野ざらし
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著者名:豊島与志雄 

「君はこれを、僕に見せるために、わざわざ持って来たの?」
 その泣くような詰問するような調子に、沢子は一寸眼を見張ったが、静に答えた。
「いいえ。お午前(ひるまえ)に受取ったんだけれど、何だかよく分らないから、なお読みながら考えようと思って、持って来たのよ。」
 昌作はなお云い進んだ。
「君は一体僕を宮原さんに逢わして、どうするつもりだったんだい?」
 沢子は暫く黙っていたが、もう我慢出来ないかのように云い出した。
「あなたそんな風に取ったの? 私、そんな気持じゃちっともなかったのよ。……あんまりひどいわ。私あなたのことをいろいろ考えてみたの。考えると何だか悲しくなって……。」そして彼女は眼を濡(うる)ました。「自分でもなぜだか分らないけれど、ただ変に悲しくなって……こんな風に云ったからって怒らないで頂戴……どうしたらいいかといろいろ考えて、そしてふと宮原さんのことを思いついたのよ。宮原さんは、そりゃしっかりした真面目な方なんですもの。私どれくらい力をつけて貰ってるか分らないわ。よくむちゃを云うって叱られるけれど、叱られて初めて、自分が軽率だったことに気がつくのよ。私何だか、あの方はいつも深いことばかり考えていらして、一目で心の底まで見抜いておしまいなさるような気がするの。そして大きい力を持っていらっしゃるような気がするの。そうじゃないかしら? 私一人そんな気がするのかしら? ……いえ、確かにそうよ。それで私、あなたも宮原さんにお逢いなすったら、屹度いいだろうと思ったの。そして私達三人でお友達になる……そう考えると非常に嬉しくって、もう一日も待っておれなかったの。私宮原さんにいつも、無鉄砲で独り勝手だと云われるけれど、自分ではよく考えてるつもりなのよ。私ほんとに悲しかったんですもの……いろんなことを考えて。それが、三人でお友達になったら、みんなよくなるような気がしたの。それをあなたは……。」
 彼女は一杯涙ぐんでいた。それが宛も小娘みたいだった。昌作は心のやり場に迷った。迷ってるうちに、いつしか自分も涙ぐんでしまった。
「だって、三人で友達になってどうするんだろう?」
「私それが嬉しいわ。」
「然し三人の友達というのは……一寸何かがあればすぐ壊れ易いものだよ。……君達だって、宮原さん夫婦と君と、躓いたじゃないか。」
「あれは私達が悪いのよ。」
「悪いって?」
「だって私達は……一寸でも……愛し合う気になったんですもの。愛し合う気になったのが悪いのよ。」
「愛し合う気になったのが?」
「ええ。」
 不思議なことには、眼に涙をためて右の会話をしてる間、沢子は勿論昌作までが、まるで十五六歳の子供のような心地になっていたのである。所が、ふと言葉が途切れて、互に顔を見合った時、あたりの空気が一変した。昌作はそれをはっきり感じた。自分の眼付が情熱に燃え立ってくるのを覚えた。沢子は少し身を退いて、薄い毳(むくげ)のありそうな脹れた唇を歪み加減に引結んで、下歯の先できっと噛みしめていた。
 昌作は堪え難い気持になった。顔が赤くなった。眼を外らして首垂れると、ひどく頭痛を感じ出した。眼の前が真暗になりそうだった。ふらふらと立上って、室の中を少し歩いた。
「火に当りすぎたせいか、ひどく頭痛がするから、此処で少し休ましてくれ給え。」
 そう云って彼は、向うの隅の卓子に行って坐った。そして、沢子が持って来てくれた外套を着て、その襟を立て帽子を目深に被って、暮れてしまった戸外の闇と明るい電燈の光とを、重苦しい眼でちらと見やってから、卓子の上に組んだ両の前腕に頭をもたせた。凡てが駄目だ! という気がした。沢子が暫く傍につっ立っていたのを、それからやがて、彼女が水を持ってきてくれたのを、彼は夢のように感じながら、暗い絶望の底に沈んでゆく自分自身を見守っていた。――そして実は、昌作はその時嫌な酔い方をしていた。頭にまるで弾力がなくなって、脳の表皮だけがきつく張りきって、薄いセルロイドの膜かなんぞのように、びーんびーんと音を立てて痛んでいた。それが半ばは彼の暗い絶望を助長していた。
