野ざらし
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著者名:豊島与志雄 


 四日目の午後から晩へかけて、片山からという電話が三四度かかった。一度は女中が撞球場までやって来て、昌作の意向を聞いた。探したけれど分らないと云ってくれ、と昌作は答えた。凡ては宮原俊彦に逢ってから! ということが、いつしか彼の頭の中に深く根を張っていた。逢って何になるかは問題でなかった。ただ一生懸命に待ってるために、昌作は知らず識らずそれに囚われていたのである。其他のこと一切は、憂鬱で億劫だった。
 そして偶然にも、丁度その晩八時頃柳容堂からの電話を女中が知らして来た時、昌作は突棒(キュー)を置いてゲーム半ばに立上った。午後から風と共に雨が降り出していた。昌作は傘を手に握ったまま雨の中を飛んで帰った。電話口に立つと、覚えのある沢子の声がした。
「あなた佐伯さん?……じゃあ、すぐに来て下さいよ。今ね……いらしてるから。他に誰もいないわ。すぐにね。」
「今すぐ出かけるよ。……そして……。」
 昌作が何か云おうとするのを待たないで、沢子は「すぐにね」を繰返して電話を切ってしまった。
 昌作は自分の室に戻って、一寸身仕度をして出かけた。
 大した風でもなさそうだったが、雨は横降りに降っていた。油ぎった泥濘が街灯の光を受けて、宛も銀泥をのしたようにどろりとした重さで、人影の少い街路に一面に平らに湛えてる上を、入り乱れた冷たい雨脚が、さっさっと横ざまに刷いていた。昌作は傘の下に肩をすぼめて、膝から下は外套の裾で雨を防いだ。電車に乗っても、背筋から足先へかけて冷々(ひえびえ)とした。
 途中で一度電車を乗り換え、柳容堂の明るい店先へ近づくに従って、昌作は自分の地位を変梃に感じ初めた。この四五日の間あれほど一生懸命に待っていて、そして今雨の降る中を、宛も恋人ででもあるように夢中になって逢いに行くその当の宮原俊彦が、一体自分にとって何だろう? そして自分は彼にとって何だろう? 二人は逢ってどうしようというのか? 而も沢子の面前で……。泣いてよいか笑ってよいか形体(えたい)の知れない感情が、昌作の胸の中一杯になった。それでも彼は行かなければならなかった。
 柳容堂の二階へ通ずる階段に足をふみかけた時、昌作は殆んど無意識的に顧みて、爪革に泥のはねかかってる古い足駄が一足、片隅に小さく脱ぎ捨ててあるのを見定めた。それから階段を、一段々々数えるようにして上って行った。
 二階に上って、第一に彼の眼に止ったものは、室の両側の壁にしつらえてある可なり贅沢な煖炉の、一方のに赤々と火が焚かれてることだった。その煖炉の前の卓子に、長い頭髪を房々と縮らした一人の男と沢子とが、向い合って坐っていた。
 昌作の姿を見ると、沢子はすぐに立上って、二三歩近寄ってきたが、其処にぴたりと立止って、サロンの女主人公といった風な会釈をした。それから彼を煖炉の方へ導いて、殆んど二人へ向って云った。
「先生よ。」
 その先生という言葉が、昌作の耳に異様に響いた。がそれよりも変なのは、初めて見る宮原俊彦の顔に、彼は何だか見覚えがあるような気がした。頬骨の少し秀でた、頬のしまった、髯のない、色艶の悪い顔、痩せた細い首、そして縮れた髪の垂れてる額の下から、近眼鏡の奥から、大きな眼が輝いていた。何処ということはないが、重にその眼に、昌作は古い見覚えがあるような気がした。
 もじもじしてるうちに、沢子が横手の椅子に腰を下ろしてしまったので、昌作は仕方なしに、一つ不自然なお辞儀をしておいて、俊彦と向い合って坐った。
「宮原です。」と俊彦は云った。「どうぞよろしく……。君のことは沢子さんから聞いてはいましたが……。」
 いきなり君と呼ばれたことと沢子さんという言葉とが、また昌作を変な気持にさした。
「私もお名前は伺っておりました……。」
 昌作はそう鸚鵡返しに答えてから、へまな挨拶をしたという気まずさのてれ隱しに、濡れた冷たい足袋の足先を煖炉の火にかざした。
「そんなに降ってるの?」と沢子が云った。
「雨はそうひどくないが、横降りなんだから……。」
「そう。御免なさい。」と彼女は雨の責任が自分にあるかのような口を利いた。
「その代り何か温まるものを持ってきてあげるわ。」
 昌作がいつもあつらえる珈琲とコニャックとを取りに、沢子が立って行った時、俊彦は落着いた調子で云った。
「沢子さんの気まぐれにも困るですね。是非やって来て君に逢えって、殆んど命令的な手紙を寄越すんですからね。こんな天気に済みませんでした。けれど、僕は何だか、君も御承知でしょうが、他に大勢客が居そうな時には、一寸来難いもんですからね。それでわざわざ、雨の降る寒い晩なんかを選んだのです。」
 別に云い渋るのでもないらしい自然な声で、真正面を向いたままそう云われて、昌作は一寸返辞に迷った。けれど、非常にいい印象を受けた。ややあって不意に云った。
「私も、他に客の居ない方がいいんです。あなたにお目にかかるのを非常に待っていました。」
 俊彦はそれを聞き流しただけで、煖炉の火に眼を落した。
 二人はそのまま黙っていた。暫くして沢子は、珈琲を二つとコニャックを一杯持って来て、珈琲の一つを俊彦の前へ差出したが、別に何とも云わなかった。昌作は眼を挙げて、彼女の様子がいつもと違ってること、何か変に気持をこじらしてることを、見て取った。それが彼の心を暗くした。沈黙が長引くほど苦しくなってきた。その沈黙を破るべき言葉を探し求めたが、なかなか見つからなかった。すると、不意に沢子が云い出した。
「佐伯さん、あなた九州行きはどうして?」
 昌作は答える前に、俊彦の顔をちらりと見た。俊彦はまじろぎもせずに煖炉の火を見つめていた。
「まだあのままさ。」と昌作は答えた。
 そして俄に彼の心に、或る何物へとも知れない憤懣の念が湧き上ってきた。片山からの電話を三四度も素気なく放りっぱなしにしたことが、何か取り返しのつかない失体のように頭を掠めた。宮原俊彦に逢って何をするつもりだったのか?「沢子の気まぐれ」からここまで愚図々々引っ張られて来た自分自身が、なさけなく怨めしかった。沢子に恋しておればこそ!…… そして沢子は、その恋を知りつつどうするつもりなのか?
