世界怪談名作集
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著者名:ホーソーンナサニエル 

 ジョヴァンニは、もう我れを忘れて、怒りに任せて罵(ののし)った。
「そうだ、そうだ。毒婦! おまえが、それをしたのだ。おまえはおれを呪い倒したのだ。おれの血管を毒薬で満たしたのも、おまえの仕業(しわざ)だ。おまえはおれを自分と同じような、憎むべき厭うべき死人同然な醜(みにく)い人間にしてしまったのだ。世にも不思議な、いまわしい怪物にしてしまったのだ。さあ、幸いにわれわれの呼吸が他のものに対すると同じように、われわれの命にも関(かか)わるものならば、限りない憎悪の接吻を一度こころみて、たがいに死んでしまおうではないか」
「何がわたくしの身にふりかかって来たというのでしょう、聖(セント)マリア! どうぞわたくしをあわれとおぼしめしてください。……この哀れな失恋の子を……」
 ベアトリーチェは、その心から湧き出る低いうめき声で言った。
「おまえは……。おまえは祈っているのだね」と、ジョヴァンニはまだ同じような悪魔的の侮蔑をもって叫んだ。「おまえのくちびるから出て来るその祈りは、空気を〈死〉でけがしてしまうのだ。そうだ、そうだ、一緒に祈ろう。一緒に教会へ行って、入り口の聖水に指をひたそう。おれたちのあとから来た者は、みんなその毒のために死んでしまうだろう。空中に十字を切る真似をしよう。そうすると、神聖なシンボルの真似をして、外部に呪詛(じゅそ)をまき散らすことになるだろうよ」
「ジョヴァンニ……」
 ベアトリーチェは静かに言った。彼女は悲しみのあまりに、怒ることさえも出来なかったのである。
「あなたはなぜそんな恐ろしい言葉のうちに、わたくしと一緒に自分自身までも引き入れようとなさるのです。なるほど、わたくしはあなたのおっしゃる通りの恐ろしい人間です。しかし、あなたは何でもないではありませんか。この花園から出て、あなたと同じような人間に立ちまじわるのを見て、ほかの人たちが身ぶるいする、わたくしのような者は問題になさいますな。あわれなベアトリーチェのような怪物(モンスター)が、かつては地の上に這っていたということを、どうぞ忘れてしまって下さい」
「おまえは、なんにも知らない振りをしようとするのか」と、ジョヴァンニは眉をひそめながら彼女を見た。「これを見ろ。この力はまぎれもないラッパチーニの娘から得たのだぞ」
 そこには夏虫のひと群れが、命にかかわる花園の花の香にひきつけられて、食物を求めながら、空中を飛びまわって、ジョヴァンニの頭のまわりに集まった。しばらくのあいだ幾株の灌木の林に惹(ひ)き付けられていたのと同じ力によって、彼の方へ惹きつけられていることが、明らかであった。彼はかれらの間へ息を吹きかけた。そうして、少なくとも二十匹の昆虫が、地上に倒れて死んだときに、彼はベアトリーチェを見かえって、苦(にが)にがしげにほほえんだ。
 ベアトリーチェは叫んだ。
「分かりました、分かりました。それは父の恐ろしい学問です。いいえ、いいえ、ジョヴァンニ……。それはわたくしではなかったのです。けっして、わたくしではありません。わたくしはあなたを愛するあまり、ほんのちっとのあいだ、あなたと一緒にいたいと思っただけです。そうして、ただあなたのお姿を、わたくしの心に残してお別れ申そうと思っていたのです。ジョヴァンニ……。どうぞわたくしを信じてください。たといわたくしのからだは、毒薬で養われていても、心は神様に作られたもので、日にちの糧(かて)として愛を熱望していたのです。けれども、わたくしの父は……父は、学問に対する同情、その恐ろしい同情で、わたくしたちを結びつけてしまったのです。ええもう、どうぞわたくしを蹴とばして下さい、踏みにじって下さい、殺してください。あなたにそんなことを言われては、死ぬことくらいはなんでもありません。けれども……けれども、そんなことをしたのはわたくしではなかったのです。幸福な世界のために、わたくしがそんなことをするものですか」
 ジョヴァンニはその憤怒をくちびるから爆発するがままに任せておいたので、今はもう疲れて鎮まっていた。彼の心のうちには、ベアトリーチェと彼自身とのあいだの密接な、かつ特殊な関係について、悲しい柔らかい感情が湧いてきた。いわば、かれらはまったく孤独の状態に置かれたようなもので、人間がたくさん集まれば集まるほど、ますます孤独となるであろう。もしそうならば、かれらの周囲の人間の沙漠は、この孤立の二人を更にいっそう密接に結合すべきではなかろうか。自分が普通の性質に立ちかえって、ベアトリーチェの手を引いて導くだけの望みがまだ残ってはいないだろうかと、ジョヴァンニは考えるようになった。
 しかもベアトリーチェの深刻なる恋が、ジョヴァンニの激しい悪口によってこれほどに悲しくそこなわれたのちに、この世の結合、この世の幸福があり得るように考えるのは、なんという強(こわ)い、また我儘(わがまま)な卑しい心であろう。いや、こんな望みは、しょせん考えられないことである。彼女は恋に破れたる心をいだいて、現世の境いを苦しく越えなければならない。彼女はその心の痛手を楽園の泉にひたし、または不滅の光りに照らさせて、その悲しみを忘れなければならないのである。
