狸石
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著者名:豊島与志雄 

 戦災の焼跡の一隅に、大きな石が立っていた。海底から出たと思われる普通の青石だが、風雨に曝されて黒ずみ、小さな凹みには苔が生えていた。高さ十尺ばかり、のっぺりした丸みをなしていて、下部を地中に埋め、茶釜大の丸石で囲んであった。その石全体の恰好に、別に奇はなく、人目にはつかないが、然し見ようによっては狸とも思えた。巨大な狸が尻で坐って、上半身をもたげ、真直にすーっと伸び上ってる、そういう姿なのだ。じっと見ていると、ますます狸に似てきて、頭をもたげとぼけた風で空を仰いでおり、眼らしい凹みもあり、前足を縮めてるような突出部もあり、なお見ていると、こちらにやさしく抱きついてきそうである。
 都心に遠く、昔は郊外とも言える土地で、その辺一帯が焼跡になっていて、人家もまだ余り建たず、薄荷の匂いのする青草が茂り、所々に芒が伸びていた。その荒地を分けた小道のほとり、石屋の名残りらしく、大小さまざまな石がころがっていて、その片隅に、巨大な狸が伸び上って空を仰いでるのである。然しその狸石に注意を向ける通行人は殆んどなく、時折その辺へ遊びに来る子供たちが、肩に登ったり、チョークでいたずら書きをするだけで、ただ放置されていた。
 ところが、或る夜、淡い上弦の月が西空に傾いてる頃、その焼跡に、青白い火がどろどろと燃えて、狸石のほとりにぼーっと明るみを投げ、人の姿を浮き出さした。背の高い痩せた蓬髪の男で、狸石の肩のところに両腕でもたれかかり、腕に顔を伏せている。泥酔しているのか泣き悲しんでいるのか、どちらとも分らない。ただ異様なのは、着流しの和服らしいその裾からはみ出している片足が、血まみれになっていた。
 男――ああ、ようやく辿りついた。お前は、よく待っていてくれたね。もうどっかへ行ってしまったかも知れないと、まさかそんなこともあるまいとは思いながら、びくびくしていたが、ここにいてくれてよかった。これで安心だ。何物も恐れないぞ。だが、若しかった。僕の足を見てくれ、血だらけだ。駆けつけて来たんだぜ。煉瓦やコンクリートの破片に躓くし、穴ぼこに落ちこむし、茨に引っ掻かれるし、何度ぶっ倒れたか知れない。それでも、お前がここにいてくれたんでまあよかった。おい、何とか言えよ。
 男――もっとも、お前がどっかへ行ってしまうこともあるまいと、僕は思ってはいたさ。ほんとは、お前を買い取って家の庭に据えたかったんだ。然し、お前も知ってる通り、僕は貧乏なんだ。お前の値段がどれほどのものか、運搬の費用にどれほどかかるものか、さっぱり見当がつかなかった。なにしろでっかい石だからな。だから僕はだいたい諦めて、金持ちの友人に買って貰おうと思ったよ。これは俺の恋人だ。君が買い取って庭に据えておいてくれ、時々見に行くからね、とそう僕は言った。だが、誰も買ってくれる者はない。もし見ず識らずの者に買われたら大変だ。僕だって、いつまでも貧乏だとは限らない。いまに金を儲けたら、君を家の庭に引き取るから、それまで待ってくれ、それまで待ってくれと、心で泣いていたよ。辛かった。切なかった。お前の肩につかまって、幾度涙を流したことか。
 男――それから、戦争さ。僕は遠くへ行った。さんざん苦労をした。だが、お前も、空襲に堪えて、よくここにじっとしていてくれたね。見れば、美しい苔も剥げ落ちてしまってる。火をかぶったのか、黒くよごれてる。子供たちのチョークで、いたずら書きはされてる。でも、そんなことはどうでもいいんだ。無事にここに立っていてくれてること、つまりお前の存在が、それだけが、僕には大切なんだ。もしもお前がどっかへ行ってしまったら、僕はもう……。
 狸石のほとりに、また青白い火がどろどろと燃えた。その明るみの中に、地中から湧き出したかのように、女の姿が現われた。眼鼻立ちはきりっとして美しいが、肉がすっかり落ちて蝋細工のように見え、縞模様も分らぬ着物をまとい、髪を乱していて、死人のような感じである。不思議なことには、男と女は顔を見合せもしなかったが、互に相手がそこにいるのを当然のことと思ってるかのようだった。男はやはり狸石の肩にもたれたままだし、女は狸石の根元にしゃがみこんでいる。
