野ざらし
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著者名:豊島与志雄 

「詩人!」
 昌作は何故となく喫驚した。
「私あなたの詩を覚えてるわ。」
「僕の詩だって?」
「いつか酔っ払っていらした時、私に書いて下すったじゃないの。淋しければっていう題の……。」
「知らないよ。」と昌作はぶっきら棒に云った。覚えてるようでもあれば、覚えていないようでもあったが、何だか心の傷にでも触(さわ)られるような気がしたのである。
「じゃあ云ってみましょうか。初めの方は覚えていないけれど、最後のところだけちゅうに知っててよ。
[#以下3字下げ]
吾が心いとも淋しければ、
静けきに散る木の葉!
あわれ日影の凹地(くぼち)へ
表か?……裏か?……
明日(あす)知れぬ幸(さち)を占うことなかれ。
分って?」
 昌作は思い出した。それはまだ九州行きの問題が起らない前、或る晩すっかり酔っ払って、ふと沢子の許へ立寄った時、急に堪らない淋しさを覚えて、その頃作ったばかりの詩を一つ、分り易いように紙にまで書いて、云ってきかしたものだった。その三連から成る詩の、最後の一連だった。そのことが、非常に遠く薄れてる記憶の中から、今ぽかりと目近に浮上ってきた。昌作は顔が赤くなるのを覚えた、……けれど、何だか一寸腑に落ちない所があった。
 昌作は沢子にも一度その詩句を繰返さした。沢子は低い澄んだ声で繰返してから、彼の顔をじっと眺めた。
「一寸変でしょう。」
「ああ。おかしいな!」
 沢子はおどけたようなまた皮肉なような口つきをした。
「私ね、少うし言葉を変えたのよ、一日中考えて。御免なさい。いけなくなったかしら? でも、どうしてもうまくいかないのよ。一番終りの句ね、あなたのには、明日をも知れぬ幸を占う、とあったけれど……。」
「そうだ、明日をも知れぬ幸を占う、だった。……も一度君のを云ってくれない? 初めから。」
 沢子は自分自身に聞かせるかのように、細い声でゆっくり誦した。
吾が心いとも淋しければ、
静けきに散る木の葉!
あわれ日影の凹地(くぼち)へ
表か?……裏か?……
明日(あす)知れぬ幸(さち)を占うことなかれ。
 明日知れぬ幸を占うことなかれ! その感じが昌作の胸にぴたりときた。彼は次第に頭を垂れた。深い深い所へ落ちてゆく心地だった。それを彼は無理に引きもぎって、頭を挙げた。沢子はちらと眼を外らしたまま動かなかった。その顔を昌作は、初めて見るもののように見守った。広い額が白々とした面積を展(の)べていて、柔かな頬の線が下細りに細ってる顔の輪廓だった。薄い毳(むくげ)が生えていそうな感じのする少し脹れ上った唇を、歪み加減にきっと結んで、やや頑丈な鼻の筋が、剃刀を当てたことない眉の間までよく通り、多少尻下りに見えるその眉の下に、遠くを見つめるような眼付をする澄んだ眼が光っていた。今も丁度彼女はそういう眼付をしていた。それがかすかに揺いで、ふと二つ三つ瞬(まばた)きをしたかと思うまに、彼女はいきなり両の手でハンカチを顔に押し当てて、そばめてる肩を震わした。
 余りに突然のことに、昌作は惘然とした。そして次の瞬間には、もう我を抑えることが出来なかった。とぎれとぎれに云い出した。
「泣かないでくれよ。僕は苦しいんだ。実は……僕に必要なのは、仕事でもない、九州の炭坑でもない、或る一つの……そうだ、九州へ行くのが、暗闇の中へでもはいるような気がするのは……。」
 昌作が言葉に迷ってる時、沢子は急に顔のハンカチを取去って、彼の方をじっと眺めた。その表情を見て、昌作は凡てを封じられた気がした。彼女の顔は、眼に涙を含みながら、冴え返ってるとも云えるほど冷たくそして端正だった。彼女は静かな声で云った。
「佐伯さん、あなた宮原さんにお逢いなさらない? 私紹介してあげるから。」
 昌作は咄嗟に返辞が出来なかった。余りに意外なことだった。
「逢ってごらんなさい。岐度いいわ。」
 残酷な遊戯だ! という考えがちらと昌作の頭を掠めた。けれど、率直な純な光に輝いてる彼女の眼を見た時、信念……とも云えるような或る真直な心強さを、胸一杯に覚えた。彼は答えた。
「逢ってみよう。」
「そう、岐度ね。二三日うちに、四五日うちに、……午後……晩……晩がいいわね。向うからいらっしゃることはないけれど、用があるってお呼びすれば、岐度来て下さるわ。」
 沢子は如何にも嬉しそうに、顔も声も調子も晴々としていた。昌作はそれに反して、深い悲しみに襲われた。しつこく黙り込んで、顔を伏せて、身動き一つしたくなかった。いつまでもそうしていたかった。沢子も云うことが無くなったかのように黙っていた。
 けれど昌作は、やがて立上らなければならなかった。階段に乱れた足音がして、三人連れの客が現われた。
「おい、珈琲の熱いのを飲ましてくれよ。」
 沢子はつと立ち上ってその方を振向いたが、すぐに掛時計を仰ぎ見た。
「もう遅いじゃありませんか。」
「なあに、十一時にはまだ十五分あらあね。君は僕に、一晩に三十枚書き飛ばさしたことがあったろう。因果応報ってものだよ。」
 奥から春子が出て来たのと、沢子は何やら眼で相談し合った。春子が何か云うまに、客達はもう向うの卓子に坐っていた。
 昌作はそれらの様子をぼんやり見ていた。沢子と彼等との挨拶ぬきの馴々しい調子に、一寸不快の念を覚えた。それから、彼等のうちの、一人が、何事によらず自分の見聞をそのまま小説に綴る有名な流行作家であることを、見覚えのあるその顔で認めて、可なり嫌な気がした。彼は沢子がやって来るとすぐに立上った。沢子は声を低めて云った。
「二三日か一週間か後にね、私電話をかけるから、それまで外に出ないで待ってて下さいよ。」
 昌作は首肯(うなず)いた。

     三

 昌作は奇蹟をでも待つような気で、宮原俊彦に逢うのを待った。それは全く思いもかけないことだった。昌作が聞き知ってる所に依れば、宮原俊彦は沢子との恋のいきさつによって、二人の子供まである妻君と別れ、而も沢子と一緒にならずに、今では単なる友人として交際してると云う、謎のような人物だった。そういう俊彦に、沢子へ恋してる昌作が、沢子の紹介によって逢うということは、何としても意外だった。然し昌作は、自分自身をもてあつかって、半ば自棄的な気持に在った。何か事変ったものがあれば、尋常でないものがあれば、それへすぐに縋りついてゆき易かった。と云ってもそれは、好奇心からではなかった。否彼には好奇心は最も欠けていた。ただ何かしら、心に或る驚異を与えてくれるもの、情意を或る方向へ向けさしてくれるもの、云い換えれば、一定の視点を与えてくれるもの、それを欲しがっていたのである。そして彼は、変な風に落ちかかってきた宮原俊彦に逢う機会を、奇蹟をでも待つような気で待ちわびた。宮原俊彦に逢うことが、もしかしたら、沢子が云うように、自分のためにいいかも知れない。少くとも、沢子の以前の(?)……恋人に逢うことは、途方にくれてる自分に何物かを与えてくれるかも知れない。……
 昌作は出来る限り家の中に閉じ籠った。宮原俊彦に逢うまでは、誰にも逢うまいと心をきめた。片山夫妻へは四五日の猶予を約束していたけれど、どうせ今までぐずぐずしていた以上は、もし二三日後れたとて構うものかと思った。