 けれどその絶望の底まで達すると、彼の心はわりに落着いた。窓硝子にちらちらする街路の光や、その硝子越しに聞ゆる電車の響きなぞは、いつしか彼を夢のうちにでもいるような心地になした。彼はうっとりと――而も何処か苛ら苛らと思いに沈んだ。自分が此処にこうしてつっ伏してることが、遠い記憶の中にあるようだった。それを見守ってるうちに、疲労と酔いと頭痛――遠い大きな頭痛とに圧倒されていった。一切のことが茫と霞んでいった。そして彼はぐっすり――殆んど安眠と云ってもよいほどに眠ってしまったのである。
 幾時間かたった……。
 遠い所で、調子のよい澄んだ声と、少し濁りのある調子外れの声とが、一緒に歌をうたっている――

山田(やーまだ)のなーかの、一本足(あち)の案山子(かがち)
天気(てーんき)のよいのに蓑笠(みのかちゃ)ちゅけて
朝(あーちゃ)から晩(ばーん)までたーだ立ち通ち
歩(あーる)けなーいのか山田の案山子(かがち)
………………………………

 歌が止むと、何かに遮られたような低い話声がする。
 ――駄目よあなたは、調子っ外れだから。
 ――ええ、私は何をやっても調子外れだけれど……だって、かがちなんて云えやしないわ。
 ――三つと六つのお子さんだから、そう云わなくちゃいけないわ。
 ――六つでまだ片言(かたこと)を仰言るの?
 ――ええまだ。いっぽんあち、かがち、なのよ。それに、宮原さんまで片言で一緒に歌っていらっしゃるから、そりゃ可笑しいのよ。
 昌作は、宮原という言葉に注意を惹かれるはずみに、はっと眼を覚した。上半身を起して振向くと、向うの煖炉の側に、珈琲碗や菓子皿が幾つも取散らされたままの卓子に、沢子と春子とが坐っていた。二人は昌作が起上ったのを見て、ぷつりと話を止めてしまった。それがまた、何か云ってならないことを云ったという様子だった。昌作はぞっと寒けを感じた――その沈黙と一種妙な探り合いの気配とから。彼は深く眉根を寄せたが、それを押し隠すように伸びをして、黙って煖炉の方へ立っていった。
「ほんとによく眠っていらしたわね。」と春子が云った。
「ええ、たべ酔ってね……。」
 その言葉に後は自ら不快になった。卓子の上の皿類を見廻しながら云った。
「僕の知った人が来やしなかったのかい?」
「さあ……いいえ誰も。幾人もいらしたけれど、滅多に見ない人達ばかり……ねえ。」と彼女は沢子の方を見た。
「ええ。」と沢子は首肯いた。
「そんなに沢山客があったの!」
「沢山というほどじゃないけれど……今もね、お児さん連れの方がいらしたんですよ。」そして春子は慌てたようにつけ加えた。「ご気分は?……少しはよくおなりなすって?」
「ええ、ぐっすりねたものだから……。」
 その時彼は時計を仰いで喫驚した。九時近くを指していた。
 二人が皿類を取片付て奥へはいって行った間、昌作はじっと煖炉の前に屈み込んだ。それは、或る家(うち)では最も客が込むけれど、或る家では妙に客足が途絶えることのある、一寸合間の時間だった。そして柳容堂の二階は、後の部類に属していて、今が丁度そういう時間に在った。昌作はそれをよく知っていた。やがていろんな――恐らく自分の見覚えある――客がやって来て、自分は此処から帰って行かなければならない、と彼は感じた。もしくはじっと我慢していて、沢子の帰りを待つ……然し彼はどんなことがあっても、そういう卑しいことをしたくなかった。それはただ沢子から軽蔑される――また自分で自分を軽蔑する――ばかりのことだとはっきり感じた。今だ! という気がした。
 何が今だかは、彼にもはっきりしていなかったが、彼はその日の初めから、変に調子の狂ってる自分自身を、頭痛のせいも手伝って、どうにかしなければ堪えられなかった。一方は暗い淵で一方は明るい天だ、という気がした。その中間に立っている力が、もう無くなりかけていた。心がめちゃめちゃになりそうだった。――そして彼の決心を更に強めたのは、先刻夢のように聞いた歌だった。その歌が変な風に頭へ絡みついてきて、静かながらんとした白い室の中で、自分の運命を予言する不吉な悪夢のような形になった。
