野ざらし
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著者名:豊島与志雄 

 それから三日目に、妻は僕の不在中に出て行ったきり、二人の子供まで置きざりにして、もう帰って来ませんでした。
 僕は気がつかずにいましたが、妻はあの音楽会の晩以来、或はもっと前から、蛇のような執拗さで、僕のあらゆることを探索していたらしいのです。後で分ったのですが、僕がでたらめに口へ上せた三浦の家へも、果して僕がその晩泊ったかどうかを聞き合したのです。それからまた、僕は沢子からの手紙を本箱の抽出のいろんなノートの下にしまって、抽出の鍵は鴨居の上の額掛の後ろに隠しておいたものです。所が、彼女が出て行った翌日の晩、ふとその抽出をあけてみると、沢子からの手紙がみなずたずたに引裂いてあったのです。最後の三行の手紙も勿論でした。
 手紙を引裂いたというその仕打が、沈みかけていた僕の心を一時に激怒さしたのです。それから暫くたって後、彼女の代理としてやって来たその叔父とかに当る男が、いやに人を軽蔑した口調で、更に僕を怒らしたのです。そのうちに僕は、変に皮肉な落着いた気持になりました。そうなった時は、もう彼女と別れるの外はないと胸の底まで感じていました。それからのことはお話するにも及ばないでしょう。いろんな嫌な交渉があって、結局僕は正式に妻と別れてしまいました。思えば不運な女です、彼女には何の咎もなかったのですから。けれど僕に云わすれば、彼女も何とか他に取るべき態度が――勿論初めのうちに、あったろうと思われます。
 妻とはもう別れるの外はないと徹底的に感じだすと共に、一方に僕は、全く反対のことを感じだしたのです。三歳と六歳との二人の女の児の面倒を、女中と共にみてやってるうちに、僕はその時になって初めて、僕のこれまでの生活は、僕一人の生活ではなかったこと、僕と妻と二人の生活だったこと、僕と妻と二人で築き上げてきた生活だったこと、それが巌のように厳として永久に存在すること、……などをひしと感じたのです。ああ、それをも少し早く感じていましたら!……然しもうどうにも出来ませんでした。その生活はぷつりと中断されたのです。そして僕は、僕達のそういう生活の上へ、僕と沢子との生活をつぎ合せることが、僕にとって如何なるものであるかを、そして子供達……そうです、子供達にとって如何なるものであるかを、ずしりと胸に感じたのです。僕は何も、再婚だとか継母だとか、そういうことを云ってるのではありません。それも勿論ありますが、それよりももっと重大なこと……何と云ったらいいでしょうか……この生活の接木ということ、一方に節子が生きているのに、そして僕達の――僕と節子とです――僕達の生活が生々しい截断面を示しているのに、それへ他のものをつぎ合せるということ、それが許さるべきかどうかを、僕は泣きながら魂のどん底まで感じたのです。
 僕はもう理屈を云いますまい。このことは実感しなければ分らないことです。……そう、僕は此処へ来る途中で、運命の動き――運命の共鳴、というようなことを云いましたね。平たく云えばあれです。節子と再び一緒になることにも、沢子と一緒になることにも、どちらにも僕は自分の運命の共鳴を感じなかったのです。僕は一人で子供達と共に暮してゆこうと決心しました。そして、母を失った子供達が、多少神経衰弱……もしくは神経過敏らしくなってるのを見て、また、その未来を考えてみて、僕はどんなに悲痛な気がしましたでしょう! 然し致し方もありません。
 僕は沢子に逢って、自分の心をじかに話しました。彼女は泣きました。そして僕の心を理解してくれたらしいのです。それから長い苦しみの後に、僕達は只今のような平静な友情の域へぬけ出したのです。沢子が他に恋を得て、その人と結婚でもするまでは、僕は彼女の親しい友人として、彼女と交際を続けるでしょう。
 君は……人は、僕を卑怯だと思うかも知れません。然し卑怯だか勇敢だかは、外的な事柄できめられるものではありません。と云って僕は、勇者にも怯者にもなりたいのではありません。ただ僕の所謂天は――僕自身の天は、澄みきっていると共に変に憂鬱です。

     五

 宮原俊彦の話は、佐伯昌作に、大きな打撃――と云うより寧ろ、大きな刺戟を与えた。昌作はその晩、何かに魅せられたような心地で、ただ機械的に下宿へ帰っていって、冷たい布団を頭から被って寝てしまったが、翌朝八時頃に眼を覚して起き上った。そんなに早く起き上ることは、彼としては全く近頃にないことだった。
 起き上って、珍らしく温い朝飯を食って、さて何をしていいか分らないで、火鉢にかじりついて煙草を吸い初めた時、急にはっきりと前晩のことが見えてきた。――俊彦は話し終ってから、何かを恐れるもののように黙り込んだのだった。長い話の後に突然落かかってきたその深い沈黙が、一種の威圧を以て迫ってきて、昌作も口が利けなかった。それから俊彦はふいに眼を輝かして、「子供達が待ってるに違いない、」と云いながら立上った。昌作も後に従った。俊彦は非常に重大な急用でも控えてるかのように、馬鹿々々しく帰りを急いでいた。足早に電車道をつき切って、タクシーのある所まで行ってそれに乗った。昌作も途中まで同乗した。二人は別れる時碌々挨拶も交さなかった。夜は更けていた。
 それらのことを眼前に思い浮べながら、彼はじっとしておれない心地になって、表に飛び出した。雨後の空と空気と日の光とが、冷たく冴えていた。彼は帽子の縁を目深く引下げ外套の襟を立てて、当てもなく歩き出した。歩きながら考えた。
 然し彼の考えは、長く一つの事柄にこだわってるかと思うと、それと全く縁遠い事柄へ飛んでいったりして、少しもまとまりのないものだった。がそのうちで、幾度も戻ってきて彼を深く揺り動かす事柄が一つあった。
 彼は宮原俊彦の話を、可なり自然にはっきりと受け容れることが出来たが、その終りの方、沢子と一緒になれないという所が、どうもよく分らなかった。生活の接木などという変な言葉を俊彦は用いたが、そんな深い重大なことではなく、何かごく平凡な――常識的な事柄が、彼を支配してたのであって、それへ無理に理屈をつけたもののように、昌作には思えるのだった。そしてその平凡な常識的な事柄がまた、昌作には、自分の想像もつかないことであるような気がした。非常に平凡で非常に曖昧だった。而も一方には、その平凡な曖昧なものの上に、俊彦自身が云ったように、彼の運命が重くのしかかってるらしかった。――そしてそのことが、昌作を或る暗い所へ引きずり込んでいった。彼は何だか形体(えたい)の知れない壁にぶつかったようで、息苦しさまで覚えた。「つきぬけなければならない、つきぬけることが必要だ、」そう彼は心で叫んだ。それと共に、沢子に対する愛情が激しく高まってきた。彼にとっては、宮原俊彦こそ、沢子へ縋りつこうとする自分を距てる毒虫のように思えた。――けれど、不思議にも、宮原俊彦に対するそういう反感は、昼間の明るい光の中でこそしっかりしているが、夜にでもなって、何か一寸した変化でもあれば、すぐにわけなく消え去っていって、全く反対のものになりそうなことを、彼は心の奥の方で感じたのである。――昌作はどうしても落着けなかった。何とかしなければならなかったが、それが分らなかった。
