旅人の言
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著者名:豊島与志雄 

 はて知らぬ遠き旅に上った身は――
 木影に憩うことをしないのだ。
 春の日に恵まれた若き簇葉の間から、小さな光りの斑点が地に印して、私の視線を引きつけるであろう。見つめる眼が次第に濡んで来るだろう。遠い昔の彼方の景色が記憶に蘇って来るからだ。青々とした草や木や、清い流れや、物を芽ぐます黒い土地、私が生れた黒い土地、それが私の心を呼び戻すからだ。行く方の空が遠くなって、来し方の空が近くなるだろう。その夕映の空の下にやさしい子守の唄が響く。疲れた私に眠れ眠れと唄が響く。……遠い旅に上った身には、眠ることが罪悪なのだ。
 故郷はいつまでも私の故郷であれ。そしていつまでも私のうちに在れ。私が大きくなればなるほど、故郷も大きく育ってゆくだろう。私の足跡はいつまでも私のものなのだ。然しかく云うのは今恐ろしいのだ。さらば私は、真に恐れを知るものの恐れを以て、暫らく黙って進むのだ。信じて真直に進むのだ。

 はて知らぬ遠き旅に上った身は――
 後ろをふり返り見ないのだ。
 後ろの遠い森影に佇んで私を見送る父母の眼が、さめざめと泣いているだろう。私の姿が小さくなり、地平線の末に隠れても、彼等はまだ私を見送っているだろう。悲しみの夜が暮れ、悲しみの日が明けても、彼等の涙は涸れないだろう。そしてその涙が私の足を縛るのだ。縛られた足を引ずる時、私は途に迷うかも知れないのだ。……自らの足で歩くべく択んだ身には、途に迷うことが罪悪なのだ。
 父母はいつまでも私の父母であれ。そしていつまでも私の肩の上にあれ。私が強くなればなるほど、彼等の心も安らかになるだろう。拒むことはやがて本当に受けんがためなのだ。神にとっては時間はないのだ。そして私にとっても時間はないだろう。然しかく云うのは今恐ろしいのだ。さらば私は、真に恐れを知る者の恐れを以て、暫くは黙って進むのだ。凡てを信じて真直に行くのだ。

 はて知らぬ遠き旅に上った身は――
 木影に憩わず後ろを顧みず、ただ時々は眼をつぶって祈るのだ。
 祈りのうちに過ぎ来し方がそのままはっきり見えて来るのだ。そしてそれが心のうちに生き返って来るのだ。頭の中に遠い後ろの地平線がはっきり見えて来るのだ。一筋の自分の足跡が心の中に返って来るのだ。自らを根こぎにしたる悲しみもそのうちにあれ。父母を拒んだ淋しさもそのうちにあれ。自ら択んで担った重荷もそのうちにあれ。凡てのものをじっと支えて自らの足で立つ時、私は信ずるのだ、凡てがよくなるであろう! その信念が私を真直に進ませるのだ。一度動き出したる身は止まる術を知らないのだ。其処に神の意志が働いているのだ。後ろの眼が閉されて、前の眼が開かれているのだ。

 はて知らぬ遠き旅に上った身は――
 ただ真直に進むのだ。
 新らしい力が地上に動いている。そして輝いた祝福が空に在る。若草の芽が萠え出で、樹の梢が伸びている。小鳥が空に昇っている。皆真直に上へ向って動いているのだ。そして大空に太陽が輝いているのだ。
 首垂れて、路傍を流るる水に映して、大空の姿を見ないのがいい。小さな憐れみの食のために手を差出さないがいい。顔を挙げて、自らの眼を以て、大空の姿を仰ぐがいいのだ。そして自らの手を以て、自らの生命を培うがいいのだ。はてなき道は遠くとも、彼方の地平線から大きな誘惑が私を招いているではないか。再会する者、獲得する者、肯定する者の歓喜が、其処に大きな手を拡げている。それが私の疲れた足に力を与えるのだ。招かるるままに、自らの足で自らの生命と重荷とを支えて歩くがいい。神の意志に依る誘惑は常に善良であらねばならないのだ。




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