野ざらし
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著者名:豊島与志雄 

「そんなことはどうだっていいじゃありませんか。」と達子は急に苛立ってきた。「行くとか行かないとか、一応の返事を時枝さんへ出しておかなければならないと、あなたはあんなに気を揉んでいらしたじゃありませんか。向うで好意から取計って下さるのを、余り長く放っておいては、ほんとに済みませんわ。……佐伯さんだってあんまり我儘よ。今晩どちらかの返事をすると約束しておいて、まだ元のままのあやふやな気持なんですもの。そんなことじゃ、いつになってもきまりっこないわよ。私いろいろ考えた上で、屹度あなたが行らっしゃるものだと思ったものだから、もうお餞別の品まで考えといたのよ。繻絆[#「繻絆」は底本では「絆繻」]や襯衣や足袋や……そんなものまで、こうしてああしてと考えといたのよ。それなのに……。私もう知らないから、勝手になさるがいいわ。」
「そんなことを云ったって、」と禎輔が引取って云った、「佐伯君にもいろいろ都合があるだろうし、そう急に決心がつくものかね。」
 昌作は、今度は自分が何とか云わなければならない場合だと感じたが、一寸言葉が見出せなかった。彼の心には再び、何とも知れぬ惑わしいものが被さってきた。実際先達てから、行くか否かの返事だけなりとも時枝へ出しておかなければならないと、しきりに昌作へ決心を強いたのは、そして、その晩までに返事をすると昌作に約束さしたのは、禎輔自身だった。所が今急き込んでるのは達子だけで、禎輔自身はどうでもよいという投げやりの態度を取ってるのだった。その投げやりの態度の底に何かがあるのを、昌作は不安に感じた。殊にこれまで、また今後とも恐らく、自分の親戚として且つ保護者として、そして寛大な真面目な人格者として、禎輔を尊敬していただけに、昌作は猶更それを不安に感じた。
「私は今一寸気持に引掛ってることがありますから、」と昌作は突然云った、「それが片付くまで……もう四五日、待って頂けませんでしょうか。」
「ああゆっくり考えるがいいよ。今じゃなんでもないが、九州へ行くと云えば昔では……。」
 何故かそこで禎輔がぷつりと言葉を途切らした。然し昌作はその皮肉な語気からして、流刑人の行く処だというような意味合を感じた。そして慌てて弁解し初めた。
「いえ、九州だからどうのこうのと云うんじゃありません。ただ、自分の気持に引掛っていることがありますので、それを……。」
「まあどうでもいいさ。」と禎輔は上から押被せた。「誰にでもいろんな引掛りはあるものだよ。ゆっくり考え給い。時枝君の方へはいいように云っとくから。」
 そして彼は一変して急に真面目な眼色で、昌作の顔をじっと見つめた。昌作は眼を外らして次の言葉を待った。然し禎輔は何とも云わなかった。ふいに立上って柱時計を眺めた。
「もう八時だ。僕は一寸急な用があるから出掛けるよ。ゆっくりしていき給い。じきに帰るから。」
「何処へいらっしゃるの?」と達子が驚いたように彼を見上げた。
「会社の用で上田君に逢うことになってるのを忘れていた。なに一寸逢いさえすればいいんだ。」
 そして彼は羽織だけを着換えて、無雑作に出かけていった。玄関で一瞬間立止って、何やら考えてるらしかった。がそのまま黙って表へ出た。
 昌作は達子の後について茶の間へ戻ったが、何だか急に薄ら寒い気持になった。その彼の顔に、達子はじっと眼を据えながら云った。
「どうしたの、ぼんやりして? そして変な顔をして?」
「片山さんは私に怒ってらっしゃるんじゃないでしょうか?」
「なぜ?」
 達子は眼を丸くした。
「何だかいつもと様子が違ってるようじゃありませんか。」
「どうして?」
 達子の丸い眼には率直な澄んだ輝きがあった。
「そうでなけりゃ……、」と昌作は漸く落着いて云った、「……喧嘩でもなすったんですか。」
「まあ!」達子はもう我慢出来ないという風に早口で云い進んだ。「あなたの方が今日はどうかしてるのよ。いやにひねくれて、夫婦喧嘩をしたかなんて、そんなことを聞く人があるものですか。そりゃあ片山だって、あなたが余りあやふやだから、少しは厭気がさすでしょうよ。けれど怒ってなんかいませんわ。また喧嘩なんかもしやしませんわ。」
「いえ私はそんな……。云い方が悪かったら御免下さい。ただ何だか片山さんの様子がいつもと違ってるようだったものですから……。」
「誰にだって心配ごとがある時もあるものよ。」と達子は心を和らげて云った。「会社の方に何かごたごたがあって、それに頭を使いすぎなすってるらしいのよ。夜中に眼を覚したり、朝早く起き上ったりなさることが、時々あるものですから、私も少し心配になって聞いてみると、いくらか神経衰弱らしいと云って、自分を憐れむように微笑んでいなさるんでしょう。自分で微笑みを洩らしてる間は、神経衰弱なんて大したことじゃないわよ……。けれど、兎に角そういう際ですから、あなたも余り気をもませないように、早くどうにか片をつけたらいいじゃありませんか。」
 達子が自分を急き立ててるのはその故(せい)だなと、昌作はふと考えついた。けれど、禎輔のそうした様子の方へ、彼の心は惹かされた。禎輔が夜中に眼を覚したり、ふいに朝早く起き上ったりすることが、会社の何かの事件のためではなくて、他に深い原因があるらしいのを、直覚的に彼は感じた。そして我知らず尋ねてみた。
「その他に片山さんの様子に変ったことはありませんか。」
「まあ!……全くあなたの方が今日は変よ。一寸何か云えばすぐ片山を狂人扱いにして!」
 達子からじっと見られてる顔を、昌作は伏せてしまった。心が苦しくなってきた。黙っておれなかった。
「でもあなたは、片山さんがそんなに苦しんでいらっしゃるのに、平気で落着いていられるんですか。」
「あなたはなお変よ!……私達のことをあなたはよく知ってるじゃありませんか。片山はどんな苦しいことがあっても、その苦しみが過ぎ去るまでは決して人に云わない性質なんでしょう。私初めはそれを嫌だと思ったけれど、馴れてみると、その方がいいようですわ。なぜって、考えてもごらんなさい、片山がつまらないことに苦しんでる時――苦しみなんて大抵つまらないことが多いものよ――私まで一緒に苦しんでごらんなさい、家の中はどうなるでしょう? 二人で陰気な顔ばかりつき合してたら、堪らないじゃありませんか。苦しみを二重にするばかりですわ。片山も私もそのことをよく知っているんです。それで片山は、自分に苦しいことがあっても、私には何とも云いませんし、私はまた、出来るだけ晴々とした顔をして、片山の苦しみを和らげてやるんですのよ。でも万一の場合になったら、片山の苦しみが余り大きくなりすぎたら、私にだって、その苦しみの半分を背負うだけの覚悟は、ちゃんとついていますよ。片山もそれはよく知っています。そして私達は互に信頼してるわけですよ。」
