秋の幻
著者名:豊島与志雄
過去が彼に帰って来、彼の全部が彼のうちに露わになる時、彼は自分を産んだ母の懐のうちに帰らん事を思い、自分を生じた大地の膚に唇をつけん事を思った。そして其処には、母の懐の中には自分の温みがあり、黒い地面には自分の耕耘した青い野菜が育っていた。
その時彼は、存在することの嬉しさを感じ、また存在することの淋しさを感じた。そして彼は、存在する自己と存在した自己とを見た。存在するであろう自己は彼の視野の外に逸していた。それから彼は何物かに向って手を合したくなった。
庭の片隅に立つと、屋敷は高台だったので、野のはてまでも見渡せた。農夫等の稲取りの様がすぐ向うに見て取られた。一筋の街道の上には、籠を背負った行商の女の姿も見られた。彼女は、収穫時の稲田の間を廻って、樽柿と籾米とを換えて商うのであった。その樽柿をかじりながら子供等は藁束の間に遊んでいた。
「あり難い菩薩様で、米を一粒恵んでやれば十粒にして返して下さる、」と巡礼の女の云った言葉を、彼はその時何等功利的な打算もなしに思い浮べることが出来た。
「お母さん巡礼の旅に出かけませんか。」と彼は云った。
「お前さんも一緒なら……。お父さんが亡くなられてから、私も一度N……の地蔵様にお詣りしようと思っていましたから。」
母の答えは何如にも静かであった。
眼を挙げてみると、遠い地平から、山の頂から、また高い青空から、帰り来れと招くがような誘惑があった。彼はそして母の方をまたふり返って見た。
「本当の巡礼でなくていいから、ただ地蔵様にお詣りに出かけましょう。」と彼は母に答えた。
そして或る晴れた日の朝、二人は、下女に留守居をさして、二泊の予定でN……の地蔵尊参詣の旅に出た。何処かに帰りゆくような心で。そして二泊の徒歩の旅から帰って来た時、田の稲は殆んど刈られてしまっていて、晩秋の樹の梢に百舌鳥が啼いていた。
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