 二三日か一週間外に出ないで待っていてくれ、という沢子の馬鹿げた命令を思い出して、昌作は半ば泣くような微笑を浮べながら、その命令を守り初めた。そして彼の所謂、猫と一緒の「猫の生活」が、幾日か続いた。
 それほどの寒さでもないのに、八畳の真中に炬燵を拵えて、□の所までもぐり込んだ。胸に抱いてる猫の喉を鳴らす声が低くなってくると、彼の意識もぼやけてきた。夢をでもみるような気で室の中を眺めた。窓近くの机や本箱のあたりに、彼の生活の断片が雑居していた。友人の世話で引受けてる陸軍省の安価な飜訳……徒らに書き散らしてる詩や雑文の原稿……盛岡で私淑していたフランス人の牧師から貰った聖書(バイブル)……ファーブルやダーウィンなどの著書……重にロシアの小説の飜訳書……和装の古ぼけた平家物語……それからいろんなこまこましたもの。昌作はそれらをぼんやり眺めたが、いつしか眼が茫としてきて、うとうととしかけた。なにか慴えたようにはっと眼を開いて、またうとうととした午後の二時頃から、縁側の障子に日が射して来た。炬燵の中からむくむくと猫が起き出して、一寸鼻の先を掛布団の端から覗かしたが、いきなり室の真中に這い出して、手足を踏ん張り背中を円くして、大きな欠伸(あくび)をした。昌作も何ということなしに起き上った。炬燵の温気に重苦しい頭痛がしていた。何か重大なことでも忘れたように、眉根を寄せて一寸考え込んだ。それからはっと飛び上った。淋しければという詩のことを思い出した。けれど、机の前に行って本箱の抽出の原稿に手を触れる時分には、深い憂鬱が彼の心を領していた。……明日(あす)知れぬ幸(さち)を占うことなかれ……沢子がなおした詩句を口の中で繰返しながら、詩稿を一つ一つ眺めてみた。三文の価値もない自分の残骸がごろごろ転ってる気がした。胸では泣きたいような気持になりながら、顔には自嘲的な皮肉な微笑が漂った。彼は詩稿をごたごたに抽出にしまって、読みつくした新聞をまた取上げた。打ちかけの碁譜がついていた。目(もく)の数を辿りながら読んでいった。終りまでくると、碁盤を引寄せて譜面通りに石を並べ、その先を一人でやってみた。一寸した心の持ちようで、白が勝ったり黒が勝ったりした。そんなことを何度もやり直した。炬燵の上に飛び上って、顔を撫でたり足の爪の間をかじったりしていた猫は、此度は其処に蹲って、両の前足を行儀よく揃えて曲げた上に□をのせ、碁盤の白と黒との石が入り乱れて一つずつ殖えてゆくのを、珍らしそうに、而も退屈しのぎといった風に、ぼんやり眺めていた。うっとりした瞳の光が静に静に消えてゆくのを、少し強く石の音が響く毎に、またはっと大きく見開いた。その様子を昌作は振返って眺めた。猫も彼の顔を無心に見上げた。彼は碁盤を押しやり、炬燵の中に足を投げ出し、火鉢の縁と膝頭とに両肱をつき、掌で□を支えながら、暮れかかってゆく黄色い日脚を、障子の硝子越しに眺めた。猫はぶるっと一つ身を震わし、彼の膝の上にのっそり這い込んで、いずまいを直しながら、前足の間に首を挟み円くなって眠った。虎斑(とらぶち)のその横腹が呼吸の度に静に波打ってるのを、昌作は暫く見ていたが、やがてまた顔を上げて、障子の硝子から外に眼をやりながら、底に力無い苛立ちを含んだ陰鬱な夢想に、長い間浸り込んだ。
 けれど夜になると、その夢想の底の苛立ちが表面に現われてきて、彼を自分の室に落着かせなかった。何か思いもかけないことが今にも起りそうだった。沢子から今にも電話がかかって来そうだった。その、今にも……今にも……という思いが、彼の凡てを揺り動かした。その上彼の室は、この旅館兼下宿の、下宿の部と旅館の部との間に挟っていて、一時滞在の田舎客の粗暴な足音が、夜になると共に煩く聞えてきた。
 十分ばかりの間じっと我慢した後、昌作は急に立上った。彼が食事の時にいつも与えることにしていた練乳(コンデンスミルク)の溶かしたのを、室の隅でぴちゃぴちゃ舐め終った猫が、なお物欲しそうに鼻をうごめかしてるのを、彼はいきなり胸に抱き上げて、慌しい眼付で室の中をぐるりと見廻してから、それでもゆっくりした足取りで出て行った。帳場の室に猫を押しやり、話しかける主婦(かみ)さんの言葉には碌々返辞もせずに、自分の用だけを頼んで――柳容堂からと云って電話がかかったら、つないだまま知らしてほしい、他の電話や訪客には一切、不在だと答えてほしい――と頼んで、二軒置いた隣りの撞球場(たまつきば)へ行った。球をついてるうちにも、始終何かが気にかかったけれど、別に仕方もなかったので、つまらないゲームに時間をつぶして、夜更けてから下宿に帰った。帰ると先ず何よりも、電話の有無を女中に尋ねて、それから冷い心で自分の室にはいった。
 四日目の午後から晩へかけて、片山からという電話が三四度かかった。一度は女中が撞球場までやって来て、昌作の意向を聞いた。探したけれど分らないと云ってくれ、と昌作は答えた。凡ては宮原俊彦に逢ってから! ということが、いつしか彼の頭の中に深く根を張っていた。逢って何になるかは問題でなかった。ただ一生懸命に待ってるために、昌作は知らず識らずそれに囚われていたのである。其他のこと一切は、憂鬱で億劫だった。
 そして偶然にも、丁度その晩八時頃柳容堂からの電話を女中が知らして来た時、昌作は突棒(キュー)を置いてゲーム半ばに立上った。午後から風と共に雨が降り出していた。昌作は傘を手に握ったまま雨の中を飛んで帰った。電話口に立つと、覚えのある沢子の声がした。
「あなた佐伯さん?……じゃあ、すぐに来て下さいよ。今ね……いらしてるから。他に誰もいないわ。すぐにね。」
「今すぐ出かけるよ。……そして……。」
 昌作が何か云おうとするのを待たないで、沢子は「すぐにね」を繰返して電話を切ってしまった。
 昌作は自分の室に戻って、一寸身仕度をして出かけた。
 大した風でもなさそうだったが、雨は横降りに降っていた。油ぎった泥濘が街灯の光を受けて、宛も銀泥をのしたようにどろりとした重さで、人影の少い街路に一面に平らに湛えてる上を、入り乱れた冷たい雨脚が、さっさっと横ざまに刷いていた。昌作は傘の下に肩をすぼめて、膝から下は外套の裾で雨を防いだ。電車に乗っても、背筋から足先へかけて冷々(ひえびえ)とした。
 途中で一度電車を乗り換え、柳容堂の明るい店先へ近づくに従って、昌作は自分の地位を変梃に感じ初めた。この四五日の間あれほど一生懸命に待っていて、そして今雨の降る中を、宛も恋人ででもあるように夢中になって逢いに行くその当の宮原俊彦が、一体自分にとって何だろう? そして自分は彼にとって何だろう? 二人は逢ってどうしようというのか? 而も沢子の面前で……。泣いてよいか笑ってよいか形体(えたい)の知れない感情が、昌作の胸の中一杯になった。それでも彼は行かなければならなかった。
 柳容堂の二階へ通ずる階段に足をふみかけた時、昌作は殆んど無意識的に顧みて、爪革に泥のはねかかってる古い足駄が一足、片隅に小さく脱ぎ捨ててあるのを見定めた。それから階段を、一段々々数えるようにして上って行った。
