風俗時評
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著者名:豊島与志雄 

      A

 神社参拝は、良俗の一つとなっている。明治神宮や靖国神社など、国家的な国民的な神社へ、祈誓のために参拝することは別として、町々村々にはそれぞれ、氏神や其他の神社があり、常に参拝の人がたえず、非常時に際して、支那事変に際して、参拝者は殊に多くなった。
 氏神や其他の神社、云わば民衆的な神社へ、参拝してる人々の姿態、それは本来、清く明るく朗かであるべきことが、希望されるのである。なぜなら、それらの参拝は本来、感謝を主としたものであるだろうから。祭礼日の参拝は、生活の楽しみを感謝し且つ祈るものであり、七五三の参拝は、子供の生長を感謝し且つ祈るものであり、日常の参拝も、そういう線上に於てなさるるのである。つまり、将来への希望をこめた現在の感謝である。
 然るに、近頃、数多い参拝者の姿態に、何かしら切迫した陰影、云わば必死に取縋ろうとしてるようなものが、目につく。戦地にある人々の武運長久を祈るのは、誰しも同じ思いであろうが、そういうことと違って、一層個人的な一層打算的なものの匂いがする。これは、生活があまりに窮迫してるせいであろうか、心情があまりに衰弱してるせいであろうか。それはとにかく、個人的な願用を主とした参拝は、これは良俗とは云えない。神社以外に於ても、種々の講中の威勢のよいお詣りなどは、見ても愉快なものであるが、御利益あらたかなお稲荷様への深夜の憂欝なお詣りなどは、世の中を明るくするものでは決してない。
 態度は心意の如何によって決定される。感謝を主とした参拝の態度と、願用を主とした参拝の態度とは、おのずから異るものであって、後者の態度が近頃多く目につくということは、識者の一考再考を要する。殊に、態度が心意を決定する場合があるに於ては、猶更である。

      B

 婦人の洋装に、殊に若い婦人のそれに、一つの種類が近頃目立つようになってきた。
 職場的洋装、というと変だが、例えば、バスの女車掌のそれ、デパートの女店員のそれ、喫茶店の女給のそれ、其他、個々のオフィス・ガールのそれなど、各職場の事務服としての洋装は、大抵、既にしっくりと彼女等の身についているし、必要なものでさえあり、少しも不自然ではない。女学校の制服と似たものである。
 次に、個人的好みからの、そして行動の便宜からの、洋装がある。野球場や、映画館や、新劇の劇場や、用達しの急ぎ足の街頭などに、そういう簡素な洋装が見られる。これはまだ、前のものほどしっくり身についてはいないが、然しひどく不自然ではなく、そして幸なことには、若々しい元気が見えており、実務的行動の頼もしい匂いさえある。
 さて、それらのもののなかに、それらのものが多くなってきた故でもあろうか、他の一種の洋装が目立つのである。一言で云えば、おしゃれのためのそれであり、流行の先端を切ったつもりらしいそれである。そしてこの種の洋装はまだ大抵、彼女等の体躯ではこなしきれないでいる。
 女にとって、洋装は和装より簡単であろう。肌につけるものから順次に比較しても明かだし、和装の半襟や帯とその付属品一切の繁雑さを考えても明かである。けれども、この種の彼女等は、簡単なるがために洋装をしてるのではない。映画女優めいた丹念な顔の化粧、厄介なセットを要する毛髪のウェーヴ、時間のかかるマニキュア、そういうものを考え合せれば、洋装は一種のおしゃれであることが分る。日本髪の芸妓が少くなり、お座敷で雛妓が蓄音器に合せて流行小唄を踊り、カフェーやダンスホールが繁昌する時だから、おしゃれの洋装が銀座街頭を濶歩するのも、無理からぬことかも知れない。
 然しながら、他の種類の洋装が、既に日本の女の身体にほぼついているのに、この種の洋装のみが、何故うまく着こなせないでいるのであろうか。外でもない、単におしゃれだからである。こうしたおしゃれが身につかないということは、ハイカラなめかしやの悲哀であろうが、この種の悲哀が深いほど益々社会は健康であろう。