 昌作が次第に首を垂れて考え込んでるうちに、沢子は俊彦の方へ話しかけていた。
「先生、私松本さんの所で、やはりお弟子の小林さんて方と、議論をしましたのよ。」
「何の?」と俊彦は顔を挙げた。
「いつか先生が手紙に書いて下すったでしょう、初めのうちは出来るだけ自己を画面に出しきるがよい、腕が進んでくるに従って、次第に自己が画面から消えて、偉い作品が出来るものだって。私がそう云うと、小林さんはまるで反対の意見なんでしょう。初めは自己を画面には出していけない、腕が進んでくるに従って、本当の自己が画面に現われてきて、立派な作品が出来るものですって。それでさんざん議論をしても、とうとう分らずじまいですから、しまいには松本さん所へ持ちこみましたのよ。」
「すると?」
「何とも仰言らないで、ただ笑っていらしたわ。好きなようにやるがいいだろうって。屹度御自分にもお分りにならないんでしょう。」
「うまく軽蔑されたもんですね。」
「あら、誰が?」
「あなた達がさ。あなた達のその議論は、第一自己というものの見方が違ってるから、いつまで論じたってはてしがつきませんよ。」
「そう、どうしてでしょう?」
「どうしてだか、僕にもお分りになりませんね。……そんなことより沢子さん、僕に絵を一枚くれる約束じゃなかったですか。」
「あら、先生に差上げるようなもの、まだ出来やしませんわ。」
 昌作は突然口を出した。
「沢ちゃんの群像って話をお聞きになりましたか。」
 その声が、昌作自身でも一寸喫驚したくらい大きかったが、俊彦は別に大して気を惹かれもしないらしく、ただ眼付きだけで尋ねかけてきた。それを沢子は引取って云った。
「あら、そんなでたらめなことを先生の前で……。嘘よ、嘘よ。」そして彼女は何かに苛立ったかのように次第に早口になりながら、而も真面目だかどうだか見当のつかない調子で、云い続けていった。「私記者なんかしたものだから、ここに居てもいろんなことを人に云われて、ほんとに嫌になってしまうわ。誰にも顔を合せないで、一人っきりでいられる仕事はないものかしら? 一日自分一人で黙っていて、勝手なことばかり考え込んでおられたら……。あなたなんか、ほんとに羨ましいわ。何にもしないで猫のような生活だなんて! 私もう何もかも放り出したくなることがあってよ。田舎へ帰っちまおうかなんて考えることがあるのよ。何をするのにも、人からじっと見られたり、余計な邪推をされたりして……私そんな珍らしい人間でしょうか? どこか、誰からも離れてしまった所へ、自分一人きりの所へ、逃げて行ってしまいたいわ。井戸の中みたいな所へ……。深い井戸を見るとね、あの底へ飛び込んだら、自分一人きりになって、静かで、ほんとにいいだろうと思うことがあるわ。」
 昌作はそれを、沢子の言葉としては可なり意外に感じた。彼女はいつも、何にも仕事がないという昌作を不思議がっていたではないか。彼は彼女の顔を見守った。
「そして、井戸の底に水がなかったらなおいいでしょうがね。」と俊彦は云った。でもその調子は別に皮肉でもなかった。
「あら、先生も随分よ。私水のある井戸のことなんか云ってやしませんわ。」
「じゃあ、初めから水のない井戸のことですか。」
「ええ。」
「でもね、逃げ出す方に捨鉢になるのは卑怯ですよ。戦う方に捨鉢にならなくちゃあ……。」
 その言葉に、昌作は一寸心を惹かれて、じっと俊彦の眼を見やった。俊彦はちらりと見返してから云った。
「君は何にもすることがないんですって? いいですね。」
「佐伯さんは、」と沢子が云った、「何にもすることがなくて困るんですって。」
「することがなくて困るというのは、なおいいですね。僕も賛成しますね。」
 昌作は先刻から、俊彦の言葉に妙に皮肉があることに気付いていた。けれどもそれは単に言葉の上だけのもので、彼自身の心持は少しも皮肉ではなく、却って率直で真面目であることをも、よく気付いていた。それで今、彼の言葉に対して苛立たしい不満を覚えた。つっかかってゆきたくなった。
「私は実際困ってるんです。」と昌作は云ってのけた。「自分には何だか生活がないような気がして、始終憂鬱な退屈な心持になってきます。晴々とした空が私にはないんです。」
「では何か仕事を見付けたらいいでしょう。」
「見付けたいんですが、それがなかなか……。」
「然し君は、一体何をするつもりですか。」
 突然の、そして自分でもよく考えたことのない、きっぱりした問だったので、昌作は一寸面喰った。俊彦はその顔をじろじろ見ながら、自分自身でも考え考え云うかのように、ゆっくり云い続けた。
「仕事を見付けるということも大切でしょうが、それよりも、何をするかという、その何かを見出すのが、更に大切ではないでしょうか。誰にでも、何でもやれるものではないでしょう。先ず何をやるか、それからきめておいて、云わば生活の方向をきめておいて、それから初めて仕事を探すべきでしょう。そうでないと、どんな仕事がやって来ても、取捨選択に迷うばかりで、手が出せやしませんからね。」
「然し私には何をやってよいか、それをきめる力が自分にないんです。」
「そりゃあ勿論誰にだって、自分が何をやるべきかは、なかなか分るものではないでしょうけれど、ただ漠然と生活の方向といったようなものは、誰にでもあるものですよ。」
「ですが……その方向を支持してくれる力が第一に……。」
「力なんて、」と突然沢子が言葉を拝んだ、「気の持ちようじゃありませんかしら?」
「気の持ちようか、または心の向け方か、そんなものかも知れませんね。」
 がその時、不思議にも、深い沈黙が俄に落ちかかってきた。三人共云い合したように、ぴたりと口を噤んでしまった。何故だか誰にも分らなかった。各自に自分々々の思いに沈み込んで、そして妙に精神を緊張さしていた。昌作はそれをはっきり感じた。沢子は遠くを見つめるような眼付を、卓子の白い大理石の面に落していた。俊彦はしまった頬の筋肉をなお引緊めて、煖炉の火に見入っていた。昌作は眼を伏せて腕を組んだ。顔をそむけて心で互に見つめ合ってるがようだった。三人の状態がこのままでは困難であること――それでいて妙に落着き払ってること――一寸何かの動きがあれば平衡が破れそうなこと――そして今にも何か変な工合になりそうなこと、それがまざまざと感ぜられた。昌作は苦しくなってきた。動いてはいけないいけないと思いながら、我知らず立上って室の中を歩き出した。涙がこぼれ落ちそうな気がした。窓の所に歩み寄ると、硝子に小さな雨滴がたまっていて、街灯の光にきらきら輝いていた。雨は止んだらしく、澄みきって光ってる冷たい空気が、寂しい街路に一杯湛えていた。おかしなことには、いつまで待っても電車が通らなかった。昌作は次第に顔を窓に近寄せていった。息のために硝子がぼーっと曇ってきた。
「佐伯さん!」
 呼ばれたので振返ると、沢子が下り加減の眉尻をなお下げて、眼をまん円くして、彼を招いていた。彼は戻っていった。
「あなた今日は、ちっともお酒をあがらないのね。」
「なに、やるよ。」
「君は沢山いけるんですか。」と俊彦が尋ねた。
「それほどでもありません。」
「うそよ。私度々あなたの酔ってる所を見たわ。」
「酒に弱いから酔うんだよ。……そしてあなたは。」
「僕は泥坊の方で、いくら飲んでも酔わないんです。その代り、時によると非常に善良になってすぐ酔っ払うんです。」
「先生は酔うと眠っておしまいなさるんでしょう。」
