性格を求む
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著者名:豊島与志雄 

 クロポトキンは、チェーホフについて次のようなことを云っている。――
 若し社会の進化に何等かの理論があるものとすれば、文学が新たな方向を取り、既に人生に芽ぐみつつあるところの新たなタイプを造り得るに先立って、チェーホフのような作者が現われなければならない。兎に角、そういう場合には印象の深い別れの言葉が云われなければならないのである。その別れの言葉を云うのが、チェーホフのやったところのものである。
 これは意味深い言だ。たとい社会の進化に何等の理論もないとしても、その変革期には、誰かによって別れの言葉が云われなければならない。
 誰かによって、殊に文学者の誰かによって……。
 優れた才能を持つ文学者が云うこの「別れの言葉」は、常に吾々の心を打つ。そして吾々をして前方を凝視させる。なぜなら、それは単なる別離の悲哀だけで成つてはいないから。新生活への、新社会への、翹望と期待、まだ仄かではあるが明かに感知せらるる黎明……そんなものをそれは含んでいる。
 いや、そればかりではない。これは単に生活様式の問題だけではない。社会組織の問題だけではない。人物性格の問題にまでふみ込む。ふみ込まなければならないのである。文学者の視野に於ては、社会的変革ということは、生活様式や社会組織の変化などよりも、新しい人物性格の発生を意味する。
 日本の社会が、何等かの変革期にさしかかってるかどうか、私は知らない、が少くとも、常に推移していることは確かだ。そして文学も、漸次新たな方向を取りつつあることは確かだ。随って、新しい人物性格が描かれて然るべきである。否、描かれなければならないのである。
 実際、吾々は日露戦争頃に見られなかったような性格を、現在周囲に多く見出す。新陣営と旧陣営とを問わず、新思想界と旧思想界とを問わず、左翼と右翼とを問わず、新しい性格が出来つつある。少しく人間性に注意を払う眼にはそれが明かに映る筈だ。
 これは単なる心理的現象ではない。性格的現象である。新たな心理文学ということは、社会的に見ても、文学的に見ても、大して意味をなさない。重みを持つのは、新たな性格文学である。
 新しい性格を探求して「別れの言葉」を云うべき作者が、日本にもあるべき筈だ。そしてそのために、奮発してほしい作者があるべき筈だ。例えば、といって引合に出すのは失礼ながら、久保田万太郎氏の如きもその一人である。回顧と感傷とだけが氏の本領ではあるまい。新陣営に於ける新性格の発生が必然に将来させる、旧陣営に於ける新性格を探求して、「別れの言葉」の一片でも聞かせてもらいたい。但し、私は氏の近作に接していないから確言は出来ない。それならば、長与善郎氏はどうだろう。文学によりもより多く生活に関心を持っている氏だ。「重盛の悩み」から十歩も二十歩もふみ出してもらいたいものである。「この人を見よ」には、別れの言葉以上の微光があった。
      *
 文学が何等かの進展をなさんとする場合には、殊に、新たな性格が作品のなかに要求される。そしてその要求が満された時に初めて、文学は進展の一段階を上る。
 文学の進展への動力となるような作家は、何等かの意味で、新しい性格を探求し描出する。
 バルザックの豪さは、恋の囁き以外に金銭の響きを聞かせたことよりも、より多く、ユーロー男爵やゴリオ老人の如き人物を描出したところにある。フローベルの豪さは、その厳正冷徹な創作態度よりも、より多く、ボヴァリー夫人の如き人物を描出したところにある。イプセンに於けるノラ然り。ツルゲネーフに於けるバザロフ然り。
 勿論私は、日本の新陣営の作家を悉く、バルザックやツルゲネーフなどと比較して論断するの意はない。けれども、社会の進化は各部門に於て為されなければならないし、文学をやる者は、平常、文学の部門に於て働かなければならないと信ずるが故に、新陣営の作家が余りに性格探求を怠ってるのを、不審に思うのである。
 彼等の作品には、余りに性格が少く、余りに事件や場面が多すぎる。事件、場面、そして事件と場面ばかりだ。オルガナイザーの行動、ストライキの裏面、労働者の生活、工場の内部、留置場、刑務所、其他種々のことを読者は読ませられる。けれども、社会運動に挺身して奮闘している人物をまざまざと示されることは、殆どないと云ってもよい。そこで読者は、遂にこう云うだろう。――事件や場面のことならば、種々の報告書を読む方がより正確だし、種々の場所を見物する方がより明瞭だ。吾々はそんなことよりも、その中で活動してる人間を知りたい。そしてそのためには、多くの小説を読むよりも、例えば、三田村四郎氏の獄中からの手紙数通を読む方が、まだましである。云々。