      C

 銀ブラということは、数年前からの流行語であり、銀座というところは、東京の名所で、地方から来た人は、デパート三越などと共に銀座を見物するようになった。これは、東京で銀座が最も都会的だということからの、おのずからの結果であろう。そしてこの、最も都会的だということは、最も街頭的だということのようである。
 どうしてそうなったかは問わないとして、銀座は実際、他の何処よりも街頭的な感じがする。試みに、銀座で何か買物をしたとすれば、他の何処で買ったよりも、街頭で買ったという感が深い。
 買物ばかりではない。飲食の場合もそうである。カフェー、バー、新興喫茶店、小料理屋、鮨屋、ビヤホール、それらのところで、酒を飲むとすれば、それは街頭で飲んだ感じである。他の処では、如何に街頭に面したおでん屋でも、飲んだ酒は屋内で飲んだことになるが、銀座でだけは、屋内でなく街頭で飲んだことになる。新宿や浅草の盛り場でも、恐らく銀座ほどの街頭感はあるまい。銀座に於ては、菓子を食い珈琲を飲むのは勿論、相当な料理屋で夕食をしても、それが大抵、街頭でなされたことになる。銀座で女に戯れるのは街頭で女に戯れるに等しい。
 都会生活というものは、それが深まれば深まるほど、街頭的となるようである。街路はもはや道路ではなく、都会という大なる建造物の廊下であって、既に廊下である限り、屋内と屋外との区別は不明瞭となる。街頭的ということは、廊下的ということである。
 銀座の街路は、道路であるより多く廊下である。そしてこの廊下、万人共通のものである。だから多くの人は、取澄しまた着飾っている。道路でよりも共通の廊下での方が、人は見栄を気にするものらしい。そして見栄から種々の流行が生れるのであろう。

      D

 帝都の上空を飛ぶ飛行機――殊に軍用飛行機に対して、事変以来、市民の態度が著しく変ったようである。以前は、飛行機の爆音を耳にし、或は飛行機の姿を認めても、街路を行く人々はただ、ははあ飛んでいるなと内心に思うだけで、むしろ素知らぬ様子をすることが、文化人らしい一つのポーズでさえもあった。特殊な長距離飛行機など、一種のスポーツ的興味を伴うものは別として、普通の飛行機に対する関心は、謂わば田舎者めいた野暮くさいものとの感じがあり、街路に立止って飛行機を眺めるなどは、一般の人々の――殊に、悲しい哉インテリ階級の人々の、へんに照れくさい思いをする事柄だったのである。
 然るに、事変以来、飛行機に対する関心は俄然高まり、機影を認める時は固より、その爆音を聞いただけでも、会話を中止し街路に立止って、相手の肩を叩きかねない様子で上空を仰ぐことが、自然のこととなり、時には、尖端的な文化人らしい態度とさえも是認されるに至った。
 この変化は、注目に価する。そしてこれは勿論、戦地に於ける我が軍用飛行機の壮挙、渡洋爆撃とか荒鷲とかいう言葉が明示するような壮挙によって、飛行機の実効的性能が市民の心に感銘されたからであろうが、然しなおその上に、飛行機というものが、勇敢な行動性を象徴するものとなり、一の思想の域にまで高まったからであろう。即ち、勇敢な行動性の最も具象的なものが、現在では飛行機なのである。
 一般市民の、殊にはインテリ階級の、飛行機に対する関心は、だから、一種のスリルと飛躍とを持つ勇敢な行動性への翹望とも見られる。かかる翹望が窒息しない間は、大都市も老朽しないであろう。このことは、戦争の面以外への拡がりを持つ。

