蠱惑
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著者名:豊島与志雄 

 私はその時は堅く堅く心を閉す必要はなかったのだ。然しそれだけ不安が大きかったのだ。私はぶるぶる震え乍ら漸々そのカフェーから逃げ出すことが出来た。

 ――悶え乍らも私はやはり彼の方へぐんぐん引きつけられてゆく外はなかった。力をこめてぶつかって行こうとすれば、ふうわりと大きいものの中に彼は私を包んでしまうのだ。
 私達の何れかが何かを飲んでいる時、それを見て後から来た方が同じものを注文するのは別に不思議はないんだ。然し私は只頭の中で考えたきりじっとしていることがある。その時は屹度彼が私より先にそれを女中に云いつけるのだ。私が考えて彼がそれを先に実行するということがあっていいものだろうか? 私は泣き出しそうな顔をし乍ら、やはり私が考え彼が実行したことを、その通りにくり返さねばならないんだ。
 私が考えること、行うこと、それをみんな彼奴が盗んでしまうんだ。彼は私を貪りつくし、裸になして、そして其処に震えつつ転っている私の魂をまで□(しゃぶ)ろうとしている。
 私はそれでもまだ自分に力があることを信じている。私が今まっすぐに彼に向って歩き出したら、私をとり巻く彼の世界をずっと通りぬけることが出来るという確信がある。然し私は怖いんだ。身の毛が立つほど怖いんだ。
 彼の世界にはその奥に薄い膜がある。私にはそれより先は見えないんだ。それは薄い膜だから一寸爪先で蹴ればすぐ破けるに相違ない。然し今その先のものが私を脅かしている。私はよく夢の中で高い所から底のない深みへ、息づまるような速力で一直線に落つる恐怖を感ずることがある。私がその薄い膜から先を覗こうとする時は、それと同じい恐怖が私を襲うのだ。
 然しこのままで居ては只彼からこの生命を吸い取らるるばかりなんだ。私はどうにかしなければいけないんだ。

 ――寒い風がすさまじく吹いている。その音が私の頭に当ってかんかんという音を立てている。カフェーの中の円い卓子に倚っていても私の身体は風の音にふらふらと揺られそうだ。
 その時入って来た彼を見て、私は思わず歯をくいしばってしまった。
 彼は決して頸巻をしていたことがなかった。それにその晩は私と同じなラクダの布で、而も私と同じように顔の下半分を包んでいたのだ。この頸巻が与える頬の感覚は、私の深い生命の世界の知覚と非常に密接な関係を有していた、私には貴い残りものなんだ。それを今彼がほっそりとした頬に盗んで楽しんでいるんだ。私は口惜しかった。それでじっと睥みつけてやった。すると自分の頬に滑らかな彼の頬の肉の触れるのを私は感じた。私は驚いて飛び上った。
 その瞬間私の頭の中には最も周到なる熟慮が働いて復讐の計画がたちどころに成った。それで私はぐっと落ち付いてやった。
 彼の所へ紅茶を運んだ女中を私は呼んだ。そして一寸用があって出かけるけれどすぐに帰って来るから紅茶を用意しておいてくれと云った。
 外に出ると私は寒風の中を突進して、近くの帽子屋に入った。其処で彼奴のと同じな中折帽を一つ買って、私はまた駈け戻った。
 カフェーの前に来た時私の呼吸は喘いでいた。で暫く其処に立ち止って息を静めた。それから鳥打を袂の中にねじこみ、中折を眼深にかぶって、私は悠然として中へ入った。
 室に入ると私の心の緊張が何かぎざぎざしたものにそっと撫でられた。そして張り切った私の力が何処かへぬけ出してしまった。私はぼんやり首垂れて自分の席へ着いた。
 その時彼が私を嘲笑ったのだ。口元に皺をよせて白い歯を少しその唇の間から見せ乍ら、賤しい蔑視の眼を私の上に据えたのだ。私は非常な屈辱と忌々しさを感じた。然し私は力なく首垂れている自分を彼の前に贄として差出すの外はなかったのだ。
 何という様(ざま)だろう! 私はとうとう彼の惑わしの糸に搦められてしまったのだ。もうどうにも出来ないんだ。
 彼のうちには深い穴があるのを私は初めから知っていた。彼がじっと眼を据えたものから何かが流れてその穴の中へ入って行くのを私は見た。私は今はっきりと知っている。それは物の魂なんだ。この仕方で彼は私の世界に在る凡てのものの魂を吸い取ったのだ。私の頬の感覚までも吸い取ったのだ。そして今私の魂をも吸い取って□ろうとしている。この貪って飽くことを知らない穴が、その底に無限の空間が続いているその闇の穴が、今じっと私を吸いつけようとしている。
 私にはもう魂のない平面的な、現実の堅い皮ばかりしか残されていない。そして裸で震えている一人ぼっちな自分の魂しか残されていない。然し私の魂があの穴なしの闇の穴に吸い取られる前に、私は屹度彼に対して、最期の奮闘をしないではおかない。私にはまだこの屹度という強い意志があるんだ。