 二階に上って、第一に彼の眼に止ったものは、室の両側の壁にしつらえてある可なり贅沢な煖炉の、一方のに赤々と火が焚かれてることだった。その煖炉の前の卓子に、長い頭髪を房々と縮らした一人の男と沢子とが、向い合って坐っていた。
 昌作の姿を見ると、沢子はすぐに立上って、二三歩近寄ってきたが、其処にぴたりと立止って、サロンの女主人公といった風な会釈をした。それから彼を煖炉の方へ導いて、殆んど二人へ向って云った。
「先生よ。」
 その先生という言葉が、昌作の耳に異様に響いた。がそれよりも変なのは、初めて見る宮原俊彦の顔に、彼は何だか見覚えがあるような気がした。頬骨の少し秀でた、頬のしまった、髯のない、色艶の悪い顔、痩せた細い首、そして縮れた髪の垂れてる額の下から、近眼鏡の奥から、大きな眼が輝いていた。何処ということはないが、重にその眼に、昌作は古い見覚えがあるような気がした。
 もじもじしてるうちに、沢子が横手の椅子に腰を下ろしてしまったので、昌作は仕方なしに、一つ不自然なお辞儀をしておいて、俊彦と向い合って坐った。
「宮原です。」と俊彦は云った。「どうぞよろしく……。君のことは沢子さんから聞いてはいましたが……。」
 いきなり君と呼ばれたことと沢子さんという言葉とが、また昌作を変な気持にさした。
「私もお名前は伺っておりました……。」
 昌作はそう鸚鵡返しに答えてから、へまな挨拶をしたという気まずさのてれ隱しに、濡れた冷たい足袋の足先を煖炉の火にかざした。
「そんなに降ってるの?」と沢子が云った。
「雨はそうひどくないが、横降りなんだから……。」
「そう。御免なさい。」と彼女は雨の責任が自分にあるかのような口を利いた。
「その代り何か温まるものを持ってきてあげるわ。」
 昌作がいつもあつらえる珈琲とコニャックとを取りに、沢子が立って行った時、俊彦は落着いた調子で云った。
「沢子さんの気まぐれにも困るですね。是非やって来て君に逢えって、殆んど命令的な手紙を寄越すんですからね。こんな天気に済みませんでした。けれど、僕は何だか、君も御承知でしょうが、他に大勢客が居そうな時には、一寸来難いもんですからね。それでわざわざ、雨の降る寒い晩なんかを選んだのです。」
 別に云い渋るのでもないらしい自然な声で、真正面を向いたままそう云われて、昌作は一寸返辞に迷った。けれど、非常にいい印象を受けた。ややあって不意に云った。
「私も、他に客の居ない方がいいんです。あなたにお目にかかるのを非常に待っていました。」
 俊彦はそれを聞き流しただけで、煖炉の火に眼を落した。
 二人はそのまま黙っていた。暫くして沢子は、珈琲を二つとコニャックを一杯持って来て、珈琲の一つを俊彦の前へ差出したが、別に何とも云わなかった。昌作は眼を挙げて、彼女の様子がいつもと違ってること、何か変に気持をこじらしてることを、見て取った。それが彼の心を暗くした。沈黙が長引くほど苦しくなってきた。その沈黙を破るべき言葉を探し求めたが、なかなか見つからなかった。すると、不意に沢子が云い出した。
「佐伯さん、あなた九州行きはどうして?」
 昌作は答える前に、俊彦の顔をちらりと見た。俊彦はまじろぎもせずに煖炉の火を見つめていた。
「まだあのままさ。」と昌作は答えた。
 そして俄に彼の心に、或る何物へとも知れない憤懣の念が湧き上ってきた。片山からの電話を三四度も素気なく放りっぱなしにしたことが、何か取り返しのつかない失体のように頭を掠めた。宮原俊彦に逢って何をするつもりだったのか?「沢子の気まぐれ」からここまで愚図々々引っ張られて来た自分自身が、なさけなく怨めしかった。沢子に恋しておればこそ!…… そして沢子は、その恋を知りつつどうするつもりなのか?
 昌作が次第に首を垂れて考え込んでるうちに、沢子は俊彦の方へ話しかけていた。
「先生、私松本さんの所で、やはりお弟子の小林さんて方と、議論をしましたのよ。」
「何の?」と俊彦は顔を挙げた。
「いつか先生が手紙に書いて下すったでしょう、初めのうちは出来るだけ自己を画面に出しきるがよい、腕が進んでくるに従って、次第に自己が画面から消えて、偉い作品が出来るものだって。私がそう云うと、小林さんはまるで反対の意見なんでしょう。初めは自己を画面には出していけない、腕が進んでくるに従って、本当の自己が画面に現われてきて、立派な作品が出来るものですって。それでさんざん議論をしても、とうとう分らずじまいですから、しまいには松本さん所へ持ちこみましたのよ。」
「すると?」
「何とも仰言らないで、ただ笑っていらしたわ。好きなようにやるがいいだろうって。屹度御自分にもお分りにならないんでしょう。」
「うまく軽蔑されたもんですね。」
「あら、誰が?」
「あなた達がさ。あなた達のその議論は、第一自己というものの見方が違ってるから、いつまで論じたってはてしがつきませんよ。」
「そう、どうしてでしょう?」
「どうしてだか、僕にもお分りになりませんね。……そんなことより沢子さん、僕に絵を一枚くれる約束じゃなかったですか。」
「あら、先生に差上げるようなもの、まだ出来やしませんわ。」
 昌作は突然口を出した。
「沢ちゃんの群像って話をお聞きになりましたか。」
 その声が、昌作自身でも一寸喫驚したくらい大きかったが、俊彦は別に大して気を惹かれもしないらしく、ただ眼付きだけで尋ねかけてきた。それを沢子は引取って云った。
「あら、そんなでたらめなことを先生の前で……。嘘よ、嘘よ。」そして彼女は何かに苛立ったかのように次第に早口になりながら、而も真面目だかどうだか見当のつかない調子で、云い続けていった。「私記者なんかしたものだから、ここに居てもいろんなことを人に云われて、ほんとに嫌になってしまうわ。誰にも顔を合せないで、一人っきりでいられる仕事はないものかしら? 一日自分一人で黙っていて、勝手なことばかり考え込んでおられたら……。あなたなんか、ほんとに羨ましいわ。何にもしないで猫のような生活だなんて! 私もう何もかも放り出したくなることがあってよ。田舎へ帰っちまおうかなんて考えることがあるのよ。何をするのにも、人からじっと見られたり、余計な邪推をされたりして……私そんな珍らしい人間でしょうか? どこか、誰からも離れてしまった所へ、自分一人きりの所へ、逃げて行ってしまいたいわ。井戸の中みたいな所へ……。深い井戸を見るとね、あの底へ飛び込んだら、自分一人きりになって、静かで、ほんとにいいだろうと思うことがあるわ。」
 昌作はそれを、沢子の言葉としては可なり意外に感じた。彼女はいつも、何にも仕事がないという昌作を不思議がっていたではないか。彼は彼女の顔を見守った。
「そして、井戸の底に水がなかったらなおいいでしょうがね。」と俊彦は云った。でもその調子は別に皮肉でもなかった。
「あら、先生も随分よ。私水のある井戸のことなんか云ってやしませんわ。」
「じゃあ、初めから水のない井戸のことですか。」
「ええ。」
「でもね、逃げ出す方に捨鉢になるのは卑怯ですよ。戦う方に捨鉢にならなくちゃあ……。」
 その言葉に、昌作は一寸心を惹かれて、じっと俊彦の眼を見やった。俊彦はちらりと見返してから云った。
「君は何にもすることがないんですって? いいですね。」