 女――分りましたわ。あなたはやっぱり、あたしよりこの石の方を愛していらっしゃるのね。
 男――それがどうだと言うのかね。
 女――どうとも言いはしません。ただ、そうだと言うんです。
 男――お前はいつもそうなんだ。口先でいくらごまかそうとなすっても、いくら言いくるめようとなすっても、あなたの本心は分っていますと、そういう断定をいつも持ち出す。女の独りよがりの勝手な断定というものは、鉄の壁のようにぎくとも動かない。それに頭をぶっつけると、こちらの頭が砕けるだけだ。だから僕が一歩後にしざると、お前は、それごらんなさいという顔をして、ますます攻勢に出てくる。あたしよりもあの女の方を愛していらっしゃるんですね、あたしに使う金は惜しくて御自分の酒に使う金は惜しくないんですね、風向きの悪い話になると黙りこんでそっぽ向いてしまいなさるんですね、痛いところを突っ突かれると怒鳴りつけて虚勢を張りなさるんですね……何とかかんとか、結局のところ、僕は一片の愛情もないエゴイストで卑怯者で我利々々亡者だということになる。男の複雑な心情がお前にはさっぱり分らないんだ。
 女――ええ、あたしにはどうせ複雑なことは分りません。あたしは単純で、そして現在に生きております。あなたは複雑で、そして未来にだけ生きていらっしゃる。今に、こうなったらこうしてあげる、こうなったらああもしてあげると、先の約束だけで、そしていつまでもその時は来ないじゃありませんか。いつもいつも約束手形ばかりで、その期日が先へ先へと延びていきますと、それも空手形にすぎなくなるじゃありませんか。だからあたしは、もう待つのに倦きました。あなたとあんなことになって、二人とも会社をやめて、あなたには僅かな収入しかないし、あたしはバーに勤めながら借金がふえるし、先の見込もないから、一緒に死にましょうと、かねての約束を持ち出しました時、あなたは何と御返事なすったか、覚えていらっしゃるでしょうね。
 男――覚えてるよ。事情が打開されるまで待とうと言った。
 女――そしてひどく怒って、殴りつけなすったわね。だからあたしも、かーっとなって、あなたのところを飛び出したけれど、それでも待ちました。
 男――いや、お前は待たなかった。
 女――いいえ、待ちました。この狸石に聞いてごらんなさい。あなたがこの石をほんとに好きだってこと、どうかするとあたしよりも好きだってこと、よく分っていました。だから、この石のところまで逃げて来て、あなたが追っかけていらっしゃるのを待ちました。けれど、いくら待っても、あなたは後を追っていらっしゃいませんでした。最後にあたしは、一つ二つと……十の数を数えました。一回数えてもだめ、三回に延して数えてもだめ。五回まで数えました。それでもだめだったから、泣きながら立ち去りました。
 男――いや、僕は追っかけて来たんだ。十を五回数えたんなら、なぜ、七回数えなかったんだ。なぜ、十回数えなかったんだ。そうしたら間に合っていた。
 女――そんなら、なぜあたしは五回まで延したんでしょう。三回でうち切ってもよかった筈です。
 男――十回まで延せばよかったんだ。
 女――三回でうち切ってもよかった筈です。
 男――お前が早すぎたし、僕が遅すぎたんだ。然し、この石はいつまでも待っていてくれた。まだこれから後も待っていてくれることだろう。ねえ狸公、お前は待っていてくれるね。千回でも万回でも十を数えていてくれるね。
 女――それとも、ねえ狸さん、三回でうち切りますか。
 狸石――十を数えるなんて、そんなばかなこと、わしはしないね。
 驚くべきことには、狸石が呟くように口を利いて、頭を振った。男も黙り、女も黙り、そして淡い月も雲がかけて、ひっそりと暗くなった。とたんに、青白い鬼火がどろどろと燃えた。その明るみで見ると、男女二人の姿はいつしか消え失せ、狸石だけがとぼけた顔で空を仰いでいた。
 それから数日後、いつ誰がしたのか分らないが、大きな狸石をはじめ、その辺に転っていた石塊は、すっかり何処へか持ち運ばれてしまい、雑草は抜かれ、きれいに地均しされた。やがては人家が建てられることだろう。狸石ももう人目にふれず、忘れられてしまうことだろう。




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