川端柳
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著者名:豊島与志雄 

 或る刑務所長の話に依れば、刑期満ちて娑婆に出た竊盗囚が再び罪を犯すのは、物に対する「欲しい」という感情からよりも、「惜しい」という感情からのことが多いという。「欲しい」という感情はまだ押えることが出来る。然し「惜しい」という感情はどうにも出来ないとか。
 刑務所から娑婆に出た喜びは、自由の喜びという一言でつくされる。何をしようと何処へ行こうと全く自由なのだ。「自由の身となった、自由の身となった、」そう彼は心に叫びながら歩き廻る。そして目につく凡てのものが、如何にも美しい輝きを帯びている。まだ頭の中に残ってる刑務所内の生活、厳めしい建物、陰欝な空気、看守の顔、そういうものに対照して、何と娑婆の世界が輝いてることか。その輝かしい中に、一際輝いてるもの、例えば、ダイヤの指輪が、彼の注意を惹きつける。彼は本能的にその方へ寄ってゆく。欲しいなと思う。まではまだ抵抗出来るけれど、次の瞬間には、惜しいなと思う。盗めば盗めるのに惜しいなと思う。俺が盗まなくても、どうせ誰かが盗むのだろう――(盗人の心理の面白さよ)――誰かが盗むだろう、むざむざと人に盗ませて……実に惜しいな、と思う。そこまでいくと、もう抵抗出来ない。何か偶然の障碍が起らない限りは、彼はそのダイヤの指輪を盗む。
 そういう話を聞いた時、これは面白いと私は思った。それが頭に残ってたせいかどうか……不思議な夢をみた。
 或る晩、Aという老人がひょっこりやって来た。大黒帽を被って、柄頭に鳩の彫刻のついている杖をついて、白い粗髯をなでる癖のある、普通に云えば剽軽なよく云えば脱俗的な老人である。その老人が、玄関につっ立って、皮肉なような擽ったいような笑顔で、にこにこしている。――(と、これからは夢物語である。)
「どうしたんです。」と私は尋ねた。
「なにね、いま万引をしてきたんだよ。」
「万引。」
「ああ、面白かったよ。だが、一寸危いと思うんだが……。」
 私はあたりを見廻した。誰もいない。玄関が夕方のように妙に薄暗い。気がついてみると、老人は変に憂欝な顔笑をしている。
「じゃ一緒に行きましょうか。」
 そして私達はこっそり家を出た。
 何処へ行くつもりか、それは分らなかったが、老人は鳩の柄の杖をついて、ことりことりと飄逸な足取りで歩いてゆく。私もそれに歩調を合して、軽快に足を運んだ。
 長い間、薄暗い裏町を通った。一人の人にも出逢わなかった。それからやがて、賑やかな大通りに出た。大商店の飾窓がずらりと並んで、明るい灯火が連って、街路は掃き清められていた。ただ、馬車も電車も自動車も通らず、人影一つなく、美しく光り輝いているきりだった。
「そろそろ、初めましょうか。」
「ああ、よかろう。」
 そこで私達は、或る大きな呉服屋にはいっていった。やはり誰もいなかった。がらんとした明るい広間に、陳列棚が縦横に並んでいた。その棚に堆高く積んである布の中から、よさそうなのを選んで、私達は万引を初めた。
 愉快だとも爽快だとも云いようのない、素晴らしい気持だった。自分の気に入ったものをちょいちょいとかっさらう。そのことが面白かったのか、または、そういうことの出来る自由さが面白かったのか、兎に角、ぞっとするような気持だった。勿論、見ている人は誰もいなかった。然し人がいようがいまいが、そんなことはどうでもよかった。自由に勝手に盗み取るのが、震え上るほどの嬉しさだった。
 やがて私達は、万引した品物を風呂敷に包んで、その建物から出た。広い街路はやはりひっそりとしていたが、先刻より灯火の数が少くて、ずっと薄暗くなっていた。それが暫く行くうちに、益々薄暗くなってきて、真暗な橋のところに出た。
「捨てていこう。」と老人がふいに云った。
「ここにですか。」
「ああ。」
 で私は、風呂敷包みをそこに捨てようとした。とたんに、惜しいな、と思った。
 そこで夢が覚めた。
 薄暗い電灯の光で、室の中がぼんやり意識された。耳を澄すと、夜明近くらしい外の気配だった。
 おかしな気持だった。万引をしている時の素晴らしい感覚が、変に胸の中にこびりついていた。
 そして私は、刑務所長から聞いた竊盗囚の話をはっきりと思い出した。彼は惜しいなと思って再び罪を犯すそうである。私は惜しいなと思って素晴らしい感覚の夢から覚めたが、それが実際惜しかった。
 万引をするような人は、また、再三竊盗の罪を犯すような人は、吾々の知らない素敵な感覚を経験するに違いない。
 そんなことを考えて私は、A老人に逢った時、彼と一緒に万引して歩いた夢の話をした。
 その時、A老人は微醺を帯びていた。□の粗髯をしごきながら、黙って私の話をきいていたが、しまいにこう云った。
「物欲に囚われすぎた話だな。」
「だって、あなたと一緒だから面白いじゃありませんか。而も、あなたが私を万引に誘いにいらしたんだから……。」
「ははは、それは皮肉でいい……。」
 そして彼は何と思ってか、硯箱を引寄せて、一篇の漢詩を白紙に書いて示した。私はあまりそれを面白い詩でもないと思った。すると彼は、詩の横に歌を一つさらさらと書き流して、どうだい、というような顔をした。

何をくよくよ川端柳
水の流れをみてくらす

何為懊悩河上柳
空臨流水送光陰

 ははあ、と私は思った。
「訳詩ですか。」
「それがね。一寸面白い話があるんだ。私には君のその夢の話よりも、この方が面白いよ。」
 それはもうだいぶ昔の話らしい。A老人の懇意な人で、さる料亭のお上さんがあって、「何をくよくよ」の歌が大好きだった。気に食わぬことがあって頭痛がする時でも、その歌を歌えば一遍に気分がなおってしまうほどだった。そのお上さんが亡くなって、丁度一周忌の時のこと、A老人と、故人の贔屓だった一人の幇間と、縁故の人二三人とが、仏壇の前に落合った。そしていろんな追憶談の後で、仏様があの世でまた癇癪でも起して頭痛がしてるといけないから、生前好きだった歌を位碑の前に供えようということになった。ところが、鹿爪らしい戒名と平仮名交りの小唄とでは、どうもつきが悪い。そこでA老人が即座に、その小唄を漢詩に訳して、あの世の仏を慰めたのだそうである。
「どうだい。」と彼は話し終ってから声に出して云った。
 然し、私の夢の話の味が恐らくA老人には分らなかったろう如く、A老人の話の味は私にはよく分らなかった。




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