「沢ちゃんを一度酔っ払わしてみたいもんだな。」
「そう。」と俊彦が愉快そうに叫んだ。「そいつは面白いですね。」
「大丈夫ですよ。私も泥坊になるから。」
 そんな他愛もない話が順々に続いていった。一瞬前の緊張した気持は、いつしか何処かへ飛び去ってしまっていた。年来の友であるような親しみが、落着いたやさしい親しみが、三人を包んでいた。昌作はふと、自分がどうしてこう俄に安易な気分になったか、自ら怪しんでみた。そして、そのことがまた彼の心に甘えてきた。
 けれど、そういう会話は長く続かなかった。派手なネクタイに金剛石(ダイヤ)入りのピンを光らしてる会社員風の男が一人、音もなく階段[#「階段」は底本では「躊段」]から現われてきて、煖炉の方をじろじろ眺めながら、暫く躊躇した後、向うの隅の卓子に腰を下して、しきりにこちらを窺い初めた。それを一番に不快がりだしたのは、俊彦らしかった。彼は次第に言葉少なになり、はては上半身を煖炉の方へねじ向けてしまった。洋服の男は、出て行った春子と懇意な者らしく、暫く冗談口を利いていた。その声が馬鹿に低くて、昌作の方へは聞き取れなかった。それから男は、一人で珈琲をなめながら、また執拗に昌作達の方を窺い初めた。今度は昌作までが不快を覚えた。男の方に背を向けてる沢子一人がぽつりぽつり口を利いていたけれど、やがて彼女も黙り込んでしまった。それからすぐに、役女が最も不機嫌になってきたらしかった。卓子の上に両肱を置いて、石のように固くなって動かなかった。
 やがて俊彦はふいに向き返った。
「少し外を歩きませんか。」
「そうですね……。」
 昌作は語尾を濁しておいて、何気なく沢子の顔に眼をやった。沢子は一寸眉根を動かしたきりで、やはりじっとしていた。その間に俊彦はもう立上っていた。そして彼が勘定を求めると、沢子は突然大きな声で――向うの男にも聞えるような声で――云った。
「今日のは宜しいんですわ。」
 彼女は唇の端を糸切歯の先でかみしめてきっとなった。そして、俊彦はつっ立ち昌作と沢子とは坐ったままで、一瞬間待った。昌作は何とかこの場を繕ろわねばならない気がした。
「沢ちゃん一人残して可哀そうね。」と彼は囁くように云った。
 沢子は眼を挙げて、昌作と俊彦とを同時に見た。その顔が今にも泣き出しそうなのを、昌作は深く頭に刻み込まれた。
「何れまた三人で話をしましょう。」
 俊彦はそう云い捨てて、帽子掛の方へ歩き出した。昌作も引きずられるように後へ続いた。階段の上から沢子が見送っていた。
 外に出ると俊彦は突然云った。
「僕はあの男に見覚えがあるんです。いつか、四五人一緒にやってきて、隣の卓子で、僕にあてこすりを云ったので……。」
 昌作には、俊彦がそれほど憤慨してるのを怪しむ余裕も、またその言葉に返辞をする余裕もなかった。泣き出しそうになっていた沢子の顔と、後で恐らく泣いてるかも知れない彼女の姿と、それから、俊彦に離れ得ないで犬のようにくっついてゆく自分の憐れな姿とが、彼の頭に一杯になっていた。
 空はどんより黝ずんでいたが、雨はもう霽れていた。屋根も並木も街路も、それから人通りさえ、凡てのものが雨に洗われて、空気の澄んだ寂寞とした通りを、少し気恥かしいほどの高い泥足駄で、二人はゆっくり歩いて行った。俊彦は暫くたってから、こんなことを云い出した。
「僕は何だか、運命といったものが信じられる気がしますよ。運命と云っても、人間自身の力でどうにもならない、所謂生れながら定まった宿命ではありません。自分の心と一緒に動く或る大きな力です。何か或る方向へ心を向けると、それと一緒に、同じ方へ、運命が動き出すように思えるのです。自分の信念の流れと運命の流れとが、一つになるといった気持です。それを思うと非常に僕は心強くなります。神の意志とでも、自然の反応とでも、人によっていろんな名前をつけるでしょうが、僕に云わすれば、天の交感ですね。その天の交感を、自分が荷ってるということが、はっきり感ぜられるようです。そして僕は、此度は反対に、その天の交感で……運命の動きで、自分の考えの正しいかどうかを見定めたいんです。心を或る方向へ向ける時、その向け方が本当のものである時には、岐度運命の同じ動きが感ぜられますし、向け方が間違ってる時には、それが少しも感ぜられないんです。正しいかどうかを問うんじゃなくて、本当か嘘かを問うんです。そして、そういう本当の心の方向へ進んでゆけば、結果はどうでも、常に悔いがないと僕は信じています。……君はそう思いませんか。」そして五六歩して、昌作の答えを待たないで、彼は俄に苛立った声で云い続けた。「勿論、先刻あすこから逃げ出した意向には、運命の動きなんか伴わなかったし、それかって、悔いも伴いはしませんが……。」
 昌作は我知らず微笑を洩した。
「けれどその反対に、あすこに残るとしましたら、その意向にもやはり、どちらも伴わないではないでしょうか。」
「そうです。腹を立てちゃ駄目ですね。」
 俊彦はじっと昌作の方を顧みて、五六歩すたすた足を早めた。それからまた足をゆるめながら云った。
「君は……僕は今晩沢子さんから聞いたんですが、九州の炭坑とかへ行こうか行くまいかと、迷ってるそうですね。」
「ええ。」
「そいつはどちらなんです?」
「どちらって?……」
「行く方と行かない方と、どちらに運命の動きが感じられますか。」
 昌作は答えに迷った。
「どちらにも感ぜられないんじゃないですか。」
「ええ。どちらにも感ぜられるようでもありますし、また感ぜられないようにも……。」
「それじゃあ、それも結局、柳容堂の二階に残ってるかどうかと、同じものですね。そして君も腹を立ててるという結論になるわけですね。」
 昌作は冷たいものを真正面からぶっかけられた心地がした。そして、凡てを一瞬間に失った心地がした。黙って唇をかんだ。それを知ってか知らずにか、俊彦は他のことを云い出した。
「腹を立てるのは止しましょう。……僕はね、これも運命の動きと同じ感じですが、初対面の人に対して、自分の友になれる人となれない人とを、はっきり感ずることがよくあるんです。君に対して僕は、失礼ですが、親しい友になれそうな気がするんです。……何処かで一杯やりませんか。」
「ええ。」と昌作は殆んど無意識的に答えた。
 俊彦は帯の間から、小さな銀側時計を引出して眺めた。昌作は何とはなしに、こんな場合に彼が時計を持ってるのが、不自然な気がした。
「もう遅いから駄目ですね。」そして俊彦は暫く考えていた。
「穢い家でも構いませんか、その代り酒は上等ですが。」
「どこでも構いません。」と昌作は答えた。何もかもなるようになれという心になっていた。
 電車通りを暫く行って、それから横町へ曲って、次に路次へ曲り込むと、みよしという小意気な行灯の出てる、繩暖簾の小さな家があった。狭い板の間に、大きい粗末な木の卓子が三つ並んでいて、銚子や皿の物を並べた膳を前に、洋服や和服の数人の客が散在していた。側の畳敷の、長火鉢の前に坐っている、黒繻子の襟の着物にお召の前掛をしめた、四十恰好のお上さんに、俊彦はいきなり言葉をかけた。
「遅くなってから済みませんが、二階の室を貸して貰えませんか。」
「まあ、宮原さん、」とお上さんは云った、「ほんとにお久し振りでしたこと。……ええ、散らかってますけれど、どうぞ。今片付けますから。」
