風俗時評
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:豊島与志雄 

      H

 女学生の「キミ、ボク」の言葉が教育界の問題となった。だが、こういう言葉を使ってる女学生は甚だ少数で、而も一般女学生からは顰蹙されている。こういう言葉は恐らく、有閑マダムか女給などの間に発生し、新聞の娯楽面や或る種の小説などで宣伝されて、急に拡まったものであろう。
 こういう種類の言葉を若い女たちが使用する心理のうちには、単なる物珍らしがりの外に、新しい礼儀作法への翹望が、漠然とではあろうが含まれている。女の礼儀作法は急激に変革しつつある。二三言云っては低くお辞儀をし、また二三言云っては低くお辞儀をし、かくて際限もなく続く応待の仕方などは、今では甚だ珍妙なものとなってしまった。街頭で夫人同士が出逢って、そういう挨拶をしてるうちに、洋髪のピンが弛んで、付髷が地面に落ちたなどということは、数年前のことながら、今では昔の笑い話としか受取れない。
 今では、若い懇意な間柄では、いきなり握手をすることさえ行われ、それが相当身についてもきた。だが不思議なのは、最も伝統的な古い組織の中に生きてる芸妓仲間では、往来などで行き合う時、立止って話をする必要もない場合には、頭と目差との僅かな微妙な動かし方だけで、一切の挨拶が済んでしまうことになっている。こうした作法の簡易化は、決して礼儀の乱れたことを意味するものではない。
 所謂遊ばせ言葉は、上流婦人の間でも急激に退化しつつある。だが、「さよなら。」の意味で使われる「御機嫌よろしゅう。」の一語は、充分に生きているし、殊に電話などで最後に云われた「御機嫌よろしゅう。」は、快い響きを耳に残す。
 作法や言葉は、殊に女の場合、身につくかつかないかということに微妙な問題がある。それは各個人的なそして全身的な事柄であって、抽象論は用を為すまい。女にとって最も非美的なのは標準作法や標準語であると、こう逆説的に云えば、それは女を文化的に軽蔑したことになるであろうか。

      I

 ラジオの演芸のために、晩酌の習慣がついたとか、或は晩酌の銚子が一本殖えたとかいう話を、屡々聞く。
 凡そ晩酌ほど愚劣な風習はない。フランス料理につき物の葡萄酒と違って、日本酒は、必ずしも日本料理につき物ではなく、単にアルコール性飲料との意味合を多分に持つ。その日本酒を家庭で毎晩、而も家長或はそれに類する人だけが摂取するということは、隠居という観念が死滅した現代では、全く意味を為さないばかりか生活力の減退を来す。禁酒の必要はないが、晩酌の禁止は必要である。健康上から云っても、毎晩一定量の酒を飲むことよりも、一週に一回ほど徹底的に飲酒する方が、まだ無害であり、殊に精神的にはそうである。
 この晩酌を助長するようなものが、ラジオの演芸放送に果してあるのであろうか。罪は勿論、晩酌をする本人にあるであろうし、或はラジオの聞き方にあるであろう。だが、演芸と云えば、恐らく日本演芸のことであろうし、日本演芸には、酒の座席にふさわしい情緒、或は生活逃避的な気分が、伝統的にあった。昔は、歌舞伎芝居も飲食しながら見物されたものであるし、講釈も昼席で枕をかりて寝転びながら聴かれたものである。所謂国粋的演芸ばかりでなく、現代の流行小唄が如何なるものであるかは、人の知る通りである。
 現代の苦渋な生活に、慰安や娯楽は固より必要である。また、殊に現時の事変下の生活に、晩酌は断じて不用である。この間の矛盾を解決するものは、恐らく将来の科学的テレヴィジョンでもあろうか。ラジオの放送当事者も聴取者も、一考すべきであろう。