「佐伯さんは、」と沢子が云った、「何にもすることがなくて困るんですって。」
「することがなくて困るというのは、なおいいですね。僕も賛成しますね。」
 昌作は先刻から、俊彦の言葉に妙に皮肉があることに気付いていた。けれどもそれは単に言葉の上だけのもので、彼自身の心持は少しも皮肉ではなく、却って率直で真面目であることをも、よく気付いていた。それで今、彼の言葉に対して苛立たしい不満を覚えた。つっかかってゆきたくなった。
「私は実際困ってるんです。」と昌作は云ってのけた。「自分には何だか生活がないような気がして、始終憂鬱な退屈な心持になってきます。晴々とした空が私にはないんです。」
「では何か仕事を見付けたらいいでしょう。」
「見付けたいんですが、それがなかなか……。」
「然し君は、一体何をするつもりですか。」
 突然の、そして自分でもよく考えたことのない、きっぱりした問だったので、昌作は一寸面喰った。俊彦はその顔をじろじろ見ながら、自分自身でも考え考え云うかのように、ゆっくり云い続けた。
「仕事を見付けるということも大切でしょうが、それよりも、何をするかという、その何かを見出すのが、更に大切ではないでしょうか。誰にでも、何でもやれるものではないでしょう。先ず何をやるか、それからきめておいて、云わば生活の方向をきめておいて、それから初めて仕事を探すべきでしょう。そうでないと、どんな仕事がやって来ても、取捨選択に迷うばかりで、手が出せやしませんからね。」
「然し私には何をやってよいか、それをきめる力が自分にないんです。」
「そりゃあ勿論誰にだって、自分が何をやるべきかは、なかなか分るものではないでしょうけれど、ただ漠然と生活の方向といったようなものは、誰にでもあるものですよ。」
「ですが……その方向を支持してくれる力が第一に……。」
「力なんて、」と突然沢子が言葉を拝んだ、「気の持ちようじゃありませんかしら?」
「気の持ちようか、または心の向け方か、そんなものかも知れませんね。」
 がその時、不思議にも、深い沈黙が俄に落ちかかってきた。三人共云い合したように、ぴたりと口を噤んでしまった。何故だか誰にも分らなかった。各自に自分々々の思いに沈み込んで、そして妙に精神を緊張さしていた。昌作はそれをはっきり感じた。沢子は遠くを見つめるような眼付を、卓子の白い大理石の面に落していた。俊彦はしまった頬の筋肉をなお引緊めて、煖炉の火に見入っていた。昌作は眼を伏せて腕を組んだ。顔をそむけて心で互に見つめ合ってるがようだった。三人の状態がこのままでは困難であること――それでいて妙に落着き払ってること――一寸何かの動きがあれば平衡が破れそうなこと――そして今にも何か変な工合になりそうなこと、それがまざまざと感ぜられた。昌作は苦しくなってきた。動いてはいけないいけないと思いながら、我知らず立上って室の中を歩き出した。涙がこぼれ落ちそうな気がした。窓の所に歩み寄ると、硝子に小さな雨滴がたまっていて、街灯の光にきらきら輝いていた。雨は止んだらしく、澄みきって光ってる冷たい空気が、寂しい街路に一杯湛えていた。おかしなことには、いつまで待っても電車が通らなかった。昌作は次第に顔を窓に近寄せていった。息のために硝子がぼーっと曇ってきた。
「佐伯さん!」
 呼ばれたので振返ると、沢子が下り加減の眉尻をなお下げて、眼をまん円くして、彼を招いていた。彼は戻っていった。
「あなた今日は、ちっともお酒をあがらないのね。」
「なに、やるよ。」
「君は沢山いけるんですか。」と俊彦が尋ねた。
「それほどでもありません。」
「うそよ。私度々あなたの酔ってる所を見たわ。」
「酒に弱いから酔うんだよ。……そしてあなたは。」
「僕は泥坊の方で、いくら飲んでも酔わないんです。その代り、時によると非常に善良になってすぐ酔っ払うんです。」
「先生は酔うと眠っておしまいなさるんでしょう。」
「沢ちゃんを一度酔っ払わしてみたいもんだな。」
「そう。」と俊彦が愉快そうに叫んだ。「そいつは面白いですね。」
「大丈夫ですよ。私も泥坊になるから。」
 そんな他愛もない話が順々に続いていった。一瞬前の緊張した気持は、いつしか何処かへ飛び去ってしまっていた。年来の友であるような親しみが、落着いたやさしい親しみが、三人を包んでいた。昌作はふと、自分がどうしてこう俄に安易な気分になったか、自ら怪しんでみた。そして、そのことがまた彼の心に甘えてきた。
 けれど、そういう会話は長く続かなかった。派手なネクタイに金剛石(ダイヤ)入りのピンを光らしてる会社員風の男が一人、音もなく階段[#「階段」は底本では「躊段」]から現われてきて、煖炉の方をじろじろ眺めながら、暫く躊躇した後、向うの隅の卓子に腰を下して、しきりにこちらを窺い初めた。それを一番に不快がりだしたのは、俊彦らしかった。彼は次第に言葉少なになり、はては上半身を煖炉の方へねじ向けてしまった。洋服の男は、出て行った春子と懇意な者らしく、暫く冗談口を利いていた。その声が馬鹿に低くて、昌作の方へは聞き取れなかった。それから男は、一人で珈琲をなめながら、また執拗に昌作達の方を窺い初めた。今度は昌作までが不快を覚えた。男の方に背を向けてる沢子一人がぽつりぽつり口を利いていたけれど、やがて彼女も黙り込んでしまった。それからすぐに、役女が最も不機嫌になってきたらしかった。卓子の上に両肱を置いて、石のように固くなって動かなかった。
 やがて俊彦はふいに向き返った。
「少し外を歩きませんか。」
「そうですね……。」
 昌作は語尾を濁しておいて、何気なく沢子の顔に眼をやった。沢子は一寸眉根を動かしたきりで、やはりじっとしていた。その間に俊彦はもう立上っていた。そして彼が勘定を求めると、沢子は突然大きな声で――向うの男にも聞えるような声で――云った。
「今日のは宜しいんですわ。」
 彼女は唇の端を糸切歯の先でかみしめてきっとなった。そして、俊彦はつっ立ち昌作と沢子とは坐ったままで、一瞬間待った。昌作は何とかこの場を繕ろわねばならない気がした。
「沢ちゃん一人残して可哀そうね。」と彼は囁くように云った。
 沢子は眼を挙げて、昌作と俊彦とを同時に見た。その顔が今にも泣き出しそうなのを、昌作は深く頭に刻み込まれた。
「何れまた三人で話をしましょう。」
 俊彦はそう云い捨てて、帽子掛の方へ歩き出した。昌作も引きずられるように後へ続いた。階段の上から沢子が見送っていた。
 外に出ると俊彦は突然云った。
「僕はあの男に見覚えがあるんです。いつか、四五人一緒にやってきて、隣の卓子で、僕にあてこすりを云ったので……。」
 昌作には、俊彦がそれほど憤慨してるのを怪しむ余裕も、またその言葉に返辞をする余裕もなかった。泣き出しそうになっていた沢子の顔と、後で恐らく泣いてるかも知れない彼女の姿と、それから、俊彦に離れ得ないで犬のようにくっついてゆく自分の憐れな姿とが、彼の頭に一杯になっていた。
 空はどんより黝ずんでいたが、雨はもう霽れていた。屋根も並木も街路も、それから人通りさえ、凡てのものが雨に洗われて、空気の澄んだ寂寞とした通りを、少し気恥かしいほどの高い泥足駄で、二人はゆっくり歩いて行った。俊彦は暫くたってから、こんなことを云い出した。
