天下一の馬
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:豊島与志雄 

      二

 その翌日から大変です。悪魔の子が言った通りに、甚兵衛の黒馬は十倍の力になって、材木を山のように積んだ荷車を、坂道も何も構いなく、がらがらと駆け通しにひいて行きます。町まで五里の道を往復するのに、今まで一日かかっていましたのに、その日からはいくらたくさん材木を積んでも、三度ぐらいは平気で往復するようになりました。甚兵衛は歩いてはとても追っつけませんので、往(い)きも帰りも車の上に座り通しでした。これは素敵(すてき)なことになったと、甚兵衛はひどく喜んで、上等のかいばや麦や米や豆などを、毎日馬にごちそうしてやりました。馬の黒い毛並みはなおつやつやとしてきて、以前にも増して立派になりました。
 さあそうなると、村でも町でも大評判です。甚兵衛の馬が山のように材木を積んだ荷車をひいて、山坂を自由自在に駆け通して、五里の道を日に三度も往復するのを、皆眼を丸くして眺めました。中には甚兵衛(じんべえ)に向かって、どうして馬がそう強くなったかとか、いくらでも金を出すから馬を売ってくれないかとか、いろんなことを言い出す者もありましたが、甚兵衛はただ笑って取り合いませんでした。
「天下一(てんかいち)の黒馬だ。はいどうどう……」と甚兵衛は得意げに馬の手綱(たずな)をさばきました。
 そして元来なまけ者ののんきな甚兵衛も、馬を走らせるのがおもしろくなって、毎日材木を運びましたので、大変お金をもうけました。雪がひどく降る日なんかは、さすがに休もうと思いましたが、馬の方で休むことを承知しません。朝早くから馬小屋の中で跳ね上がったりいなないたりして、どんな天気の悪い日にも勇しく出かけて行きました。
 ところが、二月の末に近づくにつれて、馬の腹がだんだん大きくなってきました。甚兵衛はびっくりして、その大きな腹を撫(な)でてやったり、馬の病気に利(き)くという山奥の隈笹(くまざさ)を食べさせたりしましたが、何のかいもありませんでした。仲間の馬方達(うまかたたち)に見せても、どうしたのか誰にもわかりませんでした。甚兵衛は大層(たいそう)心配しましたが、どうにも仕方(しかた)ありません。これはきっと腹の中の悪魔(あくま)の仕業(しわざ)だろうとは思いましたが、二月の末までと約束したのですから、今更(いまさら)取返しはつきませんでした。それに、馬はただ腹が大きくなったばかりで、体にも元気にも少しも衰(おとろ)えは見えませんでした。
「まあいいや、二月の末まで待ってみよう。害(がい)はしないとあいつは約束したんだから、たいてい大丈夫(だいじょうぶ)だろう」
 そして甚兵衛は、二月の末になるのを待ち焦(こ)がれました。馬は相変わらず元気で、毎日材木の荷車をひきました。