 狭苦しい梯子段を上りきった所に、四畳半の室が一方に開いていた。室の中は散らかってる所か、殆んど何にもなくてがらんとしていた。後からお上さんがやって来て、足の頑丈な餉台や、火鉢や、座布団を並べながら、俊彦と二三人の人の噂を話していった。暫くすると、からすみ、このわた、蟹、湯豆腐、鮪のぶつ切り、など誂えの料理が、錫の銚子を添えて持って来られた。天井と畳が煤けて古ぼけてるわりに、障子の紙だけが真白だった。
「どうです、どうせ裏路なんですけれど、柳容堂の二階とは随分感じが違いますね。」
 そう云う俊彦の顔を、昌作はぼんやり見守った。彼の眼に俊彦は、柳容堂の時とは全く別人のように写った。
「何だか、変な気がしますね。」
 俊彦は黙って杯を取上げた。昌作も黙ってその通りにした。可なり更けたらしい静かな晩だった。膝頭から寒さがぞくぞく伝わってきた。二人共しつこく黙り込んで、杯の数を重ねた。俊彦は突然肩を震わした。
「全く変な気がする晩ですね。」
 余り長い間を置いてだったので、昌作はびっくりして、彼の眼を見入った。その時、古い見覚えがあるような眼付をまた見出して、はっと心を打たれた。俊彦はその眼付を、膝のあたりに落して云った。
「僕は打明けて云ってしまいましょう。実は、君をどうしてくれようかと迷っていたんです。どうしてくれようかって……つまり、君の味方になるか敵になるかということです。初め僕はあすこで、非常に素直な気持で君に逢えて嬉しかったんです。所が、あの嫌な男がやって来た時、ふとその一寸前の気分が――君が窓の所へ立っていった時の変梃な気分です……君にも分るでしょう……あの気分が妙にこじれて戻って来たんです。僕があの男に腹を立てたのも、そのためです。それから僕は、運命の動きなんてものを持出して、君が深く悩んでいる九州行きに結びつけて、一寸悪戯をやってみたのです。その上君をこんな所へ引張ってきて、僕は全く自分でどうかしていました。けれど、あの運命に対する信念と、人に対する最初の印象とは、僕の本当の考えです。云わば自分の信条で君をいじめてみたようなものです。」
 俊彦は深く眉根をしかめて、じっと考え込んだ。昌作は初めて彼の心へ本当に触れた気がした。凡てのことがぼんやり分りかけてきた。俊彦が今でもなお、沢子を愛していること、その愛に自ら悩んでいること、などが分ってきた。
 ややあって、俊彦はふいに顔を挙げた。眼が輝いて、いやに真剣な様子だった。昌作も自ずと襟を正すような心地になった。
「君は沢子さんをどう思います?」
 昌作は息をつめて返辞が出来なかった。俊彦はそれでも平静な調子で云った。
「僕にはあの女のことが、どうもはっきり分りません。何処か少し足りない所があるか、それとも何処か非凡な所があるか、そのどちらかでしょうね。」
「そうですね。」と昌作は漸く答えた。「そして、考え方が、突然意外なものに飛んでゆくので、私は喫驚するようなことがあります。」
「そんな所がありますね。……それから、君は沢子さんを、処女だと思いますか。」
 昌作は大抵のことは予期していたけれど、それはまた余りに意外な言葉だった。それに対する自分の考えをまとめるよりも、相手の気持を測りかねて、黙っていた。
「え、君はどう思います? 本当の所は……。」
「そうですね、私は……。」そして昌作は自分でも不思議なほどの努力で云った。「まだ処女だと思っています。」
 俊彦は深く息をついた。
「君がそう信じてるんでしたら、僕達の物語をお話しましょう。なぜなら、沢子さんを処女だと信じてる人にしか、この話は理解出来ないような気がするんですから。……僕はまだこんなことを誰にも話したことはありませんし、今後も恐らくないでしょうが、君にだけは、妙に話したくなったんです。ただ、誓って、君の胸の中だけにしまっといて下さいよ。」
 昌作はそれを誓った。俊彦は話しだした。そして初めから、二人共不思議に心が沈んできて、暗い憂鬱な気分に閉されたのだった。勿論俊彦の話は、その内容が理知的なにも拘らず、非常に早口になったり、一語々々言葉を探すようにゆるくなったり、前後入り乱れたり、間を飛び越して先へ進んだりして、可なり乱雑なものだったが、その大要は次の通りである。

     四――宮原俊彦の話

 今から二年半ばかり前のことでした。団扇(うちわ)を使ってたから、たしか夏の……初めだったと思います。その暑い午後に、婦人雑誌記者の肩書を刷り込んだ小さな名刺を、女中が僕の書斎へ持って来ました。僕はその橋本沢子という行書(ぎょうしょ)の字体をぼんやり眺めながら、客を通さしました。そして派手な服装(みなり)をした若い女――何故かその時僕は、記者にしては余りに若すぎると感じたのです、そんな理屈はないんですがね――その若い記者が、遠慮なく座布団の上に坐ってお辞儀をした時、僕も一寸会釈をしながら、「初めて……」と挨拶したものです。すると、彼女は頓狂な顔をして、僕をじっと見てるじゃありませんか。僕は変な気がして、「何です?」という気味合いを見せたのです。
「だって、私先生にはもう二三度お目にかかったことがありますもの。」
 そう云った彼女の顔を僕は見守りながら、その広い額と下細(しもぼそ)りの顔の輪廓と尻下りの眉の形とで、前に逢ったことを思い出したのです。それは間接の友人の中西の所でした。その頃僕の友人達の間に、花骨牌(はながるた)が可なり流行っていて、僕も時々仲間に引張り込まれたものです。それが大抵中西の家で行われた――というのは、中西の細君が、新らしい婦人運動やなんかに関係していて、まあハイカラな現代の新婦人で、男の連中と遊ぶのが好きだった――と云っちゃ変ですが、兎に角社交的な開けた性質なんですね。それで、友人と二人くらいで、外で晩飯を食って、詰らなくなって退屈でもしてくると、自然中西の家へ僕まで引張ってゆかれて、主人夫妻と一緒に花をやるといった工合です。僕もそういう風にして、何度か中西の家へ行ったものです。すると或る時、中西の細君が、「人数がも少し多い方が面白い、」と云って、階下(した)から女学生らしい女を呼んできました、それが沢子だったんです。勿論僕はその時、彼女に紹介されもしなければ、彼女の名前を覚えもしなかったですが――と云って、「今度は沢子さんの番よ、」などと云う言葉を耳にしたには違いないんですが、それが頭にも残らないほど、彼女の態度は……存在は、控え目で、そして遊びにも興なさそうだったのです。そんなことで二三度彼女に逢ったわけですが、そのうちに僕は自然忙しくもなるし、花にも興味を持たなくなるし、元々中西とは、花骨牌の席ででもなければ、殆んど逢うこともないくらいの間柄だったものですから、いつしか連中から遠退いて、従って、沢子に逢うことも無くなったし、彼女の存在をも忘れてしまったのです。
 所が、それから半年か……そうですね、一年とたたないうちに、彼女は雑誌記者として、ふいに僕の前に現われたのです。
「そうそう、中西さんの所でお目にかかりましたね。だが、雑誌記者たあ随分変ったものですね。」
 というような挨拶をして、それとなく、彼女の身の上を知ってみたいという好奇心が、僕のうちに萌しました。けれども彼女は当り障りのないことをてきぱきした言葉で述べながら――そのくせ、自分自身に関することについては妙に曖昧に言葉尻を濁しながら、僕の言葉をあらぬ方へ外らしてしまうんです。非常に明敏な頭を持ちながら、自分自身のことについてはまるで渾沌としてる……といった印象を僕は受けました。