 そういう二人の生活の調子を、昌作は知らないではなかった。然しそれは、今彼の心に変な暗い影を投じてるものとは、全く無関係な事柄だった。そして彼は、その暗い影について、その影を投じてくる禎輔のことについて、どう云い現わしてよいか、もどかしい思いのうちに、沈黙していた。達子も暫く黙っていたが、やがてまた彼を当の問題に引出しかかった。
「ねえ佐伯さん、もうあなたもいい加減真面目になって、自分で生活を立てるようになさいな。それには、此度のことは丁度よい機会じゃありませんか。こんなよい就職口は、また探そうたってありはしないわよ。それは九州なんかに行くのは嫌でしょうけれど、それかって、東京に居てどうするつもりなの。私こんなことを云うのは嫌だけれど、あなたのお母さんが亡くなられる時、片山のお父さんに預けておかれた財産だって、もうとっくに無くなってるじゃないの。片山はああいう人ですから、あなたの月々の費用なんか黙って出していますが、そして私が、もう佐伯さんも自分で働いて食べるように意見してあげた方がいいって云うと、佐伯君も人に意見される年頃でもあるまいし、何か考えがあるんだろうなどと、却ってあなたを庇ってはいますが、それをいいことにして、いつまでものらくらしていてはあなたもあんまり冥利につきはしなくって? 今度は否でも応でも、あなたは暫く九州に行って辛抱なさるが本当だと、私は心から信じきってるのよ。片山があんなに骨折ってくれたのをそのままにしておいて、一体あなたはどうするつもりなの?」
「いえ私は、九州行きを断るつもりじゃないんです。ただ……どうして片山さんが私を九州なんかに……。」
 昌作はしまいまで云いきれなかった。達子の眼に突然厳しい光りが現われたのだった。そして昌作は、自分の云おうとしてることが相手にどう響くかを感じた。達子が腹を立てるのは当然だった。それは全く忘恩の言葉だった。然し彼に云わせると、これまであんなに寛大と温情とを以て自分を通してくれた禎輔が、遠い九州の炭坑なんかに自分を追いやろうとすることこそ、最も不可解なのであった。どうせ就職口を探してくれるのなら、東京もしくは何処かに奔走してくれそうなものだった。九州の炭坑とは、全く夢にも思いがけないことだった。それとも、そういう処でなければ昌作の生活が真面目になりはしないというのなら……それまでのことだけれど。然しそれならそれと、なぜ禎輔は明かに云ってくれなかったのだろう。信念も方向もないぐうたらな生活を送ってる昌作にとっては、九州の炭坑と云えば、全く流刑に等しいと感ぜられるのだった。そのことを、明敏な禎輔が見落す筈はなかった。「追っ払おうとしてるのだ!」としか昌作には思われなかった。そしてそれが、今迄凡てを許してくれていた禎輔であるだけに、昌作には不可解に思えるのだった。本当の心を聞きたい、その上で忍ぶべきなら忍んで九州へ行きたい、というのが彼の希望の凡てだった。
 達子はふいに叫んだ。
「あなたはそんなに心まで曲ったんですか!」
 率直な達子に対しては、昌作は何とも返辞のしようがなかった。
「私あなたをそんな人だとは思わなかった。」と達子は云い続けた。「私達があなたのためを思ってやってることを、あなたは、厄介払いをする気で九州なんかへ追いやるのだと思ってるのでしょう。いえそうですわ。あなたには人の好意なんてものは分らないんです。……これでも私達は、あなたの唯一の味方と思っていたんですよ。あなたが珈琲(カフェー)に入りびたったり、道楽をしたり、ぐずぐず日を送ったりしているのを、そして牛込の伯父さんにまで見放されたのを……それを私達は、始終好意の眼で見てきてあげたつもりですわ。そしてあなたが自分で云ってたように、いつかはあなたの生活が立て直るに違いないと、ほんとに信じていたんですわ。それで片山は東京で方々就職口を内々尋ねて……働くことによってしか生活はよくならない、佐伯君にとっては仕事を見出すことが第一だ、と片山は云ってるのです。私もそう思っています。で、東京にいい口がないので、少し遠いけれど、九州の時枝さんに頼んで上げたのではありませんか。それをあなたは、考えるに事を欠いて、追っ払うなんて!……。」
 昌作は黙って頭を垂れていた。達子の叱責が落ちかかってくるに随って、眼の中が熱くなってきた。達子の言葉が途切れてから、暫くその続きを待った後で、少し声を震わせながら云った。
「私が悪かったんです。私は心からあなた方二人に感謝しています。けれどもただ、片山さんが何もかも、心の底まで、すっかりのことを云って下さらないような気がしたんです。それは私の僻みだったんでしょう。……もう何にも申しません。行きましょう、九州の炭坑へ。そしてうんと働いてみます。全く私には、仕事を見出すことが第一の……。」
 その時、殆んど突然に、いつも遠くを見つめてるような橋本沢子の眼が、彼の頭にぽかりと浮んだ。瞬間に彼は、或る大きなものに抱きすくめられたようにも、または行手を塞がれたようにも感じた。先が云い続けられなかった。
 彼の表情の変化に、達子は眼を見張った。
「佐伯さん、あなた何か……?」と彼女はやがて云った。
「ええあるんです。」と昌作は吐き出すようにして云い出した。
「私を引き留めてるものがあるんです。実は私は何にも云わないで、すぐにも承諾して九州へ行きたかったんです。仰言る通りどの点から考えても、私は九州へ行った方がいいんです。第一自分で自分に倦き倦きしています。今迄のように目的のない生活は、いくら私にでも、そう長く続けられるものではありません。初め片山さんからそのお話を聞きました時、私は何だか新らしい生活が自分の前途に開けて来そうな気がしました。所が行ってみようと思った瞬間に、急に堪らない淋しさに襲われたのです。自分でどうにも出来ない淋しさなんです。その時まで私は自分でも知らずにいましたが、私の心は或るものに囚えられていました。その或るものが、私にとっては太陽の光でした。いえ、前から……前からじゃありません。その時からです。東京を離れて九州へ行こうと思った瞬間からです。そして自分で自分に口実を拵えるために、片山さんの気持に、あなた方の気持に、いろんな疑いを挟んでみたのです。そうです、私は行くのが本当だと知っていながら、行かずに済むような口実が欲しかったのです。いやそればかりじゃありません。九州というのが余り思いがけない土地だったものですから、淋しさの余りに、或るものに縋りついたのかも知れません。九州と聞いて、実際島流しにでも逢ったような気がして、闇の中へでもはいって行くような気がして、そのために光が欲しくなったのかも知れません。いえ、それよりも寧ろ、前からその光を受けていたのが、突然はっきりしてきたのかも知れません。……と云うよりやはり……。」
 云いかけて彼は急に口を噤んで、暫く室の隅を見つめた。それから一変して、半ば皮肉な半ば自嘲的な調子になった。
「もう止しましょう。そんな詮議立てをしても無益ですから。どっちだって同じことです。兎に角私は今、率直に云えば、或る女に心を惹かされているんです。その気持の上の引掛りが取れるまで、もう四五日、返事を待って下さいませんか。」
「じゃあ、あなたはやっぱり……。」と達子は叫んだ。
