故郷
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著者名:豊島与志雄 

 北海道胆振国に、洞爺湖という湖水がある。全体は殆んど円形に近く、保安林の立並んだ周辺九里、中央に一つ屹立している中島には、水辺より頂まで原生林が欝蒼と茂り、五号色の碧水が、最深度千八百米突まで、深々と湛えている、比類稀なほど円満な湖水である。
 この湖水に、姫鱒の養殖が行われている。プランクトンの量多くて、非常によく育つとかいう話。産卵期になって、雌鱒の腹を裂き、腹中の卵を取出し、それに雄鱒の精液を注ぎかけ、孵化場で孵化させて、幾百万という幼魚を、凡そ二寸位まで育て上げ、それを湖水に放つのである。放たれた幼魚は、三年ばかりのうちに完全な親魚となり、卵を孕んでくる。
 それが、産卵期になると、孵化場の側の、甞て放たれた小川へ、群をなして上ってくる。川一面に鱒となる。
 湖水へ注ぐ小川は、方々に幾つもある。然し、産卵期の鱒が集ってくる小川は、ただ一に限られている。二寸ばかりの幼魚の頃、孵化場から放たれた場所、その故郷の川一つだけである。彼等は、三年の間湖中に散らばって、各自に生長した後、卵を持つと、故郷の地をさして、産卵にやってくるのである。
 自分の親が生きながら腹を裂かれて、腹中の卵を取り出されたことは、彼等の記憶にない。自分が孵化して育った故郷の地だけが、彼等の記憶に――と云って悪ければ本能的感覚に――残っている。そして其処を指して、腹を裂くべく待構えてる人の手があることは知らずに、先を争って産卵にやってくる。
 こういう現象は、十和田湖其他姫鱒を養殖してる湖水に、恐らく共通のものだろうと思う。
 そしてそれは単に湖水だけではない。
 石狩の鮭と釧路の鮭とは、品質がまるで異っている。魚族が異っているからである。
 鮭の人工孵化を行い得られるのは、鮭が自分の生れ故郷を忘れないからである。大海に放たれても、産卵期には必ず、自分が幼魚の頃甞て放たれた場所へ、殆んど洩れなく戻ってくる。石狩川から放たれた鮭は、決して釧路川へ上ることなく、必ず石狩川へ上ってくる。釧路川から放たれた鮭も、また同様である。
 何故に然るか。それを私は説明し得ない。ただ、事実はそうだというまでである。
 ユダヤ民族研究者の云う処に依れば、彼等の理想が如何なるものであろうとも、なおよく云えば、彼等がたとえ世界的国家の建設を夢想しようとも、その中心地は必ずユダヤの故地だそうである。何故? の問題ではない。そうでなければならないのである。
 朝鮮民族研究者の云う所に依れば、彼等の夢想が何であろうとも、その夢想をのせる中心地は、必ず朝鮮の故地だそうである。何故を問う余裕はない。ただ、そうでなければならないからである。
 生きた民族には、己の土地を要する。
 顧みて、私一個のことを云う。
 私は、自分の生れ故郷に対して、殆んど愛着の念を感じない。年老いて死に瀕しても、故郷に帰って死にたいとの念は、今から想像した所では、殆んど起りそうにもない。私が愛着する土地は、自分が生活してる現在の土地である。
 日本の土地を離れて、他国に住むと仮定しても、もしその土地に私の生活が根を下しさえすれば、私はその土地に愛着して、日本に帰りたい心を起さないかも知れない。
 私の安住の地は、自分の生活が根を下してる処に在る。生れ故郷にあるのではない。
 然しながら、日本民族全体が、己の土地を失って、世界に四散することは、たとえ彼等が各地で生活しようとも、考えても堪らないことである。日本民族の安住の地は、日本の故地に在る。
 ここでも一歩先へ考えを進めてみる。
 洞爺湖の鱒の幼魚を、十和田湖へ運んで、十和田の孵化場から放ったとすれば、恐らく彼等は、その孵化場へ産卵に上ってくるであろう。釧路川の鮭を石狩川に移住せしめたら、彼等は石狩川を己の生れ故郷とするであろう。
 ユダヤ民族に、例えば印度の一部を与えたならば、彼等はその土地に民族として安住するであろう。朝鮮民族についても、同様であろう。日本民族としても、日本の故地を失って例えば亜米利加に土地を得るならば、其処に民族として定住するであろう。
 然しながら、私一個人としては、安住の地は生活の地である。他人の土地であろうと、異人種の間であろうと、そんなことは問題でない。
 個人は、自分の仕事――生活――さえあれば、其処に安住する。仕事――生活――を失った時に、根こぎにされる。民族は、自分の土地さえあれば、其処に安住する。土地を失った時に根こぎにされる。
 茲に一言断っておきたい。個人の生活というも、結局は個人の土地ということになり、民族の土地というも、結局は民族の生活である、という説も出て来よう。そしてそれは、理論的には正しい。然し直接の感情からは少し遠ざかる。私が云うのは直接の感情に即してである。
 さて、斯く云う私には民族的意識が稀薄なのであろうか? ともあれ、これは私の一つの実感である。




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