樹を愛する心
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著者名:豊島与志雄 

 其後、彼女の写真を調べていると、庭の桃の木によりかかって立ってるのと、その根本に屈んでるのと、二つのものが、私の心を打った。そんな写真があったのを、私は忘れてしまっていたのだ。写真に見入ると、それは健康な晴れやかな彼女ではなくて、病相の弱々しい淋しい彼女である。
 いろいろな点で、その桃の木に似た彼女だった。
 今私は別の家に住んでいる。今度の家敷には種々の大きな木がある。常緑樹もあれば落葉樹もある。私は始終それらを眺めている。そして、樹を愛する心が次第に深まってくるのを覚ゆる。この心、言葉にはつくし難いが、或る神聖なるものと繋りを持っていて、私の内心に力と光とを与える。

 市内本郷千駄木町の一部に、太田の池という幽邃な大池があった。太田道灌の血を伝えてる太田子爵の所有地なので、俗に太田の池と呼ばれたのである。二方は高い崖で、古木が欝蒼と茂り、その根本から水が湧いて、常に清冽な水が池に湛えていた。池は自然のままに放置されて泥深く、周囲には笹や蔓が生いはびこっていた。時折子供たちが、竹垣の間をくぐってはいりこみ、蜻蛉をからかい、蝌蚪をいじめて、遊んでることもあった。然し、日の光が薄らぐと共に、また静寂幽玄な気にとざされるのだった。妖怪談さえ云い伝えられた池である。
 その池が、数年前、埋められて、今は、人家が立並んでいる。池の縁をなしていた崖も、或はコンクリートで築かれ、或は木を切られてしまった。昔の池の名残を留めてるものは、殆んどない。ただ僅かに、昔のことを知ってる者に一脈の懐古の情を起させるのは、太田邸の一端をなしてる昔ながらの崖の一部と、それから、私の家の東側の崖……。
 この崖、幅十間にすぎないが、椎や椋や榎や楓や、其の他の雑木が、それも径一二尺の大木が、立並んでいて、その根で土壌を支え、落葉を積らして、何等人工を施さない昔のままのものである。私はそれ等の雑木、その朽葉、その崖を、愛する。そして、崖下に降りてみると、痛ましく心を打たれる。崖の土は、長年の風雨に流されたらしく、樹木の根が半分露出して、それが絡まりもつれながら、崖の中に喰い入っている。残りの土壌を支え、且つ我身を支えているのだ。半ば傾いてるのもある。傾きながらも喰い入っている。すばらしい力と闘争だ。
 それらの樹木が、殊に落葉樹が、春になって芽を出し、葉を茂らし、それから颱風の季節を迎える時のことを、私は今から想像する。殊に、中に一本水木(みずき)がある。幹に小孔をあけておけば、さんさんと水液がしたたり出て、支那では之を不老長生の霊水と称したという、あの珍らしい水木である。幹がすらりとして、枝振りが重々しく、落葉期の今でも、風が吹けばしきりに頭を振る。それが、崖の中途にしがみついている。
 それらの樹木のために、私は崖の土盛りを考えた。崖の高さ四五間ほどもあろうか。然し、きり立った崖でなく、崖先に余地もあるので、先端を約一間ほど築いて、緩勾配に高めていけば、太田の池の名残も幾分保ちながら、樹木の根はすっかり土で蔽える筈である。然るに、その費用、約千円を要する。或る人々にとっては何でもないこの千円が、私にとっては殆んど夢想に等しいものとなる。私は黯然とした。
 黯然として、私は崖の樹木を眺めるのである。樹木は無数の枝を差しのべて、その先には、もう若芽がふくらんで色づいている。やがて瑞々しい緑の葉を出すだろう。青空の下、日の光が晴れやかに照っている。樹木よ……。
 樹木よ安らかなれ! と私は叫びたい。が然し風に揺れてるその梢を見ては、私の頭に、崖の中途に半ば露出してるその根本が映る。樹木よ力あれ! 力強く待て! 千円余の余裕を働き出すことは、私にとっては全く夢想だ。然し夢想を夢想として諦めないところに、実現の可能性がある。
 樹木を愛する心などは、一文の価値もない、と或る人々は云うだろう。然し私は、崖の中途に根を露出してる樹木を、社会的に虐げられてる人間と同一だと観る。そしてそれらの樹木から、根深い力と闘争とを教えられる。
 崖の樹木等よ、私もまた汝等のうちの一人だ。




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