 彼は考え込みながら、ぶらりぶらり歩いた。そのうちに何もかも投げ出したい気持になって、わりに呑気になった。空腹を覚えたので、見当り次第の家で一寸昼食(ランチ)を取って、それから、全く知らない碁会所へはいり込んで、日当りの悪いがらんとした広間で、主人と手合せをやった。それにも倦いて、四時頃表へ出て、またぼんやり歩き出した。そしてふと彼は足を止めた。晩秋の淋しい光が、くっきりとした軒並の影で、斜め上から街路を蔽いつくしていた。彼は急いで下宿に帰ってみた。昨日の今日だから、或は沢子から手紙なり電話なり来てるかも知れないと、突然そんな気がしたのである。
 下宿で彼を待ち受けていたのは、沢子からの便りではなくて片山からの電話だった。朝から二度ばかりかかってきたと女中が云った。
 昌作は約束の四五日が今日でつきることを思い出した。然し彼にとっては、その四五日が如何に長い時日だったろう。彼は遠い昔のことをでも思い出すように、五日前の片山夫妻との約束を考えた。そして、九州へ行かないことにいつしか決定してる自分の心に気付いて、自ら喫驚した。自然に決定されたのだ、という気がした。
「何とでもその場合に応じて断ってやれ。」
 そう捨鉢に心をきめて、彼は片山の家へ行ってみた。今から行けば丁度夕飯時分で、夫妻といつものように会食するということが一寸気にかかったけれど、構うものかとまた思い返した。
 禎輔は不在で達子が一人だった。昌作は何故ともなく安堵の思いをした。達子は彼の姿を見て、待ちきれないでいたという様子を示した。
「佐伯さん、一体どうしたの? あんなに電話をかけたのに……。昨日も今日も五六回の上もかけたんですよ。するといつも居ない、居ないって、まるで鉄砲玉みたいに、何処へあなたが行ったか分らないんでしょう。私ほんとに気を揉んだのよ。変に自棄(やけ)にでもなって、何処かで酔いつぶれでもしてるのじゃないかと、そりゃあ心配したんですよ。……でも、宿酔のようでもないようね。一体どうしたんです? 電話をかけたらすぐに来て下さいって、あんなに頼んどいたのに……。」
 黒目の小さな輝いた眼がなおちらちら光って、受口(うけぐち)の下唇をなお一層つき出してるその顔を、昌作は不思議そうに見守った。
「あなたも御存じじゃありませんか、私は此頃はわりに謹直になって、酒なんか余り飲みはしません。ただ、一寸用事が出来たものですから、その方に駈けずり廻っていたんです。」
「でも昨日はあんなに雨が降ったのに、その中を……?」
「雨くらい平気ですよ。」
「嘘仰言い、懶惰(ものぐさ)なあなたが!……それじゃ、やはりあのことで?」
 昌作は自分の心が憂鬱になってくるのを覚えた。達子が沢子のことを云ってるのだとは分ったが、それを今話したくなかった。そして言葉を外らした。
「何か僕に急な御用でも出来たんですか。」
 達子は眼を見張った。
「急な用ですって?……あなたはもう忘れたの?……四五日うちに返事をするって約束したじゃありませんか。あれから今日で幾日になると思って? 丁度五日目ですよ。まあ、馬鹿々々しい! 当のあなたが平気でいるのに、私達だけで心配して……。あなたくらい張合いのない人はないわ。片山はね、あなたがあんまり心をきめかねてるのを見て、何か岐度他に心配があるに違いないと云うんでしょう。私あなたの言葉もあったけれど、実はこうらしいって、あなたが話したあのことを打明けたんですよ。すると片山は長く考えていましたっけ。そして、そういうことなら、その方はお前が引受けて、まとまるものならまとめてやるがいい、何も九州へ行くことが是非必要というのじゃないから、他に東京で就職口を探してやろうと、そう云うんですよ。それから、一体佐伯君が恋してるっていうその女は、どういう種類の女かって、しつこく聞かれたものですから、私よく分らないけれど、お友達の妹さんかなんか、そんな風な、ハイカラな女学生風の令嬢らしいと、そう云ってしまったんですが、……どう? そうじゃなくって?」
「女学生風の令嬢だなんて、どうしてそんなことに……。」
「なりますとも。だってあなたは、その女が自分にとっては、光明だとか太陽だとか、そんなことをくり返し云ってたでしょう。あなたのように、玄人(くろうと)の女をよく知ってる人で……そうじゃありませんか、盛岡のことだって、またその後のことだって、考えてごらんなさいな……そういう人で、相手が芸者だの……珈琲店(カフェー)の女だのの場合に、それが私にとっては光明だの太陽だのと、そんなことを云うものですか。そんなことを云うからには、相手は若いハイカラな……令嬢というにきまってるわ。ね、当ったでしょう。……何もそんなに喫驚しなくったっていいわよ。」
 然し昌作が呆気(あっけ)にとられたのは、彼女のいつもの早急な一人合点からとはいいながら、女学生なんかは大嫌いだと平素彼が云ってた言葉を忘れてしまって、どこかのハイカラな女学生風の令嬢だと勝手にきめてる、そのことに就いてだった。そしてそのことから、彼の気分は妙に沈んできて、ただ自分一人の心を守りたいという気になった。
「ねえ、もうこうなったら、仕方ないから、何もかも仰言いよ。……何処の何という人? 私出来るだけのことはしてあげるわ。」
「もう暫く何にも聞かないでおいて下さい。」と昌作は眼を伏せたまま云った。「私はまだ何にも云いたくないんです。あなたの仰言るような、そんな普通の恋じゃないんです。恋……といっていいかどうかも分りません。何だかこう……私自身が駄目になってしまいそうなんです。いろんなことがごたごたしていて、とんでもないことになりそうです。……私はもう少し考えてみます。考えさして下さい。私の心が……事情がはっきりしてきたら、すっかりお話します。是非お力をかりなければならなくなるかも知れません。けれど、今は、今の所は、自分一人だけのことにしておきたいんです。……馬鹿げた結果になるかも知れません。下らないつまらないこと、になるかも知れません。……まるで分らないんです。はっきりしてからお話します。」
「だって私、何だか心配で……。」
「私一人だけのことなんです。私一人だけのことが、どうしてそんなに……。」
「心配になりますとも!」と達子はふいに大きな声を出した。「私あなたのことなら、何でも気にかかるんだから、そう思っていらっしゃいよ。お前はどうしてそう佐伯君贔屓にするかって、片山もよく云うんですが、ええ、贔屓にしますとも! あなたのことなら何でもかでも気にかかって、一生懸命になってみせますよ。私あなたを弟のような気がしてるから……私にも片山にも弟なんかないから、あなたを弟と思ってるから、気を揉むのは当り前ですよ。」
 昌作には、何で彼女が腹を立ててるのか訳が分らなかった。けれど何故となく、非常に済まないという気がした。彼女を怒らしたのを、非常に大きな罪のように感じた。彼は突然涙ぐみながら云った。
「済みません。僕が悪かったんです。」