      E

 汽車の内部の光景――殊に、宵に発車する長距離の急行列車で乗客の多いものなどの内部の光景には、考えさせられるものがある。例えば、東京駅を宵の八時か九時頃に発車する神戸行とか下関行とかの、急行列車をとってみるがよい。そして三等車よりも二等車が最もよい。
 これらの列車は、いつも乗客がこんでいる。然るに、東京駅で乗りこむが早いか、直ちに二人分の座席を占領して、長々と寝ころび、枕まで持出している者が、随分ある。それ故、品川や横浜あたりで乗車した気の弱い者は、時とすると、座席がなくて長く立たされることがある。寝台車の喫煙室の方に行ってみても、そこはまだ寝ずに語りあってる人々でふさがっているし、食堂も満員だし、彼はまた普通車の方に戻ってきて、室の隅に、或は連れの者の側に、佇むの外はない。而もすぐ近くには、二人分の座席に寝そべっている者が幾人もあるが、身を起して半分の席を譲ろうとする者もなく、通りかかる車掌も、この不公平な有様に無関心らしく、座席の整理などはしてくれない。漸くして、多少親切な人の情けによって、座席を得るのを待つだけである。
 二人分の座席に寝そべってる方の人々にも、いろいろ口実はあろう。ひどく疲れてるのに寝台がとれなかったとか、或は自分が起きて席を譲らなくても、誰かがそうしてくれるだろうとか、兎に角、寝そべってるのが自分だけでないというのが口実になるのであろう。
 それにしても、立ってる方の人が、なんと温和なことか。彼は別に渋面もしていない。寝てる人を起し、或は車掌に頼んで、一人分の座席の当然の権利を主張することもしない。ただ誰かが自発的に席をあけてくれるのを、気長く待ってるだけである。
 朝鮮や満洲や北支などの列車内で、日本人が威張りちらしてるというような話は、よく聞かされるところである。然るに、東海道線の夜の二等車内の光景は、それに相反するものであって、これを、何と解釈したらよいのか、兎に角、なごやかなことである。而も、立ってる方と寝そべってる方と、直ちに地位を変り得るのだから、更に妙である。或はこういうところに、日本人の集団戦闘に強い所以があるのでもあろうか。

      F

 これは少しく一般的なことになりすぎるが、東京を訪れた外国人の印象として大抵、事変下の帝都の有様が平常と余り変りないのを驚歎的に語ってることが報ぜられている。実際、帝都の有様は平常とさほど変ってはいない。だがそれかといって、徹底的な灯火管制でもやれというのか。酒や煙草を全廃せよとでもいうのか。全部下駄ばきにでもなれというのか。常住不断に深刻な顔をでもせよというのか。
 帝都の有様は、事変下にあっても悠然としている方がよかろう。考えてみれば、大都市にあっては、直接の銃後の勤めなるものが存在し難い。如何に精神を緊張さしても、各自の日常の仕事に精励する以外、直接には、消費面の節約以外に為すべきことが見出し難い。農村にあっては、出征者が最も強力な勤労者であり、出征者のある家の仕事を、皆で相寄って為してやるのを第一として、さまざまの直接な勤めが見出される。然るに大都市では、オフィスの勤務など屋内的なことばかりで、それも補充人員には不足はなく、為すべき仕事が見出し難いのである。而も軍需工業の濡いは都会に氾濫して、花柳界は賑い、箱根や熱海の旅館は満員とくる。
 帝都で直接的な仕事を最も持たない青年学生が、休暇の間に地方農村に散らばって、そこで何を感得して戻ってくるか、そしてそれがどういう風に帝都の空気に影響するか、或は何等の影響をも与えないほど無力であるか、これこそ問題にしてよかろう。風俗の問題は、結局精神風景の問題である。