 これに対して、彼等は何と答えるだろうか。
 社会運動者の忍苦と意力、周囲に累積する迫害と身内に燃ゆる火、現在の闇黒と未来の曙光、そういうものの持つ一種ヒロイックな魅力、被搾取階級の惨澹たる生活、それに対する同感と愛、それらは確に人を惹きつける或物を持っている。けれども、単に惹きつけることは、味方の陣営に投ぜさせることではない。大衆は、一人の大杉栄を知ることによって、或は一人の××××を知ることによって、はっきりと敵味方に別れる。そしてこの截然たる敵味方の区別が、実は最も大切なのである。そこから、社会は本当に動き出す。
 文学のなかに、何故、一人の生きた大杉栄が現われてこないのか。或は一人の生きた××××が現われてこないのか。それを全幅的に現わすには、非凡の才能が必要であるかも知れない。それならば、せめて部分的に、横顔だけでもよい。
 事件や場面だけでなく性格をも描きたいという志望が、作者たちに欠乏しているわけではあるまい。がその志望の実現を阻む障害が、手近なところにあるのではあるまいか。
      *
 文学が余りに観念的に単調になるのを救わんがために、新しくリアリズムが説かれた。それは至当だ。然しこのリアリズムは、強権主義に煩いされた「党」の陣営内にあっては、事件や場面にのみ局限されて、人間の性格を視野の外に逸するのは、蓋し当然の帰結であろう。
「党」の趣旨を絶対指導の地位に置き、それによって万事を統制し、人間多様の欲望や夢想や要求を認めず、思想及び行動の自由を拒否する、そういう強権主義は、文学の上にも重い軛を投げかける。なぜなら、一つの思想しか認めず、一つの欲望しか認めず、随って一つの生活しか認めず、随って一つの性格しか認めないところに、文学の自由な発展があり得よう筈はないから。かくて文学は、その内部精神に於ては、ただ一色に塗りつぶされる。一色に塗りつぶされた文学は、如何にリアリズムの途を辿ろうとも、事件と場面のリアリズム以外に出ることは出来ない。そこでは、凡ての作品が同一の制約と同一の目的意識――作意――を以て書かれる。そして常に同一の作意を以て書かれる時、反覆を避けんがためには、事件や場面の変化にたよるより外に途はない。いつの時代にあっても、何等かの意味の強権主義の掌中にある文学は、みな同じ運命にあった。
 文学をして真に生長させ、文学としての務を果させるには、「党」的強権主義の桎梏かち離脱させなければいけない。人間多様の欲望や夢想や要求を認め、随って多様の生活を認め、随って多様の性格を認めなければいけない。そして初めて文学上のリアリズムは、事件や場面ばかりでなく、人間の性格をも対象となし得るだろう。
 かくして初めて、文学の中に各種の性格が生き上る。或る作品を読んで、そこに一人の人間を発見する時、また、一人の人間に出逢って、そこに或る作中の人物を見出す時、吾々は深い喜びを感ずる。そのタイプが新しいものである時に、吾々は生き甲斐を感ずる。そのタイプから出発して、文化を論じ、現代の社会と未来の社会とを論ずることが出来る。そういうタイプの一つの出現は、千百の宣伝よりも、より多く社会の進化を促進させる。
 日本の新陣営の作者たちの作品に、どれだけの性格が、性格の横顔が、描き出されているか、不敏にして私は知らない。そして試みに只今手許にある雑誌を披いてみる。――藤沢桓夫氏の「少年」のなかの昌平はどうであるか。社会運動に憧れて、小杉次郎を訪れたり岡崎先生の前で興奮したりする彼は、文学に憧憬してる少年が、先輩の有名な文学者に敬慕したり心酔したりするのと、どれだけ異っているだろうか。少年時代にあっては、両者は性格的に同一で、ただ時勢によって対象が異るのだと云わるれば、それまでのこと。また葉山嘉樹氏の「便器の溢れた囚人」の主人公は、どこに性格的特徴があるだろうか。独房の一つのエピソードを特色ある筆致で書きこなした氏の才能には、敬意を表するとしても、作中の主人公は自叙伝的無性格に終ってはいないだろうか。




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