「紋章」の「私」
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:豊島与志雄 

 現実のいずれの相が真実でありいずれの相が虚偽であるか、そういうことを信じようと信じまいと、または、それの見分けがつこうとつくまいと、芸術のなかに現実を或は再現し或は飜訳し或は建立する場合、作家はただ自分の真実に頼るより外はない。そしてこの真実は、その動向の如何によって、作家に種々の態度を取らせる。「紋章」の作者は、そこで、「私」というものを得た。人間の心理に於ては、一つのものは一時に一の場所をしか占め得ないということ、もしくは、二つのものが同時に一の場所を占め得ないということは、それは嘘であると、そういうことを考える「私」なのである。人間描写に於ては、描写が生々することは真実を殺すものだと、そういうことを考える「私」なのである。知性は感性の特殊形にすぎないと、そういうことを考えそうな「私」である。そうした「私」を以て、対象にじかにぶつかってゆく時、という意味は対象を芸術的に書き生かそうとする時、真実に奉仕すればするほど、「私」によって凡てを濾過せざるを得なくなる。この濾過は、恐らく作者にとっては苦痛であろう。然しそれが如何に苦痛であろうとも、その「私」が作者の「鷲」であるならば、鷲を美しく育てるより外はあるまい。
「紋章」の美しさは飼主の肝臓を食って生きる鷲の美しさである。文学というものは大抵、そういう美しさを持っている。それだけで足りないことは、作家よりも読者の方がより多く知っているだろう。だが、鷲を愛し続けたプロメテは、やはり鷲を愛していくより外に方法はない。思えば、現代の作家たちは、ひどく窮極のところまで押しやられたものだ。
 だが、この鷲、時々遠く山野へ逃げ去ってゆく気まぐれを起す。その時、プロメテは悲しむ。鷲が醜くなるだろうから。
 こんな謎みたいなことをふと書いてしまったのは、「紋章」の或る場面が頭に浮んだからだった。最後近く、久内が善作に呼び出されて、二人でビールを飲みながら話をする――作品の筋から云えば、全篇の結末を暗示するような話をする、あの場面である。二人は、ビヤホールの喧騒のなかで、雁金の人物評をきっかけに、正義を論じ、自由を論ずる。而も、久内は初子に対する愛情をなげすてて、妻の敦子と老父母とを守って生きてゆこうと決心してる時であり、善作は初子にぶつかってみる決心をしてる時である。そして茲では、そういう二人の心理は背後に伏せられて、正義や自由の議論が表面に浮き出して、初子を対象とする言葉もなまのまま吐き出されている。前に述べてきたような作者の「私」の濾過は破綻を見せている。恐らくこれは、創作態度としての「私」をとりのこして、作者自身の一種の批判が口を利いたのであろう。
 これはよいことか悪いことか、私には分らない。だが考えてみるに、山下久内は恐らく最も作者の身辺に近い人物であろう。作者は彼を、近代の知識人だと云っている。而も、余りに頭脳がよくて密集してくる映像や内部に閃めく抽象物の氾濫に、適度の処理を失いがちであって、その内面の複雑さに圧倒されつづけている。自意識過剰の実行力ない男である。之に対照させられてる雁金八郎は恐らく、作者には心理的に縁遠い人物であろう。彼は実際的発明のために悪戦苦闘しながら邁進する。醤油の醸造にかけて特殊の才能をもち、隠元豆から、次には鰹節の煮出殼から、次には魚類から、醤油醸造法を発明し、なお種々の魚の干物をも拵えるが、次から次へと社会的事情による不運に見舞われて、その非凡な発明も報いられない。而も彼は常に敢然として不運と戦っていく。そしてこの二人が、久内の妻の敦子と久内の父の山下博士の学閥とのことで、のっぴきならぬ交渉関係に立たされる。
 対蹠的な性格にある二人の人物を作品の中で対立させることは、屡々見られることである。そうした場合、作者はそのどちらかに、同情とか反感とかいった種類の心の動き方ではなく、ただ漠然と心を惹かれることがあるだろう。
「紋章」はその題名によっても知られる通り、代々勤王をもって鳴る名門から出て、貧苦のうちにも国利民福のために、豊富な海産物の利用法として魚醤油の発明に身心をなげうち、学閥の圧迫や其他の社会的不正と戦い、遂に打勝って特許権を得ても、それをすぐ民間に開放してしまって、また次の発明に飛びついていく、そうした雁金八郎のことを書くのが主題だったろう。然るに、作者により近い人物として対蹠的に山下久内がいる。そして茲では、貧窮と迫害のうちにも戦い続けていく雁金の生活相や、徒食している微温的な久内の生活相や、敦子や初子の生活意識など、そんなものよりもむしろ、単に二人の性格の対比が重視されている。そして終りに、前に挙げたあの場面で、久内はこんなことを云う。
「自由というのは自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることの出来る濶達自在な精神なんだ。雁金君なんか、僕にとっちゃたしかに敵だが、敵なればこそあの人の行動は、僕に誰よりも自由という精神を能く教えてくれたのだ。僕は雁金君に負かされづめだけれど、結果としてはとうとう僕の方が勝ったのだ。」
 果して久内の方が勝ったのであろうか。それはともかくとして、作者の創作態度としての「私」が破綻したあの場面で――破綻しなかったのならば、右のような心理は、地の文か或は地の文の中にとけこんだ言葉で書かれた筈である――その破綻した場面で、右のことが云われたこと、久内の口をかりて作者自身の批判として云われたこと、そのことに意味がある。作者は明かに雁金に心惹かれた。こうなると、実際問題として、久内の方が負けである。これは単に、実行に対するノスタルジーでは済まされまい。
 久内の敗亡を、作者は是認するや否や。もし是認するとしたら、今後の作に於て或は「紋章」の美はなくなるかも知れない。然しそれにしても、作者の「鷲」はまたどこかで美しく肥え太ることを妨げないだろう。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:8522 Bytes

担当:undef