 が昌作は云ってしまってから、非常に不快な気持になった。何故だか自分にも分らなかった。もう何にも云いたくなかった。
「それならそうと、初めから仰言ればいいのに。」と達子は云い続けていた。「私も或はそんなことではないかと薄々感じてはいたけれど、あなたがあんまり白を切ってるものだから、ついいじめてもみたくなったのよ。ごらんなさいな、あなたは隠そうたって隠しきれるものじゃないわ。……で、どんな人なの、その女っていうのは? ねえ、すっかり云ってごらんなさいな。出来ることなら何とかしてあげますから。片山に云って悪ければ、云いはしませんから。え、一体どういう風になってるの?」
 昌作は彼女の言葉をよく聞いていなかった。何だか自分自身を軽蔑したい、というだけではまだ足りない気持だった。
 二人は可なり長い間黙っていた。そして昌作は突然云った。
「いずれあなたには詳しくお話をする時が岐度来るような気がします。もう四五日待って下さい。何もかもそれまでに片をつけますから。」
 そして彼はぶっきら棒に立上った。まだ何か云いたそうにしている達子から無理に身をもぎ離すようにして、表へ出て行った。玄関の薄暗い所で、声を低めて云った。
「片山さんには暫く内密(ないしょ)にしておいて下さいませんか。」
「ええ、その方がよければ云わないでおきましょう。……あの、佐伯さん、私がもし電話でお呼びしたらすぐに来て下さいよ、屹度ね!」
 昌作は何故ともなくほろりと涙を落したのだった。そして達子の最後の言葉は彼の耳に残らなかった。

     二

 霧の深い晩だった。佐伯昌作は何かに追い立てられるように、柳容堂の二階の喫茶店へ急いだ。
 運命と云ったようなものがじりじりと迫ってくるのを、彼は感じたのだった。そして、達子へ対して四五日の後にと誓ったのは、寧ろ自ら自分の心へ対してだった。九州の炭坑へ行くべきなのが本当であると、彼ははっきり知っていた。片山禎輔の様子に暗い疑惑が生じたにもせよ、そんなことを考慮に入れるのは、自分が余りに卑怯なからだと思いたかった。何にも云わないで、黙って忍んで行こう!……然しその後から、橋本沢子のことが同じ強さで浮んできた。九州へ行くという意志が強くなればなるほど、同じ程度に沢子へ対する愛着が強くなっていった。九州へなんか行かないでもよいという気になれば、沢子なんかどうでもよいという男になった。昌作はそういう自分の心を、どうしていいか分らなかった。九州の炭坑のことを思うと、真暗な気がした。沢子のことを思うと、輝やかしい気がした。そういう闇の暗さと光の明るさとが、同時に、全く正比例して強くなったり弱くなったりした。そして、沢子を連れて九州へ行くことは、到底望み得られなかった。
「兎も角も俺は決心をきめなけりゃならないのだ!」
 昌作は殆んど絶望的にそう呟いて、清楚とも云えるほど上品な趣味で化粧品類が並べてある店の方をちらりと見やりながら、柳容堂の薄暗い階段を上って行った。明るいわりに心持ち狭い二階の室に出ると、彼は俄に眼を伏せて、壁際の小さな円卓に行って坐った。
 薄汚れのした古いペーパーの洋酒瓶が両側にずらりと並んで、真中に大きな鏡のついてるスタンドの向うから、きりっと襟を合した沢子の姿が現われた。彼女は昌作の方をじっと見定めて、真面目な顔の表情を少しもくずさずに、眼で一寸会釈をしながら、彼の方へ近寄って来た。彼は眩(まぶ)しいような気持になった。瞬間に、そうした余りに初心(うぶ)な自分の心を、自ら恥しくまた意外にも感じて、右手で額の毛を撫で上げながら、恐ろしく口早に云った。
「菓子と珈琲とコニャックとをくれ給い。」
 それから袂を探って煙草に火をつけながら、卓子の上に顔を伏せた。
 その時彼は初めて、何故に此処に来たかを自ら惑った。九州へ行くか行かないかについて、心に喰い込んでる彼女に片をつける、それが彼の求めてる重な事柄だった。それには、暫く沢子から離れて自分の内心を見守るのが当然の方法なのを、却って反対に、沢子の許へ来てしまったのである。沢子の許へ来て、何の片をつけるというのか? 昌作は九州行きを考えてみた時から初めて、沢子の存在が自分にとって光であるように感じただけで、外面的に云えば、二人は屡々顔を合して親しい心持になっているという以外に、何等の交渉もない間柄だったのである。二人の心がぴたりと触れ合う話を交えたこともあるけれど、それもただ友人という位の範囲を出でなかった。
「俺は今になって、初めて恋をでもするように、女性というものを知らない初心者ででもあるように、沢子に恋をしたのであろうか?」
 或はそうかも知れなかった。然し、いくら自分を卑下して考えても、単にそればかりではなかった。では一体何か?……その雲を掴むような疑問をくり返してるうちに、昌作は深い寂寥の中へ落ち込んだ。
 珈琲と菓子とを持って来、次にコニャックの杯を持って来た沢子が、彼の上から囁くように云った。
「あとで一寸お話したいことがあるから、待ってて頂戴。」
 昌作が顔を挙げて、その意味を読み取ろうとすると、彼女は澄ました顔で、さっさとスタンドの向うへ引込んでしまった。その入口の所に、も一人の女中――顔に雀斑(そばかす)のある年増の春子――が、壁に半身を寄せかけて佇みながら、室の中をぼんやり眺めていた。昌作は慌てて眼を外らして、やはり室の中を眺めた。
 曇り硝子に漉される電気の先がいやにだだ白くて、白い卓子の並んだ室の中は薄ら寒かった。往来に面した窓際に、若い五六人の一団の客がいた。昌作が見るともなく眼をやると、その中に見覚えのある顔が一つあった。それがしきりにこちらを見てるので、昌作はまた卓子の上に屈み込んで、珈琲とコニャックとをちゃんぽんに嘗めるように啜った。彼等は美術のことを論じ合っていた。何かの展覧会に関することらしかった。然し昌作は別に興味も覚えないで、自分一人の思いに沈み込みながら、途切れ途切れに聞えてくる単語を、上の空に聞き流していた。そのうちに、彼は我知らず耳を欹(そばだ)てた。彼等の声が俄に低くなったのにふと気を引かれて、隠れたる天才だのモデルだの好悪の群像だのという語を、ぼんやり聞いてるうちに、宮原という名前が耳に留ったのである。その時表を電車が通って、次の言葉は聞えなかったが、電車の響きが静まると、わりにはっきりと、想像も手伝って、彼等の会話が聞き取られた。
 A――「好きな部類にはいるんだと、僕は思うね。」
 B――「僕は嫌いな方にはいるんだと思うよ。」
 C――「なあに、両方さ。右のプロフィルが好きな方面、左のプロフィルが嫌いな方面、なんてことになるに違いないよ。惚れてはいるが意地もあるってわけさ。」
 M――「僕には一体あの事件がよく分らないよ。細君を追ん出してまでおいて、どうしてS子と一緒にならなかったんだろう?」
 C――「そりゃあ君、恋のいきさつなんか凡人には解せないよ。」
 N――「兎に角一風変った女だね。好悪の群像なんてでたらめだろうが、絵を習ってるというのは本当なのか。」