 ――その次の火曜に私は一つの武器を持ってカフェーに行った。それは彼が煙草を吸わないことなんだ。その時私は大海の真中に身を投ずるような心地がした。
 私は葉巻を二本途中で買った。一本は袂の中にしまった。そしてカフェーの前に立った時一本に火をつけた。
 私はじっと下腹に力を入れそして拳(こぶし)を握った。それから右手の指に強く□んだ葉巻をすーっと吸った。その煙を吹きつけ乍ら私は扉を押した。
 其処には早や彼が来て静に腰掛けているのを私は見た。
 私はそのままつかつかと進んで彼の傍に立った。彼がふり向いてじっと私を見上げた。ここだと私は思った。で全力を尽してぐっと沈着を装った。そして云った。
「君は煙草を吸わないんですね!」
 その時私の眼は恐ろしく彼を睥みつけていたんだ。それでも彼はゆっくりと答えた。
「煙草はきらいです。」
 何と云う妙な声だろう! 幅広い風が地面に沿って流るるようなんだ。妙にぽかんとして消え去ったその声の跡を追っていると、何だか柔いものが私の全身を捉えた。そして私をすーっと空中に持ち上げようとしている。持ち上げて此度は目が眩むような速度で私を深い所へ落そうとしている。
 その時彼がつと立ち上った。そして私をじっと見据えた。どうにも出来なかったのだ。私の全身は柔いものに縛られている。そして彼の凄い眼が私の心にぷすぷすと小さい針を無数にさし通している。
 その時私はぐっと足をふみしめてやった。きらりと私の頭の中に光ったものがある。私は拳固をかためて卓子の上を一つ強く叩いてやった。そしたら私を捉えているものがふっと弛んだ。畜生! と私は怒鳴ってやった。そしてそのまま駈け出した。
 私の中で脈搏が急に止ってしまった。そして頭が重い石のように固ってしまった。
 私は家に帰って自分の室に在る小さい懐剣を懐に隠した。そしてすぐに飛び出した。その時茶の間に立っている母の姿が私の眼にちらと映った。
 私は自分で知らないまに直にカフェーの中に突進した。そして円い卓子の自分の席に倒れるように身を投げた。
 凡てのものががらんとしている。そして堅い石のような私の頭が次第にゆるんでくる。後頭部に眩暈するような重い痛みがある。骨格のふしぶしが弛んで、ぐたりとくずれそうな気がする。
 その時女中が向うの隅に立ったまま私を見ていた。私はおい! と叫んだ。そして熱くして珈琲を一つくれと云った。
 然し何だか自分をとり落したような気がしていた。そしておかしな空虚が胸の中に蟠っていた。その時私は何気なく左手を懐に入れたら、堅いものが触った。
 私の全身にぎくっという音がした。はっとして私に強い意識が返って来た。一瞬間彼の眼付が前に浮んだ。そして消えた。私は強く懐剣を懐のうちで握りしめた。凡てのことがはっきりと私に分ったのだ。
 何の音も声もしない。唯じっとした静けさだ。そして私の意識が凡てのものの上にしみ渡ってゆく。其処には光りも影もなくて唯深い明るみがあるんだ。その明るみが力一杯に緊張している。何物をも許さないんだ。大きく眼を見張ったままじりじりと凡てが迫ってゆく。私の意力がその中にこもっているんだ。私は両手で緊(しか)と懐剣を握りしめ、息を凝らしてぶるぶると全身の筋肉を震わした。

 ――私は彼奴を微塵にうち砕いてやろう。
 何という力強い緊張だろう! このままじっとしていることは許されないんだ。何かが破れそうだ、裂けそうだ。真直に、そうだ真直に私は彼奴に向って突進するばかりなんだ。私の前に彼奴が立ち塞っている。私の魂が息をつけないで悶えている。唯この力でぐっと彼奴にぶつかってやるばかりなんだ。