「悪いとか悪くないとかいうことではありません……。」そう云っておいて達子は、長く――昌作が待ちきれなく思ったほど長く、黙っていた。そして静に云い続けた。「実際私は気を揉んだんですよ。四五日とあなたが約束したでしょう、そして一方に、そういう女の人があるでしょう、そしてそのまま音沙汰なしですもの、あなたがどんなにか苦しんでるだろうと思って、自分のことのように心配したのよ。それに、片山はああ云うし、そのことも早くあなたに伝えたいと思って、昨日から幾度電話をかけたでしょう。片山はまた片山で、何だかあなたに逢うことを非常に急いでいたんです。東京にいい口があるのかも知れませんよ。私には何とも云わないで、ただ話があると云うきりですが……。そうそう、あなたがいらしたら、会社の方へ電話をかけてくれって云っていました。一寸待っていらっしゃい、今かけてみますから。」
 達子が立上って電話をかける間、昌作は変な気持でぼんやり待っていた。ハイカラな女学生風の令嬢だの、九州へは行かないでもよいだの、弟だの、禎輔から急な話があるだの、そんないろんなことが、まるで見当違いの世界へはいり込んだ感じを彼に起さした。そして、電話口から戻って来た達子の言葉は、更に意外な感じを彼に起さした。
「あの、あなたにすぐ武蔵亭へ来て貰いたいんですって。片山はあすこで二三人の人と会食することになっていて、今出かける所だと云っています。けれど、食事をするだけだから、そして、何だか嫌な人達だから、あなたが来て下されば、逃げ出すのによい口実になるから、なるべく早く来て下さいって。……丁度いいじゃありませんか。うんと御馳走さしておやりなさいよ。武蔵亭、御存じでしょう。片山の会社のすぐ近くの西洋料理屋。……私も一緒に行きたいけれど、お前が来ちゃあ都合が悪いって、人を馬鹿にしてるわ。」
 達子が平気でそう云うのを見て、昌作はまた一寸変な気がした。彼の頭に、その瞬間に、或る漠然とした疑惑が生じたのだった。禎輔の胸の中に何かがあるのではないかしら? 昌作は先日の禎輔の様子を思い出した。
 暫く考えてから彼は、達子の言葉に従って、兎も角も武蔵亭へ行ってみようと決心した。何かを得らるればそれでよいし、得られなければ上等の洋酒でも沢山飲んでやれ、とそんな気になった。そして、今からではまだ早いと達子が云うのを、下宿に一寸寄って行くからと断って、慌だしく辞し去った。
 彼が立上ると、達子は後から送って来ながら云った。
「後で、明日にでも、どんな話だったか、私に聞かして下さいよ。私一寸気になることがあるから。」
 昌作は振返った。然し彼女は先を云い続けていた。
「でも、何でもないことかも知れないわ。案外いい話かも知れないわ。……それから、その女の人のことね、気持がきまったら聞かして下さいよ。その方は私の受持だから。……私がうまくまとめてあげますから、ほんとに、心配しないでもよござんすよ。」
 昌作は外に出て、急に、何だか達子へ云い落したことがあるような気がした。といって、それが何であるかは自分でも分らなかった。考えてもおれなかった。禎輔の話というのがしきりに気にかかった。
 けれど、実際達子が云ったように、すぐに行っては食事中だと気がついて、途中で電車を下りて少しぶらついてから、まだ早いかも知れないとは思いながらも、待ちきれないで武蔵亭へはいって行った。
 片山の名前を告げると、彼はすぐボーイに案内されて、二階の奥まった室へ通された。そして一目で、自分の疑惑が事実であることを見て取った。
 一方が隣室との仕切戸になっていて、三方白壁の、天井が非常に高く思える、狭い室だった。天井から下ってる電燈の大きな笠と、壁に懸ってる一枚の風景画との外には、殆んど装飾らしいものは何もなく、真中に長方形の卓子が一つ、椅子が三四脚、そして小さな瓦斯煖炉の両側に、二つの長椅子が八の字形に並べてあった。その一方に、外套と帽子とを傍に放り出して、背広姿の片山禎輔が、先刻からぽつねんと待ちくたびれて、そして何か考えに沈んでいたという風に、腰掛けていたのである。――昌作は初め、禎輔が他の客と会食中なのでこの室に待たせられることと思ったが、一歩足を踏み入れて禎輔の姿を認めるや否や、はっと思った警戒の念から、それらのことを一目に見て取った。
 禎輔は先程からの沈思からまだ醒めないかのように、顔の筋肉一つ動かさないで、それでも落着いた声で、彼に云った。
「遅かったね。すぐに来るようにと云ったんだが……。」
 昌作は一寸どぎまぎした。
「でも、あなたは他の人と会食なさるというお話でしたから、時間をはかって来たんです。もうお済みになりましたか。」
「うむ……。」と禎輔は曖昧な答えをした。「君は食事は?」
「済みました。」
 うっかりそう遠慮深い答えをしたのに、昌作は自ら一寸面喰った形になって、急いで一方の長椅子に腰を下した。
「じゃあ、何処かへ酒でも飲みに行こうか。どうだい? 君のあそび振りも一寸見たい気がするね。」
 昌作は不快な気がした。揶揄されてるのだと思った。彼が先(せん)にちょいちょいあそんだのは、禎輔等のそれと違って――禎輔が会社の方の交際でそんな場所に時々足を踏み入れていることを昌作は知らないではなかった――それと違って、比べものにならないほど安っぽい所でだった。而も彼は近来、そんな所からさっぱり足を抜いてしまっていたのである。
「いやに変な顔をするじゃないか。」と禎輔は云った。「酒を飲むのだって仕事をするのだって、結局は同じことだろうよ。どちらも生きてる働きなんだからね。。……だがまあいいさ。それなら、此家(ここ)に上等の葡萄酒があるから、そいつでも飲もうよ。」
 禎輔はボーイを呼んで、料理を二三品と、フランスから来たあの上等のを瓶のまま二本ばかり持って来いと命じた。そして、それが来るまで彼はやたらに金口(きんぐち)を吹かして、昌作にもすすめた。昌作もやはり黙ってその煙草を吹かしながら、向うから話し出されるのを待った。が禎輔の言葉は、彼が全く予期しない方面のことだった。
「僕はね、」と禎輔は葡萄酒の杯を挙げながら云い出した。「芭蕉の句集をこないだから読み出してみたのだが、僕のような門外漢にもなかなか面白いよ。そして、ふと馬鹿なことを思いついて、こころという字があるものだけをより出してみたのさ。何でも十四五句あったようだ。みんなは覚えていないが……実際そう胸にぴんと響くのは少いようだね。
魚鳥のこころは知らず年のくれ
七夕のあわぬこころや雨中天
葉にそむく椿や花のよそごころ
椎のはなの心にも似よ木曽の旅
住つかぬ旅のこころや置火燵
 その他まだ沢山あったがね、そのうちで僕の心を惹いたのが二つあるよ。
もろもろの心柳にまかすべし
野ざらしを心に風のしむ身かな
 この二つのうちで、君、文学的に云ってどちらが傑れてるのかね。君は僕よりもこんなことには明るいのだろう……。」
 昌作は、禎輔が先日持出した句のことを思い出した。
「あなたの云われるのは、文学的価値ではなくて、思想的価値のことでしょう?」
「そう、思想的価値、先ずそんなものだね。……僕は野ざらしをの方が先達てまでは好きだったものさ。所が其後、もろもろのの方が好きになったよ。そして、君を……また自分を、余り苦しめたくなくなったのだ。」
 昌作は驚いて禎輔の顔を見つめた。が禎輔は、じっと葡萄酒の瓶の方に眼を注いで、何度も杯を重ねた。
「君、この葡萄酒は旨(うま)いだろう。こいつを一人で一本ばかりやっつけると、愉快な気持になって踊り出したくなるよ。君もっとやらないか。」