 C――「本当さ。松本氏の画塾ということまでつきとめたんだ。好悪の群像だって今に実現するよ。何しろこんな所にいて、そして客に対して、好悪の態度をあんなに露骨に示すんだからね。画家になりきったら、好悪の群像くらい訳はないさ。君達の顔だってその中に入れられるかも知れないぜ。」
 A――「そんなら、君子危きに近寄らずだ。もう行こうよ。」
 C――「体のいいことを云って、実はもう一つの危きに近寄りたいんだろう。」
 それから話は外の方に外れて、彼等の間だけに通用する符牒の多い事柄にはいり込んだので、その声はまた高くなったが、昌作にはよく分らなかった。けれど昌作にとってはそんなことはどうでも構わなかった。彼の頭は聞き取った事柄の方にばかり向いていた。沢子が絵を習ってるということを、彼は嘗て夢にも知らなかった。それかと云って、宮原の話やなんかを考え合せると、それは確かに沢子のことに違いなかった。沢子が絵を習ってるのを今迄自分に隠していたということが、重く彼の胸にのしかかってきた。固より、沢子の以前の生活やその智力などを考えてみれば、彼女がこの喫茶店の女中になったのには何か他に理由があるに違いないとは、昌作にも推察されないではなかった。然し彼がそのことに話を向けようとすると、彼女はいつも言葉を外らしてしまった。しまいには彼も諦めて、彼女から云い出すまで待つことにしていた。所が今偶然、彼女が絵を習ってるのを知ったのである。それが、彼女自身の口からではなくて、偶然によってであるのが、昌作には不満だった。その不満から、徐々に、絶望に似た憂苦がにじみ出してきた。
 向うの連中が、春子に勘定を払って出て行った後、昌作も立ち上ろうとした。其処へふいに沢子が出て来た。その顔を見て昌作は、彼女の先刻の言葉を思い出した。彼は沈んだ声で云った。
「僕に話があるって、どんなことだい?」
「もういいのよ。」と沢子は落着いた調子で答えた。「先刻はお話するつもりだったけれど、よく考えてみると、自分でも分らなくなったから。」
 昌作は彼女の顔をしげしげと見つめた。
「私ね、思ってることを口に出したり書いたりしようとすると、何だかはっきりしなくって、よく云えないわ。」
「そりゃ誰だってそうだろう。」
「そうかしら?」
 沢子は卓の横手に坐った。昌作は彼女の絵画のことを云ってみようと思ったが、云った後で自分が益々陰鬱になりそうなのを感じた。それほどこだわってるのが我ながら不思議だった。彼はコニャックの杯をあけて、それをも一杯求めた。
 どろりとした強烈な液体の杯を昌作の前に差出して、沢子は斜横の方に腰を下しながら、ふいに云いだした。
「あなたどちらにきめて?」
「え?」
「そら、九州の炭坑とかのこと。」
 昌作は黙って唇をかんだ。
「まだきまらないの?」
「そんなに容易くきめられるものかね。」
「だって、つまりは分ってるじゃないの。」
「何が?」
「私ね、あなたが結局行らっしゃりはしないと思うわ。行こう行こうと思ってるうちに、やはり行かずじまいになるに違いないわ。」
 昌作が黙ってるので、彼女は暫くしてつけ加えた。
「そうじゃないこと?」
「そうかも知れない。が……。」昌作は急に苛立った気持を覚えて、何かに反抗してみたくなった。そして云い出した。「行くかも知れないよ。いや、行くのが本当なんだろう。僕はぐうたらだけれど、忘恩者にはなりたくない。片山さんには非常に世話になってるんだ。年齢(とし)はそう違わないけれど、僕の第二の親とも云っていい位なんだ。中学二年の時に母を亡くして全く一人ぽっちになってからは、あらゆる面倒をみて貰ったんだからね。盛岡で、学校はしくじるし、女に……豚のような女に引っかかってどうにも身動きが取れないでいる時、片山さんはわざわざ盛岡までやって来て、僕を救い出してくれたのだ。母が亡くなる時に片山さんのお父さんに預けていた財産だって……勿論それは財産というほどのものじゃない、五六千円に過ぎないんだが、それも、僕の病気の時や、あの豚の女と手を切る時や、長い間の学費なんかに、もうずっと前から無くなってしまってる。それを、何とも云わないで、片山さんは今でも毎月僕に生活費の不足を出してくれてるんだ。そして僕のために非常に奔走して、僕には勿体ないほどのあの九州の口を探してくれた。いくら僕が恩知らずだって、はっきりした理由もないのに、断れるものか。」
 云ってるうちに彼は捨鉢な気持になったのだった。前に話したことはあるけれど、此処に持ち出さずともいい豚の女のことまで云い出して、自ら自分を鞭打ちたかったのである。彼はなお云い続けた。
「それは片山さんだって、好意が……親のような好意があるなら、僕を九州まで追いやらずともいいさ。然し僕はもう片山さんの心をあれこれと詮議立てしたくはない。何もかも黙って受けようよ。僕のような者には、全く見ず知らずの新しい世界にでもはいらなけりゃ、生活が立て直りはしないんだからね。仕事を見付け出してやることが、僕を救う途だそうだ。そうかも知れない。仕事さえあれば、朝から晩まで馬車馬のように追い立てられさえすれば、それで僕の生活が立て直るんだろうよ。其他のものは何にも……。」
 昌作は今にも自分が泣き出しそうになってるのを感じた。と一方に、自嘲の念が湧いてきた。
「下らない!」
 そう云いすてて、彼は椅子の上に軽く身体を揺りながら、チョコレートの菓子とコニャックの杯とを両手に取って、一方をかじり一方を啜った。
 沢子はその様子を喫驚したような眼で眺めた。
「あなた、何に怒ってるの?」
「怒ってなんかいやしない。……もし怒ってるとしたら、自分自身に怒ってるんだろうよ。」
「つまんないじゃないの。」
 何がつまらないか昌作には一寸分らなかった。が、それがぴたりと胸にきた。
「そうさ、全くつまらないよ。君なんかには分らない味さ。……画家なんて呑気だからね。」
「え?」
「君は画家になるつもりだっていうじゃないか。」
「私が!……。」彼女は遠くを見るような眼付をした。「あなた、それをどうして知ったの?」
「先刻(さっき)ちらと聞いたよ。」
「あ、あの嫌な人達?……どうして分ったんでしょう?」
「君が此処に来る客の顔をみんな描いて、それを好きな者と嫌いな者とに分けて、好悪の群像とかを拵えるつもりだって、云っていたよ。」
 沢子はそれには何とも答えなかった。
「どうして分ったんでしょう? 不思議ねえ。私誰にも知らせないようにしてたんだけれど。」
「別に隠す必要はないじゃないか。」
「だって、うるさいんですもの。私雑誌記者なんかしてたんでしょう……婦人雑誌じゃあるけれど……それがこんな所へはいったものだから、いろんなことを云われて困るのよ、あなたは知らないけれど、文壇てそりゃうるさいもんなのよ。」
「人が何と云おうと構わないさ。」
「だけど……。」
 彼女は急に押し黙ってしまった。その黙り方が如何にも執拗だったので、昌作は突き放されたような気がして、反撥的に黙り込んだ。