「僕は何だか、運命といったものが信じられる気がしますよ。運命と云っても、人間自身の力でどうにもならない、所謂生れながら定まった宿命ではありません。自分の心と一緒に動く或る大きな力です。何か或る方向へ心を向けると、それと一緒に、同じ方へ、運命が動き出すように思えるのです。自分の信念の流れと運命の流れとが、一つになるといった気持です。それを思うと非常に僕は心強くなります。神の意志とでも、自然の反応とでも、人によっていろんな名前をつけるでしょうが、僕に云わすれば、天の交感ですね。その天の交感を、自分が荷ってるということが、はっきり感ぜられるようです。そして僕は、此度は反対に、その天の交感で……運命の動きで、自分の考えの正しいかどうかを見定めたいんです。心を或る方向へ向ける時、その向け方が本当のものである時には、岐度運命の同じ動きが感ぜられますし、向け方が間違ってる時には、それが少しも感ぜられないんです。正しいかどうかを問うんじゃなくて、本当か嘘かを問うんです。そして、そういう本当の心の方向へ進んでゆけば、結果はどうでも、常に悔いがないと僕は信じています。……君はそう思いませんか。」そして五六歩して、昌作の答えを待たないで、彼は俄に苛立った声で云い続けた。「勿論、先刻あすこから逃げ出した意向には、運命の動きなんか伴わなかったし、それかって、悔いも伴いはしませんが……。」
 昌作は我知らず微笑を洩した。
「けれどその反対に、あすこに残るとしましたら、その意向にもやはり、どちらも伴わないではないでしょうか。」
「そうです。腹を立てちゃ駄目ですね。」
 俊彦はじっと昌作の方を顧みて、五六歩すたすた足を早めた。それからまた足をゆるめながら云った。
「君は……僕は今晩沢子さんから聞いたんですが、九州の炭坑とかへ行こうか行くまいかと、迷ってるそうですね。」
「ええ。」
「そいつはどちらなんです?」
「どちらって?……」
「行く方と行かない方と、どちらに運命の動きが感じられますか。」
 昌作は答えに迷った。
「どちらにも感ぜられないんじゃないですか。」
「ええ。どちらにも感ぜられるようでもありますし、また感ぜられないようにも……。」
「それじゃあ、それも結局、柳容堂の二階に残ってるかどうかと、同じものですね。そして君も腹を立ててるという結論になるわけですね。」
 昌作は冷たいものを真正面からぶっかけられた心地がした。そして、凡てを一瞬間に失った心地がした。黙って唇をかんだ。それを知ってか知らずにか、俊彦は他のことを云い出した。
「腹を立てるのは止しましょう。……僕はね、これも運命の動きと同じ感じですが、初対面の人に対して、自分の友になれる人となれない人とを、はっきり感ずることがよくあるんです。君に対して僕は、失礼ですが、親しい友になれそうな気がするんです。……何処かで一杯やりませんか。」
「ええ。」と昌作は殆んど無意識的に答えた。
 俊彦は帯の間から、小さな銀側時計を引出して眺めた。昌作は何とはなしに、こんな場合に彼が時計を持ってるのが、不自然な気がした。
「もう遅いから駄目ですね。」そして俊彦は暫く考えていた。
「穢い家でも構いませんか、その代り酒は上等ですが。」
「どこでも構いません。」と昌作は答えた。何もかもなるようになれという心になっていた。
 電車通りを暫く行って、それから横町へ曲って、次に路次へ曲り込むと、みよしという小意気な行灯の出てる、繩暖簾の小さな家があった。狭い板の間に、大きい粗末な木の卓子が三つ並んでいて、銚子や皿の物を並べた膳を前に、洋服や和服の数人の客が散在していた。側の畳敷の、長火鉢の前に坐っている、黒繻子の襟の着物にお召の前掛をしめた、四十恰好のお上さんに、俊彦はいきなり言葉をかけた。
「遅くなってから済みませんが、二階の室を貸して貰えませんか。」
「まあ、宮原さん、」とお上さんは云った、「ほんとにお久し振りでしたこと。……ええ、散らかってますけれど、どうぞ。今片付けますから。」
 狭苦しい梯子段を上りきった所に、四畳半の室が一方に開いていた。室の中は散らかってる所か、殆んど何にもなくてがらんとしていた。後からお上さんがやって来て、足の頑丈な餉台や、火鉢や、座布団を並べながら、俊彦と二三人の人の噂を話していった。暫くすると、からすみ、このわた、蟹、湯豆腐、鮪のぶつ切り、など誂えの料理が、錫の銚子を添えて持って来られた。天井と畳が煤けて古ぼけてるわりに、障子の紙だけが真白だった。
「どうです、どうせ裏路なんですけれど、柳容堂の二階とは随分感じが違いますね。」
 そう云う俊彦の顔を、昌作はぼんやり見守った。彼の眼に俊彦は、柳容堂の時とは全く別人のように写った。
「何だか、変な気がしますね。」
 俊彦は黙って杯を取上げた。昌作も黙ってその通りにした。可なり更けたらしい静かな晩だった。膝頭から寒さがぞくぞく伝わってきた。二人共しつこく黙り込んで、杯の数を重ねた。俊彦は突然肩を震わした。
「全く変な気がする晩ですね。」
 余り長い間を置いてだったので、昌作はびっくりして、彼の眼を見入った。その時、古い見覚えがあるような眼付をまた見出して、はっと心を打たれた。俊彦はその眼付を、膝のあたりに落して云った。
「僕は打明けて云ってしまいましょう。実は、君をどうしてくれようかと迷っていたんです。どうしてくれようかって……つまり、君の味方になるか敵になるかということです。初め僕はあすこで、非常に素直な気持で君に逢えて嬉しかったんです。所が、あの嫌な男がやって来た時、ふとその一寸前の気分が――君が窓の所へ立っていった時の変梃な気分です……君にも分るでしょう……あの気分が妙にこじれて戻って来たんです。僕があの男に腹を立てたのも、そのためです。それから僕は、運命の動きなんてものを持出して、君が深く悩んでいる九州行きに結びつけて、一寸悪戯をやってみたのです。その上君をこんな所へ引張ってきて、僕は全く自分でどうかしていました。けれど、あの運命に対する信念と、人に対する最初の印象とは、僕の本当の考えです。云わば自分の信条で君をいじめてみたようなものです。」
 俊彦は深く眉根をしかめて、じっと考え込んだ。昌作は初めて彼の心へ本当に触れた気がした。凡てのことがぼんやり分りかけてきた。俊彦が今でもなお、沢子を愛していること、その愛に自ら悩んでいること、などが分ってきた。
 ややあって、俊彦はふいに顔を挙げた。眼が輝いて、いやに真剣な様子だった。昌作も自ずと襟を正すような心地になった。
「君は沢子さんをどう思います?」
 昌作は息をつめて返辞が出来なかった。俊彦はそれでも平静な調子で云った。
「僕にはあの女のことが、どうもはっきり分りません。何処か少し足りない所があるか、それとも何処か非凡な所があるか、そのどちらかでしょうね。」
「そうですね。」と昌作は漸く答えた。「そして、考え方が、突然意外なものに飛んでゆくので、私は喫驚するようなことがあります。」
「そんな所がありますね。……それから、君は沢子さんを、処女だと思いますか。」
 昌作は大抵のことは予期していたけれど、それはまた余りに意外な言葉だった。それに対する自分の考えをまとめるよりも、相手の気持を測りかねて、黙っていた。