 それから、来訪の用件に移ると、実は雑誌社にはいったばかりでまるで見当がつかないが、最初の原稿として何か面白いものを取って皆をあっと云わしてみたいから、神話に関する先生の原稿を是非頂きたい、と云うのです。僕が神話の研究者であることを、何処かで聞いていたとみえます。僕は承知するつもりで期日を聞きますと、一週間以内に是非と云うじゃありませんか。而もその一週間は、僕は学校の方の答案調べやなんかでとても隙がありません。
「それじゃお話して下さいませんかしら。私書きますから。」
 いつ? と尋ねると、只今、と云うんです。
 僕は苦笑しながら、兎に角話を初めました。フーシェンが山へ行って、恐ろしい姿のものを見て、石を掴んで投げつけると、その石が岩に当って火花を発し、その火が広い野原中に拡った、それがペルシャの拝火教のそもそもの火であるというようなことや、印度の火神アグニーは、枯木の材中に生命を得て来て、生れ出るや否や、自分の親である木材を食い尽そうとする、などというような、神話の起原と自然現象との分り易い関係の話を、少しばかりしてやりました。彼女は談話筆記は初めてだと云いながら、わりにすらすらと書き取っていましたが、一寸つかえると、僕が先へ話し進めるのをそのままにして、一言の断りもしないで、じっと僕の顔を見てるじゃありませんか。まるで女学校の生徒が先生の講義を筆記してるといった恰好です。僕は苦笑しながら、その引っかかってる所からまた話し直してやる外はなかったのです。
 用が済むと、彼女はさっさと帰って行きました。その後で僕は、彼女が団扇を手にしようともしなかったことと、暑いのに着物の襟をきちんと合してたことと、而も額には汗を少しにじましてたこととを、何故ともなく思い出したものです。
 僕がどうしてその日のことをこんなに詳しく覚えてるかは、自分でも不思議なくらいです。彼女が帰った後で、僕は非常に晴々とした気持になって、初めからのことを一々思い浮べてみた、そのせいかも知れません。
 が、こんなに細かく話してては、いつまでたっても話が終りそうにありませんから、これから大急ぎでやっつけましょう。その上、其後のことは僕の記憶の中でも、頗るぼんやりしていてこんぐらかっているんです。
 沢子が僕の談話を取っていってから、可なりたって、その雑誌社から雑誌を送ってきました。読んでみると、僕の話した事柄が、可なり要領よくそして伸びやかな筆致で書いてありました。これなら上乗だと僕は思いました。すると、丁度その翌日です。沢子が雑誌と原稿料とを持って飛び込んで来たものです。
「先生のお蔭で、私すっかり名誉を回復しましたわ。」
 何が名誉回復だか僕には分りませんでしたが、彼女の喜んでるのが僕にも嬉しい気がしました。雑誌は社から既に一部送って来てると云うと、でもこれは私から差上げるのだと云って、置いてゆきました。原稿料はあなたが書いたんだからあなたのものだと云うと、そんな機械的な仕事の報酬は社から貰ってると云って、それも置いてゆきました。
「私これからちょいちょい先生の所へ参りますわ。どんなお忙しいことがあっても、屹度引受けて下さいますわね。そうでないと、私ほんとに困るんですの。」
 そんな一人合点のことを云って、彼女は帰ってゆきました。それが却って僕の心に甘えたことを、僕は否み得ません。
 それから彼女は、殆んど毎月僕の所へやって来て、僕の談話を筆記してゆき、次に自分自身で雑誌と原稿料とを届けてきました。各国の神話の面白そうな部分々々の話は、婦人雑誌には可なり受けたものと見えます。彼女はいつも喜んでいました。それに彼女自身、国の女学校に居る時ギリシャ神話を大変愛読したとかで、僕の話に頗る興味を持ってくれました。長く話し込んでゆくことさえありました。そして僕の方では、月々同じものが二冊ずつたまってゆく雑誌を、嬉しい気持で眺めたものです。
 そういう風にして、僕達の間には、記者と執筆者という普通の関係以外に、友達……と云っちゃちと当りませんが、そう云った親しい馴々しい打解けた気分が、次第に深くなってきたのです。そして僕は彼女の時折の断片的な言葉をよせ集めて、彼女の身の上をほぼ知りました。
 彼女の家は、富山でも――越中の富山です――相当の家柄だったのが、次第に衰微して、彼女が女学校を卒業する頃には、可なり悲境に陥ったらしいのです。そして、或る伯父の策略から、彼女は金銭結婚の犠牲にされそうな破目になって、母親の黙許を得た上で、東京へ逃げ出してきたのです。勿論その間の事情は、僕にはよく分りません。が兎に角、彼女は東京に逃げ出してきて、前からいくらか名前を聞きかじってる――というのは、彼女はまあ云わば文学少女の一人だったのです――名前を聞きかじってる中西夫人の許へ、身を寄せたわけです。その頃僕は彼女と二三度花骨牌の仲間になったのです。そして中西の家でどういうことがあったか、或は恐らく何事もなかったのかも知れませんが、彼女は其処に居るのが嫌になって、と云った所で、国から仕送りを受けて勉強するという訳にもゆかず、女中奉公も気が利かず、仕方なしに、何とか伝手(つて)を求めて、雑誌社にはいったような始末です。けれど、中西の家だって雑誌社だって、結局は彼女に適した場所ではありません。彼女はどんな所に置いても大丈夫であると共に――どんなことをしても純な心を失う恐れがないと共に、また同じ程度に、どんな所にもあてはまらない――安住し得ない性質を持っています。空中にでも放り出しとくがいいような女です。君はそうは思いませんか。
 所で……どこまで話しましたかね。……そう、僕と沢子と可なり打解けた間柄になった。すると半年もたってからでしたか……そうです、年が改ってからです。松のうちに一度やって来て、殆んど一日遊んでいってから――後で僕は思い出したんですが、その半日以上もの間、彼女は殆んど僕の書斎で神話の書物をいじくってるきりで、子供や妻を相手にしようともしなかったのです、勿論彼女は僕の家庭に親しんではいなかったのですが――それから後は、やって来ることが急に少くなりました。その代りに、度々手紙をくれるようになりました。後になってから僕は、その一日のうちに、僕と彼女との間に、どういう話が交わされたか、またどういうことが起ったか、いろいろ考えてみましたが、よく思い出しません。ただ彼女が、ペルセウスとアンドロメダというライトンの絵の写真版を、いつまでもじっと眺めていたことが、変に頭に残っています。そんなつまらない絵を何で眺めてるのかと、不思議に思ったからでしょう。