「私ね、」と長くたってから沢子は云い出した、「実は宮原さんと誓ったことがあるの、これから真面目に勉強するって。そして何を勉強したらいいかさんざん迷った上で、画家になりたいと心をきめたのよ。そしてこんな所にはいり込んだのよ。記者と違って、ここだと午前中はすっかり隙だし、普通の珈琲店よりいくらかいいでしょう。どうせ国を逃げ出してきて、自分で働かなけりゃならないから、これ位のこと仕方ないわ。そして私こっそり、松本さんのアトリエに通ってるのよ。……誰にも分らないようにするつもりだったけれど、どうして分ったんでしょう?……あなただからお話したのよ。誰にも黙ってて頂戴、ねえ。」
 昌作には、そんなことを何故に彼女がひた隠しにしてるのか、合点がいかなかった。然し別に尋ねてみる気も起らなかった。ただ宮原のことだけが少し気にかかった。宮原と彼女との関係をも少しはっきり知りたかった。それをどういう風に云い出したらよいか迷ってるうちに、沢子はしみじみとした調子で云い出した。
「あなた毎日何にもしないで暮してるって、本当?」
 昌作はただ眉をちらと動かしただけだった。
「何にもしないで暮せるものかしら? ほんとに何にもすることがなくて、そしてほんとに何にもしないで……。」
「暮せるさ。」と昌作は突然我に返ったように饒舌り出した。
「時間なんかじきにたっちまうものだよ。朝眼がさめると、床の中で新聞をゆっくり読む――これがなかなか大変なんだ、半分眠ってて半分覚めて読むんだから、蟻の這うようなものさね。普通の者には出来ない芸当だ。それから、十時頃に起き上る。髯を剃ったり髪を解かしたりしているうちに、一時間くらいわけなくたってしまう。十一時頃、朝昼兼用の食事をして、新聞にまた隅々まで眼を通したり、ぼんやり空想に――空想という奴は、時間つぶしに一番いいんだ。……夢想と云った方がいいかも知れない。眼をあけながら、時には眼をつぶって、夢をみるんだからね。日向に蹲ってる猫のようなものさ。すぐに二時三時にはなる。それから、机の上を片附けたり、何をしようかと考えたり、読みもしない書物を開いたり、火鉢の火をいじくったり、……下らないこまごましたことが無数にあるんだ。そして四時か五時頃になる。そうなると、夕食の時間を待つばかりだ。君なんかには分るまいが、待つということが、単に食事を待つんでもいい、結構な時間つぶしなんだ。夕食を済ますと、外を歩きたくなって、散歩に出る。用も当もなしに歩き廻ってると、疲れることもないし、時間のたつのも覚えない。それに電車に乗ったりなんかして、空いた電車を幾台も待ったりなんかして、家に帰る時分には、もう寝る時間になってるという始末なんだ。……何にもすることがなくて、まるで猫のようなものさ。下宿に大きな三毛猫がいるんだがね、僕が家に居ると、いつも僕の室にばかりやって来るよ。僕の室の前に来て、にゃごう、にゃごう……と二声三声鳴くんだ。返辞がないと、すごすごと帰って行くそうだ。僕が居る時には、いつまでも立去らない。障子を開けてやると、ごろにゃん、ごろにゃんと、挨拶をするのさ。ごろにゃん、ごろにゃん……。」それを昌作は可笑しな調子で繰返した。「こういう風に二三度口の中でくり返してみ給い。自分も猫になったような気がしてくるから。……僕の生活も猫と同じさ。室の中で猫と二人でじっとしている。猫の眼が細くなってくると、僕も夢想のなかでうっとりとする。猫の眼が急に大きくなると、僕もはっと自分に返る。全く猫の生活だね。」
「だって、あなたは……。」
「仕事もしてると云うんだろう。陸軍の方の飜訳をしたり、時には詩や雑文を綴ってみたりね。然しそんなのは仕事じゃないよ。仕事というのは、それで自分の生活が統一されるもののことなんだ。僕の生活にはまるで統一がない。陸軍の方の『独立家屋』なんていう変な飜訳や、死にかかった病人の脈搏みたいな韻律(リズム)の詩や、不健全な読書や、芝居や球突や、それから、多くは猫の生活、そんなのが、仕事と云えるものかね。僕は自分でも自分に倦き倦きしてるんだ。こんな生活を長く続けてると、どんな憂鬱と倦怠とが押っ被さってくるか、君には想像もつくまい。ロシアの小説によく、退屈でたまらないという人物が出て来るね。けれどあんなのはまだいいよ。退屈にせよ憂鬱にせよ、世界的に偉大さと深さとがあるからね。所が僕のは何もかも薄っぺらなのだ、ふやけてるんだ。九州の炭坑へでも追いやられたら……光を失って闇の中へでもはいったら。……」
 昌作は口を噤んだ。ふと無意識に出て来た言葉から衝動(ショック)を受けて、眼前の沢子に対する情熱が高まってくるのを感じた。胸の中に苦しい震えが起った。
 沢子は静かな調子で云った。
「あなたには炭坑よりも農場なんかの方がいいと、私思ってるわ。盛岡の農林学校に中途までいらしたでしょう、その方がよほど自然よ。農場で仕事をしながら、昆虫でも研究なさるのは、いい生活じゃないでしょうか。そら、いつかお話なすったでしょう、昆虫のことばかり書いてるフランスの何とか云う人の書物……。」
「ファーブルの昆虫記だろう。」と昌作は心が他処にあるかのように非常にゆっくりした調子で云った。「あんなものはもう嫌だよ。あの世界は大部分争闘の世界だ。僕はもっと他のものがほしい。闘いではなくて……。」
「では、詩人は?」
「詩人!」
 昌作は何故となく喫驚した。
「私あなたの詩を覚えてるわ。」
「僕の詩だって?」
「いつか酔っ払っていらした時、私に書いて下すったじゃないの。淋しければっていう題の……。」
「知らないよ。」と昌作はぶっきら棒に云った。覚えてるようでもあれば、覚えていないようでもあったが、何だか心の傷にでも触(さわ)られるような気がしたのである。
「じゃあ云ってみましょうか。初めの方は覚えていないけれど、最後のところだけちゅうに知っててよ。
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吾が心いとも淋しければ、
静けきに散る木の葉!
あわれ日影の凹地(くぼち)へ
表か?……裏か?……
明日(あす)知れぬ幸(さち)を占うことなかれ。
分って?」
 昌作は思い出した。それはまだ九州行きの問題が起らない前、或る晩すっかり酔っ払って、ふと沢子の許へ立寄った時、急に堪らない淋しさを覚えて、その頃作ったばかりの詩を一つ、分り易いように紙にまで書いて、云ってきかしたものだった。その三連から成る詩の、最後の一連だった。そのことが、非常に遠く薄れてる記憶の中から、今ぽかりと目近に浮上ってきた。昌作は顔が赤くなるのを覚えた、……けれど、何だか一寸腑に落ちない所があった。
 昌作は沢子にも一度その詩句を繰返さした。沢子は低い澄んだ声で繰返してから、彼の顔をじっと眺めた。
「一寸変でしょう。」
「ああ。おかしいな!」
 沢子はおどけたようなまた皮肉なような口つきをした。
「私ね、少うし言葉を変えたのよ、一日中考えて。御免なさい。いけなくなったかしら? でも、どうしてもうまくいかないのよ。一番終りの句ね、あなたのには、明日をも知れぬ幸を占う、とあったけれど……。」
「そうだ、明日をも知れぬ幸を占う、だった。……も一度君のを云ってくれない? 初めから。」
 沢子は自分自身に聞かせるかのように、細い声でゆっくり誦した。
吾が心いとも淋しければ、
静けきに散る木の葉!