「え、君はどう思います? 本当の所は……。」
「そうですね、私は……。」そして昌作は自分でも不思議なほどの努力で云った。「まだ処女だと思っています。」
 俊彦は深く息をついた。
「君がそう信じてるんでしたら、僕達の物語をお話しましょう。なぜなら、沢子さんを処女だと信じてる人にしか、この話は理解出来ないような気がするんですから。……僕はまだこんなことを誰にも話したことはありませんし、今後も恐らくないでしょうが、君にだけは、妙に話したくなったんです。ただ、誓って、君の胸の中だけにしまっといて下さいよ。」
 昌作はそれを誓った。俊彦は話しだした。そして初めから、二人共不思議に心が沈んできて、暗い憂鬱な気分に閉されたのだった。勿論俊彦の話は、その内容が理知的なにも拘らず、非常に早口になったり、一語々々言葉を探すようにゆるくなったり、前後入り乱れたり、間を飛び越して先へ進んだりして、可なり乱雑なものだったが、その大要は次の通りである。

     四――宮原俊彦の話

 今から二年半ばかり前のことでした。団扇(うちわ)を使ってたから、たしか夏の……初めだったと思います。その暑い午後に、婦人雑誌記者の肩書を刷り込んだ小さな名刺を、女中が僕の書斎へ持って来ました。僕はその橋本沢子という行書(ぎょうしょ)の字体をぼんやり眺めながら、客を通さしました。そして派手な服装(みなり)をした若い女――何故かその時僕は、記者にしては余りに若すぎると感じたのです、そんな理屈はないんですがね――その若い記者が、遠慮なく座布団の上に坐ってお辞儀をした時、僕も一寸会釈をしながら、「初めて……」と挨拶したものです。すると、彼女は頓狂な顔をして、僕をじっと見てるじゃありませんか。僕は変な気がして、「何です?」という気味合いを見せたのです。
「だって、私先生にはもう二三度お目にかかったことがありますもの。」
 そう云った彼女の顔を僕は見守りながら、その広い額と下細(しもぼそ)りの顔の輪廓と尻下りの眉の形とで、前に逢ったことを思い出したのです。それは間接の友人の中西の所でした。その頃僕の友人達の間に、花骨牌(はながるた)が可なり流行っていて、僕も時々仲間に引張り込まれたものです。それが大抵中西の家で行われた――というのは、中西の細君が、新らしい婦人運動やなんかに関係していて、まあハイカラな現代の新婦人で、男の連中と遊ぶのが好きだった――と云っちゃ変ですが、兎に角社交的な開けた性質なんですね。それで、友人と二人くらいで、外で晩飯を食って、詰らなくなって退屈でもしてくると、自然中西の家へ僕まで引張ってゆかれて、主人夫妻と一緒に花をやるといった工合です。僕もそういう風にして、何度か中西の家へ行ったものです。すると或る時、中西の細君が、「人数がも少し多い方が面白い、」と云って、階下(した)から女学生らしい女を呼んできました、それが沢子だったんです。勿論僕はその時、彼女に紹介されもしなければ、彼女の名前を覚えもしなかったですが――と云って、「今度は沢子さんの番よ、」などと云う言葉を耳にしたには違いないんですが、それが頭にも残らないほど、彼女の態度は……存在は、控え目で、そして遊びにも興なさそうだったのです。そんなことで二三度彼女に逢ったわけですが、そのうちに僕は自然忙しくもなるし、花にも興味を持たなくなるし、元々中西とは、花骨牌の席ででもなければ、殆んど逢うこともないくらいの間柄だったものですから、いつしか連中から遠退いて、従って、沢子に逢うことも無くなったし、彼女の存在をも忘れてしまったのです。
 所が、それから半年か……そうですね、一年とたたないうちに、彼女は雑誌記者として、ふいに僕の前に現われたのです。
「そうそう、中西さんの所でお目にかかりましたね。だが、雑誌記者たあ随分変ったものですね。」
 というような挨拶をして、それとなく、彼女の身の上を知ってみたいという好奇心が、僕のうちに萌しました。けれども彼女は当り障りのないことをてきぱきした言葉で述べながら――そのくせ、自分自身に関することについては妙に曖昧に言葉尻を濁しながら、僕の言葉をあらぬ方へ外らしてしまうんです。非常に明敏な頭を持ちながら、自分自身のことについてはまるで渾沌としてる……といった印象を僕は受けました。
 それから、来訪の用件に移ると、実は雑誌社にはいったばかりでまるで見当がつかないが、最初の原稿として何か面白いものを取って皆をあっと云わしてみたいから、神話に関する先生の原稿を是非頂きたい、と云うのです。僕が神話の研究者であることを、何処かで聞いていたとみえます。僕は承知するつもりで期日を聞きますと、一週間以内に是非と云うじゃありませんか。而もその一週間は、僕は学校の方の答案調べやなんかでとても隙がありません。
「それじゃお話して下さいませんかしら。私書きますから。」
 いつ? と尋ねると、只今、と云うんです。
 僕は苦笑しながら、兎に角話を初めました。フーシェンが山へ行って、恐ろしい姿のものを見て、石を掴んで投げつけると、その石が岩に当って火花を発し、その火が広い野原中に拡った、それがペルシャの拝火教のそもそもの火であるというようなことや、印度の火神アグニーは、枯木の材中に生命を得て来て、生れ出るや否や、自分の親である木材を食い尽そうとする、などというような、神話の起原と自然現象との分り易い関係の話を、少しばかりしてやりました。彼女は談話筆記は初めてだと云いながら、わりにすらすらと書き取っていましたが、一寸つかえると、僕が先へ話し進めるのをそのままにして、一言の断りもしないで、じっと僕の顔を見てるじゃありませんか。まるで女学校の生徒が先生の講義を筆記してるといった恰好です。僕は苦笑しながら、その引っかかってる所からまた話し直してやる外はなかったのです。
 用が済むと、彼女はさっさと帰って行きました。その後で僕は、彼女が団扇を手にしようともしなかったことと、暑いのに着物の襟をきちんと合してたことと、而も額には汗を少しにじましてたこととを、何故ともなく思い出したものです。
 僕がどうしてその日のことをこんなに詳しく覚えてるかは、自分でも不思議なくらいです。彼女が帰った後で、僕は非常に晴々とした気持になって、初めからのことを一々思い浮べてみた、そのせいかも知れません。
 が、こんなに細かく話してては、いつまでたっても話が終りそうにありませんから、これから大急ぎでやっつけましょう。その上、其後のことは僕の記憶の中でも、頗るぼんやりしていてこんぐらかっているんです。
 沢子が僕の談話を取っていってから、可なりたって、その雑誌社から雑誌を送ってきました。読んでみると、僕の話した事柄が、可なり要領よくそして伸びやかな筆致で書いてありました。これなら上乗だと僕は思いました。すると、丁度その翌日です。沢子が雑誌と原稿料とを持って飛び込んで来たものです。
「先生のお蔭で、私すっかり名誉を回復しましたわ。」
 何が名誉回復だか僕には分りませんでしたが、彼女の喜んでるのが僕にも嬉しい気がしました。雑誌は社から既に一部送って来てると云うと、でもこれは私から差上げるのだと云って、置いてゆきました。原稿料はあなたが書いたんだからあなたのものだと云うと、そんな機械的な仕事の報酬は社から貰ってると云って、それも置いてゆきました。
