵衛らしい姿を見かけたという者が出て来ました。鎮守(ちんじゅ)の森の中をやたらに歩き廻っていた、という者もありますし、川の土手(どて)をよろよろ歩いていた、という者もありました。けれどどれもみな夜のことで、遠くから見かけたばかりで、はっきり徳兵衛だとはわかりませんでした。その上、近づいて行こうとすると、彼はびっくりしたように逃げていったというのです。
「不思議だなあ」
 皆首をひねって考えました。
 すると、誰言うとなく、徳兵衛は狐(きつね)に化(ば)かされたんだという噂(うわさ)が立ち始めました。第一、徳兵衛は狐の好きな肴(さかな)を持って長者の家から出て、それきりいなくなったし、次には、鎮守様に供(そな)えたごちそうが毎日毎日食い荒らされているので、近くを狐がうろつき廻ってるに違いないし、それからまた、徳兵衛は昼間姿を見せないで、夜になって森の中や川の土手を歩いているようだし、いろいろ考え合わしてみると、どうしても狐に化かされたと思われるのでした。
 さて、徳兵衛が狐(きつね)に化(ば)かされたとすると、そのまま放ってもおけませんでした。狐に化かされた者は、五日も六日もふらふらと歩き続けて、しまいには森の中なんかで行き倒れになったり、川にはまって死んだりするようなことになるのです。
「徳兵衛さんが可哀(かわい)そうだ」
 村の人達はそう言って、いよいよある晩、狐に化かされた徳兵衛を探しに、出かけてみることになりました。
 そこで、村の壮健(そうけん)な人達が集まって、二三十人一かたまりになって出かけました。松明(たいまつ)、棒、太鼓(たいこ)、鐘(かね)、石油缶(せきゆかん)、そんなものをめいめい持っていきました。そしてそれを、どんどん、がんがん、打ち叩き打ち鳴らし、松明をふりかざし、棒を打ち振りながら、時々大きな声をそろえて呼びました。
「おーい……おーい……徳兵衛さーん……おーい……徳兵衛さーん……」
 一同はまず、狐の出そうな、そして徳兵衛の姿が見えたという、川の土手(どて)の方へやってゆき、それから次に、鎮守(ちんじゅ)の森の方へやってゆきました。

      四

 徳兵衛は、鎮守様に供(そな)えてある、御馳走を腹いっぱいに食べ、酒に酔っぱらって、社殿(しゃでん)の床(ゆか)の下に眠っていましたが、ふと眼を覚ましました。遠くの方に、何だかひどく騒々しい物音がして、それがだんだんこちらへやってくるようなんです。
「何だろう」
 眼をこすりこすり起き上がって、床の下からはい出して、森の端までいって眺めますと、大勢(おおぜい)の人が松明(たいまつ)をふりかざし、鐘(かね)や太鼓(たいこ)を打ち鳴らし、「おーい……おーい……」と呼びながら、川の土手(どて)から、こちらへやって来ます。そして時々、「徳兵衛さーん」と呼んでるようなんです。
「おや、おれの名を呼んでるようだが、おれがどうかしたのかな」
 酔っぱらった頭でそんなことを考えながら、彼は自分が今まで何をしていたかも忘れてしまい、騒々しい行列に見とれてしまって、夢でもみてるような気持ちで、そこにぼんやりつっ立っていました。
 するうちに、行列はいよいよ近づいて来まして、すぐ眼の前までやって来ました。すると、まっ先になってた一人が、松明を高くさし上げて、こちらをじっとすかし見て、ふいに声を立てました。
「いたいた……徳兵衛さんが……」
 一同の者は駆け出してきて、すぐに徳兵衛を取り巻いて、四方から松明の光をさしつけて眺めました。
「しっかりしなさい。さあ、もう大丈夫だ。徳兵衛さん……何をぼんやりしてるんです……狐(きつね)に化(ば)かされたりして……」
 背中をどんどん叩かれて、徳兵衛は初めて夢からさめたような気がしました。そしてまだ口が利(き)けないで、眼ばかりぱちぱちやっていました。
 そのようすがまったく狐に化かされた者のようでした。何しろ四日の間、着のみ着のままで、湯にもはいらないでいたものですから、顔も着物もまっ黒に汚れてしまっていましたし、社殿(しゃでん)の床下からはい出してきたばかりで、頭には蜘蛛(くも)の巣(す)までひっかかっていました。
「おや、酒の匂(にお)いがしてるよ」と誰(だれ)かが言いました。
「なるほど、徳兵衛さんは酔っぱらってる。……化(ば)かしといて酒を飲ませるたあ、狐(きつね)も開けてるな」
 一同の者は喜び勇んで、徳兵衛を捕まえて胴上(どうあ)げをして、わいしょわいしょと村の方へ運んでいきました。
 徳兵衛は皆から宙に支(ささ)えられながら、今までのことをぼんやり思い出してみました。そして、まったく本当に狐に化かされたのじゃないかと思いました。思い始めると、どうしてもそれに違いないような気になりました。
「まったくおれは狐に化かされたのかな」
 そして彼は、村に帰って皆から何を聞かれても、ちっとも覚えていないと答えました。
「まったく夢のようだ」
 いくら考えても、酒を飲んだりごちそうを食べたりしたことだけで、その他のことは夢のようにぼんやりしていました。そしてしまいには、本当に化かされたんだと自分でも思い込んでしまいました。
 村の人達はもとよりそれを信じていました。そして徳兵衛には、「狐に化かされた徳兵衛さん」という長いあだ名がつきました。
ひでりは恐い、
ひでりの後には、
狐がでるよ……。
 そんなことを村の子供達は歌いました。




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