「ええ。」と昌作は答えておいて、機会を遁すまいとあせった。「それで……そのことで……私は九州へ行かなくてよくなったのですか。何だか私にはさっぱり分りませんけれど、奥さんが……。」
「ああ、達子は何と云っていた?」
「九州へ行かないでもいいし、それに……あなたが私に急なお話があるとかで……。」
「それだけ?」
 禎輔の眼付が急に鋭くなったのを昌作は感じた。彼は何にも隠せない気がした。
「それから、私の……女のことについて。」
「君はその女のことをすっかり達子に話したのか。」
「いえ、その方のことは私が引受けてやると奥さんは云われたんですけれど、まだ私の方の気持がはっきりしないものですから、詳しくは話しません。」
「それだけか、達子が君に云ったことは?」
「ええ。」
「達子は君が何処かの令嬢に恋(ラブ)したんだと云ってたよ。」
「令嬢じゃないんです。」
「でも若い女なんだろう?」
「ええ。」
 禎輔はまたそれきり黙り込んでしまった。昌作は不安な予想に駆られて、苛ら苛らしてきた。
「急なお話って、どんなことですか。」
「君は、僕がなぜ九州なんかへ君を追いやるのかと疑ったね。」
 禎輔は急に額を曇らせながら、ゆっくりした調子で云った。昌作は喫驚した。そして急いで弁解しようとした。その言葉を禎輔は遮った。
「君が疑うのは道理(もっとも)だよ。そして、実は、君がその疑いを達子へ洩らしたために、僕は可なり安心したのだ。うち明けて云えば、僕は達子に暗示を与えて、君の心を探ってみたのさ。すると、達子がうまくその使命を果したというわけだよ。」
 昌作にはその謎のような言葉の意味が更に分らなかった。禎輔はまた云った。
「君が達子へ向って、片山さんはなぜ私を九州なんかへ追い払おうとなさるんでしょう、と云ったことと、それから、君に若い恋人(ラヴァー)があるということとで、僕は自分が馬鹿げたことに悩んでるのを知ったのだ。そして、いろいろ考えてみて、一層何もかも君にうち明けて、さっぱりしたいという気になったのだ。……これだけ云えば、君にも大凡分るだろう?」
 然し昌作には更に分らなかった。彼は何か意外なことが落ちかかってくるのを感じて、息をつめて待ち受けた。
「じゃあ、君は知らなかったのか」と禎輔は低い鋭い声で云った。「そうでなけりゃ、忘れてしまったのだ。……いや知ってた筈だ。」
「何をです?」
「僕と君のお母さんのことを。」
「あなたと母のこと?」
 禎輔は彼の眼の中をじっと見入った。
「僕と君のお母さんとの関係さ。」
「関係って……。」
 その時昌作は、今迄嘗て感じたことのない一種妙な気持を覚えたのである。頭の中にぽーっと光がさして、すぐに消えた。そのために、もやもやとした遠い昔の記憶の中に見覚えのあるようなまたないような一つの事柄が、眼を据えても殆んど見分けられないくらいの仄かさで浮き出してきて、それが一寸した心の持ちようで、現われたり消えたりした。夢の中でみて今迄忘れていたことが、突然ぼんやりと気にかかってくる、そういった心地だった。勿論、一つの場面も一つの象(すがた)も彼の記憶に残ってはしなかった。けれど、何だかそれをよく知っていたようでもあった。知っていながら忘れていたようでもあった。漠然と感じたまま通りすぎてきたようでもあった。或は初めから知りも感じもしないのを、今突然想像したようでもあった。――彼は見えないものを背伸びして強いて見ようとするかのように、じっと自分の記憶の地平線の彼方に眼を定めたが……ふいに、そうした自分自身に気がついて、顔が真赤になった。
「君はあの頃もう十一二歳になってたから、普通なら当然察するわけだが、頗る活発で無頓着で今とはまるで正反対の性質らしかったから、或はぼんやり感じただけで通りすぎたのかも知れないが……。」
 そこまで云いかけた時禎輔は、昌作が真赤になってるのを初めて気付いたらしく、突然言葉を途切らしてじっと彼の顔を見つめた。そして急き込んで云った。
「君は知ってたじゃないか!」
 昌作は宛も自分自身に向って云うかのように、低い声で呟いた。
「昔から感じてたことを、今知ったようです。」
「昔から感じてたことを今知った……。」そう禎輔は彼の言葉を繰返しておいて、俄に皮肉な調子になった。「なるほど、そうかも知れない。君のお母さんは利口だったからね、そして僕も利口だったのさ。そして君はうっかりしてたものだ。」
 昌作はもう堪え難い気持になっていた。彼は哀願するような眼付を、じっと禎輔の顔に注いでいた。それを見て禎輔は、非常な努力をでもするもののように、肩をぐっと引緊めて、それから落着いた調子で云った。
「許してくれ給い。僕はこんな風に云う筈じゃなかったのだが……。僕は君が非常に素直な心持でいることを知っている。そして僕も実は素直に話したいのだ。」そして暫く黙った後に彼はまた続けた。「僕が高等学校の時だ。君の家が、君とお母さんと二人きりで淋しいものだから、僕は君の家に寄宿していたね。あの時、僕は君のお母さんを姉のように募ったし、君のお母さんは僕を弟のように可愛がってくれた。そして僕達は極めてロマンチックな愛に落ちたのだった。僕は小説家でないから、それを詳しく説明出来ないが、君にも大体は分るだろう。そんな風だから、普通そういう関係にありがちな、猥らなことなんかは、少しもなかったのだ。君がはっきり気付かなかったのも、恐らくそのせいだろう。だが君も知ってる通り、僕がこちらの高等学校を出ると、わざわざ京都の大学へ行ってしまったのは、実はそのことを罪悪だと意識したからだった。然し僕は君のお母さんに対しては、今でも清い愛慕の念を持っている、姉と母と恋人とを一緒にしたような気持で……。え、君はなぜ泣くんだい?」
 昌作は禎輔の言葉をよく聞いていなかった。ただ何故ともなく胸が迫って来て、いつしか眼から涙がこぼれ落ちたのだった。彼は禎輔に注意されて初めて我に返ったかのように、そして自分自身を恥じるかのように、葡萄酒の杯の方へ手を差伸ばした。
 禎輔は彼の様子を暫く見守っていたが、やがてふいに立上って室の中を歩きだした。そして卓子のまわりを一巡してきてから、また元の所へ腰掛けて、何か嫌なものでも吐き出すように、口早に話し初めた。
「僕は君に要点だけを一息に云ってしまうことにしよう。判断は君に任せるよ。……君が盛岡であんなことになって、東京に帰ってきてからものらくらしてるのを見て、僕達は影で可なり心配したものなんだ。なぜって、僕達は間接に君の保護者みたいな地位に立ってるのだからね。そして君の心を察して、初めは何とも云わないで放っておいたが、もうかれこれ二年にもなるのに、君がまだぼんやりしてるものだから、達子が真先に気を揉み初めたのだ。そして君自身も、今に生活をよくしてみせると、口でも云い、心でも願っていたろう。それに僕は、君に一番いけないのは仕事がないからだと思ったのだ。何も僕は、君に月々補助してる僅かな金銭なんかを、かれこれ云うのではない。このことは君も分ってくれるね。……そこで、僕は君のために東京で就職口を探してみたが、僕の会社の社長にも相談してみたが、どうも思うような地位がないものだから、何の気もなく……全く何の気もなくなんだ、九州の時枝君のことを思いついて、手紙で聞き合してみると、案外いい返事なんだろう。で僕もつい乗気になって、本式に交渉して、あれだけの有利な条件を得たわけなんだ。時枝君の方では、古い話だが、僕の父の世話になったことがあって、その恩返しって心もあるに違いない。所が、この九州の炭坑ということが……偶然そんなことになったのだが、その偶然がいけなかった。九州の炭坑と聞いて、君が逡巡してるうちに、そして僕から云わすれば、九州へ行くくらい何でもないし、非常に有利な条件ではあるしするから、君にいろいろ説き勧めてるうちに、ふと僕は自分の気持に疑惑を持ち初めた。君を九州へ追い払おうとしてるのじゃないかしらと……。」