あわれ日影の凹地(くぼち)へ
表か?……裏か?……
明日(あす)知れぬ幸(さち)を占うことなかれ。
 明日知れぬ幸を占うことなかれ! その感じが昌作の胸にぴたりときた。彼は次第に頭を垂れた。深い深い所へ落ちてゆく心地だった。それを彼は無理に引きもぎって、頭を挙げた。沢子はちらと眼を外らしたまま動かなかった。その顔を昌作は、初めて見るもののように見守った。広い額が白々とした面積を展(の)べていて、柔かな頬の線が下細りに細ってる顔の輪廓だった。薄い毳(むくげ)が生えていそうな感じのする少し脹れ上った唇を、歪み加減にきっと結んで、やや頑丈な鼻の筋が、剃刀を当てたことない眉の間までよく通り、多少尻下りに見えるその眉の下に、遠くを見つめるような眼付をする澄んだ眼が光っていた。今も丁度彼女はそういう眼付をしていた。それがかすかに揺いで、ふと二つ三つ瞬(まばた)きをしたかと思うまに、彼女はいきなり両の手でハンカチを顔に押し当てて、そばめてる肩を震わした。
 余りに突然のことに、昌作は惘然とした。そして次の瞬間には、もう我を抑えることが出来なかった。とぎれとぎれに云い出した。
「泣かないでくれよ。僕は苦しいんだ。実は……僕に必要なのは、仕事でもない、九州の炭坑でもない、或る一つの……そうだ、九州へ行くのが、暗闇の中へでもはいるような気がするのは……。」
 昌作が言葉に迷ってる時、沢子は急に顔のハンカチを取去って、彼の方をじっと眺めた。その表情を見て、昌作は凡てを封じられた気がした。彼女の顔は、眼に涙を含みながら、冴え返ってるとも云えるほど冷たくそして端正だった。彼女は静かな声で云った。
「佐伯さん、あなた宮原さんにお逢いなさらない? 私紹介してあげるから。」
 昌作は咄嗟に返辞が出来なかった。余りに意外なことだった。
「逢ってごらんなさい。岐度いいわ。」
 残酷な遊戯だ! という考えがちらと昌作の頭を掠めた。けれど、率直な純な光に輝いてる彼女の眼を見た時、信念……とも云えるような或る真直な心強さを、胸一杯に覚えた。彼は答えた。
「逢ってみよう。」
「そう、岐度ね。二三日うちに、四五日うちに、……午後……晩……晩がいいわね。向うからいらっしゃることはないけれど、用があるってお呼びすれば、岐度来て下さるわ。」
 沢子は如何にも嬉しそうに、顔も声も調子も晴々としていた。昌作はそれに反して、深い悲しみに襲われた。しつこく黙り込んで、顔を伏せて、身動き一つしたくなかった。いつまでもそうしていたかった。沢子も云うことが無くなったかのように黙っていた。
 けれど昌作は、やがて立上らなければならなかった。階段に乱れた足音がして、三人連れの客が現われた。
「おい、珈琲の熱いのを飲ましてくれよ。」
 沢子はつと立ち上ってその方を振向いたが、すぐに掛時計を仰ぎ見た。
「もう遅いじゃありませんか。」
「なあに、十一時にはまだ十五分あらあね。君は僕に、一晩に三十枚書き飛ばさしたことがあったろう。因果応報ってものだよ。」
 奥から春子が出て来たのと、沢子は何やら眼で相談し合った。春子が何か云うまに、客達はもう向うの卓子に坐っていた。
 昌作はそれらの様子をぼんやり見ていた。沢子と彼等との挨拶ぬきの馴々しい調子に、一寸不快の念を覚えた。それから、彼等のうちの、一人が、何事によらず自分の見聞をそのまま小説に綴る有名な流行作家であることを、見覚えのあるその顔で認めて、可なり嫌な気がした。彼は沢子がやって来るとすぐに立上った。沢子は声を低めて云った。
「二三日か一週間か後にね、私電話をかけるから、それまで外に出ないで待ってて下さいよ。」
 昌作は首肯(うなず)いた。

     三

 昌作は奇蹟をでも待つような気で、宮原俊彦に逢うのを待った。それは全く思いもかけないことだった。昌作が聞き知ってる所に依れば、宮原俊彦は沢子との恋のいきさつによって、二人の子供まである妻君と別れ、而も沢子と一緒にならずに、今では単なる友人として交際してると云う、謎のような人物だった。そういう俊彦に、沢子へ恋してる昌作が、沢子の紹介によって逢うということは、何としても意外だった。然し昌作は、自分自身をもてあつかって、半ば自棄的な気持に在った。何か事変ったものがあれば、尋常でないものがあれば、それへすぐに縋りついてゆき易かった。と云ってもそれは、好奇心からではなかった。否彼には好奇心は最も欠けていた。ただ何かしら、心に或る驚異を与えてくれるもの、情意を或る方向へ向けさしてくれるもの、云い換えれば、一定の視点を与えてくれるもの、それを欲しがっていたのである。そして彼は、変な風に落ちかかってきた宮原俊彦に逢う機会を、奇蹟をでも待つような気で待ちわびた。宮原俊彦に逢うことが、もしかしたら、沢子が云うように、自分のためにいいかも知れない。少くとも、沢子の以前の(?)……恋人に逢うことは、途方にくれてる自分に何物かを与えてくれるかも知れない。……
 昌作は出来る限り家の中に閉じ籠った。宮原俊彦に逢うまでは、誰にも逢うまいと心をきめた。片山夫妻へは四五日の猶予を約束していたけれど、どうせ今までぐずぐずしていた以上は、もし二三日後れたとて構うものかと思った。
 二三日か一週間外に出ないで待っていてくれ、という沢子の馬鹿げた命令を思い出して、昌作は半ば泣くような微笑を浮べながら、その命令を守り初めた。そして彼の所謂、猫と一緒の「猫の生活」が、幾日か続いた。
 それほどの寒さでもないのに、八畳の真中に炬燵を拵えて、□の所までもぐり込んだ。胸に抱いてる猫の喉を鳴らす声が低くなってくると、彼の意識もぼやけてきた。夢をでもみるような気で室の中を眺めた。窓近くの机や本箱のあたりに、彼の生活の断片が雑居していた。友人の世話で引受けてる陸軍省の安価な飜訳……徒らに書き散らしてる詩や雑文の原稿……盛岡で私淑していたフランス人の牧師から貰った聖書(バイブル)……ファーブルやダーウィンなどの著書……重にロシアの小説の飜訳書……和装の古ぼけた平家物語……それからいろんなこまこましたもの。昌作はそれらをぼんやり眺めたが、いつしか眼が茫としてきて、うとうととしかけた。なにか慴えたようにはっと眼を開いて、またうとうととした午後の二時頃から、縁側の障子に日が射して来た。炬燵の中からむくむくと猫が起き出して、一寸鼻の先を掛布団の端から覗かしたが、いきなり室の真中に這い出して、手足を踏ん張り背中を円くして、大きな欠伸(あくび)をした。昌作も何ということなしに起き上った。炬燵の温気に重苦しい頭痛がしていた。何か重大なことでも忘れたように、眉根を寄せて一寸考え込んだ。それからはっと飛び上った。淋しければという詩のことを思い出した。けれど、机の前に行って本箱の抽出の原稿に手を触れる時分には、深い憂鬱が彼の心を領していた。……明日(あす)知れぬ幸(さち)を占うことなかれ……沢子がなおした詩句を口の中で繰返しながら、詩稿を一つ一つ眺めてみた。三文の価値もない自分の残骸がごろごろ転ってる気がした。胸では泣きたいような気持になりながら、顔には自嘲的な皮肉な微笑が漂った。彼は詩稿をごたごたに抽出にしまって、読みつくした新聞をまた取上げた。打ちかけの碁譜がついていた。目(もく)の数を辿りながら読んでいった。終りまでくると、碁盤を引寄せて譜面通りに石を並べ、その先を一人でやってみた。一寸した心の持ちようで、白が勝ったり黒が勝ったりした。そんなことを何度もやり直した。炬燵の上に飛び上って、顔を撫でたり足の爪の間をかじったりしていた猫は、此度は其処に蹲って、両の前足を行儀よく揃えて曲げた上に□をのせ、碁盤の白と黒との石が入り乱れて一つずつ殖えてゆくのを、珍らしそうに、而も退屈しのぎといった風に、ぼんやり眺めていた。うっとりした瞳の光が静に静に消えてゆくのを、少し強く石の音が響く毎に、またはっと大きく見開いた。その様子を昌作は振返って眺めた。猫も彼の顔を無心に見上げた。彼は碁盤を押しやり、炬燵の中に足を投げ出し、火鉢の縁と膝頭とに両肱をつき、掌で□を支えながら、暮れかかってゆく黄色い日脚を、障子の硝子越しに眺めた。猫はぶるっと一つ身を震わし、彼の膝の上にのっそり這い込んで、いずまいを直しながら、前足の間に首を挟み円くなって眠った。虎斑(とらぶち)のその横腹が呼吸の度に静に波打ってるのを、昌作は暫く見ていたが、やがてまた顔を上げて、障子の硝子から外に眼をやりながら、底に力無い苛立ちを含んだ陰鬱な夢想に、長い間浸り込んだ。