      J

 日本人には含羞的性質が多分にあると云われている。世間体とか人前とか体面とかいう事柄に対する関心は、その現われであろう。然るに、この含羞的と凡そ反対なものの一つに、洗濯物の処置がある。身につける如何なる物も、それが洗濯盥から出て来たものでさえあれば、屋上や軒先にへんぽんと飜えして憚らない。高架線の電車の窓などから見られる東京市の壮観は、洗濯物羅列を以て第一とするとさえ云われる。
 入浴を好む者はまた洗濯をも好む。否、これは好みではなくて、既に身嗜みの一つであろう。羽二重の裏をつけた木綿の半被をひっかけ、素足に草履をつっかける、そうしたいなせな風姿が昔は市民の風俗のなかに確立されていた。この羽二重の裏も素足も、特殊な身嗜みから出発したものであろう。如何に襤褸をまとおうとも、肌には垢をためず、肌につけるものは清潔にしておくということが、一つの矜持として、根深い伝統になっている。首を切る或は切られることが、首筋を洗って云々の言葉で表現されるには、かかる風習の裏付けがあって始めて可能であろう。現在でも、衣類の襟垢の有無は、人柄を判断する一つの鍵とされることがある。庶民の家婦の仕事のうちで、洗濯は重要な部門となっている。
 然るに、洗濯物の処置については、一向に考慮が払われていない。これは、日本の家屋が、都会にあってさえ、集団住宅でなく個別住宅である故もあろうし、また湿潤な気候のために、壁の中に窓があるのではなく窓の中に壁があるという、そうした構造になっている故もあろう。かくして常に、屋上や軒先に洗濯物がへんぽんと飜えり、此処だけは、世間体とか体面とか羞恥心とかは打忘れられて、自他共に怪しまない状態になっている。
 アパート其他の集団住宅では、既に、洗濯物の処置について多少の考慮が払われているようだが、それも全く、多少のという程度に過ぎない。窓の中に壁があるような構造を必要とする気候であり、個別住宅が主となっている現状に於て、都市生活のことを考慮する者は、洗濯物の処置についても更に一考すべきであろう。

      K

 東京に於て、新たに、二つの生活的ルンペン性が見られる。
 一つは、頸白粉の若い女たちである。旧市域の辺境あたりに多い。恐らくは、カフェーやバーなどの後を追って著しく殖えた小さな特殊飲食店、小料理屋とかおでん屋とかの女中たちでもあろうか。平素どんな生活をしているのか、私は知らない。
 彼女等は、朝から、顔は素肌で、清い血色の少い或は濁った血色の多い皮膚をむきだしにしているが、耳から□へかけた一線より下の頸筋には、真白に白粉をぬりたてている。前夜の白粉をそこだけ洗い残しているのであろう。襟白粉ではなくて、全く頸白粉の語がふさわしい。
 頸白粉の彼女等には、生活の放逸性さえももはやなく、ただ生活のルンペン性がある。もう彼女等は、普通飲食店の女中は勿論、カフェーやバーの女給をさえも、勤め難い状態に立到ってるがようである。
 第二は、草履ばきで、多くは板裏などの草履ばきで、小料理屋やおでん屋などに立現われる、蒼白い若い男たちである。浅草や江東などに多い。
 彼等の草履ばきは、昔のいなせな兄い連のそれと異るのは勿論、現代の大工や植木屋など、道具箱をかついでさっさとした足取りのそれとも、全く異るのである。そしてその足先は大抵よごれている。労働の泥ではなく、怠惰の埃をかぶっている。彼等がどういう生活をしているか、私は知らない。彼等は殆んど怒鳴ることなく、喧嘩することは更になく、酔っ払うことも少く、ひそひそと語り、ちびちびと飲んでいる。
 その打明話はこんなことに帰着する。――解雇されないからぐずぐず働いてるようなものの、店はいつつぶれるか分りはしない。転業が問題になっているが、自分の転職も、さっぱり見当がつかない。そして、十時に街路は戸が閉り、街灯だけが明々として、電車の走ってるのも淋しく、何だか自分が世の中から取残された感じだ、云々。
 商店法に依る十時閉店の街路は、多くの人には生活緊張の感を与えるものであろうが、或る種の人には、世の中から自分だけ取残されたという感を与えるものらしい。否、与えるのではなく、そういう感を受取るものらしい。そして彼等のうちには、おそろしく平凡低調な善良さだけがあり、そこに生活的ルンペン性がひそんでいる。
 都市の中心から外れた小料理屋やおでん屋に巣喰ってるところの頸白粉の女や板裏草履の男――而もまだ若いそれらの男女は、何によって救われるのであろうか。

      L

 日本の神社には、大抵、鳩と亀と鯉とがいる。そして大抵、大勢の子供たちがそれらに餌などやって遊んでいる。この風景は、如何なるものよりも微笑ましい。例えば、公園や動植物園やまたは特殊の有料遊園などの、如何なる風景を取ってきても、右のものには及ばないだろう。そしてこれは、日本的なものの一種の象徴の域にまで高まるものを持っているし、支那大陸に相通ずるものを持っている。神社の清いのびやかな境内で、鳩と亀と鯉とに戯れてる朗かな子供たちの写真を、故国を想う出征兵士たちに贈りたいものである。