「私これからちょいちょい先生の所へ参りますわ。どんなお忙しいことがあっても、屹度引受けて下さいますわね。そうでないと、私ほんとに困るんですの。」
 そんな一人合点のことを云って、彼女は帰ってゆきました。それが却って僕の心に甘えたことを、僕は否み得ません。
 それから彼女は、殆んど毎月僕の所へやって来て、僕の談話を筆記してゆき、次に自分自身で雑誌と原稿料とを届けてきました。各国の神話の面白そうな部分々々の話は、婦人雑誌には可なり受けたものと見えます。彼女はいつも喜んでいました。それに彼女自身、国の女学校に居る時ギリシャ神話を大変愛読したとかで、僕の話に頗る興味を持ってくれました。長く話し込んでゆくことさえありました。そして僕の方では、月々同じものが二冊ずつたまってゆく雑誌を、嬉しい気持で眺めたものです。
 そういう風にして、僕達の間には、記者と執筆者という普通の関係以外に、友達……と云っちゃちと当りませんが、そう云った親しい馴々しい打解けた気分が、次第に深くなってきたのです。そして僕は彼女の時折の断片的な言葉をよせ集めて、彼女の身の上をほぼ知りました。
 彼女の家は、富山でも――越中の富山です――相当の家柄だったのが、次第に衰微して、彼女が女学校を卒業する頃には、可なり悲境に陥ったらしいのです。そして、或る伯父の策略から、彼女は金銭結婚の犠牲にされそうな破目になって、母親の黙許を得た上で、東京へ逃げ出してきたのです。勿論その間の事情は、僕にはよく分りません。が兎に角、彼女は東京に逃げ出してきて、前からいくらか名前を聞きかじってる――というのは、彼女はまあ云わば文学少女の一人だったのです――名前を聞きかじってる中西夫人の許へ、身を寄せたわけです。その頃僕は彼女と二三度花骨牌の仲間になったのです。そして中西の家でどういうことがあったか、或は恐らく何事もなかったのかも知れませんが、彼女は其処に居るのが嫌になって、と云った所で、国から仕送りを受けて勉強するという訳にもゆかず、女中奉公も気が利かず、仕方なしに、何とか伝手(つて)を求めて、雑誌社にはいったような始末です。けれど、中西の家だって雑誌社だって、結局は彼女に適した場所ではありません。彼女はどんな所に置いても大丈夫であると共に――どんなことをしても純な心を失う恐れがないと共に、また同じ程度に、どんな所にもあてはまらない――安住し得ない性質を持っています。空中にでも放り出しとくがいいような女です。君はそうは思いませんか。
 所で……どこまで話しましたかね。……そう、僕と沢子と可なり打解けた間柄になった。すると半年もたってからでしたか……そうです、年が改ってからです。松のうちに一度やって来て、殆んど一日遊んでいってから――後で僕は思い出したんですが、その半日以上もの間、彼女は殆んど僕の書斎で神話の書物をいじくってるきりで、子供や妻を相手にしようともしなかったのです、勿論彼女は僕の家庭に親しんではいなかったのですが――それから後は、やって来ることが急に少くなりました。その代りに、度々手紙をくれるようになりました。後になってから僕は、その一日のうちに、僕と彼女との間に、どういう話が交わされたか、またどういうことが起ったか、いろいろ考えてみましたが、よく思い出しません。ただ彼女が、ペルセウスとアンドロメダというライトンの絵の写真版を、いつまでもじっと眺めていたことが、変に頭に残っています。そんなつまらない絵を何で眺めてるのかと、不思議に思ったからでしょう。
 彼女の手紙にはいろんなことが書いてありました。忙しくてお伺い出来ないのが悲しい、といつも前置をしてから、次に、日常生活の些細なこと――誰の所へ行ってどういう目に逢った、社でどんな話が出た、宿のお上さんがこれこれの親切をつくしてくれた、雪が降って故郷のことを思い出す、泥濘(ぬかるみ)の中に何々を取落して困った、今日はこういう悲しい気持や嬉しい気持になってる……などと、まるで一日の労働を終えて晩飯の時に、兄弟にでも話しかけるような調子のものでした。そして僕は、彼女がそんな事柄を書きながら、或る一種の慰安を得てることを、はっきり感じました。で僕からも自分の日常生活の断片を書き送りました。それがやはり、僕にとっても一種の慰安でした。時によると、精神上の事柄を書き合って、互に力づけ合うようなことさえありました。そして僕は、二人が東京市内に住んでいて何時でも逢える身なのに、屡々手紙を往復してるという不自然な状態には、少しも自ら気付かなかったのです。ただ、彼女と逢ってみると――もう彼女は原稿なんかも手紙で頼んできて、滅多にやって来なかったですが、それでも二月に一度くらいはやって来ました――そして逢ってみると、手紙のことはお互に口に出せないのを、はっきり感じました。何でもないことを書き合ってたつもりでも、或は何でもない些細な事柄ばかり書き合ってたためか、それが二人の心を恋に結びつけてしまって、面と向っては何だか気恥かしい心地がしたものです。馬鹿げてると云えばそれまでですが、実は、其処から凡てのことが起ってきたのです。
 梅雨の頃……六月の初め、僕の妻は肺炎にかかりました。病院にはいるのを嫌がるものですから、家に臥(ね)かして看護婦をつけました。そして僕も出来るだけ看護したつもりです。その僕の看護については、妻は何とも云わなかったですが、子供達に対して――二つと五つの女の児です――それに対して、僕が母親の代りをも務めてくれる所か、非常に冷淡だったと、後になって彼女は不平を云いました。或はそうだったかも知れません。何しろ僕は、士官学校と明治大学とに教師をしていましたし、その方だけでも可なり忙しい上に、神話の研究という仕事があったものですから、そうそう病人や子供達ばかりを構ってはいられなかったのです。がそれはまあ兎も角として、妻の経過は案外良好で、六月の末にはもう医薬も取らないでよいほどになりました。僕もほっと安心しました。けれど、病後の容態――精神上の状態が、余りよくありませんでした。変に神経質にヒステリックになって、つまらないことにも腹を立てたり鬱ぎ込んだりする外に、軽い神経痛を身体の方々に感ずるのです。肺炎のために神経がひどい打撃を受けて、それがなかなか癒らなかったのでしょう。
 それで、七月の半ばから子供を連れて保養旁々、妻は房州の辺鄙な海岸へ行くことになりました。僕の身分で贅沢なことは云って居られませんから、百姓家の狭い離室(はなれ)を借りたのです。僕は士官学校がなお休暇にならないものですから――休暇は八月になってからです――東京に残っていました。そして、久しぶりに妻や子供と離れて、がらんとした家の中に寝そべってると、何とも云えぬ暢々(のびのび)とした気持になったものです。女中が一切の用は足してくれるし、煩わしい心使いは更にいらないし、避暑に行くよりよっぽど気楽でいいと思いました。八月になって士官学校が休暇の折にも、僕は房州へ一度も行きませんでした――それを妻は後で僕に責めたのですが……。