 しかし、ジョヴァンニはそれに気がつかなかった。
「愛するベアトリーチェ……」
 彼女がいつものように近づくことを恐れたにもかかわらず、彼は今や異常なる衝動をもって、彼女に近づいた。
「わたしが最愛のベアトリーチェ。われわれの運命はまだそんなに絶望的なものではありません。ごらんなさい。これは偉い医者から証明された妙薬です。その効能の顕著なことは、実に神(しん)のようだということです。これはあなたの恐ろしいお父さんが、あなたとわたしの身の上にこの禍(わざわ)いをもたらしたものとは、まったく反対の要素から出来ているのです。それは神聖な草から蒸溜して取ったものです。どうです、一緒にこの薬をぐっと嚥(の)んで、おたがいに禍いを浄(きよ)めようではありませんか」
「それをわたしに下さい」
 ベアトリーチェは男が胸から取り出した小さい銀の花瓶を受け取ろうとして、手を伸ばしながら言った。それから、特に力を入れて付け加えた。
 「わたくしが嚥(の)みましょう。けれども、あなたはその結果を待って下さい」
 彼女はバグリオーニの解毒剤をその唇(くち)にあてると、その瞬間にラッパチーニの姿が入り口から現われて、大理石の噴水の方へそろそろと歩いて来た。近づくにしたがって、この蒼ざめた科学者はいかにも勝ち誇ったような態度で、美しい青年と処女(おとめ)とを眺めているように思われた。それはあたかも一つの絵画、または一群の彫像を仕上げるために、全生涯を捧げた芸術家がついに成功して、大いに満足したというような姿であった。
 彼はちょっと立ち停まって、かがんだからだを態(わざ)とぐっと伸ばした。彼はその子供らのために、幸福を祈っている父親のような態度で、かれらの上に両手をひろげたが、それはかれらの生命の流れに毒薬をそそいだ、その手であった。ジョヴァンニはふるえた。ベアトリーチェは神経的に身をふるわした。彼女は片手で胸をおさえた。
 ラッパチーニは言った。
「ベアトリーチェ。おまえはもうこの世の中に、独りぽっちでいなくともいいのだ。おまえの妹分のその灌木から貴い宝の花を一つ取って、おまえの花婿の胸につけるように言ってやれ。それはもう彼にも有害にはならないのだ。わたしの学問の力と、おまえたちふたりへの同情とによって、わたしの誇りと勝利の娘であるおまえと同じように、あの男のからだの組織を変えて、今ではほかの男とは違ったものにしてしまったのだ。それであるから、ほかのすべての者には恐れられても、おたがい同士は安全だ。これから仲よくして世界じゅうを通るがいい」
「お父さま。なぜあなたはこんな悲惨な運命をわたくしたちにお与えになったのですか」
 ベアトリーチェは弱よわしい声で言った。――彼女は静かに話したが、その手はまだその胸をおさえていた。
「悲惨だと……」と、父は叫んだ。「いったいおまえはどういうつもりなのだ。馬鹿な娘だな。おまえは自分に反対すれば、いかなる力も敵を利することが出来ないような、天賦の能力をあたえられたのを、悲惨だと思うのか。最も力の強い者をも、ひと息で打ち破ることが出来るのを、悲惨だというのか。おまえは美しいと同様に、怖ろしいものであることを悲惨だというのか。それならば、おまえはすべての悪事を暴露されても、どうすることも出来えないような、弱い女の境遇のほうが、むしろ優(ま)しだと思うのか」
 娘は地上にひざまずいて、小声で言った。
「わたくしは恐れられるよりも、愛されとうございました。しかし今となっては、そんなことはもうどうでもようございます。お父さま。わたくしはもう……。あなたがわたくしのからだに織り込もうとなすった禍いが夢のように、……この毒のある花の匂いのように、失(な)くなってしまうところへ参ります。エデンの園の花のなかには、わたくしの呼吸(いき)に毒を沁みさせるような花はないでしょう。では、さようなら、ジョヴァンニ……。あなたの憎しみの言葉は、鉛のようにわたくしの心のうちに残っています。それもわたくしが天国へ昇ってしまえば、みんな忘れられるでしょう。おお、あなたの体質には、わたくしの体質のうちにあったよりも、もっとたくさんの毒が最初から含まれていたのではありますまいか」
 彼女の現世の姿は、ラッパチーニの優れた手腕によって、非常に合理的に作られていたので、毒薬が彼女の生命であったと同じように、効能のいちじるしい解毒剤は彼女にとって「死」であった。
 こうして、人間の発明と、それにさからう性質の犠牲となり、かくのごとく誤用された知識の努力に伴う運命の犠牲となって、あわれなるベアトリーチェは、父とジョヴァンニの足もとに仆(たお)れた。
 あたかもそのとき、ピエトロ・バグリオーニ教授は窓から覗いて、勝利と恐怖とを混(こん)じたような調子で叫んだ。彼は雷に撃たれたように驚いている科学者にむかって、大きい声で呼びかけたのである。
「ラッパチーニ……。ラッパチーニ……。これが君の実験の終局か」




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