 ――私は金曜を待った。唯じっと待っていた。
 その頃昼間、私の生命は益々稀薄になってしまった。夢の中から無理に引きちぎって来られたようなぽかんとした空虚と気味の悪い悪寒とが私のうちに満ちていた。そして私はただ炬燵の中に身体を横えて居た。私の生命は凡て夜の方へ流れ込んでしまったのだ。
 夜私は強く両手を握りしめていた。そしてじっと眼を一つ所に据えた。然し私は何にも見も聞きもしないんだ。弦のようにはり切った私の心がそうすることを強ゆるんだ。時々何処かの筋肉がびくびくと引きつる。
 私は唯そうして居なければいけないんだ。それで母が来ても女中が来ても、私はすぐに追いやって自分一人室の中に居た。
 凡てが必然なんだ。何にも考えることなんかないんだ。唯必然にそうしなければいけないという事実ばかりなんだ。私はその事実をじっと見つめているんだ。

 ――金曜の晩私は深い水底に居るような心地をして家を出た。懐剣を緊と内懐にしまった。家を出てふと振り返ると、閉めた筈の格子が二三寸許りあいていた。私はそれをがたりと力一杯にしめてやった。
 私は一直線にカフェーに向った。私は首を少し前の方に伸して、光りと影とのうちに無形のものをすかし見ながら歩いた。形あるものは何物も私の眼に入らなかった。そして少しの足音もしないように而も力強く歩いた。
 カフェーの前に立った時、私は全力をこめてじっと扉を睥めてやった。そしたら独りですーっと扉が開いた。私はつと身を入れて、それから自分の席について彼を待った。
 私のうちの凡てのものが硬くなっている。そして一杯の力を以て前の方へ向っている。その時私の後ろにじっと私を見つめている大きい影を私は感じた。然しもうふり返れないんだ。どうにも出来ないんだ。私は力強く自分の額を拳固で叩いてやった。巨大な岩を叩いたような音がした。
 私はウィスキーを飲んでみた。女中が其処に立って私をじろじろ見ているので、うるさいと怒鳴ってやったら引込んでいった。
 私はどれだけの時が過ぎたか知らない。その時ある大きいものが一瞬間その歩みを止めたのだ。凡てが深く息を吸い込んでいる。さっと深い沈黙が流れる。動いてはいけない。指一本動かしてはいけないんだ。
 私は明瞭と知ったのだ。それで扉の方をまたたきもしないで見つめた。彼が音もなくすっと入って来た。それから一寸立ち止っていきなり私に眼を止めた。
 大きい力強いものが私を捉えた。彼がじっと私を見つめたまま真直に私の方へ進んでくる。そしてその眼がぐんぐん彼の方へ私を引きつけようとしている。
 私はすっと立ち上った。その時私の頭の中でさらさらという音がした。私は彼の胸の所へじっと眼を据えた。何かがさっと流れた。私は右手に懐剣を握った。刃が真黒なんだ。それを彼の胸の中に力を込めてつき立ててやる。すっと刄が通る――何処までも深く通ってゆく。そして私は真逆様に深く深く落ちてゆく……。
 ……遠い処から誰かが私を呼んでいる。仄白い明るみが見える。私はその方へ歩いて行く。とふっと私は何かに出逢った。そして私は顔を上げた。
 私は卓子の上にうつ俯していたのだ。私の側に彼の男が腰掛けている。そして私が顔を上げたのを見て、そっと私の手を握った。
 私は思わずぼろぼろと涙を落した。嬉しかったのだ。私も彼の手をじっと握り返してやった。そしたら又涙が落ちた。嬉しかったのだ。
 私は深い処に居た。凡てが生きて動いている。青い明るみが立ち罩めた中に、多くの温い魂が一つの大きい生命のうちに融けて流れる。私達二人が其処に居るんだ。私の心がその大きい生命の流れに融けてゆく。祈るようなそして息づまるような憂が……。私の眼から熱い涙が落ちてくる。
 其時私の前に葡萄酒の瓶と二つのグラスとが置かれていた。彼が私のためにグラスを充してくれた。
 私は一息にその赤い葡萄酒をのみ干した。彼も一息にのんだ。それから私達は黙って幾度も続けて飲んだ。
 その時だ。彼が突然高く笑い出した。その笑が私の頭の中に反響した。そして私の喉から独りで笑いが飛び出してきた。私達は自分を忘れて声を揃え痙攣的の哄笑を続けた。
 笑が静った時、私はそのままじっとして居れなかった。凡てのものが眼に見えない力で私をぐんぐん運んで行くんだ。
「さあ行こう!」と私は云った。
「行こう!」と彼が答えた。
 凡てのことがはっきりと私達には分っていた。彼が勘定をした。そして私達は外に出た。
 私の心に朗かなものが吹き込まれた。空を仰ぐと星が一杯輝いて、私の温い胸の中に飛び込んでくる。空をそして地をじっと心ゆく限り抱きしめたい。みんな私の所有(もの)なんだ。そしてみんな私の涙が流るるような愛の抱擁を待っているんだ。私は其処に身を躍らして飛び上った。
 その時彼が淋しい眼でじっと私を見た。私は危く彼を両腕のうちに抱擁しようとした。そしてはっと自分の懐に懐剣を感じた。
 私はその瞬間ある神秘な喜悦を感じたのだ。それでいきなり彼の手を取った。そして着物の上から懐剣の鞘を彼の手に握らしてやった。
 彼ははっと身を引いた。そして鋭く私の眼の中を見つめた。何だか一言大きい声を彼は立てた。そしてそのまま一散に駈け出した。
 私は惘然其処に立っていた。ある黒い大きい翼が私の心を掠めて飛んだ。頭の中にがらがらと物の壊れる音がした。
 私は夢中になって駈け出してしまった。
 家の格子をあけて入った時、私は其処にぱたりと倒れた。母が自分で私に床をしいてくれた。私はその中で昏睡に陥っていった。