 長くたって――と彼は感じたが、実は暫くたって、沢子が奥から出て来た時、彼はすぐその方へ振向いた。沢子はじっと彼の顔を見て、其処に立止った。瞬間に彼は、殆んど閃めきのように、宮原俊彦の言葉を思い出した――僕の天は澄み切っていると共に変に憂鬱です。それが、全く沢子の立姿そのままだった。彼は唇をかみしめながら、彼女の白々とした広い額を眺めた。
「沢ちゃん、僕は君に話があるんだが……。」と彼は云った。
「なあに?」
 落着いた声で答えておいて、彼女は寄って来た。
 どう云い出していいか迷ってるうちに、彼の頭へ、別なもっと重大な事柄が引っかかってきた。彼は口籠りながら云った。
「僕は真面目に、真剣に聞くんだが……それが僕に必要なんだよ……はっきり分ることが……本当のことを云ってくれない? 君と宮原さんと、どうして結婚しなかったかという訳を。」
 沢子は彼の真剣な語気に打たれたかのように、顔を伏せて暫く黙っていたが、やがてきっぱりと云った。
「宮原さんに二人もお子さんがあるから。」
「それは先刻(さっき)聞いたが、それだけのことで?」
 沢子はまた暫く黙っていたが、ふいに椅子へ腰を下して、ゆっくり云い出した。
「ええ、それだけよ。他に何にもありゃしないわ。宮原さんはこう仰言ったの、私には二人も子供がある、私の生活はもう固まってしまってる、けれど、あなたは若い、自由な広い生涯が前に開けている、そのあなたを私の固まってる生活の中に入れるには忍びない、忍びないだけじゃなくて、出来ないのだ……そして……まだあったけれど、私よく覚えていないの。」彼女の言葉は次第に早くなっていった。「ええ、そうよ、まだいろんなことを仰言ったけれど……私はもう固った生活を守ってゆけるとか、あなたは一つの型の中にはいるのは嘘だとか……そんなことを……私よく覚えていないけれど、それを私、幾日も考え通したのよ。そして宮原さんの仰言ることが本当だと感じたの。理屈じゃ分らないけれど、ただそう胸の底に感じたの。そしてどんなに泣いたか知れないわ。私本当は、宮原さんを愛してたの。宮原さんも、私を愛して下すったの。愛してるから一緒になれないんだって……。私が泣くと、沢山泣く方がいいって……。それで私、泣いて泣いて泣いてやったわ。自分でどうしていいか分らないんですもの。そして、構うことはないから捨鉢になったのよ、自由に飛び廻ってやれって気になって。けれど、宮原さんがいらっしゃることは、私にとっては力だったわ。私一生懸命に勉強するつもりになったのよ。」
「それじゃやはり、心から愛していたんだね。」
「ええ、心から愛していたわ。宮原さんも、心から私を愛して下すったの。」
「では結婚するのが本当だったんだ。結婚したからって、君が全く縛られるわけじゃないんだから。」
「縛られやしないけれど、私は、もっと自由にしていなけりゃいけないんですって。大きな二人の子供の世話なんか私には出来やしないんですって……。私の世界は宮原さんの世界と違うんですって……。だから、愛し合うだけで十分だったのよ。」
「そのうちに年を取ってしまうじゃないか。」
「ええ、年を取ってしまうわ。それまでの間のつもりだったわ。」
「年を取ってからは?」
「年を取ってからは……結婚するつもりだったのよ。それが本当だわ。もっともっと、いろんなことをしてから、勉強をしてから、そして世の中に……何だかよく分らないけれど、私が落着いてから……とそう思ったのよ。」
 その時、二人は突然口を噤んでしまった。そして驚いたように眼を見合った。はっきりしてきた。過去として話していたことが、実は現在のことだったのである。昌作は彼女の眼の中にそれを明かに読み取った。彼女は顔の色を変えた。物に慴えたようになって、冷たいと云えるほどにじっと動かなかった。そしてふいに、卓の上につっ伏して身体中を震わした。
 昌作は息をつめていたが、ほっと吐息をすると共に、一時にあらゆる気分が弛んでしまった。彼は云った。
「君は僕の心を知っていたじゃないか。」
 聞えたのか聞えないのか、やはり肩を震わしてばかりいる彼女の姿を、彼はじっと見やりながら、一語々々に力を入れて、出来るだけ簡単にという気持で云い続けた。