      G

 箱根、日光、富士山麓、軽井沢など、自然の美と交通の便宜とに恵まれた土地の、安易なホテルのホールなんかでは、よく、家族か親しい仲間かの数人の、午後のお茶の集りが見受けられる。その中で、欧米の白人の連中は、いろんな意味で人目を惹く。大抵、彼等の体躯は逞ましく、色艶もよい。眼は生々と輝き、挙措動作は軽快で、溌剌たる会話が際限もなく続く。心身ともに、精力の充溢があるようである。之に比較すると、日本人のそうした集りには、あらゆる点に活気が乏しい。見ようによっては病身らしく思える身体を、椅子にぎごちなくもたせて、動作は鈍く、黙りがちにぼんやりしている。精力の発露などはあまり見られない。
 然しながらこれは、体躯の大小は別として、日本人に精力が不足してるからだとばかりは云えない。第一に、日本人は余りに自然に親しみすぎている。伝統的に自然の息吹きに感染しすぎている。だから、明媚な風光に接する時には、家郷的な親しみが深く、おのずから保養的な気分に静まることが多い。自然を享楽する意味合よりも、自然の中に自らを保養する意味合の方が多い。
 第二には、日本人の社交性の乏しさが挙げられるだろう。ただ茲に、注意すべき一事がある。日本人は、太平洋の中に浮んだ一隻の船に乗合わしてるようなもので、日常他国人との交渉も少く、お互同士の社交性はさほど必要でなかったに違いない。それ故にか、或は他の原因でか、日常の私生活に於て、妙に精力を蓄積する術を心得ている。汽車や電車の中などで寸暇をぬすんで仮睡する才能なども、その一つの現われであろうか。下らなく動き廻ったり饒舌り散らしたりすることは、精力の消費と考えられ易いのである。それに近い道徳もあった。
 それはそれとして、新たな風潮が起りかけている。主に銀座を舞台とする、新時代人の野性的な交際や論議である。飲酒や漫歩や饒舌が、もはや精力の浪費ではなく、直ちに精力の原動力であり、更に云えば、直ちに思惟そのものとなる。それによって、仕事の能率は倍加されるのである。銀座を多欲的生活の享楽地としてる人々を謂うのではない。銀座を一種の在野的サロンとしてる人々を謂うのである。こういう人々のために、銀座は明朗な清純な一隅を用意してやらなければなるまい。

      H

 女学生の「キミ、ボク」の言葉が教育界の問題となった。だが、こういう言葉を使ってる女学生は甚だ少数で、而も一般女学生からは顰蹙されている。こういう言葉は恐らく、有閑マダムか女給などの間に発生し、新聞の娯楽面や或る種の小説などで宣伝されて、急に拡まったものであろう。
 こういう種類の言葉を若い女たちが使用する心理のうちには、単なる物珍らしがりの外に、新しい礼儀作法への翹望が、漠然とではあろうが含まれている。女の礼儀作法は急激に変革しつつある。二三言云っては低くお辞儀をし、また二三言云っては低くお辞儀をし、かくて際限もなく続く応待の仕方などは、今では甚だ珍妙なものとなってしまった。街頭で夫人同士が出逢って、そういう挨拶をしてるうちに、洋髪のピンが弛んで、付髷が地面に落ちたなどということは、数年前のことながら、今では昔の笑い話としか受取れない。
 今では、若い懇意な間柄では、いきなり握手をすることさえ行われ、それが相当身についてもきた。だが不思議なのは、最も伝統的な古い組織の中に生きてる芸妓仲間では、往来などで行き合う時、立止って話をする必要もない場合には、頭と目差との僅かな微妙な動かし方だけで、一切の挨拶が済んでしまうことになっている。こうした作法の簡易化は、決して礼儀の乱れたことを意味するものではない。
 所謂遊ばせ言葉は、上流婦人の間でも急激に退化しつつある。だが、「さよなら。」の意味で使われる「御機嫌よろしゅう。」の一語は、充分に生きているし、殊に電話などで最後に云われた「御機嫌よろしゅう。」は、快い響きを耳に残す。
 作法や言葉は、殊に女の場合、身につくかつかないかということに微妙な問題がある。それは各個人的なそして全身的な事柄であって、抽象論は用を為すまい。女にとって最も非美的なのは標準作法や標準語であると、こう逆説的に云えば、それは女を文化的に軽蔑したことになるであろうか。