 禎輔は葡萄酒の杯を手に取りながら、暫く考えていた。
「僕自身にも何だかはっきり分らないが……前後ごたごたしていて、要領よく話せないが……要するにこうなんだ。その時になって、頭の隅から、君のお母さんと僕とのことが、ふいに飛び出して来たのさ。そして僕は、一寸自分でも恥かしくて云いづらいが、達子と君とのことを……疑ったのでは決してないが、君のお母さんと僕とのことが一方にあるものだから、今に僕が死んだら、達子と君とが同じようなことになりはすまいかと、いや、僕が生きてるうちにも、そんなことになりはすまいかと、現になりかかってるのではあるまいかと、馬鹿々々しく気になり出したものさ。君は丁度、僕が君のお母さんに馴れ親しんでたように、達子に馴れ親しんでいるからね。」
 昌作は驚いて飛び上った。それを禎輔は制して、また云い続けた。
「まあ終りまで黙って開き給え。……そこで、一口に云えば、僕は君と達子との間を嫉妬したのさ。僕が嫉妬をするなんて、柄(がら)にもないと君は思うだろう。全く柄にもないことなんだ。然しその時僕の頭の中では、僕と君のお母さんとのことと、君と達子とのこととが、ごっちゃになってしまっていた。それに、君が九州行きをいやに逡巡してるものだから、或は達子に心を寄せてるからではあるまいかと、変に気を廻してしまった。それを肯定する考えと、それを否定する考えとが、僕の頭の中では争ったものだ。そしてまた一方には、僕は嫉妬の余り君を九州へ追い払おうとしてるのだと、自分で思い込んでしまったのさ。そしてまた、それを自分で責め立てたのだ。君を追い払わなければいけないという考えと、そんなことをしてはいけないという考えとが、頭の中で争ったものだ。こう別々に云ってしまえば何でもないが、そんないろんなことが、それにまた他のことも加わって、一緒にごった返して、僕の頭はめちゃめちゃになってしまった。全く神経衰弱だね。神経衰弱にでもならなければ、こんなことを考えやしない。……それでも僕は、自分を取失いはしなかった。そして達子のあの率直な快活さも、僕には力となった。それからいろんなことがあって、結局僕は達子を使って君の心を探偵してみたのだ。そして、片山さんはなぜ私を九州なんかへ追いやるのだろうかと、君が達子へ聞いたことと、君が他に若い女を愛してるということとが、僕にとっては光明だった。なぜって、君がもし達子へ心を寄せてるのなら、自分で気が咎めて、達子へ向ってそんなことを聞けるものではない。若い女の方のことは、云わないでも分りきった話だ。……それから僕は、次第に考えを変えてきて、君を九州なんかへやらない方がよいと思ったのだ。君を九州へやることは、君自身を苦しめるばかりでなく、僕をも苦しめることになるからね。然し、是非とも君が行きたいと云うなら別だが……君は行きたくはないんだろう?」
「行かないつもりでしたが、然し……。」と昌作は口籠った。
「然しだけ余計だよ。そんなことは打棄(うっちゃ)ってしまうさ。……がまあ、今晩はゆっくり話をしよう。そして、このことは達子には内密(ないしょ)にしといてくれ給い。彼女(あれ)の心を苦しめたくないからね。」そして禎輔は何かを恐れるもののように室の中を見廻した。「もっと飲もうじゃないか。どしどしやり給い。」
 然し昌作は、云われるまでもなく、先程からしきりに杯を手にしていた。禎輔の話をきいてるうちに、頭の中が変にこんぐらかってきて、判断力を失いそうな気がしたのである。
「人間の頭って可笑しなものだ。」と禎輔は半は皮肉な半ば苛立った調子で云い出した。「思いもかけない時に、思いもかけない古いことが飛び出してきて、それがしつこく絡みつくんだからね。然し考えてみると、僕は昔の自分の罪から罰せられたようなものさ。そうだ、その罪の罰なんだ。そして、君がお母さんの子だということがいけなかったのだ。全く別の男なら、いくら達子と親しくしようと、僕はあんな馬鹿げた考えを起しはしない。然し君は、君のお母さんの子だ。それがいけないのだ。」
 昌作はその言葉を胸の真中に受けた。今にも何か恐ろしい気持になりそうだった。然し彼はそれをじっと抑えて、唇を噛みしめた。すると、禎輔は突然荒々しい声で云った。
「君は怒らないのか。……怒ってみ給い。怒るのが当然だ。」
 昌作は身を震わした。侮辱……というだけでは足りない或る大きな打撃を、禎輔の全体から受けたのである。そして、自分が今にも何を仕出かすか分らない恐れを感じた。彼はじっと、煖炉の瓦斯の火に眼を落して煙草を手にしてる禎輔の顔を、次にその眉の外れの小さな黒子(ほくろ)を見つめた。その時、禎輔は吸いさしの煙草を床に放りつけて、眼を挙げた。その眼は一杯涙ぐんでいた。
「佐伯君、」と禎輔は云った、「僕が何で君にこんな話をしたか、その訳を云おう。普通なら、この話は僕達三人に悪い影響を与えそうだ。三人の間に或る気まずい垣根を拵えそうだ。然しそんなことは、僕と君とさえしっかりしていれば、何でもないことだ。或は却っていい結果になるかも知れない。達子は少しも知らないんだからね。それで僕は、思い切って君に打明けることにしたのだ。自分の心をさっぱりさしたい気もあった。然し実は、人間の心に、……魂に、過去のことが思いもかけない時にどんな影響を与えてくるか、それを君に知らしたかったのだ。あの盛岡の女の事件みたいな、単なる肉体上の事柄じゃない。もっと深い心の上の問題だ。それを僕は君のために、あの……。」
 禎輔は云いかけたまま、変に考え込んでその先を続けなかった。昌作は或る不安な予感に慴えて、立上って歩き出した。禎輔の調子が低く落着いてるだけに、それが猶更不安だった。その上昌作は、もう可なり酔っていた。自分でも何だか分らない種々の幻が、頭の奥に入り乱れていた。それが歩毎にゆらゆら揺めくのを、不思議そうに見守っていた。するうちに、彼はふと立止った。禎輔の様子が急に変ったのを感じたのである。禎輔はきっぱりした調子で云った。
「僕は君のことを考えたのだ。あの柳容堂の沢子と君とのことを。」
 昌作は殆んど自分の耳を信じかねた。
「君が恋(ラヴ)してるというのはあの女のことだろう?」
「ええ。」と昌作は口と眼とをうち開いたまま機械的な答えをした。
「僕がそれを知ってるというのが、君には不思議に思えるかも知れないが、実はごく平凡なことなんだ。少し注意しておれば、何でも分るものさ。会社の男で、君の顔を知ってる者がいてね……君の方でも知ってるかも知れないが、名前は預っておこう。その男から僕は、柳容堂の二階へ君が度々行くということを、聞いていたのだ。そして、達子から君に恋人(ラヴァー)があるということを聞いた時、何故かそれを思い出して、実はすぐに彼処(あすこ)へ内々探りに行ったものさ。すると果してそうなんだ。……僕はこれで、秘密探偵の手先くらいはやれる自信があるね。」
