ピンカンウーリの阿媽
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著者名:豊島与志雄 

 私が行くと、彼女は芍薬の花のような立ち姿でにこと笑ってくれる、それだけで充分だったのだ。十分間差し向いでいても、むつかしいことは言葉が互に通じないので、殆んど無言に等しかった。愛欲の問題など、彼女の方にもなかったし、私の方にもなかった。
 私にとっては寧ろ、彼女は愛欲からの護符だったのだ。青島から出発する前晩、私はまた彼女のところで酒を飲んだ。その時、彼女は覚束ない日本語で言った。
「こんばん、あそびなさい。」
 最後の晩だから、うちの芸妓の一人と遊んでゆきなさい、わたしが許してあげる、そういう意味なのである。
 もし彼女に逢わなかったら、或いはそういうこともあり得たかも知れないが、彼女と知り合った以上、そんなことはばかばかしいのである。
 私は微笑して、頭を振った。
「こんど、また、寄りなさい。」
 旅行の途次、通りかかったら、寄っていきなさい、という意味なのである。
「それは、きっと寄る。」
 油を塗ったような感じのする彼女の手を、私は約束の意味で握りしめた。彼女は私に手を委ねたきり、指先には力をこめなかった。
 その代り、彼女は珍らしく酒を飲んだ。ふくらんだ上瞼と二筋の皺のある下瞼とを、ほんのりと赤らめて、黒々とした眼で私の方をじっと眺めた。その眼を見返すことがどうも私には出来にくかった。眼と眼を見合したら、こちらの心の底まで見透されそうな気がした。見透されたとて、別にわるい下心があるわけではなかったけれど、彼女によりかかり、彼女を愛欲からの護符みたいにしてる、その自分の弱みが、照れくさく思われるのであった。いっそ、彼女に飛びついて抱きしめてやったらと、衝動的な気持ちがちらと動きもしたが、それさえ気恥しくなってしまった。
 なんにも言うことはないのである。共通の話題とてもないのである。ただ彼女のそばで酒を飲んでおれば、それでもう充分なのだ。私は少し酒をすごした。そして酔っ払ってしまった。芸妓の一人が帰って来、私の相手をしてなにかと饒舌りだした時、私は面倒くさくなり、立ち上った。別れの言葉を阿媽さんになにか言ったか、どういう風に別れたか、それも殆んど覚えていない。ただ、も一度握手をしたらしい。油を塗ったような彼女の手の感触が、あとまで私の掌に残っていたのである。
 彼女にはそれきり逢わない。逢う機会もありそうにない。第一、彼女はあのままでいるのか、あれからどうしたのか、生死のほども分らないのだ。
 けれども、へんなところで、私は彼女に逢うことがある。
 先般、旅行中に、したたか酒に酔い、女たちとも戯れていた際、席にいた一人の女性に、私はピンカンウーリの阿媽さんを見た。年はずっと若く、容姿は可なり劣るが、全体の感じが彼女によく似ていた。私はそのひとを見ているうちに、心平らに気なごやかになって、まずい唄なんか口ずさみながら、安らかな眠りにはいった。もしそのひとがいなかったらつまらない不行跡をしたかも知れない。この場合にも、彼女は私にとって、愛欲からの護符だった。
 それよりも、もっと不思議なことがある。
 或る深夜、私は酒に酔って、ふらふらと帰路についたが、自宅の近所になって、突然、方向が分らなくなってしまった。真直に行くのか、右へ曲るのか、左へ曲るのか、全然分らないのである。平素歩き馴れてる所だけれど、まるで狐にでも化かされたように、見当がつかないのだ。
 暫く立ち止り、いくら考えても分らないし、ただふらりと、路傍の草むらの中にはいって行ったものらしい。空襲の焼け跡の荒地で、背高く繁茂してる雑草が冬枯れになっている。その中に私は寝転んで、高声に何か歌いながら、空の星を眺めた。
 オリオン星座が中天近く輝いている。
 その美しい星座を見ていると、ふと、ピンカンウーリの阿媽さんを思い出した。ばかりでなく、彼女の姿がはっきりと空中に顕現したのである。それが宙に浮いて、私の方をじっと見ている。私は虚を衝かれた思いで、眼を醒した気持ちになり、立ち上って、家へ帰って行った。なんのことはない、道筋ははっきりしてるし、真直に家へ帰りついた。
 そういうわけで、今、ピンカンウーリの阿媽さんへ、私は感謝の気持ちもこめて、手紙を書こうと思うのだが、書くことはただ、鳥の声とか日の光りとか身辺の器具とか、意味のないつまらないものに就いてだけだ。然し、こういう埒もない手紙を書く相手を一人持ってることは、人生の幸福の一つだという感じが深い。
 手紙とは言うものの、相手の近況も分らないから、これは単に夢想の中のものであろうか。




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