 けれど夜になると、その夢想の底の苛立ちが表面に現われてきて、彼を自分の室に落着かせなかった。何か思いもかけないことが今にも起りそうだった。沢子から今にも電話がかかって来そうだった。その、今にも……今にも……という思いが、彼の凡てを揺り動かした。その上彼の室は、この旅館兼下宿の、下宿の部と旅館の部との間に挟っていて、一時滞在の田舎客の粗暴な足音が、夜になると共に煩く聞えてきた。
 十分ばかりの間じっと我慢した後、昌作は急に立上った。彼が食事の時にいつも与えることにしていた練乳(コンデンスミルク)の溶かしたのを、室の隅でぴちゃぴちゃ舐め終った猫が、なお物欲しそうに鼻をうごめかしてるのを、彼はいきなり胸に抱き上げて、慌しい眼付で室の中をぐるりと見廻してから、それでもゆっくりした足取りで出て行った。帳場の室に猫を押しやり、話しかける主婦(かみ)さんの言葉には碌々返辞もせずに、自分の用だけを頼んで――柳容堂からと云って電話がかかったら、つないだまま知らしてほしい、他の電話や訪客には一切、不在だと答えてほしい――と頼んで、二軒置いた隣りの撞球場(たまつきば)へ行った。球をついてるうちにも、始終何かが気にかかったけれど、別に仕方もなかったので、つまらないゲームに時間をつぶして、夜更けてから下宿に帰った。帰ると先ず何よりも、電話の有無を女中に尋ねて、それから冷い心で自分の室にはいった。
 四日目の午後から晩へかけて、片山からという電話が三四度かかった。一度は女中が撞球場までやって来て、昌作の意向を聞いた。探したけれど分らないと云ってくれ、と昌作は答えた。凡ては宮原俊彦に逢ってから! ということが、いつしか彼の頭の中に深く根を張っていた。逢って何になるかは問題でなかった。ただ一生懸命に待ってるために、昌作は知らず識らずそれに囚われていたのである。其他のこと一切は、憂鬱で億劫だった。
 そして偶然にも、丁度その晩八時頃柳容堂からの電話を女中が知らして来た時、昌作は突棒(キュー)を置いてゲーム半ばに立上った。午後から風と共に雨が降り出していた。昌作は傘を手に握ったまま雨の中を飛んで帰った。電話口に立つと、覚えのある沢子の声がした。
「あなた佐伯さん?……じゃあ、すぐに来て下さいよ。今ね……いらしてるから。他に誰もいないわ。すぐにね。」
「今すぐ出かけるよ。……そして……。」
 昌作が何か云おうとするのを待たないで、沢子は「すぐにね」を繰返して電話を切ってしまった。
 昌作は自分の室に戻って、一寸身仕度をして出かけた。
 大した風でもなさそうだったが、雨は横降りに降っていた。油ぎった泥濘が街灯の光を受けて、宛も銀泥をのしたようにどろりとした重さで、人影の少い街路に一面に平らに湛えてる上を、入り乱れた冷たい雨脚が、さっさっと横ざまに刷いていた。昌作は傘の下に肩をすぼめて、膝から下は外套の裾で雨を防いだ。電車に乗っても、背筋から足先へかけて冷々(ひえびえ)とした。
 途中で一度電車を乗り換え、柳容堂の明るい店先へ近づくに従って、昌作は自分の地位を変梃に感じ初めた。この四五日の間あれほど一生懸命に待っていて、そして今雨の降る中を、宛も恋人ででもあるように夢中になって逢いに行くその当の宮原俊彦が、一体自分にとって何だろう? そして自分は彼にとって何だろう? 二人は逢ってどうしようというのか? 而も沢子の面前で……。泣いてよいか笑ってよいか形体(えたい)の知れない感情が、昌作の胸の中一杯になった。それでも彼は行かなければならなかった。
 柳容堂の二階へ通ずる階段に足をふみかけた時、昌作は殆んど無意識的に顧みて、爪革に泥のはねかかってる古い足駄が一足、片隅に小さく脱ぎ捨ててあるのを見定めた。それから階段を、一段々々数えるようにして上って行った。
 二階に上って、第一に彼の眼に止ったものは、室の両側の壁にしつらえてある可なり贅沢な煖炉の、一方のに赤々と火が焚かれてることだった。その煖炉の前の卓子に、長い頭髪を房々と縮らした一人の男と沢子とが、向い合って坐っていた。
 昌作の姿を見ると、沢子はすぐに立上って、二三歩近寄ってきたが、其処にぴたりと立止って、サロンの女主人公といった風な会釈をした。それから彼を煖炉の方へ導いて、殆んど二人へ向って云った。
「先生よ。」
 その先生という言葉が、昌作の耳に異様に響いた。がそれよりも変なのは、初めて見る宮原俊彦の顔に、彼は何だか見覚えがあるような気がした。頬骨の少し秀でた、頬のしまった、髯のない、色艶の悪い顔、痩せた細い首、そして縮れた髪の垂れてる額の下から、近眼鏡の奥から、大きな眼が輝いていた。何処ということはないが、重にその眼に、昌作は古い見覚えがあるような気がした。
 もじもじしてるうちに、沢子が横手の椅子に腰を下ろしてしまったので、昌作は仕方なしに、一つ不自然なお辞儀をしておいて、俊彦と向い合って坐った。
「宮原です。」と俊彦は云った。「どうぞよろしく……。君のことは沢子さんから聞いてはいましたが……。」
 いきなり君と呼ばれたことと沢子さんという言葉とが、また昌作を変な気持にさした。
「私もお名前は伺っておりました……。」
 昌作はそう鸚鵡返しに答えてから、へまな挨拶をしたという気まずさのてれ隱しに、濡れた冷たい足袋の足先を煖炉の火にかざした。
「そんなに降ってるの?」と沢子が云った。
「雨はそうひどくないが、横降りなんだから……。」
「そう。御免なさい。」と彼女は雨の責任が自分にあるかのような口を利いた。
「その代り何か温まるものを持ってきてあげるわ。」
 昌作がいつもあつらえる珈琲とコニャックとを取りに、沢子が立って行った時、俊彦は落着いた調子で云った。
「沢子さんの気まぐれにも困るですね。是非やって来て君に逢えって、殆んど命令的な手紙を寄越すんですからね。こんな天気に済みませんでした。けれど、僕は何だか、君も御承知でしょうが、他に大勢客が居そうな時には、一寸来難いもんですからね。それでわざわざ、雨の降る寒い晩なんかを選んだのです。」
 別に云い渋るのでもないらしい自然な声で、真正面を向いたままそう云われて、昌作は一寸返辞に迷った。けれど、非常にいい印象を受けた。ややあって不意に云った。
「私も、他に客の居ない方がいいんです。あなたにお目にかかるのを非常に待っていました。」
 俊彦はそれを聞き流しただけで、煖炉の火に眼を落した。
 二人はそのまま黙っていた。暫くして沢子は、珈琲を二つとコニャックを一杯持って来て、珈琲の一つを俊彦の前へ差出したが、別に何とも云わなかった。昌作は眼を挙げて、彼女の様子がいつもと違ってること、何か変に気持をこじらしてることを、見て取った。それが彼の心を暗くした。沈黙が長引くほど苦しくなってきた。その沈黙を破るべき言葉を探し求めたが、なかなか見つからなかった。すると、不意に沢子が云い出した。
「佐伯さん、あなた九州行きはどうして?」
 昌作は答える前に、俊彦の顔をちらりと見た。俊彦はまじろぎもせずに煖炉の火を見つめていた。
「まだあのままさ。」と昌作は答えた。
 そして俄に彼の心に、或る何物へとも知れない憤懣の念が湧き上ってきた。片山からの電話を三四度も素気なく放りっぱなしにしたことが、何か取り返しのつかない失体のように頭を掠めた。宮原俊彦に逢って何をするつもりだったのか?「沢子の気まぐれ」からここまで愚図々々引っ張られて来た自分自身が、なさけなく怨めしかった。沢子に恋しておればこそ!…… そして沢子は、その恋を知りつつどうするつもりなのか?