 それから彼は突然、非常に真面目な表情になった。
「僕の頭にあの女のことが引掛ってたというのには理由がある。あの女が彼処に出だして間もなく、今年の梅雨の前頃だったろう、会社の或る若い男が――これも名前は預っておこう――あの女に夢中になったものさ。僕も二三度引張って行かれたが、あの女には確かに、プラトニックな恋(ラヴ)の相手には適してるらしいエクセントリックな所があるね。そのうち二人の関係は可なり進んだらしく、一緒に物を食いに歩いたりしたこともあるそうだ。所が可笑しいじゃないか、愈々の場合になってあの女はその男をぽんとはねつけたものさ。何でも、私はやはり……、」そして禎輔は、其処につっ立てる昌作の顔をじっと見つめた、「やはり宮原さんを愛しています、というようなことでね。」
 昌作は立っておれなくなって、長椅子の上に倒れるように腰を下した。
「このことを君はどう思う?……僕は宮原という男とあの女との関係をよくは知らない。君はもうよく知ってるだろうが……何でも宮原という男は、子供のある妻君を追ん出してまでおいて、そのくせあの女と一緒にはならずに、而も往き来を続けてるというじゃないか。二人の間には常人には分らないよほど深い何かの関係があるものだと、僕は思うよ。それからまた一方に、あの沢子という女は、胸の奥底は非常にしっかりしていながら、精神的に……或は無自覚的に、可なり淫蕩な……というのが悪ければ、遊戯心の強い女だと、僕は思うのだ。僕の会社の男が引っかかったのもそこだ。……それで、僕は君のために心配したのさ。君の方で次第に深入りしていって、最後に、私はやはり宮原さんを愛しています、とやられたらどうする?……或はまたうまく君達が一緒になったとした所で、あの女の心に宮原のことがいつ引っかかって来ないものでもない。手近な例はこの僕自身だ。頭の隅に放り込んで殆んど忘れていた遠い昔のことが、ごく僅かな機会に、全く何でもない場合に、ふいに僕を囚えてしまったじゃないか。ましてあの女と宮原とは、僕みたいな古い昔のことでもないし、そんななまやさしい関係でもない。心の奥まで、魂の底まで、深く根を下してる何かがあると、僕は思うのだ。……このことさえ君が分ってくれれば、他のことはどうでもいい。僕と君のお母さんとの話なんかも、嘘だったとしてもいいさ。ただ僕は君に、盛岡の二の舞をやってくれるなと、老婆心かも知れないが、切に願いたいのだ。こんど変なことになったら、君の生活はもう二度と立て直ることはないだろう、という気が僕にはする。」
 昌作は咽び泣きが胸元へこみ上げてくるのを覚えた。身体中が震えた。そして叫んだ。
「そうです。此度躓いたら、私の生活はもう立て直りはしません。まるで暗闇です。何にも私を支持してくれるものはないんです。私はどうしていいか分らなくなります。……此度躓いたら、もう何もかも駄目です。私自身は駄目になってしまうんです。もう立上ることが出来ないかも知れません。もう今迄のようなぐうたらな生活を続けることも出来ないし、働くことも出来ないかも知れません。全くめちゃくちゃになりそうです、此度躓いたら……。」
 然し彼の心は別なことを感じていた。それは「此度躓いたら」ではなくて、「沢子を失ったら」であった。彼はその時、沢子こそ自分の生活を照らしてくれる光であることを、ひしと感じたのだった。生活を立て直すには、仕事を見出すことが第一であると禎輔は云ったが、また、何をやるかという方向を見出すことが第一であると俊彦は云ったが、それよりも実は、沢子こそ最も必要であることを、彼は感じたのだった。沢子を失ったら、凡てが暗闇のうちに没し去るということを、感じたのだった。――そして彼は突然涙に咽んで云った。
「考えてみます。……よく考えてみます。」
 禎輔は一寸肩を聳かした。昌作の言葉とその心との距りを少し気付き初めたかのように、彼の顔をじっと見つめた。がその時昌作は、自分の心を曝すのが堪え難くなって、咄嗟に、殆んど滑稽なくらい突然に、卓子の方へ向き直りながら云った。
「少し腹が空きましたから……。実は食事をしていなかったのです。」
 禎輔は呆気(あっけ)にとられてぼんやり眼を見張ったが、やがて機械的に立上って云った。
「つまらない嘘を云ったものだね。……だが、僕も実は碌に食事をしなかったのだ。」
 彼は冷たくなった料理を退けて、新らしく料理を註文した。勿論葡萄酒も更に一瓶持って来さした。二人は変に黙り込んで食事をした。食うよりも飲む方が多かった。
「君、今晩は酔っ払って構わないから、沢山やり給い。」
 そんなことを云いながら禎輔は、急に昌作の眼の中を覗き込んだ。
「然し、思切って恋をするのもいいかも知れない。恋は若い者の特権だと誰かが云っていた。……だが、あの女のことはなるべく早く達子へすっかり打明け給い。早く打明けなければいけないよ。」
 何故? と問い返そうと昌作は思ったが、口を開かない前にその思いが消えてしまった。彼は早く一人きりになりたかった。一人きりになって考えたかった。何を考えていいか分らなかったが、頭の中に雑多な幻影が立ち罩めて、それが酔のために、非常に眼まぐるしく回転して、自分を駆り立てるがようだった。彼はむやみと葡萄酒を飲んだ。熱(ほて)った額に瓦斯煖炉の火がかっときた。そして頭が麻痺していった。本当に酔ってしまった。禎輔も可なり酔っていた。話は当面の事柄を離れて、一般的な問題に及んでいった。その問題で二人は論じ合った。――昌作の頭には、自分が次のようなことを云ったという記憶しか残らなかった。
 ――自分は盛岡で、フランス人の牧師に一年ばかり私淑していた。そしてその牧師から、自分が本当にクリスチャンにはなれないということを、明かに指摘された。「イエス彼に曰(い)いけるは主たる爾の神を試むべからずと録(しる)されたり。」けれども自分は、神を試みてからでなければ神を信じられなかった。
「誠に実(まこと)に爾曹(なんじら)に告げん一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにて存(あ)らんもし死なば多くの実を結ぶべし。」けれど自分は、自分自身のことしか考えていなかった。「爾曹もし瞽(めしい)ならば罪なかるべし然(さ)れど今われら見ゆと言いしに因りて爾曹の罪は存(のこ)れり。」けれど自分は、そういう罪を負ったパリサイ人になら甘んじてなりたかった。そして今でも甘んじてなりたいと思っている。……自分は人生の落伍者であり、人生に対する信念を失ってはいるが、実はその信念を衷心から得たい。そしてそれを得ることは、先ず自分自身に対する信念を得てからでなければ出来ないように思われる。自分自身をつっ立たせることが第一である……。

     六

 昌作は、夜中に、唸り声を出して眼を開いた、そしてまたうとうととした。そんなことを何度か繰返した。朝の九時頃にまた、自分の唸り声にはっと我に返ると、此度は本当に眼を覚してしまった。