      三

 いよいよ二月の末になりますと、甚兵衛(じんべえ)はほっと安心して、その日一日馬を休ませ、せっかくのことだから今晩まで悪魔(あくま)に宿を貸そうと思って、そのまま馬を小屋につないでおき、うまいごちそうを食べさして、自分は早くから寝てしまいました。
 するとその翌日、三月一日の夜明け頃、馬小屋で馬がひどく暴れてる音がしたので、甚兵衛はびっくりして起き上がりました。行ってみますと、馬は歯をくいしばって、時々苦しそうに跳ね廻っています。いくらそれを静めようとしても、どうしても静まりません。甚兵衛は訳がわからなくて、まごまごするばかりでした。
「甚兵衛さん、甚兵衛さん」
 どこからか自分を呼ぶかすかな声がしましたので、甚兵衛はびっくりしてあたりを見廻しましたが、誰もいませんでした。するとまたどこからか、かすかな声がしました。
「甚兵衛さん、甚兵衛さん」
 その声がどうやら、馬の口から出てくるようでしたから、甚兵衛は馬の口に耳をあててみました。
「甚兵衛さん、甚兵衛さん」
 その声で甚兵衛は急に思い出しました。
「やあ、お前は悪魔の子だな。何だってまだ馬の腹の中にまごまごしてるんだい。もう三月一日だぜ。約束の期限はきれたから、早く出て来いよ」
 すると馬の口の奥から、悪魔(あくま)の子が言いました。
「実は困ったことが出来たんです。いい気持ちで馬の腹の中に住んでいまして、毎日ごちそうをたくさん下さるので、のんきに構え込んでいますうちに、期限が来たのでいざ出ようとすると、私はまるまると肥って大きくなったと見えて、馬ののどにいっぱいになってしまうんです。無理に出ようとすれば出られないことはありませんが、馬が苦しいと見えて、この通り歯をくいしばって暴れて困ります。ですから、馬に一つ大きなあくびをさして下さいませんか。あくびをして口とのどとを大きく開いた拍子(ひょうし)に、私はひょいと飛び出しますから。さもなければ、いつまでも馬の中に住んでるか、または腹を食い破って出るかだけです。そのかわりあくびをさして下さると、この馬を百倍の力にしてあげましょう」
「なるほど、それじゃあ馬にあくびをさせるから、静かにして待っていてくれ」と甚兵衛は答えました。
 ところが、馬にあくびをさせるのが大変です。第一馬のあくびなどというものを、甚兵衛はまだ見たことがありませんでした。脇腹(わきばら)をつついたり、鼻の穴に棒切(ぼうぎ)れをさしこんだりしてみましたが、馬はくすぐったがったり、くしゃみをするきりで、あくびをする気配(けはい)さえもありませんでした。それかってこのままにしておけば、悪魔の子が馬の腹の中でますます大きくなって、自然に腹が裂けるか腹を食い破られるか、どちらかになるかより外はありません。親譲りの田畑を売った金で買った黒馬が、天下一(てんかいち)と自慢していた見事な黒馬が、そんなことになったらどうでしょう。甚兵衛はこれには途方(とほう)にくれてしまいました。
「馬にあくびをさせることを知ってるものはいませんか」
 そう言って甚兵衛(じんべえ)は、仲間の馬方(うまかた)や村の人達の間をたずね廻りましたが、誰一人としてそんなことを知ってる者はいませんでした。甚兵衛はがっかりして家に戻ってきて、とんだことになったと溜息(ためいき)をつきながら、しみじみと馬の顔を眺めました。この馬はやがて悪魔(あくま)のために腹を破かれるのかと思うと、悪魔に宿を貸したのが後悔されたり、馬と別れるのが悲しくなったりして、いつまでも一心に馬の顔を眺めていました。馬は重そうな大きな腹をして、やはり甚兵衛の方を悲しそうに見ていました。
 するうちに、馬の顔を一心に見入っていた甚兵衛は眼がくたぶれてきてぼんやりして、思わず大きなあくびを一つしました。それにつれて馬も一緒にはーっと大きなあくびをし始めました。はっと気付いた甚兵衛が、しめた! と叫ぶと同時に、馬の大きな口から、まるまる肥え太った悪魔の子が、ひょいと飛び出してきました。
「甚兵衛さん、長々馬の腹を借りて、ほんとにありがとうございました。お礼のしるしに、これからあなたの黒馬は百倍の力になりますよ」
 ぴょこんと不格好なおじぎをして、傷のなおった尻尾(しっぽ)を打ち振りながら、宙に飛びあがったかと思うまに、悪魔の子はどこへともなく飛び去ってしまいました。
 その後姿を見送って、甚兵衛はあっけにとられてぼんやりしていましたが、ひひんと一声高く馬がいなないたので、初めて我(われ)に返って、馬の頭を撫(な)でてやりながら、あはははと大声に笑い出しました。

 それからというものは、甚兵衛の黒馬は、百人力……百馬力になって、たいそうな働きをしました。世間(せけん)の人達はあきれ返りました。甚兵衛(じんべえ)一人は澄(す)ましたもので、いつも謎のような鼻唄を歌って、街道(かいどう)を往(ゆ)き来しました。

悪魔(あくま)だからといったって、
困ってるなら泊めてやれ。
悪魔の子供を呑み込んで、
あくびと一緒に吐き出した、
天下第一の黒馬だ。
はいどうどう、はいどうどう。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:12 KB

担当:undef