 ――私の頭の中で星がきらきら輝いていた。それが無数に一つ所に集ってきてくるくると渦をまく。その向うに仄白いものが浮んできて、やがて其処にカフェーの室が造らるる。然し其処にはもう誰も居ないんだ。そしてそれはもう私から非常に遠くにあるんだ。
 翌日医者が来た。ひどい神経衰弱だと私が云ってやった。そうですと彼が云った。
 医者が帰ってから母が私の枕頭に坐って、私をじっと見ている。冷たい探るような眼付だ。じっと私の魂を見透そうとしているんだ。
「お母さん! そんな眼付をしてはいけません。」
と私は云った。
 その時母の眼からほろりと涙が落ちた。ほんとに清らかな輝いた玉なんだ。それがきたなく銘仙の着物の膝ににじんでゆく。私はいきなり身を起して、小さく切った林檎が盛ってあった、空色の薄い玻璃皿を取って母の膝に置いた。丁度その時又涙がぽたりと落ちて皿の中で砕けた。
 母はその時涙の一杯たまった眼で美しく微笑んだ。それで私も我知らず微笑んだ。そしたら大変安らかな気分になった。
 私はまだ甚だしく疲労していた。暫く外に出ないがいいと母が云った。それで私は何時も自分の室にとじ籠っていた。もう何処へも出たくなかったのだ。
 私はその時遠くに去ってしまったかの男について自分の記憶を誌しはじめた。それは非常に大切なことだったのだ。はじめは文句も成さなかったのを幾度も書き直した。次第に真実が失われて作為が多くなるような気もした。然しまたそのため私にとっては一層貴くなっていくようにも思えた。
 ある日母がそれを見たいと云った。父の死後私は何にも母に隠さないんだ。だからそれも見せてやった。母はそれを読んでから、眼に一杯涙をためて、これはしまっておいて暫く見ない方がいいよと云った。私はその涙の中にうち震えて泣いている母の魂を見た。それでそれを手文庫の中にしまおうと思った。それはもとから私の家に在った古い金蒔絵のものである。
 私は手文庫の中に書いたものを入れて錠を下した。それは大変いい錠前なんだ。びーんという鉄の音がした。
 その音が私の心の底に響くんだ。そして私の魂を搾るんだ。私は其処に身を投げ出して泣いた。両手で胸を緊と押え乍ら身を悶えた。ほんとにどうにも出来なかったのだ。
 やがて私は起き上った。そして涙を流し乍らその手文庫を床の間の中央に据えた。それを眺めたまま私は暫くぼんやりと何かを考えた。

 ――私はなんにも知らなかったんだ。そしてやはりまだこの室にじっとしている。今私の胸のうちにひそかに囁きつつ遠い空から下りて来るものがある。私は静にしていなければいけないのである。そしてじっと祈るような心で居なければいけないのである。




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