      I

 ラジオの演芸のために、晩酌の習慣がついたとか、或は晩酌の銚子が一本殖えたとかいう話を、屡々聞く。
 凡そ晩酌ほど愚劣な風習はない。フランス料理につき物の葡萄酒と違って、日本酒は、必ずしも日本料理につき物ではなく、単にアルコール性飲料との意味合を多分に持つ。その日本酒を家庭で毎晩、而も家長或はそれに類する人だけが摂取するということは、隠居という観念が死滅した現代では、全く意味を為さないばかりか生活力の減退を来す。禁酒の必要はないが、晩酌の禁止は必要である。健康上から云っても、毎晩一定量の酒を飲むことよりも、一週に一回ほど徹底的に飲酒する方が、まだ無害であり、殊に精神的にはそうである。
 この晩酌を助長するようなものが、ラジオの演芸放送に果してあるのであろうか。罪は勿論、晩酌をする本人にあるであろうし、或はラジオの聞き方にあるであろう。だが、演芸と云えば、恐らく日本演芸のことであろうし、日本演芸には、酒の座席にふさわしい情緒、或は生活逃避的な気分が、伝統的にあった。昔は、歌舞伎芝居も飲食しながら見物されたものであるし、講釈も昼席で枕をかりて寝転びながら聴かれたものである。所謂国粋的演芸ばかりでなく、現代の流行小唄が如何なるものであるかは、人の知る通りである。
 現代の苦渋な生活に、慰安や娯楽は固より必要である。また、殊に現時の事変下の生活に、晩酌は断じて不用である。この間の矛盾を解決するものは、恐らく将来の科学的テレヴィジョンでもあろうか。ラジオの放送当事者も聴取者も、一考すべきであろう。

      J

 日本人には含羞的性質が多分にあると云われている。世間体とか人前とか体面とかいう事柄に対する関心は、その現われであろう。然るに、この含羞的と凡そ反対なものの一つに、洗濯物の処置がある。身につける如何なる物も、それが洗濯盥から出て来たものでさえあれば、屋上や軒先にへんぽんと飜えして憚らない。高架線の電車の窓などから見られる東京市の壮観は、洗濯物羅列を以て第一とするとさえ云われる。
 入浴を好む者はまた洗濯をも好む。否、これは好みではなくて、既に身嗜みの一つであろう。羽二重の裏をつけた木綿の半被をひっかけ、素足に草履をつっかける、そうしたいなせな風姿が昔は市民の風俗のなかに確立されていた。この羽二重の裏も素足も、特殊な身嗜みから出発したものであろう。如何に襤褸をまとおうとも、肌には垢をためず、肌につけるものは清潔にしておくということが、一つの矜持として、根深い伝統になっている。首を切る或は切られることが、首筋を洗って云々の言葉で表現されるには、かかる風習の裏付けがあって始めて可能であろう。現在でも、衣類の襟垢の有無は、人柄を判断する一つの鍵とされることがある。庶民の家婦の仕事のうちで、洗濯は重要な部門となっている。
 然るに、洗濯物の処置については、一向に考慮が払われていない。これは、日本の家屋が、都会にあってさえ、集団住宅でなく個別住宅である故もあろうし、また湿潤な気候のために、壁の中に窓があるのではなく窓の中に壁があるという、そうした構造になっている故もあろう。かくして常に、屋上や軒先に洗濯物がへんぽんと飜えり、此処だけは、世間体とか体面とか羞恥心とかは打忘れられて、自他共に怪しまない状態になっている。
 アパート其他の集団住宅では、既に、洗濯物の処置について多少の考慮が払われているようだが、それも全く、多少のという程度に過ぎない。窓の中に壁があるような構造を必要とする気候であり、個別住宅が主となっている現状に於て、都市生活のことを考慮する者は、洗濯物の処置についても更に一考すべきであろう。