 何のために唸り声を出したか、それは彼自身にも分らなかった。或る切端つまった息苦しい考え――どういう考えだかは彼も覚えていない――のためだったか、或は葡萄酒の酔のためだったか、否恐らく両方だったろう。頭の中がひどくこんぐらかって、そして脳の表皮が石のように堅くなって、そして恐ろしく頭痛がしていた。
 彼は仕方なしに、顔を渋めて起き上った。冷たい水を頭にぶっかけておいて、かたばかりの朝食の箸を取り、丁寧に髯を剃り、乾いた頭髪へ丁寧に櫛を入れ、それから、やって来た猫を膝に抱きながら、炬燵の中に蹲って、ぼんやり考え込んだ。室の中の空気が妙に底寒くて、戸外には薄く霧がかけていた。
 彼は或る計画を立てるつもりだった、もしくは、或る解決の途を定めるつもりだった。――濃霧の中にでも鎖されたような自分自身を彼は感じた。九州行きの問題も、自然立消えのようでいて、実はまだ宙に浮いていた。片山禎輔の告白によって、片山夫妻と自分との間に、新たな引掛りが出来てきそうだった。宮原俊彦に対しても、このままでは済みそうにない何かが残っていた。そして沢子! 彼女一人が、それらのものの中に半身を没しながらも、俊彦との関係や禎輔の批評などを引きずりながらも、なお高く光り輝いているように、彼の眼には映ずるのだった。そして、その沢子を得るには、どうしたらよいかを彼は考えた。慎重にやらなければいけない、とそう思った。不思議にも、この慎重ということが、今の場合彼には大事だった。もし軽率なことをしたら、高く輝いている沢子までが、いろんなごたごたしたものの中に沈み込んでしまいそうだった。そうしたら、自分自身がどうなるか分らない気がした。どんなことがあっても、沢子だけは高く自分の標的として掲げておきたかった。――そういう彼の気持を強めたのは、一つは亡き母のことだった。彼は母に対して、一種敬虔な思慕の念を懐いていた。そして母と禎輔との関係については、別に憤慨の念は覚えなかった。それを彼ははっきり考えたことはなかったが、前から知ってるようでもありまた知らないようでもあった。が何れにしても、それは遠い昔のことだった。けれども彼は、今突然はっきりしてきたその事柄から、深い絶望に似た憂鬱と寂寥とを覚えた。母のことではなく、自分自身のことが、堪え難いほど悲しく淋しかった。沢子、お前だけはいつまでも僕のために輝いていてくれ! そして彼は涙と焦燥とを同時に感じた。然し、慎重にしなければならなかった。といって、愚図愚図してもおれなかった。彼はいろんな方法を考えた。片山達子に凡てを打明けてみようか? ……宮原俊彦にぶつかっていってみようか? ……片山禎輔の力をかりることにしようか? ……沢子の前に身を投げ出してみようか? ……片山夫妻のどちらかを宮原俊彦に逢わしてみようか? ……其他種々? ……然しどれもこれも、ただ事柄を複雑にするばかりで、何の役にも立ちそうになかった。一寸何かが齟齬すれば、凡てががらがらに壊れ去りそうだった。一層ぶち壊してしまったら? ――然しその後で……?
 立てるつもりの計画が少しも立たなかったのは、彼の受動的な無気力な性質のせいでもあったが、更になお頭痛のせいだった。二三日来の心の激動と前夜の馴れぬ葡萄酒の宿酔とのために、頭が恐ろしく硬ばって痛んで、何一つはっきりと考えることが出来なかった。頭脳の機関全体が調子を狂わして、ぱったり止って動かない部分と眩(めまぐる)しく回転する部分とがあった。それで彼は前述のようなことを、秩序立てて考えたのではなくて、一緒くたにまた断片的に考えたのだった。凡てが夢のようであると共に、部分々々が生のまま浮き上って入り乱れていた。
 膝の上に眠ってしまった猫を投り出して、それが、伸びをして欠伸(あくび)をして、没表情な顔で振返って、またのっそり炬燵の上に這い上ってくるのを、彼はぼんやり見守りながら、いつまでも考え込んだ。頭痛のために昼食もよく喉へ通らなかった。戸外の霧がはれて、薄い西日が障子にさしてきてからも、彼はなお身を動かさなかった。
 二時頃、柳容堂から電話がかかってきた。それでも彼の心はまだ夢想から醒めきらなかった。ぼんやり電話口に立つと、沢子の声がした。
「あなた佐伯さん? ……私沢子よ。……何していらっしゃるの?」
「何にもしていない。」
「じゃあ、一寸来て下さらない? 話があるから。今すぐに。」
「今すぐ?」
「ええ。晩は他に客があるとお話が出来ないから、今すぐ。お待ちしててよくって?」
 昌作は一寸考えてみた。がその時、彼は急に頭が澄み切って、我知らず飛び上った。沢子の許へ駈けつけてゆくという一筋の途が、はっきり見えてきた。彼は怒鳴るようにして云った。
「すぐに行くよ。」
 そして沢子の返辞をも待たないで、彼は電話室から飛出して、大急ぎで出かけていった。
 けれど、柳容堂へ行くまでのうちに、訳の分らない恐れが彼の心のうちに萠した。何かに駆り立てられてるような自分自身を恐れたのか、或はこの大事な時にひどく頭がぼんやりしてるのを恐れたのか、或は一切を失うかも知れないことを恐れたのか、或は一切を得るかも知れないことを恐れたのか、或は取り返しのつかないことになりはしないかを恐れたのか、何れとも分らなかったが、多分それらの凡てだろう。恋してる女の所へ行くというような喜びは、少しも感じられなかった。そして彼は非常に陰惨な気持になり、次には捨鉢な気持になり、それから、何でも期待し得る胎(はら)を据えた而も暗い気持になった。
 彼を迎えた沢子は、何か気懸りなことがあるらしい妙に沈んだ様子だった。
「あれから何をしていらして?」と彼女は尋ねた。
「いろんなことがあったよ。」と答えて昌作は俄に云い直した。「が何にもしないで、ぼんやりしていた。例によって猫の生活さ。」
「そう。ずっと家にいらしたの。私あなたが昨日にでも来て下さるかと思って待ってたけれど、来て下さらないから、今日電話をかけたのよ。まあ……あなたは変な真蒼な顔をしてるわ。」
 昌作はふいに拳(こぶし)で額を叩いた。
「少し頭痛がするだけだよ。感冒(かぜ)をひいたのかも知れない。……強い酒を飲ましてくれないか、いろんなのを三四杯。ごっちゃにやるんだ。感冒の神を追っ払うんだから。」
「そんなことをして大丈夫?」
 心配そうに覗き込む彼女を無理に促して、彼はいろんな色の酒を三四杯持って来させ、煖炉の火を焚いて貰い、その前に肩をすぼめて蹲った。沢子も彼の横手に腰を下した。
「あなたは本当に家にぼんやりしていらしたの?」と彼女はまた尋ねた。
「そうさ。」
「あれからどんなことをお話なすったの、宮原さんと?」
「ああ、あの晩?」彼は沢子の顔をちらと見やった。「宮原さんの述懐を聞いたよ。」
「述懐って?」
「君と宮原さんとの物語さ。」
 沢子は少しも驚かなかった。
「それからすぐに帰って寝たよ。」
「いえ、その外に……。」
「何にも話しはしなかった。もう遅かったし、宮原さんの話が馬鹿に長かったからね。そんなに話が出来るものか。」
「じゃあほんとにそれきり?」
「可笑しいな。何がそんなに気にかかるんだい。宮原さんには君が僕を紹介したんじゃないか。」
「でも、何か……むつかしい話をして、それであなたが苦しんでなさりはしないかと、ただそんな気が私したものだから……。」