 彼女の手紙にはいろんなことが書いてありました。忙しくてお伺い出来ないのが悲しい、といつも前置をしてから、次に、日常生活の些細なこと――誰の所へ行ってどういう目に逢った、社でどんな話が出た、宿のお上さんがこれこれの親切をつくしてくれた、雪が降って故郷のことを思い出す、泥濘(ぬかるみ)の中に何々を取落して困った、今日はこういう悲しい気持や嬉しい気持になってる……などと、まるで一日の労働を終えて晩飯の時に、兄弟にでも話しかけるような調子のものでした。そして僕は、彼女がそんな事柄を書きながら、或る一種の慰安を得てることを、はっきり感じました。で僕からも自分の日常生活の断片を書き送りました。それがやはり、僕にとっても一種の慰安でした。時によると、精神上の事柄を書き合って、互に力づけ合うようなことさえありました。そして僕は、二人が東京市内に住んでいて何時でも逢える身なのに、屡々手紙を往復してるという不自然な状態には、少しも自ら気付かなかったのです。ただ、彼女と逢ってみると――もう彼女は原稿なんかも手紙で頼んできて、滅多にやって来なかったですが、それでも二月に一度くらいはやって来ました――そして逢ってみると、手紙のことはお互に口に出せないのを、はっきり感じました。何でもないことを書き合ってたつもりでも、或は何でもない些細な事柄ばかり書き合ってたためか、それが二人の心を恋に結びつけてしまって、面と向っては何だか気恥かしい心地がしたものです。馬鹿げてると云えばそれまでですが、実は、其処から凡てのことが起ってきたのです。
 梅雨の頃……六月の初め、僕の妻は肺炎にかかりました。病院にはいるのを嫌がるものですから、家に臥(ね)かして看護婦をつけました。そして僕も出来るだけ看護したつもりです。その僕の看護については、妻は何とも云わなかったですが、子供達に対して――二つと五つの女の児です――それに対して、僕が母親の代りをも務めてくれる所か、非常に冷淡だったと、後になって彼女は不平を云いました。或はそうだったかも知れません。何しろ僕は、士官学校と明治大学とに教師をしていましたし、その方だけでも可なり忙しい上に、神話の研究という仕事があったものですから、そうそう病人や子供達ばかりを構ってはいられなかったのです。がそれはまあ兎も角として、妻の経過は案外良好で、六月の末にはもう医薬も取らないでよいほどになりました。僕もほっと安心しました。けれど、病後の容態――精神上の状態が、余りよくありませんでした。変に神経質にヒステリックになって、つまらないことにも腹を立てたり鬱ぎ込んだりする外に、軽い神経痛を身体の方々に感ずるのです。肺炎のために神経がひどい打撃を受けて、それがなかなか癒らなかったのでしょう。
 それで、七月の半ばから子供を連れて保養旁々、妻は房州の辺鄙な海岸へ行くことになりました。僕の身分で贅沢なことは云って居られませんから、百姓家の狭い離室(はなれ)を借りたのです。僕は士官学校がなお休暇にならないものですから――休暇は八月になってからです――東京に残っていました。そして、久しぶりに妻や子供と離れて、がらんとした家の中に寝そべってると、何とも云えぬ暢々(のびのび)とした気持になったものです。女中が一切の用は足してくれるし、煩わしい心使いは更にいらないし、避暑に行くよりよっぽど気楽でいいと思いました。八月になって士官学校が休暇の折にも、僕は房州へ一度も行きませんでした――それを妻は後で僕に責めたのですが……。
 妻や子供達の不在中に、僕は沢子の来訪を知らず識らず待っていたのです。二人でのんびりと他愛もない話に耽りたいと思ったのです。勿論妻が居たとて、別に僕は沢子へ対して疾しい心を懐いてるのではなかったのですから、妻の手前を憚る必要はない筈でしたが、それでも何となく気兼ねがされたのです。妻に気兼ねをするからには、疾しくないとは云え、やはり何かが其処にあったのでしょうね。実際の所、妻が房州へ行ってから、僕と沢子との手紙の往復は、ずっと数多くなりました。月に一回か二回だったのが、二三回になったと覚えています。けれど、沢子は妻の不在中一度も訪ねて来てくれませんでした。僕も明かに来てくれとは云ってやれなかったのです。或る時の彼女の手紙に、「お伺いしたいのですけれど、それをじっと押えてることを、御許し下さいましょうか。」という文句があったのを、僕は謎をでも解くような気持で、何度も心の中でくり返してみたことを、はっきり覚えています。
 八月の末になって、妻と子供達とは帰って来ました。その潮焼けのした顔を見て、僕は他人をでも見るような気でじっと見守ってやったものです。そして妻の身体は、前よりもずっと丈夫そうになっていましたが、神経は前より一層いけなくなっていました――少くとも僕はそう感じました。それは確かに僕の僻みばかりでもなかったのでしょう。……僕は間違ったのです。温泉か山にでもやればよかったのを、反対に海へやったために、彼女の神経は落着く所か、却って苛立ったに違いありません。
 妻が帰って来て間もなく、沢子がふいにやって来ました。その時、僕は変にうろたえたものです。子供を相手に絵本の話をしてやってる所でしたが、女中が彼女の名刺を取次ぐと、僕はいきなり玄関へ出て行って、どうぞお上りなさい、と云って、それからまたふいに子供達の所へ戻ってきて、初めの慌て方を取返しでもするような気で、話の続きを終りまでしてやって、それからゆっくりと、意識的にゆっくりと、二階の書斎へ上っていったものです。我ながら滑稽でした。けれどそれが妙に真剣だったのです。座についても、煙草をふかしたり、眼鏡を拭いたり、机の上の書物を片付けたりして、変に落着かないのを、更にまた自ら苛立ってるという心地なんです。そういう僕の様子を、沢子はじっと見ていましたが、やがてこんなことを云ったのです。
「奥様はお丈夫におなりなさいまして?」
 僕は答えました。
「ええすっかり丈夫に……真黒になっています。」
 それが不思議なことには、何だかこう遠い無関係な女のことをでも話してるような調子に、僕の心へは響いたのです。それから突然、沢子の眼は悲しい色を浮べました。それで初めて凡てがはっきりしました――凡てがと云って、何の凡てだかは自分にも分りませんが、兎に角、自分の心が家庭というものから離れて宙に浮いてる、といったようなことなんです。
 沢子は、神話の話や雑誌の話などを少し持出しましたが、ともすると僕達は沈黙に陥りがちでした。実際長い間黙ってることもありました――口を利くこともないといった風に、或は、口を利くのが恐ろしいといった風に……。そして彼女はやがて帰ってゆきました。
 それを僕は玄関まで送っていって、それからまた二階の書斎へ上ったのですが、何かが気になって、また階下(した)へ下りてきたのです。すると、妻がいきなりこう云いました。
「まあ、嬉しそうにそわそわしていらっしゃること!」
 妻の皮肉な眼付とその言葉とが、僕の胸を鋭くつき刺したのは勿論のことです。
 そして僕はいつとはなしに、ぼんやり書斎に引籠って、妻のことなんかは頭の隅っこに放り出して、沢子の若々しい面影を眼の前に描き出してる自分自身を、屡々見出すようになりました。
 僕は妻を愛していたのでしょうか? 妻は僕を愛していたのでしょうか?……勿論僕達二人は、普通の意味では愛し合っていました。けれど、何かが、本当の切実な生活感が、深い所に潜んでるもの――それは後で申しましょう――それに対する自覚が、欠けていたのです。
 僕と妻とは結婚当初から可なりよく融和して、凡そ夫婦というものが愛し合う位の程度には愛し合いました。僕は大した深酒ものまず、道楽もせず、一種の学究者でして、生活が華やかでない代りに、至って真面目だったのです。妻は所謂良妻賢母といった型(タイプ)の女で、几帳面に家事を整えてくれました。で僕達はまあ幸福な家庭を作ったわけです。所が、お互に性格の底まで触れ合うくらいに馴れ親しみ、それから次には、夫婦の鎹(かすがい)と世間に云われてる子供が出来、生活が複雑になってくるに従って、妙な工合になってきたのです。妻の生活の中心は子供となり、僕の生活の中心は自分の勉強となって、而もその両方が、まるで別々の世界かの観を呈したものです。妻は子供を偶像として押立て、僕は自分の仕事を偶像として押立て、そして互に領分争いみたいな調子になってきたのです。
