ヒューメーンということに就て
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著者名:豊島与志雄 

 芸術上の作品は、一方に於ては作者に即したものであり、他方に於てはそれ自身独立したものである。この二つの見解は作品を眺むる眼の据え場所の相違から自然に出て来る。そして前者の見地よりすれば、「作品凡庸可なりの論」をも私は認むるが、後者の見地よりすれば、「作品凡庸主義の論」に私は賛成しない。作品をそれ自身独立したものとして眺むる時、作品は偉大なればなるほど、深刻なればなるほど、非凡なればなるほど、益々いいのである。
 芸術創作家は、一方に於ては自己を育ててゆくものであり、他方に於ては他人に働きかけるものである。この二つの見解も眼の据場所の相違から起ってくる。そして前者の見地よりすれば、「作家凡庸可なりの論」をも私は認むるが、後者の見地よりすれば、「作家凡庸主義の論」に私は賛成しない。作家を他人に働きかけるものとして見る時、作家は、豪ければ豪いほど、非凡なればなるほど、益々いいのである。
 以上のことは、云わないでも分りきったことであるが、以下「ヒューメーンということ」に就ての感想を誤解せられないために、一言断って置くのである。立論の根拠を明にして置かないと、とんだ誤解をせられ易い。論を見て其の論の拠点までも省察してくれるほどの親切は、今の忙しい文壇に少なそうだから。
 或る作品を批評する場合に、「これはヒューメーンな作」だということがよく云われる。
 ヒューメーンという言葉は、広く之を「人間的」という風に解する時には、もはや一つのものを指すのではなくて、人間の有する種々な性質を指すことになるべきである。気弱さから気強さに至るまで、邪悪から善良に至るまで、微賤から崇高に至るまで、感傷から剛健に至るまで、其他多くのものを含むことになるべきである。なぜなら、人間を気弱な邪悪な微賤な感傷的な……ものと見るのは、囚われた見方であって、人間のうちには気強いものや崇高なものや剛健なもの……も同程度に於て存在しているから。そしてまた、右のものはそれぞれ深浅の度に於て多くの程度がある。即ち人間的という言葉は、或る程度の上下左右の拡がりを有する全範囲を指すことになる。そしてこの範囲外に属するものが即ち怪物的となる。怪物的なものは、上に在っては神的と称することが出来、下に在っては悪魔的と称することが出来る。かかる人間的と怪物的との境界を定むるものは、ノルマルな状態に在るノルマルな人の心である。
 然し、「ヒューメーンな」作品だとか、或は「この作品の人物はヒューメーンだ。」とか云われる時、そのヒューメーンという言葉は、上述の人間的という意味に使われてはしない。もし上述の人間的という意味であったら、凡そ芸術上の作品なり人物なりに、ヒューメーンならざるものは殆んど存しないと云ってもいい、否凡ての作品は皆ヒューメーンである。二三の大作の人物を除いては(日本の文壇ではこの除外例は不要であるが)凡ての人物は皆ヒューメーンである。
 それでは所謂ヒューメーンとはどういうことであるか。それは「最もヒューメーン」の謂である。そして最もヒューメーンであるということが、往々にして作品の讃辞として使われている。この「最も」という限定を付しない所に錯誤が生じてくる。それを作品の讃辞として使う所に錯誤が生じてくる。
 最もヒューメーンなものは、人間性の範囲の中央に近いものを指す。横から見る時には、強でも弱でも善でもない中間の無色なものであり、縦から見る時には、高遠でも深刻でもない中間の水準面である。一言にして云えばもっとも凡庸なものである。
 ヒューメーンというわりに響きのいい仮面の下に、毒にも薬にもならないような多くのつまらないものが逃げこんでくる。安価な人情味という奴がその一つである。平面的な人生の姿という奴がその一つである。新聞の三面記事にも等しい人生記録という奴がその一つである。行きあたりばったり盲目的に取って来られた家常茶飯事という奴がその一つである。其他種々。即ちヒューメーンというのは、一の塵捨場である。人間の精神生活には何の役にも立たないがらくたの掃溜である。そしてこの掃溜をそのまま写真に取ったような作品が、往々にしてヒューメーンだと云って賞讃せられる。勿論ヒューメーンには違いない、然しそれは賞讃の理由にはならない。
 掃溜に転ってるがらくたの一つでも、それを真摯な鋭い眼で眺むる時には、其処に、深所から光りがさしてくる、或は高い所から光りがさしてくる。その光りに輝らされる時、がらくたにも大きな魂が宿ってくる。然し写真のレンズのような眼で見られる時、がらくたは何処までもがらくたである。
