真夏の幻影
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著者名:豊島与志雄 

 広々とした平野である。はてしもなく続いてる荒地の中に、狭い耕作地が散在し、粗らな木立や灌木の茂みも所々に見え、その間を、一筋の街道が真直に続いている。誰の手に成った耕作地か? 誰が通るための街道か? 見渡す限り、農家の部落もなく、道行く人の影もない。そしてそれらの上に、澄みきった大空が、円く蔽い被さっている。大空の真中に、白熱した大きな太陽が懸っている。太陽から発散するぎらぎらした光が、空と地とに一杯漲っている。凡てのものがじりじりと蒸されてゆく。大空の円天井に閉じ籠られてる空間は、電球の内部のように、干乾び窒息して小揺ぎだにしない。大地は暑苦しさに喘いでいる。耕作地は陽炎の息を吐き、草原は凋びきって色褪せた匂いを立て、樹木の葉は力無げに垂れ下り、街道は白い埃に埋っている。そして何物をも焼きつくさんとする炎熱が、凡ての上に力一杯にのしかかっている。そよとの風もない。
 やがて、街道の上に、背の高い一人の男の姿が、何処からともなく、いつのまにか、幻のように現われてくる。擦れ切れた草履をはいて、すたすたと歩いている。歩毎にぱっと舞い上る埃が、またすぐ静に消えてゆく。男は無関心な足取りで、すたすたと歩き続ける。縞目も色合も分らない弊衣を一枚まとって、伸びるに任した蓬髪の頭には、帽子も被らないでいる。前方をじっと見据えた眼には、云い知れぬ獰猛な色が浮んでいる。もし誰かに出逢ったならば、うむを云わさず力の限りに、抱き緊めるか或は殴りつけるか、どちらかをしそうな眼色である。
 そういう眼付で彼は、前方の何物を見つめているのか? それは、眩しい大空の光と、陽炎の立つ大地の温気と、凋びた草木の色褪せた匂いとが、一つに融け合って茫とした靄を作ってるあたりをである。その地平線のあたりに、人の心を誘う何物かが潜んでいる。光と炎熱とのこの天地の熔爐は、其処にただ一つの出口を持ってるかのようである。蓬髪の男はその一つの出口へ向って、獰猛な眼を見据えながら、狂人の足取りで、真直な街道を辿ってゆく。
 果して其処が、天地の広大な熔爐の出口である。其処から、静に静に空気が流れ込んでくる。その空気の流れに乗って、白い一団の雲が頭を覗かせる。それが見る見るうちに大きくつっ立って、やがて天空を蔽い初める。広さと深さとの測り知られぬ鬱積した密雲で、頂辺に白銀の光を載せながら、影に闇黒な鬼気を蔵して、中天に翔り上ってくる。地平線の彼方に巨大な根を据えてる、そういう密雲の幾群かが、先を争って太陽に襲いかかる。太陽の光の波の下に、頭を押えつけられながらも、胴体からむくむくと脹れ上って来て、また昂然と無数の頭をもたげ、傲然たる勢に駈られて、互に衝突し融け合い反撥し合い、天と地とにのしかかってくる。その威圧の下に、万物は一堪りもなく靡かせられる。空気の流れが次第に強くなり、息をついてはさっと地面を掠め過ぎる。
 弊衣の男は、蓬髪を風に吹かせながら、恐れる気色もなく顔を挙げて、光の波と雲の層との闘いを眺める。その眼は没表情な白目となって、酔い痴れたような眼付になる。そして彼の頬は弛んできて、口を大きく開きざまに、呆けた高笑いが喉から飛び出してくる。なま温い風が、その哄笑を野末に吹き払ってしまうけれど、後から後からと哄笑は起ってくる。彼は何を笑い続けてるのか? 恐らく彼自身でも知らないだろう。それは全く物に憑かれた狂人の空洞な笑いである。
 と俄に、彼の哄笑とそれを吹き払う風とが、息を切ったようにはたと止む。雲の頭が太陽を蔽い隠して、墨を流したような闇黒が空の大半を占領して、暗澹たる気が天地を包み込み、怪しい戦慄の沈黙が落ちてくる。その沈黙の中に、何処ともなく遠い雷鳴が聞えたかと思うと、さっと一陣の風が起って、横ざまに大粒の雨が襲ってくる。そして忽ちのうちに、雷鳴と電光と驟雨との擾乱の世界となる。天と地とが渾沌たる一体のうちに融け合って、真黒な激怒の翼と電光の鋭い爪とが、凡てのものを打ち叩き折り挫ぐ。もはや何物の形も見分けられない。男の姿も闇に呑まれてしまう。
 その渾沌たる暴虐の世界の中に、やがてぱっと光がさしてくる。尊厳な太陽が姿を現わしたのである。中天を蔽っていた巖のような黒雲が、胴体の半ばから横ざまに折り拉がれて、空低く流れ落ちてゆく。雨が止み雷鳴が消え風が凪いで、紺碧に澄みきった大空と雨水に溺れた大地とが、焼くがような太陽の直射に照らし出される。空は光を含んで益々冴え返り、地面は浴び飲んだ水が沸き立って、熱い吐息に喘いでくる。そして崩れ落ちる暗雲は、くず折れくず折れして益々低く、地平線の彼方に没してゆく。
 もはや白々と乾きかけた一筋の街道を、先刻の男がなお辿っている。雷と雨とに打たれて首垂れながら、ただ機械的に足を運んでいるらしい。髪の毛が真先に乾ききって、逆様に縮れ上っている。ぐっしょりと身体にくっついている着物からは、湯気がぽっぽと立っている。そして彼の吐く息も、周囲の地面や草木の吐く息と同じに、蒸れ臭く熱っぽく喘いでいる。底濁りのした眼の光も消え、顔の色も蒼ざめている。一時の湿気と暑気とに気力つきてる様子である。
 それでも彼はなお、焼くがような日光に蒸されながら歩き続ける。何処まで行くつもりなのか? 地平線のほとりは、一時に発散する大地の湯気のために、茫とかすんで見分られない。彼はその方面に何かを見定めんとするかのように、なお眼を真直に見据えて歩いてゆく。と突然、雨に洗い出された道の小石に躓いて、二三歩よろよろとたたらを踏む。その足を踏みしめて、一寸つっ立ってみたが、そのまま力つきたかのように、路傍の叢の中に折れ屈んでしまう。そしていつまでも動かない。それはもはや、叢の中に埋もれてる一塊の石ころに過ぎない。
 そうした彼の頭の上に、ぎらぎらした日光の漲り溢れてる大気の上に、先刻の雷雲よりも遙かに高く、太陽よりも更に高いかと思われるあたりに、真白な悠久な一団の雲が、刷毛ではいたように靉いている。靉きながらも、眼が眩むばかりの勢で而も徐々に、大空の上を押し移っている。光の翼のようなその白雲の悠然たる動きを除けば、天地はひっそりと静まり返って、真夏の太陽の光に蒸されてゆく。




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