秋の幻
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著者名:豊島与志雄 

 村で、絹物や袴を仕立てることの出来る唯一人の女として、また学問のある唯一人の青年として、村人は彼等の前にその笠を脱いで通った。そして彼等の家の縁側には、よく巡礼の人達が茶を飲んでいった。
 菅笠に草鞋脚絆の姿で、白木の杖をついた女の巡礼者達は、彼の屋敷のすぐ側に在る大師堂の方から、疲れた足を引きずって来て、一杯の渋茶に喉を濡した。額に皺の寄った眼の輝いた老女が、或時やはり彼の家へ招じられて、縁側で渋茶をすすりながら、彼の顔をじっと見つめてこんなことを云った。
「あなたは寅年のお生れでございますな。……ああやっぱりそうでございますか。一目見れば分ります。それでは守り本尊の虚空蔵菩薩様を信心なさらねばいけません。ありがたい菩薩様で、米を一粒人に恵んでやれば十粒にして返して下さると申します。……いいお生れの方でお仕合せでございます。」
 そういう巡礼の人々が語ってゆく話は、遠い生れぬ先に聞いたように思われる話ばかりだった。彼女等の鈴の音が、閑寂な村の木立の間に消えてゆくのを聞いていると、彼は自分の母親の膝に縋りつきたいような気持になるのであった。
 幼い頃、春になるとよく彼は紙凧を揚げた。時々は村の百姓達に叱られながら、紫雲華[#「紫雲華」はママ]の咲いた畑の上に蹲って、自分の紙凧を向うの連山の高さと競ったものだった。その平野を限っている向うの一連の山脈は、然し秋になると、妙に彼の心を引きつけた。その山の頂がこの大地の境界で、その向うは底なき絶壁になっていて、その向うに恐ろしいもの、地獄とか極楽とかいう覗いたら目が廻りそうなものが、あるような想像をしていた。そしてそれは、ただ漠たる幼い幻想とまた祖母の寝物語りとから、いつのまにか出来上ったものらしかった。その気持ちが、今また、巡礼者等の鈴の音が消えてゆくのをきき乍らぼんやり眼を向うの山の頂にやっている今、彼の心に蘇って来た。
 で彼は何の気もなしにそのことを母に話してみた。
 すると母は何とも答えないで、彼の顔をじっと眺めた。その眼は如何にも、彼を産んでくれた母の眼だった。彼に乳房を含ましてくれた母の眼だった。
「そんなことが本当にあったらねえ。」と暫くして母は云った。そしてその言葉で、二人の心は一つに融けて、秋の高い大空のうちに吸い込まれていった。
 夕方から晩になると、田舎の村落は恐ろしいほど静まり返った。ランプの火の燃ゆる面がかすかに聞き取られた。そして彼と母とは、よく縁側で月を眺めながらも、虫の音に促さるるようにして、一人の小さい下女に戸締りをさして床に就いた。
 朝は早く起きた。それでももう朝日の光りは朝靄を通して、露の玉を葉末にきらきらと輝かしていた。遠くから、鶏の啼く声がしたり、野に出る馬の嘶く声が聞えたりした。男等は皆稲の取り入れに出かけていた。そして朝の用事をすまして後から出かける女達が、彼の家の前を通って行った。清らかな空気が野の上を渡って来て、村落の上に靉いている朝靄と替炊の煙とを吹き流した。
 父の死後、田畑は皆小作に入れていたが、それでも広い屋敷の裏の方に、彼等は野菜畑を持っていた。種々な野菜の他に里芋や薩摩芋まで作っていた。それは母と彼とのいい運動だった。朝露の乾く頃、彼等はよく鍬を手にして裏の畑の中に立った。
 彼は下駄をぬぎ捨てて黒い地面の上に踏み入った。蹠には黒土の露に濡った冷たさが感じられた。鍬をその土中につきさして耕すと、青い蚯蚓などが匐い出して来た。性来蚯蚓が大嫌いである彼も、そういう時は少しもそれに嫌悪を感じなかった。そして青々とした野菜の葉が黒い土の中から伸びているのを見ると、自分も蚯蚓と共にその大地の上に横わりたくなった。凡てが冷たいほどに清らかであった、そして健かであった。涙が湧き出るほどに清らかで健かであった。
 ふと蜘蛛の一筋の糸が顔に掛ったので、鍬の柄に屈めていた身体を起すと、母も跣足のまま其処に立って彼の姿を眺めていた。
「お母さん、余り疲れるといけませんよ。」と彼は云った。
 父の死後、母は急に痩せて来た。然しそのために少しも骨立ちはしなかった。彼女はいくら痩せても、丸くふっくらとしていた。そしてそういう痩せ方をする身体のうちには、夢見るような魂があった。彼も父の死後、そういう母の魂のうちに自分の心を抱かせる習慣を覚えてきた。
 庭の樹木が紅葉して、いつの間にかその葉が散るようになっていた。蜘蛛の巣に落葉が一つ幾日も懸っていたりした。樹々の幹が堅くなり、物の影が淡くなって、透き通った青みを帯びた明るみが、黄色を帯びた地上に満ちると、蛇は穴に入り、虫は叢の中に隠れた。凡てが自分自身の棲家に籠るのである。そして凡てが自分の露わな姿を恐れるのである。
 過去が彼に帰って来、彼の全部が彼のうちに露わになる時、彼は自分を産んだ母の懐のうちに帰らん事を思い、自分を生じた大地の膚に唇をつけん事を思った。そして其処には、母の懐の中には自分の温みがあり、黒い地面には自分の耕耘した青い野菜が育っていた。
 その時彼は、存在することの嬉しさを感じ、また存在することの淋しさを感じた。そして彼は、存在する自己と存在した自己とを見た。存在するであろう自己は彼の視野の外に逸していた。それから彼は何物かに向って手を合したくなった。
 庭の片隅に立つと、屋敷は高台だったので、野のはてまでも見渡せた。農夫等の稲取りの様がすぐ向うに見て取られた。一筋の街道の上には、籠を背負った行商の女の姿も見られた。彼女は、収穫時の稲田の間を廻って、樽柿と籾米とを換えて商うのであった。その樽柿をかじりながら子供等は藁束の間に遊んでいた。
「あり難い菩薩様で、米を一粒恵んでやれば十粒にして返して下さる、」と巡礼の女の云った言葉を、彼はその時何等功利的な打算もなしに思い浮べることが出来た。
「お母さん巡礼の旅に出かけませんか。」と彼は云った。
「お前さんも一緒なら……。お父さんが亡くなられてから、私も一度N……の地蔵様にお詣りしようと思っていましたから。」
 母の答えは何如にも静かであった。
 眼を挙げてみると、遠い地平から、山の頂から、また高い青空から、帰り来れと招くがような誘惑があった。彼はそして母の方をまたふり返って見た。
「本当の巡礼でなくていいから、ただ地蔵様にお詣りに出かけましょう。」と彼は母に答えた。
 そして或る晴れた日の朝、二人は、下女に留守居をさして、二泊の予定でN……の地蔵尊参詣の旅に出た。何処かに帰りゆくような心で。そして二泊の徒歩の旅から帰って来た時、田の稲は殆んど刈られてしまっていて、晩秋の樹の梢に百舌鳥が啼いていた。




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