 凡庸な眼で見られた凡庸な家常茶飯事、そういう作品が所謂ヒューメーンだという仮面の下に逃げ込んでゆく。人はそれを深く追求しないで、なるほどヒューメーンだと感心する。そういう傾向が増長してゆく時、文壇には行きづまった腐爛の空気が漂ってくる。――批評家の方に就て云えば、瓦全した作品と玉砕した作品との区別がつかなくなる、膚浅な作品と深刻な作品との見分けがつかなくなる。本質的な価値批判を忘れて、外的な批評を事とするようになる。欠陥があるのは凡て劣って居り欠陥がないのは凡て優れてるという見方になる。一歩後れた完全よりも一歩進んだ欠陥の方が優れてるということを注意しなくなる。作家の方に就て云えば、偸安を事として努力を忘れてくる。周囲の狭い世界に満足して、視界を拡大せんとすることを努めない。地面の上に手を拱いて佇むばかりで、天空に伸び上ることをせず、地下深く掘ることをしなくなる。もっと具体的に云えば、手頃な材料をひねくりまわすばかりで、大きな問題にぶつかってゆくことを忘れ、或は一の問題を深く探り進むことを忘れてくる。
 芸術創作家は、野心が大なれば大なるほどいいのだ、理想が大なれば大なるほどいいのだ。凡ての方面に於て凡庸を主義とする芸術家なるものを、私は想像出来ない。芸術家の野心や理想は、人間的な範囲をも越ゆるものでありたい。あわよくば、天空にまで昇りゆき、地の底にまで潜り込み、神の領域をも犯し、悪魔の領域をも犯さんとすること、それが彼の野心でありたい。こう云うのは、何も人間的なものを脱却するの謂ではない。立脚する地点は人間的なものでなければならない、最も凡庸なものであってもいい。ただ、其処に足をふみしめて、あくまでも大きくなり深くなることだ。
 所謂ヒューメーンを事とする傾向が嵩じてくると、遂には芸術家の野望が窒息しはしないかを私は恐れるのである。芸術家の野望が窒息して、文壇全体が停滞し腐爛しはしないかを、恐れるのである。芸術全体が、地面を蠢動する蚯蚓みたいになりはしないかを、恐れるのである。三つの拡がりを有する立体的な意味に於ける凡庸を主義とする傾向、所謂ヒューメーンを標的とする傾向、それを打ち倒すがいい。地面の上から理想を解放するがいい。偉大な光りと偉大な闇とを眼界に取り入れるがいい。たまには足場を失って墜落する者があっても構わない。たまには地下深くいり込んで窒息する者があっても構わない。凡庸な途を進むよりも、非凡な危険な途を進む方が、より早く偉大なものに到達し得るであろう。
 然しながら、所謂ヒューメーンを去れということは、謙譲を去れという意味ではない。所謂ヒューメーンと謙譲との間には大なる差がある。謙譲は自己沈潜の一つの方法である。しっかりと根を張ることを忘れまいとして、眼を内心に向けることである。浮草や木の葉のように風や水のまにまに吹き流されまいとする努力である。然し、所謂ヒューメーンなるものは、地面の上に寝転んで日向ぼっこをすることである。半睡の眼であたりを見廻すことである。周囲の事物の奥底に採り入ろうとする努力は勿論のこと、自分自身の魂の底を覗こうとする努力をも、凡て捨てて顧みないことである。何の足しにもならない平凡事を平凡な心で受け取ることである。其処に所謂ヒューメーンなるものの致命的な欠点が存する。
 写真と芸術との区別は誰でも知っている。然し往々にして、最もよく撮られた写真を、自然人生のうちから面白い場面を切り取った写真を、ヒューメーンな芸術だとせらるることがある。然しそれは、評者の頭が或る意味で余りによすぎる結果である。魂の籠らない平面的な写真のうちから、深い意義と力と暗示とを汲み取るほどに想像が過敏なせいである。この場合、写真そのものは芸術品ではない。評者それ自身が写真を芸術品となす点に於て芸術家である。即ち評者は、余りに頭がよく或は余りに頭が悪いのである。
 眼に見えないものをも、写真の種板に写らないものをも、掴み出してくるのが芸術家の本当の仕事だ。掴み出してきた物を具体的な事象のうちに叩き込んで、「見せる」と共に「暗示する」のが、芸術家の本当の仕事だ。「見せる」ということは作品に確実性を与える。「暗示する」ということは作品に人を動かす力を与える。所謂ヒューメーンな作品は、この「見せる」ことだけをする作品である。固より「見せる」ことは芸術の第一歩である。然しそれはどこまでも第一歩に止まる。芸術の魂は寧ろ「暗示する」力に在る。所謂ヒューメーンな領域から先へ踏み出さなければいけない。そして芸術の魂を取り戻さなければいけない。魂のない芸術がいくら沢山あろうとも、それが真の意味で何の役に立とう。芸術家の野心はいくら大きくても構わない。事象に奉仕することも一つの行き方であるが、事象を率いて進むことも一つの行き方である。ただ謙譲の心さえ失わなければよい。謙譲な勇気、そういう言葉が芸術には許される。謙譲な勇気を以て馳け出さんとする駒を、凡庸の軛に繋ぎ止めて、動きがとれなくなさするものは、所謂ヒューメーンという奴である。




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