野ざらし
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著者名:豊島与志雄 

その力強い視線が、自分の過去をも未来をも見通して、魂をぎゅーっと握りしめてくる……といった心地だった。「いやあれは、俊彦の眼じゃない、俊彦の眼じゃない、」と彼は心に繰返しながら、ふらふらと前へ進みだした。そして数十歩行くと、眼の前が真暗になった。堪え難い頭痛がして、額がかっと熱(ほて)って、胸が高く動悸して、膝に力がなかった。立っておれなくなって、其処に屈んでしまった。傍の何か小高い物に探り寄って、半身をもたせかけてるうちに、気が遠くなるのを覚えた……。
 それは約二十分ばかりの間だったが、昌作は非常に長い時間だったように感じた。気がついてみると、四五人の人影が数歩先に立って見ていた。自分は通りの少し引込んだ所にある埃箱にもたれていた。締りのしてあるらしい裏口の戸と、傍の竹垣の上から覗いてる篠竹の粗らな葉とが、彼の眼にとまった。彼は喫驚して立上った。一寸見当を定めておいて歩き出した。後ろの四五人の人影が、何か囁き合ってる気配だった。彼は俯向いて、まるで影絵のようなその人影を見やった。それが妙に彼の心を広々と――そして切(せつ)なくさした。涙が流れ落ちそうだった。彼は明るい街路まで走り出して、少し行って、辻俥に乗った。所を聞かれると、半ば無意識的に片山夫妻の住所を告げてしまった。もう何もかも打ち捨ててしまいたかった――というよりも、何もかも無くなった心地だった。そしてその底から淋しい感激がこみ上げてきた。――自分は一思いに九州へ落ちて行こう、真暗な坑(あな)の中へでも。身を捨てて生きて働いてやれ!――そう彼は心のうちで叫んだ。そして、それは根の浅い気持で、一寸事情が変ればすぐに崩壊しそうなことを、彼は感じたけれど、また一方に、それが自分にとっては一筋の本当の途であることをも、彼は感じた。
 彼は後の方の感じを壊すまいと、じっと胸に懐いて、何とも云えない真暗な而も底深い心地になった。そして、首垂れながら涙を落した。
 片山夫妻はまだ起きていた。昌作がはいって来た姿を、頭から足先までじろじろ見廻した。
「佐伯さん、まあ、あなたは!」
 達子にそう云われて初めて、自分が真蒼な顔をして泥に汚れてることを、彼は知った。
「私はやはり九州の炭坑へ行きます。坑(あな)の中へはいってでも働きます。」
 禎輔が喫驚して、惘然と眼と口とをうち開いたのに、昌作は気付かなかった。彼は不覚にもまた涙をこぼしながら、冷く硬ばった額を押えて其処に坐った。




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