或る日の対話
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著者名:豊島与志雄 

 私は返事もせず、彼の方を振り向きもしなかった。彼の話には、初めから皮肉な調子がこもっていて、それが次第に強くなり、話そのものまで眉をひそめてるかのようだった。
「え、どう思うか。」と彼は促した。
「皮肉が言いたければ、外の話題を選ぶがいい。」と私は答えた。「そんな、拵えもののお伽噺は、やめたがよかろう。」
 彼は私の方をじっと見ながら、暫く黙っていた。それから笑った。
「だがね、たとえお伽噺にせよ、最後のところは、お前の口癖をまねたんだぜ。」
「いや、俺はどんなことにも、眉をひそめやしない。」
「きっとか。それならば、こういう事柄をどう思うか。」
 こんどは、彼が煙草をふかしはじめた。そして言った。
「俺は嘗て中国に旅行した時、田舎の貧しい町の商店を見て、淋しく思った。その店々には、商品らしいものは殆んどなく、人間のけはいも乏しく、ただがらんとして佗びしく、そして乱雑で埃がいっぱいたまっていた。ところが、近頃の東京の店々が、それと全く同じじゃないか。商品と人間との影が薄らいで、乱雑ながらくたと日を経た埃とだけが、商店の内部にのさばっている。銀座通りにまで、まだそんなのが多い。――これをお前はどう思うか。
「また俺は、嘗て台湾に旅した時、本島人の住む街路で、人家の出入口などに、大きな石や煉瓦がころがっているのを、しばしば見かけた。ちょっと取り片付ければなんでもないのに、いつまでも通行の邪魔になるままに放置されていた。ところが、近頃の東京の町々にも、それと同様なことが、見られるじゃないか。殆んど収穫の見込みもないちっぽけな菜園の土盛り、防空壕の埋め跡の凸凹、そんなのはまあいいとして、瀬戸物の破片や、焼けトタンや、石ころや、壊れた屋根や煉瓦など、僅かバケツ一杯ぐらいの量のものが、垣根に放置されて、通行の邪魔をしている。――これを、お前はどう思うか。
「美に対する感覚の麻痺とまでは、俺は言わない。なりふり構わぬ心のすさみの現れとまでは、俺は言わない。だが、つまりは、能動性を失った投げやりな精神、成りゆき任せの無関心さと、大袈裟に言えば言えないこともない。ところで、周囲への生活的関心が次第に狭まってくる現象は、賤しい乞食へと堕落してゆく場合と、高度な文明人へと発達してゆく場合と、地上のことを忘れて天上のことに専心してゆく場合と、三通りある。右のことは、その三つのうちのいずれと思うか。」
 私は黙って答えなかった。彼は言った。
「答える必要がないと、お前は言うのだろう。或は、余りに卑俗な説だと、お前は言うのだろう。だが、こういう裟婆気もお前には必要だからな。」
 そして彼はにやりと笑った。この場合の笑い、普通ならば皮肉な揶揄的なものになる筈だが、彼のはその反対で、なにか駄々っ児らしいそして邪気のないものだった。
「分ってるよ。」と私は言った。「俺の寂寥が余りに形而上的だから、少しは足下にも気を配れと言うんだね。」
 彼は、返事の代りにまたにやりと笑った。私もそれにつりこまれて笑った。
 寂寥はいつのまにか消散して、硝子戸の外、ただ斜陽が明るく、その明るさが私の心の隅々にまで浸透してきた。
「焼跡へ散歩にでも行こうか。」と彼は言った。
 そして私は彼と連れだって外に出た。爽かな夕方だった。私は彼となおいろいろな話をしたのである。だがそれらは、別な事柄に属するので茲には省略する。




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