 現代の婦人の生活は、結婚して子供が出来ると共に、自分の生活であることを止めて、全く奉仕の生活となります。子供に奉仕するのです。凡てのことは子供を中心に割り出されます。良人の仕事なんかはどうでもいいのです。良人はただ、子供の立派な成育に必要なだけの金と地位とを得てさえくれれば、それで十分なんです。――それから第二に、彼女の精神的進歩はぴたりと止ってしまいます。否却って精神的に退歩してきます。善良なる保母、それが彼女の理想となります。――第三に、彼女は良人を十重二十重に縛り上げて、自分の従順な奴隷にしようとします。献身的な愛を要求します。
 所が、男の方から云えば、それらの凡てが間違ったものに見えます。勿論、自分自身に見切りをつけて、子供の生長にのみ望を嘱するといったような、隠退的な心境にはいった者は別ですが、そうでない者、まだ自分自身を第一に置いて考えてる者は、妻のそういう態度が心外なものに思われます。第一に、妻が真向に押立ててる偶像――子供――に対して一種の反抗心を起します。第二に、精神的に退歩してゆく妻を、愚劣な女だと軽蔑します。第三に、自分を身動き出来ないようにとする妻へ反抗して、あくまでも自由でありたいと希います。――而も一方に、彼は第一義的な自分の仕事というものを持っています。そして、その仕事に理解のあるやさしい女性の魂を必要とします。そういう女性の魂を欠いた彼の生活は、如何に落寞たるものでしょう? 所謂悟道徹底した者ででもなければ、その落寞さに堪え得ません。大抵の者は、淋しい魂の彷徨者となります。
 結婚に次いで来る幻滅(デスイリュージョン)――それが男の大なる躓きです。この躓きを無事に通り越す者は幸です。
 然しこんな議論はもう止しましょう。それは理屈では分らないことです。一々切り離して眺むれば全く無意味なような、日常の些細な事柄が、積りに積ってくる――その全体の重量を背に荷った人でなければ、分るものでありません。――君は、豊島与志雄氏の理想の女という小説を読んだことがありますか。何なら読んでごらんなさい。この間の消息が可なり詳しく、執拗すぎると思われる位の筆つきで書かれていますから。
 で、要するに、その頃僕の心は、可なり妻から離れて、或るやさしい魂を求めていたことだけは、君にもお分りでしょう。
 そういう心で僕は妻を眺めてみて――今迄よく見なかったものを初めてしみじみと眺める、といった風な心地で眺めてみて、喫驚したのです。何という老衰でしょう! 髪の毛は薄くなって、おまけに黒い艶がなくなっています。昔はくっきりとした富士額だったその生え際が、一本々々毛の数を数えられるほどになっています。顎全体がとげとげと骨張っていて、眼の縁や口の隅に無数[#「無数」は底本では「無新」]の小皺が寄っています。或る時彼女が庭に立って、真正面から朝日の光を受けてるのを見た時、僕はまるで別人をでも見るような気がしました。昼間の明るい光の中に出てはいけない! そう僕は咄嗟に感じたのです。……けれど、それらのことや、少し背を屈み加減にして肩を怒らしてることや、長火鉢の隅にかじりついてる時が多くなったことや、なかなか腰を立てない無精な癖がついたことや、怒りっぽい苛立たしい気分になったことや、手足の筋肉がこちこちに硬ばってきたことや……そんな無数の事柄は、肺炎の衰弱から原因してると一歩譲って考えても、どうにも我慢の出来ないのは、彼女の全体――身体と精神との全体に、一種の冷やかな威厳を帯びてきたことです。僕と意見が合おうが合うまいが、そんなことに頓着なく自分の意見を主張し、家の中を冷然と監視し、その言葉付から挙動から態度に至るまで、少しの余裕もない厳粛さを示してるのです。やさしみとかゆとりとか濡いとか柔かみとかいったようなものは、つゆほども見えないのです。一体彼女は表情の少い至極善良な――この善良ということは、鈍重ということと一歩の差ではないでしょうか――その善良な女だったのですが、それが、僕の気付かぬまに、冷やかな威厳の域へまで変化して――向上してきたわけです。
 そういう妻を見出した僕が、いくら自ら抑えても、沢子の方へ心惹かれていったのは、当然ではないでしょうか。殊に、沢子をよく知っている君には、僕が沢子へ惹きつけられていったことは、よくお分りでしょう。そして僕は、益々妻に対しては冷淡になってきました。
 それになおいけないのは……これは一寸話しにくいことですが……僕の性慾が可なり弱かった――友人等にそれとなく聞き合して比較してみると、非常に弱かったということです。生理的の欠陥があるとは自分で思ってはしませんが、兎に角、僕は普(なみ)外れて性慾が弱いようです。所が、夫婦生活には、この性慾ということが可なり重大な条件らしいのです。大抵の女は、性慾の飽満を与えらるれば、それで自分は愛せられてるのだと思うものです。
 所で……こういう風に停滞していては仕末に終えませんから、物語だけをぐんぐん進めましょう。
 妻は僕と沢子との間を、ひそかに窺いすましていたらしいです。沢子から手紙が来ると、「あなたの恋人から……、」などと云い出したものです。「手紙よりも、じかに逢っていらっしゃい、許してあげますから、」などと云い出したものです。「馬鹿!」と僕は一言ではねつけましたが、彼女の眼付がいやに真剣になってるのを感じました。
 そのうちに、馬鹿げたことが起ったのです。僕達はごく稀に、絵画展覧会や音楽会などへ行くことがありました。そして……十一月でしたか――丁度昨年の今頃です――僕は何の気もなく或る音楽会の切符を、妻と二人分だけ前以て買いました。考えてみると、妻が肺炎になってから後二人で出歩くのは、それが初めてだったのです。その前日から丁度、道子――長女の道子が、感冒の様子で少し熱を出していました。然し大したことでもなさそうだし、折角切符まで買ってあるのだからというので、女中によく道子のことを云い含めて、僕達は出かけたのです。音楽会は、ピアノとヴァイオリンとで、演奏者の顔も相当によく揃っていて、可なり成功の方でした。
 その帰り途です。寒い風が軽く吹いて、月が輝っていました。濠に沿った寂しい道を、僕達は少し歩きました。晴着をつけお化粧をしてる妻と並んで歩くのが、僕には変に珍らしく不思議だったのです。暫く黙って歩いていましたが、妻は急に慴えたような声で、「道子はどうしてるでしょう?」と云ったものです。その時、僕の心のうちに、非常な変動が起りました。何かしらもやもやとしたものが消えてしまって、凡てがまざまざと浮んできたという感じです。自分が如何に勝手なことをしていたか、彼女を如何に苦しめていたか、彼女と自分とが如何に遠く離れてしまったか、というようなことを、しみじみと感じたのです。僕の胸は涙ぐましい思いで一杯になりました。僕は低い声で、自分自身に云ってきかせるかのように云いました。
「節子、何もかも許してくれ。僕がみんな悪かったのだ。僕はどんなにお前を苦しめたろう! そしてまたどんなに自分自身を苦しめたろう! 僕の心は誤った方向へ迷ってたのだ。今僕には何もかもはっきり分った。僕はお前を本当に愛してる。あの……沢子さんと交際するのがお前につらいなら、僕はこれから断然交際を止めてしまおう。それが本当なのだ。もう往き来もしなければ、手紙も出すまい。僕はそれを誓う。誓って絶交してみせる。ねえ、これで何もかも許してくれ。節子、二人だけの途を進もうじゃないか。」