「そりゃあ、苦しんだかも知れないさ。」と不機嫌に云いかけて、昌作はついむきになった。「ほんとに苦しんだよ。いくら考えても分らないからね。」
「何が?」
「何がって、僕にも分らないよ。何もかも分らなくなってしまった。何もかも駄目なんだ。もうどうなったっていいさ。」
 そしてまだ云い続けようとしているうちに、誠実とも云えるほどの沢子の眼付に彼はぶつかった。変に気が挫けて、先が続けられなかった。そして暫く黙ってた後に、馬鹿々々しい――その実真剣な――一つのことが頭に引っかかってきた。彼は云った。
「僕はいくら考えても分らない、話を聞いても分らない、まるで謎みたいな気がするが……実際僕には謎のように思えるんだ。」
「どんな謎?」
「宮原さんと君との関係さ。」
「あらいやよ、関係だなんて。ただのお友達……先生と……お弟子といったような間じゃありませんか。」
「今じゃないよ。あの時……宮原さんが奥さんと別れた時に……。」
「だって、宮原さんには二人もお子さんがおありなさるでしょう。」
「それだけの理由で?」
「ええ、それだけよ。」
 が彼女はその時ふいに、耳まで真赤になった。昌作は驚いてその顔を見つめた。けれど次の瞬間には、彼女はまた元の清澄な平静さに返っていた。彼は恥かしくなった。そして泣きたいような気持になった。
「もうそんな話は止そう。」と彼は呟いた。
「ええ、何か面白い話をしましょうよ。……そう、私春子さんを呼んでくるわ。私ね、あの人に何もかも話すことにしてるの。あの人と宮原さんが、私の一番親しいお友達よ。……そりゃあ気の毒なほんとにいい人なのよ。」
 そう云いながら彼女は立上った。昌作はぼんやりその後姿を見送った。極めて善良らしくはあるがまた可なり鈍感らしい春子と、どうして沢子がそう親しくしてるのか、昌作には不思議な気がした。二人は全く似つかわしくなかった。同じ家に二人きりで働いてるということと、春子が殆んど一人でその喫茶部全体の責任を負わせられてるということとだけでは、二人が親密になる理由とはならなかった。強いて云えば、表面何処か呑気な楽天的な所だけが相通じていたけれど、それも春子のはその善良さから来たものらしいのに、沢子のはその理知から来たものらしかった。――昌作は、やがて奥から沢子と一緒に出て来た春子の、一寸見では年配の分らない、変に厚ぼったい、にこにこした顔を、不思議そうに見守った。
「佐伯さん、お感冒(かぜ)ですって?」
 眼の縁で微笑しながら春子はそんなことを云った。
「ええ、少し。」
「それじゃ、お酒よりも大根(だいこ)おろしに熱いお湯をかけて飲むと、じきに癒りますよ。」
 昌作が黙ってるので、沢子が横から口を出した。
「ほんとかしら?」
「ええほんとですよ。寝しなにお茶碗一杯飲んでおくと、翌朝(あさ)はけろりとしててよ。」
「あなた飲んだことがあって?」
「ええ。感冒をひくといつも飲むんですの。でも、利くことも利かないこともあって……それは何かの加減でしょうよ。」
 そう云って春子は眼の隅に小皺を寄せて、如何にも気の善さそうに笑った。
「じゃあ何にもならないわ。私葡萄酒をお燗して飲むといいって聞いたけれど、それと同じことだわ。」
 それから二人の話は、宛も暫く振りで逢った間柄かのように、天気のことや、風のことや、頭の禿のことや、紅茶のことなど、平凡な事柄の上に飛び廻った。昌作は自分自身を何処かに置き忘れたような気持で、黙り込んでぼんやり聞き流していたが、二人の滑かな会話がいつしか心のうちに沁み込んで、しみじみとした薄ら明るい夢心地になった。そして強烈な洋酒の杯をちびりちびりなめてるうちに、心の底に、薄ら明りのなかに、或る影像が浮き上ってきた。その意外な不思議な幻想に自ら気付いたら、彼は喫驚して飛び上ったかも知れないが、然しその時その幻想は、彼の気持にとっては如何にも自然なものだった。
 ――彼は、最後の病気をする少し前の母の姿を思い浮べた。狭い額に少し曇りがあって、束髪の毛並が妙に薄く見えるけれど、ふっくらした皮膚のこまやかな頬や、少し歯並の悪い真白な上歯が、いつも濡いのありそうな唇からちらちら覗いてる所や、柔かにくくれてる二重□や、厚みと重みとのある胸部などは、三十四五歳の年配とは思えないほど若々しかった――と共に、三十四五歳の豊満な肉体を示していた。彼女はいつも非常に無口で、そして大変やさしかった。じっと落着いていて、愁わしげに――でも陰気でないくらいの程度に、何かを思い沈んでいた。そのくせ女中や他人なんかに対しては極めててきぱきしていて、型で押すように用件を片付けていった。家の中を綺麗に掃除することが好きだった。朝晩は必ず仏壇に線香を焚いて、長い間その前に坐っていた。ごく小さな仏壇には、ささやかな仏具と共に古い位牌が三つ四つ並んでる中に、少し前方に、新しい粗末なのが一つあった。彼はその位牌の文字が気になって、じっと覗き込んだが、どうしても分らなかった。そのうちに、何処からだかぼっと光がさしてきて、文字が仄かに見えてきた。木和田五重五郎と誌してあった。彼はその名前に見覚えがあるような気がしたが、どうしてもはっきり思い出せなかった。母は悲しい眼付をして、なおじっと坐っていた。黄色っぽい薄ら明りがその全身を包んでいた。けれど、今にも次第に暗くなってきそうだった。眼に見えるようにじりじりと秋の日脚が傾いていった。冷々とした風が少し吹いて、さらさらと草の葉のそよぐ音がした。木和田五重五郎の位牌が、野中の十字架のように思われた。雑草の中に一つぽつりと、灰白色の円いものが見えた。野晒しの髑髏だった。その上を冷たい風が掠めていった。彼は堪らなく淋しい気持になって、我知らず口の中で繰返した。――野ざらしを心に風のしむ身かな。――それをいくら止めようとしても、やはり機械的に繰返されるのだった。一生懸命に止めようと努力すると、気が遠くなって野原の真中に倒れた。胸がまるで空洞になって、風がさっさっと吹き過ぎた。自分の魂が髑髏のようになって、胸の中に……野の中に転っていた。晩秋の日はずんずん傾いていった。大きな影が徐々に落ちてきた。風が止んで非常に静かになった。彼は立ち上ってまた歩きだした。胸がどきどきして、頭がかっと熱(ほて)っていた。眼が眩むようだった。細目に見開いてみると、すぐ前を厚い白壁が遮っていた。長年の風雨に曝されて、薄黒い汚点(しみ)が這い廻ってる、汚い剥げかかった壁だった。その上を夕暮の影が蔽っていた。影の此方に四角に窓硝子があって、ぼんやり人影が写っていた。それが堪らなく淋しかった。彼は眼を外らした。表に面した窓から、小さな銀杏の並木の梢が見えていて、散り残った黄色い葉が五六枚、街路の物音に震えていた。
 彼が気がついてみると、沢子と春子とは、先程から話を途切らして、彼の顔をじっと見てたらしかった。彼は何だか顔が挙げられなくて、首垂れながら太く溜息をついた。
「熱でもおありなさるんじゃないの?」と春子が云った。
 彼は無意識に手を額へやってみた。額が熱くなって汗ばんでるのを感じた。
「なに、煖炉の火気を少し受けすぎたんだろう。
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