      K

 東京に於て、新たに、二つの生活的ルンペン性が見られる。
 一つは、頸白粉の若い女たちである。旧市域の辺境あたりに多い。恐らくは、カフェーやバーなどの後を追って著しく殖えた小さな特殊飲食店、小料理屋とかおでん屋とかの女中たちでもあろうか。平素どんな生活をしているのか、私は知らない。
 彼女等は、朝から、顔は素肌で、清い血色の少い或は濁った血色の多い皮膚をむきだしにしているが、耳から□へかけた一線より下の頸筋には、真白に白粉をぬりたてている。前夜の白粉をそこだけ洗い残しているのであろう。襟白粉ではなくて、全く頸白粉の語がふさわしい。
 頸白粉の彼女等には、生活の放逸性さえももはやなく、ただ生活のルンペン性がある。もう彼女等は、普通飲食店の女中は勿論、カフェーやバーの女給をさえも、勤め難い状態に立到ってるがようである。
 第二は、草履ばきで、多くは板裏などの草履ばきで、小料理屋やおでん屋などに立現われる、蒼白い若い男たちである。浅草や江東などに多い。
 彼等の草履ばきは、昔のいなせな兄い連のそれと異るのは勿論、現代の大工や植木屋など、道具箱をかついでさっさとした足取りのそれとも、全く異るのである。そしてその足先は大抵よごれている。労働の泥ではなく、怠惰の埃をかぶっている。彼等がどういう生活をしているか、私は知らない。彼等は殆んど怒鳴ることなく、喧嘩することは更になく、酔っ払うことも少く、ひそひそと語り、ちびちびと飲んでいる。
 その打明話はこんなことに帰着する。――解雇されないからぐずぐず働いてるようなものの、店はいつつぶれるか分りはしない。転業が問題になっているが、自分の転職も、さっぱり見当がつかない。そして、十時に街路は戸が閉り、街灯だけが明々として、電車の走ってるのも淋しく、何だか自分が世の中から取残された感じだ、云々。
 商店法に依る十時閉店の街路は、多くの人には生活緊張の感を与えるものであろうが、或る種の人には、世の中から自分だけ取残されたという感を与えるものらしい。否、与えるのではなく、そういう感を受取るものらしい。そして彼等のうちには、おそろしく平凡低調な善良さだけがあり、そこに生活的ルンペン性がひそんでいる。
 都市の中心から外れた小料理屋やおでん屋に巣喰ってるところの頸白粉の女や板裏草履の男――而もまだ若いそれらの男女は、何によって救われるのであろうか。

      L

 日本の神社には、大抵、鳩と亀と鯉とがいる。そして大抵、大勢の子供たちがそれらに餌などやって遊んでいる。この風景は、如何なるものよりも微笑ましい。例えば、公園や動植物園やまたは特殊の有料遊園などの、如何なる風景を取ってきても、右のものには及ばないだろう。そしてこれは、日本的なものの一種の象徴の域にまで高まるものを持っているし、支那大陸に相通ずるものを持っている。神社の清いのびやかな境内で、鳩と亀と鯉とに戯れてる朗かな子供たちの写真を、故国を想う出征兵士たちに贈りたいものである。

      M

 子供――殊に幼児――を連れて外出するということは、次第に少くなりつつある。この現象は列挙すればいくらもある。劇場や映画館で子供の泣声が聞えることは、甚だ稀になったし、子供の姿を見かけることも少くなった。百貨店内でも同様である。電車の中でも、子供の数は著しく減少しているようである。また往来で、乳母車を見かけること少く、背に子供を負った者は固より、胸に抱いてる者まで、甚だ少くなった。普通の交際で、子供連れの客が減少したことは、どこの家庭でも知っているだろう。
 このことは、一般の家庭に於て、殊に若い母親の方面に於て、子供の取扱方が異ってきたことを意味する。つまり、子供というものが、母親を初め大人の身辺から、或る程度切り離されて、家庭内で一個の存在となってきたのであろう。――育児ということが、具体的に新たな意味を持ってきた。
 ところで、映画館や百貨店などの人込みの中から、或は大人の背中に結びつけられることから、或は他家のもてなしの不馴れな食物から、或は母親の身辺への盲目的な密着から、子供が解放されるということは、子供のためによいことであろう。――乳不足の若い母親が多くなりつつあるのは、憂うべきことながら、その代りに、牛乳や人工乳が発達してきたことは、子供のためによいことであろう。育児上の種々の知識を以て、傍から見守られることは、子供のためによいことであろう。――然しながら、種々の意味で解放され且つ見守られてはいても、家庭内で、子供は果して如何なる存在地位を与えられているであろうか。
 日本ほど子供を愛する国はないと云われている。それは永く事実であってほしい。けれども、時として盲目的な愛は相手の存在的地位を無視することがある。大人の風習が、殊に若い母親たちの風習が、急激に変化しつつある現在、子供について充分の考慮が必要であろう。