「僕の心を知っていて、それで……。然し僕は君を咎めはしない。君はそれほど真直なんだから。……けれど、少くとも僕のことを誤解しないでくれ給え。あの……何とか云う会社員……僕は片山さんから聞いたのだ……あんなあやふやなんじゃなかったんだ。僕には君が必要だったんだ。九州行きの問題が起ってから……その後で……気付いたんだが、僕に必要なのは、仕事でも、また、何をやるかっていう方針でも、そんなものじゃなかった。君ばかりだった。僕は自分の生活を立て直す心棒に、君が必要だった。こんなのは、本当の愛し方じゃないかも知れないが、然し、君がなければ僕の世界は真暗になってしまうんだった。友達……そんなではない……君の全部がほしかったのだ。君は愛する気になるのが悪いと云ったけれど、愛せずにはいられなかったんだ。然しもう……。」
 彼は終りまで云えなかった。彼にとっては、もう凡てが言葉通りに……であったという感じだった。まだ何かを待ち望んではいたけれど、それは全く空想に過ぎないことを、彼自らもよく知っていた。……すると突然、沢子は顔を挙げた。
「私にも分っていたけれど……他に仕様がなかったんですもの……宮原さんが……もし宮原さんがなかったら、どうなるか自分にもよくは……。」
 彼女は息苦しそうに顔を歪めていた。
「宮原さんがなかったら……。」と昌作は繰返した。
「自分でも分らないの。」
 その時、彼女の引歪めた顔と、白々とした冷たい額と、遠くを見つめた惑わしい眼付とを、昌作は絶望の気持で見ながら、頭の中に怪しい閃きが起った。宮原が居なかったら? ……彼は自分で驚いて飛び上った。沢子も何かに喫驚したように立上った。そして彼を恐ろしい勢で見つめた。彼は眼がくらくらとしてきた。また椅子に身を落した。
 そのまま二人は黙り込んでしまった。やがて沢子も腰を下して、煖炉の火を見入った。その冷たい彫像のような顔を火先がちらちら輝らしてるのを、昌作はじろりと見やっただけで、再び視線を火の方へ落した。
 そして二人は、黙り込んだまま、夜通しでも動かなかったかも知れない。けれど、それから十四五分たった頃、階段に二三の人の足音がした。昌作は自分でも不思議なほど喫驚して、狼狽して、俄に立上って、卓子の上にある外套と帽子とを取った。そして、勘定を払うのさえ忘れて逃げ出した。
 沢子は機械的に立上って、其処に釘付にされたようになって、彼の後ろから云った。
「佐伯さん、また明日にでも来て下さらない? 私、まだ云うことがあるから。」
「来るよ。」
 そう彼は答えたが、自分にも言葉の意味が分っていなかった。そして彼は階段の上部で、三人の客の側を、顔をそむけて駈けるように通りぬけた。
 薄く霧がかけていて、それでいながら妙に空気が透き通ったように思える、静かな寒い晩だった。昌作は夢遊病者のように、長い間歩き廻った。彼は薄暗い通りを選んで歩いた。人に出逢うと、何かを恐れるもののように顔を外向けた。古道具屋などの店先に、古い刃物類があるのを見ると、一寸立止ったが、またすたすたと歩き出した。そして、初め彼は宮原俊彦の家と反対の方へ行くつもりだったが、途々もそうするつもりだったが、いつのまにか俊彦の家のある町まで来てしまった。
 実は、彼が沢子と向い合って、「宮原さんがいなかったら……。」という件(くだり)の会話を交して、彼女の惑わしい眼付を見た瞬間、彼の頭はまるで夢の中でのように迅速な働きをしたのだった。最初に、もう到底沢子は自分のものではない、如何なる事情の変化があろうとも、彼女の心は自分の有にはならない、ということを彼は知った。次に、自分の生活が暗闇になって、もう何にも拠り所がなく、再び立て直ることがない、ということを彼は感じた。次に、もし宮原俊彦さえなかったら……ということ――沢子の「ない」という言葉を「存在しない」という言葉に変えた意味、それが、暗い絶望の底から、一条の怪しい光となって、彼の頭にさしてきた。そしてこの最後のことが、彼の胸深くに根を張ったのだった。それが、また偶然の事情によって助けられた。彼はこれまで宮原俊彦の住所を知らなかった。所がその晩、沢子へ宛てた葉書を表までもよく見調べてるうちに、そこに書かれてる町名――番地は記してなかった――が、いつしか彼の頭に残ったとみえて、――後でぽかりと記憶に浮んできたのだった。