      M

 子供――殊に幼児――を連れて外出するということは、次第に少くなりつつある。この現象は列挙すればいくらもある。劇場や映画館で子供の泣声が聞えることは、甚だ稀になったし、子供の姿を見かけることも少くなった。百貨店内でも同様である。電車の中でも、子供の数は著しく減少しているようである。また往来で、乳母車を見かけること少く、背に子供を負った者は固より、胸に抱いてる者まで、甚だ少くなった。普通の交際で、子供連れの客が減少したことは、どこの家庭でも知っているだろう。
 このことは、一般の家庭に於て、殊に若い母親の方面に於て、子供の取扱方が異ってきたことを意味する。つまり、子供というものが、母親を初め大人の身辺から、或る程度切り離されて、家庭内で一個の存在となってきたのであろう。――育児ということが、具体的に新たな意味を持ってきた。
 ところで、映画館や百貨店などの人込みの中から、或は大人の背中に結びつけられることから、或は他家のもてなしの不馴れな食物から、或は母親の身辺への盲目的な密着から、子供が解放されるということは、子供のためによいことであろう。――乳不足の若い母親が多くなりつつあるのは、憂うべきことながら、その代りに、牛乳や人工乳が発達してきたことは、子供のためによいことであろう。育児上の種々の知識を以て、傍から見守られることは、子供のためによいことであろう。――然しながら、種々の意味で解放され且つ見守られてはいても、家庭内で、子供は果して如何なる存在地位を与えられているであろうか。
 日本ほど子供を愛する国はないと云われている。それは永く事実であってほしい。けれども、時として盲目的な愛は相手の存在的地位を無視することがある。大人の風習が、殊に若い母親たちの風習が、急激に変化しつつある現在、子供について充分の考慮が必要であろう。

      N

 東京の目貫の街路で、何かの記念的行進などが行われる際、以前は、どの門口もどの窓も多くひっそりとしていて、静粛に立並んでる姿やひそかに覗いてる顔などしか見られなかった。然るにこの頃では、頗る華かな光景を呈する。銀座通りなどでは、行列に向って、周囲の窓から、ハンカチが打振られ、テープや花が投げられ、歓呼の声が浴せられる。――街路や建物と同様、ひどく欧米風なのである。――これは単なる欧米模倣ではなく、映画をはじめ種々のものから来る文化混和の結果でもあろうか。
 地球の表面が急速に短縮されつつある現在、風俗習慣も急速に、世界的混和の方向を取りつつある。東京に於ては既に、世界の如何なる土地の如何なる服装も儀礼も、驚異に価しなくなっている。そればかりか、多くのものを呑みこんでさえいる。――洋食の宴会に於ては、日本服が却って珍らしく目立つほどである。畳の上の座席に於ても、客を招待した当人が床柱を背にして着席するようなことが、やがて起るかも知れない。――若い女の結髪の様式は、服装の如何を問わず、既に世界的水準に従っている。
 こういう現状であるから、或る特殊な気運とか必要とかのために、特定の服装や作法を立てることは甚だ容易であると共に、また偏狭な見解を排斥しなければならないだろう。そして肝要なのは、それが日常化されるか否かにある。――市内の防護団の服装は、漸くズボンだけでも日常に多少使用されてることは、或る点までの成功と見てよい。之に反して、国防婦人会の上被と襷とは、失敗と云って差支えない。防空演習の女のモンペイも、考慮すべき点が多いであろう。――イタリーやドイツの団服のことは茲では云わず、満洲の協和会の服装の成功を、考察すべきである。

      O

 さて、風俗時評其他風俗に関する言説の困難さを、私はつくづく感ずるのである。
 風俗は形に現われたものである。思想や感情や生活態度の現象的表現である。だから眼で見て直ちに掴まえられるものではあるが、それが単に一般的なものであるか特殊的なものであるか、つまり、如何なる意味で思惟の対象になるか、それを見分けることが甚だ困難なのである。そしてともすると、現象の批評からふみ出して、文化的な或は社会的な批評の方面へ筆が滑りがちになる。――文化時評とか社会時評とかならば、書くべきことは無数にあるであろう。然し風俗時評となると、現実の現象に制限されて、書くべきことが甚だ乏しくなる。
 風俗に関係ありそうな現象で、取上げたいものはいくらもある。例えば、この頃の青年たち、殊に学校卒業間際の学生たち、彼等の会話を聞いていると、日本と満洲と支那とは既に一つの合同地域となっている。その間に何等の境界も存在しない。互に関連をもってるただ一つの広大な職場であり、ただ一つの文化圏内なのである。思想的に、更に感覚的に、無境界な一地域なのである。――そういうところから、如何なる風俗的なものが生れるであろうか。それを考えるのは楽しみである。然しそれはまだ、風俗として取上げるべき何物も持ってはいない。
 風俗のことを考える時、右のような事柄に幾つも出逢う。而も風俗のことを余りに考える時、右のような事柄はいつしか忘れられる。これについて警心の要が多い。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:22 KB

担当:undef