野ざらし
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著者名:豊島与志雄 

 そして二人は、黙り込んだまま、夜通しでも動かなかったかも知れない。けれど、それから十四五分たった頃、階段に二三の人の足音がした。昌作は自分でも不思議なほど喫驚して、狼狽して、俄に立上って、卓子の上にある外套と帽子とを取った。そして、勘定を払うのさえ忘れて逃げ出した。
 沢子は機械的に立上って、其処に釘付にされたようになって、彼の後ろから云った。
「佐伯さん、また明日にでも来て下さらない? 私、まだ云うことがあるから。」
「来るよ。」
 そう彼は答えたが、自分にも言葉の意味が分っていなかった。そして彼は階段の上部で、三人の客の側を、顔をそむけて駈けるように通りぬけた。
 薄く霧がかけていて、それでいながら妙に空気が透き通ったように思える、静かな寒い晩だった。昌作は夢遊病者のように、長い間歩き廻った。彼は薄暗い通りを選んで歩いた。人に出逢うと、何かを恐れるもののように顔を外向けた。古道具屋などの店先に、古い刃物類があるのを見ると、一寸立止ったが、またすたすたと歩き出した。そして、初め彼は宮原俊彦の家と反対の方へ行くつもりだったが、途々もそうするつもりだったが、いつのまにか俊彦の家のある町まで来てしまった。
 実は、彼が沢子と向い合って、「宮原さんがいなかったら……。」という件(くだり)の会話を交して、彼女の惑わしい眼付を見た瞬間、彼の頭はまるで夢の中でのように迅速な働きをしたのだった。最初に、もう到底沢子は自分のものではない、如何なる事情の変化があろうとも、彼女の心は自分の有にはならない、ということを彼は知った。次に、自分の生活が暗闇になって、もう何にも拠り所がなく、再び立て直ることがない、ということを彼は感じた。次に、もし宮原俊彦さえなかったら……ということ――沢子の「ない」という言葉を「存在しない」という言葉に変えた意味、それが、暗い絶望の底から、一条の怪しい光となって、彼の頭にさしてきた。そしてこの最後のことが、彼の胸深くに根を張ったのだった。それが、また偶然の事情によって助けられた。彼はこれまで宮原俊彦の住所を知らなかった。所がその晩、沢子へ宛てた葉書を表までもよく見調べてるうちに、そこに書かれてる町名――番地は記してなかった――が、いつしか彼の頭に残ったとみえて、――後でぽかりと記憶に浮んできたのだった。――然し彼は、別に殺意……もしくは敵意を、はっきり懐いたのではなかった。一方には、却って反対に、絶望に陥った瞬間、彼は或る広々とした――真暗ではあるが広々とした――境地へ、自分が突然投げ出されたのを感じた。暗いなりに静まり返って落着いてる空間だった。黙り込んで煖炉の火を見ていた時、彼はそういう自分自身を見守ってたのだった。――以上の二つのことが、彼を力強く支配していた。彼は宮原俊彦の住んでる町と反対の方向へ行くつもりでありながら、知らず識らずその町へ来てしまったのである。
 来てしまって、その町名に気がつくと、彼は慴えたように立止った。一切のことが――前述のようなことが、初めて彼の頭にはっきりと映(うつ)った。その瞬間に、云いようのない感情が胸の底から湧き上った。宮原俊彦に対して、今迄の敵意と同じ強さで、情愛……思慕に等しい友情が、高まって来た。その同じ強さの敵意と友情とが、不思議にも二つながら、彼を俊彦の家へ引張ってゆこうとした。俊彦の家を探しあてて、その胸を刺すかもしくはその前に跪くか、何れかに彼を引きずり落そうとした。然し彼は、或る本能的な恐怖を感じて、それに抵抗してつっ立った。行ってはいけない! と自ら叫んだ。……彼は足を踏み出すことも足を返すことも、二つながら為し得なかった。
 宛も何かに憑かれたかのように、彼は暫く惘然と佇んでいたが、その時、もやもやとしたなかから、自分をじっと見つめてる俊彦の眼が――あの見覚えのある眼が、浮き出してきた。その力強い視線が、自分の過去をも未来をも見通して、魂をぎゅーっと握りしめてくる……といった心地だった。「いやあれは、俊彦の眼じゃない、俊彦の眼じゃない、」と彼は心に繰返しながら、ふらふらと前へ進みだした。そして数十歩行くと、眼の前が真暗になった。堪え難い頭痛がして、額がかっと熱(ほて)って、胸が高く動悸して、膝に力がなかった。立っておれなくなって、其処に屈んでしまった。傍の何か小高い物に探り寄って、半身をもたせかけてるうちに、気が遠くなるのを覚えた……。
 それは約二十分ばかりの間だったが、昌作は非常に長い時間だったように感じた。気がついてみると、四五人の人影が数歩先に立って見ていた。自分は通りの少し引込んだ所にある埃箱にもたれていた。締りのしてあるらしい裏口の戸と、傍の竹垣の上から覗いてる篠竹の粗らな葉とが、彼の眼にとまった。彼は喫驚して立上った。一寸見当を定めておいて歩き出した。後ろの四五人の人影が、何か囁き合ってる気配だった。彼は俯向いて、まるで影絵のようなその人影を見やった。それが妙に彼の心を広々と――そして切(せつ)なくさした。涙が流れ落ちそうだった。彼は明るい街路まで走り出して、少し行って、辻俥に乗った。所を聞かれると、半ば無意識的に片山夫妻の住所を告げてしまった。もう何もかも打ち捨ててしまいたかった――というよりも、何もかも無くなった心地だった。そしてその底から淋しい感激がこみ上げてきた。――自分は一思いに九州へ落ちて行こう、真暗な坑(あな)の中へでも。身を捨てて生きて働いてやれ!――そう彼は心のうちで叫んだ。そして、それは根の浅い気持で、一寸事情が変ればすぐに崩壊しそうなことを、彼は感じたけれど、また一方に、それが自分にとっては一筋の本当の途であることをも、彼は感じた。
 彼は後の方の感じを壊すまいと、じっと胸に懐いて、何とも云えない真暗な而も底深い心地になった。そして、首垂れながら涙を落した。
 片山夫妻はまだ起きていた。昌作がはいって来た姿を、頭から足先までじろじろ見廻した。
「佐伯さん、まあ、あなたは!」
 達子にそう云われて初めて、自分が真蒼な顔をして泥に汚れてることを、彼は知った。
「私はやはり九州の炭坑へ行きます。坑(あな)の中へはいってでも働きます。」
 禎輔が喫驚して、惘然と眼と口とをうち開いたのに、昌作は気付かなかった。彼は不覚にもまた涙をこぼしながら、冷く硬ばった額を押えて其処に坐った。




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