――然し彼は、別に殺意……もしくは敵意を、はっきり懐いたのではなかった。一方には、却って反対に、絶望に陥った瞬間、彼は或る広々とした――真暗ではあるが広々とした――境地へ、自分が突然投げ出されたのを感じた。暗いなりに静まり返って落着いてる空間だった。黙り込んで煖炉の火を見ていた時、彼はそういう自分自身を見守ってたのだった。――以上の二つのことが、彼を力強く支配していた。彼は宮原俊彦の住んでる町と反対の方向へ行くつもりでありながら、知らず識らずその町へ来てしまったのである。
 来てしまって、その町名に気がつくと、彼は慴えたように立止った。一切のことが――前述のようなことが、初めて彼の頭にはっきりと映(うつ)った。その瞬間に、云いようのない感情が胸の底から湧き上った。宮原俊彦に対して、今迄の敵意と同じ強さで、情愛……思慕に等しい友情が、高まって来た。その同じ強さの敵意と友情とが、不思議にも二つながら、彼を俊彦の家へ引張ってゆこうとした。俊彦の家を探しあてて、その胸を刺すかもしくはその前に跪くか、何れかに彼を引きずり落そうとした。然し彼は、或る本能的な恐怖を感じて、それに抵抗してつっ立った。行ってはいけない! と自ら叫んだ。……彼は足を踏み出すことも足を返すことも、二つながら為し得なかった。
 宛も何かに憑かれたかのように、彼は暫く惘然と佇んでいたが、その時、もやもやとしたなかから、自分をじっと見つめてる俊彦の眼が――あの見覚えのある眼が、浮き出してきた。その力強い視線が、自分の過去をも未来をも見通して、魂をぎゅーっと握りしめてくる……といった心地だった。「いやあれは、俊彦の眼じゃない、俊彦の眼じゃない、」と彼は心に繰返しながら、ふらふらと前へ進みだした。そして数十歩行くと、眼の前が真暗になった。堪え難い頭痛がして、額がかっと熱(ほて)って、胸が高く動悸して、膝に力がなかった。立っておれなくなって、其処に屈んでしまった。傍の何か小高い物に探り寄って、半身をもたせかけてるうちに、気が遠くなるのを覚えた……。
 それは約二十分ばかりの間だったが、昌作は非常に長い時間だったように感じた。気がついてみると、四五人の人影が数歩先に立って見ていた。自分は通りの少し引込んだ所にある埃箱にもたれていた。締りのしてあるらしい裏口の戸と、傍の竹垣の上から覗いてる篠竹の粗らな葉とが、彼の眼にとまった。彼は喫驚して立上った。一寸見当を定めておいて歩き出した。後ろの四五人の人影が、何か囁き合ってる気配だった。彼は俯向いて、まるで影絵のようなその人影を見やった。それが妙に彼の心を広々と――そして切(せつ)なくさした。涙が流れ落ちそうだった。彼は明るい街路まで走り出して、少し行って、辻俥に乗った。所を聞かれると、半ば無意識的に片山夫妻の住所を告げてしまった。もう何もかも打ち捨ててしまいたかった――というよりも、何もかも無くなった心地だった。そしてその底から淋しい感激がこみ上げてきた。――自分は一思いに九州へ落ちて行こう、真暗な坑(あな)の中へでも。身を捨てて生きて働いてやれ!――そう彼は心のうちで叫んだ。そして、それは根の浅い気持で、一寸事情が変ればすぐに崩壊しそうなことを、彼は感じたけれど、また一方に、それが自分にとっては一筋の本当の途であることをも、彼は感じた。
 彼は後の方の感じを壊すまいと、じっと胸に懐いて、何とも云えない真暗な而も底深い心地になった。そして、首垂れながら涙を落した。
 片山夫妻はまだ起きていた。昌作がはいって来た姿を、頭から足先までじろじろ見廻した。
「佐伯さん、まあ、あなたは!」
 達子にそう云われて初めて、自分が真蒼な顔をして泥に汚れてることを、彼は知った。
「私はやはり九州の炭坑へ行きます。坑(あな)の中へはいってでも働きます。」
 禎輔が喫驚して、惘然と眼と口とをうち開いたのに、昌作は気付かなかった。彼は不覚にもまた涙をこぼしながら、冷く硬ばった額を押えて其処に坐った。




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