 妻は泣いていました。僕も涙ぐんでいました。そして何かに感謝したい心で一杯になっていました。
 僕は後で考えてみて、どうしてその時そう感傷的な心地になったのか、自分でも不思議なくらいです。実際、それから家に帰ってきて、すやすやと眠ってる道子を見出して、ほっと安心した気持で妻と顔を見合した時、僕は自分でも変に気恥かしかったのです。とは云え、その感傷的な心地のうちにこそ、僕の本当の魂があったのかも知れません。
 けれどもそのことから、事情は急に険悪になったのです。宛もそうなるのが運命ででもあるように、一歩々々破綻へ押し進んでいったのです。そして僕自身は、余りにうっかりしていました。
 僕は妻へ誓いはしたものの、どうしても沢子のことを忘れる――心の外へ追い出すことが出来なかったのです。その上、妻と僕との間は、また以前通りの冷たいものになってしまったのです。あの音楽会の晩は、云わば燃えつきる蝋燭の最後の焔みたいなものでした。そのために却って、僕達の間は一層陰鬱になったのです。そして僕はそれを元へ引戻そうとは努めずに、沢子の面影へばかり心を向けたのです。
 僕は妻へ内密(ないしょ)で手紙を書きました。勿論内容は何でもないことばかりを選んだのですが、度数は前より多くなりました。沢子からも年内に一度手紙が来ました。一度は自身で訪ねてきました。そして、神話の原稿も可なり続いたから、正月号から暫く休むという社の意向だと、済まなさそうに僕へ告げました。僕が妙に黙り込んでるので、暫くして帰って行きました。
「神話の原稿も当分いらないそうだから、これで沢子さんとの交渉も絶えるわけだよ。」
 そんな白々しいことを、いくらかてれ隠しの気味もあって、僕は妻へ云ったものです。妻は僕の方をじろりと見て、「そうですか、」と冷淡に云っただけでした。
 それから正月になって、僕は手紙を書いてる現場を妻から押えられたのです。霙交りの風が物凄く荒れてる夜でした。風の音に聞入りながら沢子のことを考えてると、何とも云えない悲愴な気持になって、こまこまと而も要所を外した文句で手紙を書き初めました。その時妻がふいに僕を襲ったのです。恐らく彼女は虫が知らしたとでもいうのでしょう。いつもは子供を口実に早くから寝てしまって、夜遅く僕の書斎へやって来るなどということは、殆んどなかったものです。所がその晩に限って嵐の音に乗じて夜更けに僕を襲った――そういう風に僕は感じたのです。襖の開く気配に振返ってみると、何かを狙いすますような眼付で、足音も立てずに僕の方へ守って来るじゃありませんか。僕は喫驚して……或る神秘的な恐怖を感じて、いきなり立上ったものです。その様子がまた、彼女には異様に思われたに違いありません。彼女は一瞬のうちに凡てを悟ったらしいのです。いきなり書きかけの手紙を掴んで、これは何です? と聞いたのです。僕はどうすることも出来ませんでした。
 それから、痛ましい場面が起りました。妻は口惜し泣きに泣きながら、僕へがむしゃらにつっかかってきました。わざわざ年賀状まで出しておいてすぐに……と云うんです。実は、僕は沢子へ年賀の葉書を書いて、これだけはいいだろうと妻へ見せたのでした。つまらない技巧を弄したものです。それから、妻は僕の手紙の文句を一々切り離して、例えば「この荒凉たる冬のように私の心も淋しい……春の柔かな息吹きを望んでいます……ともすると生活が嫌になります……理解ある友情が人生に於ての慰安です……」などという言葉……前後の文脈にうまく包み込まれてはいるが、僕の切ない心が影から覗いてるような言葉、それだけを一々取上げて、僕を責め立てるんです。次には、音楽会の帰りに自分から誓っておいて! ……あれも私を瞞着するためのお芝居だったのでしょう、と云うんです――その点に彼女は最も力を入れていました。それから始終隠れて逢ったり文(ふみ)をやりとりしていらしたに違いない、などと……。其他、僕は一々覚えてはしません。彼女は恐ろしく興奮していましたし、僕も非常に興奮していました。そして、いきり立った彼女の前に、僕は何という醜い卑怯な態度を取ったことでしょう! 反抗の心がむらむらと起ってくるのを強いて押えつけて、ありもしない涙まで搾り出して、彼女の前に奴隷のように哀願したのです。今後の行いで証(あかし)を立てると誓ったのです。
 其場はそれきりに終りました。僕はそのために、何とか片をつけなければならない事情にさし迫ったのを、はっきり感じました。そして、片をつけるためと称しながら、とんでもない途へ進んでいったのです。
 僕は妻の目を偸んで、沢子へ長い手紙を書きました。――私はあなたへ一切を告白しなければならない、というのを冒頭にして、いつとはなしに彼女を愛していたこと、彼女の面影が自分の心に深く刻みつけられてること、その彼女は、遠くを見つめるような澄み切った眼でいつも自分を見つめていて、理解のあるやさしい心で自分を包んでくれる、晴々とした自由な純潔な少女――この少女というのが大切なんです――少女であること、そして、自分は妻と二人の子供まである身でありながら、不自然だとは知りながら、そして妻を愛していながら、どうしても彼女の面影を払いのけ得ないこと、などを長々と書きました。次に、妻との間が気まずくなってることを少し書きました。それから、けれど自分は今長い苦しみの後に、或る晴々とした所へ出られた、危険の恐れなしにあなたと交際し得られる自信がついてる、やがては妻の心も解けて、あなたのお友達になるかも知れないと思う、というようなことを書き、但し当分のうちだけは訪問を止してほしい、そして士官学校宛に手紙を頂きたい、と述べておいて、けれども私の告白があなたに不快ならば、あなたに苦しみをかけるならば、このままお別れするか否かは、あなたの自由にしてほしい、と手紙を結んだものです。
 実際僕は、他愛もないことを空想していたのです。自分の愛を葬ってしまって、彼女と普通の交際を続け、やがては妻をも加えて、三人で親しい友達になる、というのです。そして、士官学校では手紙を自宅へ回送しないで取って置いてくれるものですから、そちらへ手紙を貰うことにしたのです。……それから、僕の心持のうちには、自縄自縛する気もあったでしょうし、凡てを彼女の手中に託して捨鉢になる気もあったでしょうし、其他何だか自分にも分りはしません。
 やがて彼女から返事が来ました。――私は先生をなつかしいやさしい方として、兄のように、叔父のように、……いえやはり先生といった気持で、おしたいしていたのですが、それが、自分の不注意から、奥様の御心を害(そこな)ったのを、しみじみと恥じられ悔いられてなりません。お許し下さいませ。これから御交際を続けるかどうかについては、随分考えましたけれど、先生も危険がないと仰言いますし、私の方も危険なんか感じられませんから、やはりお交りしても差支えないだろうと存じます。奥様を偽ることは悲しいけれど、やはりこれまで通り、先生として親しまして下さいませ。……と云った要領の手紙でした。
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