 妻や子供達の不在中に、僕は沢子の来訪を知らず識らず待っていたのです。二人でのんびりと他愛もない話に耽りたいと思ったのです。勿論妻が居たとて、別に僕は沢子へ対して疾しい心を懐いてるのではなかったのですから、妻の手前を憚る必要はない筈でしたが、それでも何となく気兼ねがされたのです。妻に気兼ねをするからには、疾しくないとは云え、やはり何かが其処にあったのでしょうね。実際の所、妻が房州へ行ってから、僕と沢子との手紙の往復は、ずっと数多くなりました。月に一回か二回だったのが、二三回になったと覚えています。けれど、沢子は妻の不在中一度も訪ねて来てくれませんでした。僕も明かに来てくれとは云ってやれなかったのです。或る時の彼女の手紙に、「お伺いしたいのですけれど、それをじっと押えてることを、御許し下さいましょうか。」という文句があったのを、僕は謎をでも解くような気持で、何度も心の中でくり返してみたことを、はっきり覚えています。
 八月の末になって、妻と子供達とは帰って来ました。その潮焼けのした顔を見て、僕は他人をでも見るような気でじっと見守ってやったものです。そして妻の身体は、前よりもずっと丈夫そうになっていましたが、神経は前より一層いけなくなっていました――少くとも僕はそう感じました。それは確かに僕の僻みばかりでもなかったのでしょう。……僕は間違ったのです。温泉か山にでもやればよかったのを、反対に海へやったために、彼女の神経は落着く所か、却って苛立ったに違いありません。
 妻が帰って来て間もなく、沢子がふいにやって来ました。その時、僕は変にうろたえたものです。子供を相手に絵本の話をしてやってる所でしたが、女中が彼女の名刺を取次ぐと、僕はいきなり玄関へ出て行って、どうぞお上りなさい、と云って、それからまたふいに子供達の所へ戻ってきて、初めの慌て方を取返しでもするような気で、話の続きを終りまでしてやって、それからゆっくりと、意識的にゆっくりと、二階の書斎へ上っていったものです。我ながら滑稽でした。けれどそれが妙に真剣だったのです。座についても、煙草をふかしたり、眼鏡を拭いたり、机の上の書物を片付けたりして、変に落着かないのを、更にまた自ら苛立ってるという心地なんです。そういう僕の様子を、沢子はじっと見ていましたが、やがてこんなことを云ったのです。
「奥様はお丈夫におなりなさいまして?」
 僕は答えました。
「ええすっかり丈夫に……真黒になっています。」
 それが不思議なことには、何だかこう遠い無関係な女のことをでも話してるような調子に、僕の心へは響いたのです。それから突然、沢子の眼は悲しい色を浮べました。それで初めて凡てがはっきりしました――凡てがと云って、何の凡てだかは自分にも分りませんが、兎に角、自分の心が家庭というものから離れて宙に浮いてる、といったようなことなんです。
 沢子は、神話の話や雑誌の話などを少し持出しましたが、ともすると僕達は沈黙に陥りがちでした。実際長い間黙ってることもありました――口を利くこともないといった風に、或は、口を利くのが恐ろしいといった風に……。そして彼女はやがて帰ってゆきました。
 それを僕は玄関まで送っていって、それからまた二階の書斎へ上ったのですが、何かが気になって、また階下(した)へ下りてきたのです。すると、妻がいきなりこう云いました。
「まあ、嬉しそうにそわそわしていらっしゃること!」
 妻の皮肉な眼付とその言葉とが、僕の胸を鋭くつき刺したのは勿論のことです。
 そして僕はいつとはなしに、ぼんやり書斎に引籠って、妻のことなんかは頭の隅っこに放り出して、沢子の若々しい面影を眼の前に描き出してる自分自身を、屡々見出すようになりました。
 僕は妻を愛していたのでしょうか? 妻は僕を愛していたのでしょうか?……勿論僕達二人は、普通の意味では愛し合っていました。けれど、何かが、本当の切実な生活感が、深い所に潜んでるもの――それは後で申しましょう――それに対する自覚が、欠けていたのです。
 僕と妻とは結婚当初から可なりよく融和して、凡そ夫婦というものが愛し合う位の程度には愛し合いました。僕は大した深酒ものまず、道楽もせず、一種の学究者でして、生活が華やかでない代りに、至って真面目だったのです。妻は所謂良妻賢母といった型(タイプ)の女で、几帳面に家事を整えてくれました。で僕達はまあ幸福な家庭を作ったわけです。所が、お互に性格の底まで触れ合うくらいに馴れ親しみ、それから次には、夫婦の鎹(かすがい)と世間に云われてる子供が出来、生活が複雑になってくるに従って、妙な工合になってきたのです。妻の生活の中心は子供となり、僕の生活の中心は自分の勉強となって、而もその両方が、まるで別々の世界かの観を呈したものです。妻は子供を偶像として押立て、僕は自分の仕事を偶像として押立て、そして互に領分争いみたいな調子になってきたのです。
 現代の婦人の生活は、結婚して子供が出来ると共に、自分の生活であることを止めて、全く奉仕の生活となります。子供に奉仕するのです。凡てのことは子供を中心に割り出されます。良人の仕事なんかはどうでもいいのです。良人はただ、子供の立派な成育に必要なだけの金と地位とを得てさえくれれば、それで十分なんです。――それから第二に、彼女の精神的進歩はぴたりと止ってしまいます。否却って精神的に退歩してきます。善良なる保母、それが彼女の理想となります。――第三に、彼女は良人を十重二十重に縛り上げて、自分の従順な奴隷にしようとします。献身的な愛を要求します。
 所が、男の方から云えば、それらの凡てが間違ったものに見えます。勿論、自分自身に見切りをつけて、子供の生長にのみ望を嘱するといったような、隠退的な心境にはいった者は別ですが、そうでない者、まだ自分自身を第一に置いて考えてる者は、妻のそういう態度が心外なものに思われます。第一に、妻が真向に押立ててる偶像――子供――に対して一種の反抗心を起します。第二に、精神的に退歩してゆく妻を、愚劣な女だと軽蔑します。第三に、自分を身動き出来ないようにとする妻へ反抗して、あくまでも自由でありたいと希います。――而も一方に、彼は第一義的な自分の仕事というものを持っています。そして、その仕事に理解のあるやさしい女性の魂を必要とします。そういう女性の魂を欠いた彼の生活は、如何に落寞たるものでしょう? 所謂悟道徹底した者ででもなければ、その落寞さに堪え得ません。大抵の者は、淋しい魂の彷徨者となります。
 結婚に次いで来る幻滅(デスイリュージョン)――それが男の大なる躓きです。この躓きを無事に通り越す者は幸です。
 然しこんな議論はもう止しましょう。それは理屈では分らないことです。一々切り離して眺むれば全く無意味なような、日常の些細な事柄が、積りに積ってくる――その全体の重量を背に荷った人でなければ、分るものでありません。――君は、豊島与志雄氏の理想の女という小説を読んだことがありますか。何なら読んでごらんなさい。この間の消息が可なり詳しく、執拗すぎると思われる位の筆つきで書かれていますから。
 で、要するに、その頃僕の心は、可なり妻から離れて、或るやさしい魂を求めていたことだけは、君にもお分りでしょう。

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