明日
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著者名:豊島与志雄 

      *
 凡そ文学者は、普通の場合に於ても、「明日」を待っているであろうか。確実に予想され得る現実的な「明日」を待っているであろうか。
 前の「馬鹿云々」の話ではないが、一般に、吾々文学者には明日がない、ということが云い得られる。その時もし一人の文学者が、説者に尋ねるとする、どうして君には明日がないんだと。説者は恐らく答えるだろう、なあに、僕には明日はあるさ。すると、問者もこう云うだろう、僕にだって、君以上に明日がないということはないと。然しながら、両者の個人的な意見は、そのまま真実であるとしても、この場合は何等の力も持たず、ただ、吾々文学者には明日がないということだけが、生きて残る。
 文学者とはそういうものなのである。というより寧ろ、文学とはそういうものなのである。そしてこの場合の「明日」の否定は、前の或る男の話と同様、明日のあらゆる事柄を呑みつくすほどの、或る重大な不安定な「明日」の存在を意味する。そうした「明日」を、文学者は注視し思考しているし、それが文学の中核となるのである。
 卑俗の排除、偏見慣習の否定、日常性との闘争、不安懐疑の奥底の探求、そうした事柄はみな、右の事情から来る。
 文学者は、或る何等かの壁にぶつかって、虚無のうちに身を横たえなければならないことがある。然しながらこの虚無は、全然の虚無ではない。それは、重大な明日のために、普通の明日を否定することに外ならない。もし「明日」が全然存在しないとしたならば、どうなるか。自殺への途しかないであろう。それは「悪霊」のスタヴローギンの最後の場合である。
 虚無の中から創造されたもの、云い換えれば、否定の底に肯定される異常な「明日」を直接に表現されたものを、私は文学に要求したい。尤も、この直接の表現とは、創作技法上の形式を指すのではない。技法上の形式はどうでもよろしい。何等かの肉体的なつながりがあればよいのである。それはただ「何等かの」で差支えない。肉体的なつながりそのものが、文学に於ては直接の表現になる。
 ところで、一歩退いて考えれば、というのはつまり、余りにつきつめた物の云い方をしたので、一息ついて気を弛めてみれば、吾々は普通の場合、異常な「明日」を却って否定して、尋常な「明日」を肯定することが、屡々である。絶壁の上に立っていると、そこから墜落はしないことを知っていながら、墜落しはすまいかという疑懼のために後に引戻されることがある。これは日常性の復讐だ。この復讐は、強力であると共に誘惑的でさえある。日常性の復讐に敢然と対抗し得るだけの覚悟が必要であろう。
 最初に述べた或る男は、其後、私に次のようなことを云った。――あの当時僕は、所謂背水の陣を布いて生きていた。この背水の陣というものは、まかり間違えば、凡てを投り出して自殺するというような、そんななまやさしいものではない。異常な「明日」を責任を以て肯定するという、やさしいようで実は非常に困難な覚悟の肚をすえていたのだ。




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