 昌作が次第に首を垂れて考え込んでるうちに、沢子は俊彦の方へ話しかけていた。
「先生、私松本さんの所で、やはりお弟子の小林さんて方と、議論をしましたのよ。」
「何の?」と俊彦は顔を挙げた。
「いつか先生が手紙に書いて下すったでしょう、初めのうちは出来るだけ自己を画面に出しきるがよい、腕が進んでくるに従って、次第に自己が画面から消えて、偉い作品が出来るものだって。私がそう云うと、小林さんはまるで反対の意見なんでしょう。初めは自己を画面には出していけない、腕が進んでくるに従って、本当の自己が画面に現われてきて、立派な作品が出来るものですって。それでさんざん議論をしても、とうとう分らずじまいですから、しまいには松本さん所へ持ちこみましたのよ。」
「すると?」
「何とも仰言らないで、ただ笑っていらしたわ。好きなようにやるがいいだろうって。屹度御自分にもお分りにならないんでしょう。」
「うまく軽蔑されたもんですね。」
「あら、誰が?」
「あなた達がさ。あなた達のその議論は、第一自己というものの見方が違ってるから、いつまで論じたってはてしがつきませんよ。」
「そう、どうしてでしょう?」
「どうしてだか、僕にもお分りになりませんね。……そんなことより沢子さん、僕に絵を一枚くれる約束じゃなかったですか。」
「あら、先生に差上げるようなもの、まだ出来やしませんわ。」
 昌作は突然口を出した。
「沢ちゃんの群像って話をお聞きになりましたか。」
 その声が、昌作自身でも一寸喫驚したくらい大きかったが、俊彦は別に大して気を惹かれもしないらしく、ただ眼付きだけで尋ねかけてきた。それを沢子は引取って云った。
「あら、そんなでたらめなことを先生の前で……。嘘よ、嘘よ。」そして彼女は何かに苛立ったかのように次第に早口になりながら、而も真面目だかどうだか見当のつかない調子で、云い続けていった。「私記者なんかしたものだから、ここに居てもいろんなことを人に云われて、ほんとに嫌になってしまうわ。誰にも顔を合せないで、一人っきりでいられる仕事はないものかしら? 一日自分一人で黙っていて、勝手なことばかり考え込んでおられたら……。あなたなんか、ほんとに羨ましいわ。何にもしないで猫のような生活だなんて! 私もう何もかも放り出したくなることがあってよ。田舎へ帰っちまおうかなんて考えることがあるのよ。何をするのにも、人からじっと見られたり、余計な邪推をされたりして……私そんな珍らしい人間でしょうか? どこか、誰からも離れてしまった所へ、自分一人きりの所へ、逃げて行ってしまいたいわ。井戸の中みたいな所へ……。深い井戸を見るとね、あの底へ飛び込んだら、自分一人きりになって、静かで、ほんとにいいだろうと思うことがあるわ。」
 昌作はそれを、沢子の言葉としては可なり意外に感じた。彼女はいつも、何にも仕事がないという昌作を不思議がっていたではないか。彼は彼女の顔を見守った。
「そして、井戸の底に水がなかったらなおいいでしょうがね。」と俊彦は云った。でもその調子は別に皮肉でもなかった。
「あら、先生も随分よ。私水のある井戸のことなんか云ってやしませんわ。」
「じゃあ、初めから水のない井戸のことですか。」
「ええ。」
「でもね、逃げ出す方に捨鉢になるのは卑怯ですよ。戦う方に捨鉢にならなくちゃあ……。」
 その言葉に、昌作は一寸心を惹かれて、じっと俊彦の眼を見やった。俊彦はちらりと見返してから云った。
「君は何にもすることがないんですって? いいですね。」
「佐伯さんは、」と沢子が云った、「何にもすることがなくて困るんですって。」
「することがなくて困るというのは、なおいいですね。僕も賛成しますね。」
 昌作は先刻から、俊彦の言葉に妙に皮肉があることに気付いていた。けれどもそれは単に言葉の上だけのもので、彼自身の心持は少しも皮肉ではなく、却って率直で真面目であることをも、よく気付いていた。それで今、彼の言葉に対して苛立たしい不満を覚えた。つっかかってゆきたくなった。
「私は実際困ってるんです。」と昌作は云ってのけた。「自分には何だか生活がないような気がして、始終憂鬱な退屈な心持になってきます。晴々とした空が私にはないんです。」
「では何か仕事を見付けたらいいでしょう。」
「見付けたいんですが、それがなかなか……。」
「然し君は、一体何をするつもりですか。」
 突然の、そして自分でもよく考えたことのない、きっぱりした問だったので、昌作は一寸面喰った。俊彦はその顔をじろじろ見ながら、自分自身でも考え考え云うかのように、ゆっくり云い続けた。
「仕事を見付けるということも大切でしょうが、それよりも、何をするかという、その何かを見出すのが、更に大切ではないでしょうか。誰にでも、何でもやれるものではないでしょう。先ず何をやるか、それからきめておいて、云わば生活の方向をきめておいて、それから初めて仕事を探すべきでしょう。そうでないと、どんな仕事がやって来ても、取捨選択に迷うばかりで、手が出せやしませんからね。」
「然し私には何をやってよいか、それをきめる力が自分にないんです。」
「そりゃあ勿論誰にだって、自分が何をやるべきかは、なかなか分るものではないでしょうけれど、ただ漠然と生活の方向といったようなものは、誰にでもあるものですよ。」
「ですが……その方向を支持してくれる力が第一に……。」
「力なんて、」と突然沢子が言葉を拝んだ、「気の持ちようじゃありませんかしら?」
「気の持ちようか、または心の向け方か、そんなものかも知れませんね。」
 がその時、不思議にも、深い沈黙が俄に落ちかかってきた。三人共云い合したように、ぴたりと口を噤んでしまった。何故だか誰にも分らなかった。各自に自分々々の思いに沈み込んで、そして妙に精神を緊張さしていた。昌作はそれをはっきり感じた。沢子は遠くを見つめるような眼付を、卓子の白い大理石の面に落していた。俊彦はしまった頬の筋肉をなお引緊めて、煖炉の火に見入っていた。昌作は眼を伏せて腕を組んだ。顔をそむけて心で互に見つめ合ってるがようだった。
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