      N

 東京の目貫の街路で、何かの記念的行進などが行われる際、以前は、どの門口もどの窓も多くひっそりとしていて、静粛に立並んでる姿やひそかに覗いてる顔などしか見られなかった。然るにこの頃では、頗る華かな光景を呈する。銀座通りなどでは、行列に向って、周囲の窓から、ハンカチが打振られ、テープや花が投げられ、歓呼の声が浴せられる。――街路や建物と同様、ひどく欧米風なのである。――これは単なる欧米模倣ではなく、映画をはじめ種々のものから来る文化混和の結果でもあろうか。
 地球の表面が急速に短縮されつつある現在、風俗習慣も急速に、世界的混和の方向を取りつつある。東京に於ては既に、世界の如何なる土地の如何なる服装も儀礼も、驚異に価しなくなっている。そればかりか、多くのものを呑みこんでさえいる。――洋食の宴会に於ては、日本服が却って珍らしく目立つほどである。畳の上の座席に於ても、客を招待した当人が床柱を背にして着席するようなことが、やがて起るかも知れない。――若い女の結髪の様式は、服装の如何を問わず、既に世界的水準に従っている。
 こういう現状であるから、或る特殊な気運とか必要とかのために、特定の服装や作法を立てることは甚だ容易であると共に、また偏狭な見解を排斥しなければならないだろう。そして肝要なのは、それが日常化されるか否かにある。――市内の防護団の服装は、漸くズボンだけでも日常に多少使用されてることは、或る点までの成功と見てよい。之に反して、国防婦人会の上被と襷とは、失敗と云って差支えない。防空演習の女のモンペイも、考慮すべき点が多いであろう。――イタリーやドイツの団服のことは茲では云わず、満洲の協和会の服装の成功を、考察すべきである。

      O

 さて、風俗時評其他風俗に関する言説の困難さを、私はつくづく感ずるのである。
 風俗は形に現われたものである。思想や感情や生活態度の現象的表現である。だから眼で見て直ちに掴まえられるものではあるが、それが単に一般的なものであるか特殊的なものであるか、つまり、如何なる意味で思惟の対象になるか、それを見分けることが甚だ困難なのである。そしてともすると、現象の批評からふみ出して、文化的な或は社会的な批評の方面へ筆が滑りがちになる。――文化時評とか社会時評とかならば、書くべきことは無数にあるであろう。然し風俗時評となると、現実の現象に制限されて、書くべきことが甚だ乏しくなる。
 風俗に関係ありそうな現象で、取上げたいものはいくらもある。例えば、この頃の青年たち、殊に学校卒業間際の学生たち、彼等の会話を聞いていると、日本と満洲と支那とは既に一つの合同地域となっている。その間に何等の境界も存在しない。互に関連をもってるただ一つの広大な職場であり、ただ一つの文化圏内なのである。思想的に、更に感覚的に、無境界な一地域なのである。――そういうところから、如何なる風俗的なものが生れるであろうか。それを考えるのは楽しみである。然しそれはまだ、風俗として取上げるべき何物も持ってはいない。
 風俗のことを考える時、右のような事柄に幾つも出逢う。而も風俗のことを余りに考える時、右のような事柄はいつしか忘れられる。これについて警心の要が多い。




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