世界怪談名作集
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著者名:ホーソーンナサニエル 

 これほどの親しい間柄であるにもかかわらず、ベアトリーチェの態度には、なお打ち解けがたい点があった。彼女はいつも行儀のいい態度をとっているので、それを破ろうという考えが男の想像のうちには起きないほどであった。すべての外面上の事柄から観察すると、かれらは確かに相愛の仲であった。かれらは路(みち)ばたでささやくには、あまりに神聖であるかのように、たがいの秘密を心から心へと眼で運んだ。かれらの心が永く秘められていた火焔(ほのお)の舌のように、言葉となってあらわれ出るときには、情熱の燃ゆるがままに恋を語ることさえもあった。それでも接吻や握手や、または恋愛が要求し神聖視するところの軽い抱擁さえも試みたことはなかった。彼は彼女の輝いたちぢれ毛のひと筋にも、手をふれたことはなかった。彼の前で彼女の着物は微風に動かされることさえもなかった。それほどにかれらの間には、肉体的の障壁がいちじるしかった。
 まれに男がこの限界を超えるような誘惑を受けるように思われた時には、ベアトリーチェは非常に悲しそうな、また非常に厳格な態度になって、身を顫(ふる)わせて遠く離れるような様子を見せた。そうして、彼を近づけないために、なんにも口をきかないほどであった。こんな時には、彼は心の底から湧き出て来て、じっと彼の顔を眺めている、不気味な恐ろしい疑惑の念におどろかされるので、その恋愛は朝の靄(もや)のように薄れていって、その疑惑のみがあとに残った。しかも瞬間の暗い影のあとに、ベアトリーチェの顔がふたたび輝いた時には、彼がそれほどの恐怖をもって眺めた不思議な人物とはすっかり変わっていた。彼が知っている限りでは、彼女は確かに美しい初心(うぶ)な乙女(おとめ)であった。
 ジョヴァンニが曩(さき)にバグリオーニ教授に逢ってからは、かなりに時日が過ぎた。ある朝、彼は思いがけなく、この教授の訪問を受けて不快に思った。彼はこの数週間、教授のことなどを思い出してもみなかったのみならず、いっそいつまでも忘れていたかった。彼は長く打ちつづく刺戟に疲れてはいたが、自分の現在の感激状態に心から同情してくれる人でなければ逢いたくなかった。しかしこんな同情は、バグリオーニ教授に期待することは出来なかった。教授はしばらくの間、市中のことや大学のことなどについて噂ばなしをしたのちに、ほかの話題に移って行った。
「僕は、この頃、ある古典(クラシック)的な著者のものを読んでいるが、その中で非常に興味のある物語を見つけたのだ」と、彼は言った。「君もあるいは思い出すかもしれないが、それはあるインドの皇子の話だ。彼はアレキサンダー大帝に一人の美女を贈った。彼女はあかつきのように愛らしく、夕暮れのように美しかったが、非常に他人と異っているのは、その息がペルシャの薔薇の花園よりもなお芳(かぐわ)しい、一種の馥郁(ふくいく)たる香気を帯びていることであった。アレキサンダーは、若い征服者によくありがちなことであるが、この美しい異国の女をひと目見るとたちまちに恋におちてしまった。しかも偶然その場に居合わせたある賢い医者が彼女に関する恐ろしい秘密を見破ったのだ」
「それはどういうことだったのですか」と、ジョヴァンニは教授の眼を避けるように、伏目(ふしめ)がちに訊いた。
 バグリオーニは言葉を強めて語りつづけた。
「この美しい女は、生まれ落ちるときから毒薬で育てられて来たのだ。そこで、彼女の本質には毒が沁み込んで、そのからだは最もはなはだしい有毒物となった。つまり、毒薬が彼女の生命の要素になってしまったのだ。その毒素の匂いを彼女は空中に吹き出すのであるから、彼女の愛は毒薬であった――彼女の抱擁は死であった。まあこういうことだが、なんと君、実に不思議なおどろくべき物語ではないか」
「子供だましのような話ではありませんか」と、ジョヴァンニはいらいらしたように椅子から起(た)ちあがって言った。「尊敬すべきあなたが、もっとまじめな研究もありましょうに、そんなばかばかしい物語をお望みになるひまがあるとは、おどろきましたね」
「時に君、この部屋には何か不思議な匂いがするね」と、教授は不安そうにあたりを見まわしながら言った。「君の手套(てぶくろ)の匂いかね。幽(かす)かながらもいい匂いだ。しかし、けっして心持ちのいい匂いではないね。こんな匂いに長くひたっていると、僕などは気分が悪くなる。花の匂いのようでもあるが、この部屋には花はないね」
 教授の話を聴きながら、ジョヴァンニは蒼(あお)くなって答えた。
「いいえ、そんな匂いなどはしません。それはあなたの心の迷いです。匂いというものは、感覚的なものと精神的なものとを一緒にした一種の要素ですから、時どき、こういうふうにわれわれは欺(だま)されやすいのです。ある匂いのことを思い出すと、まったくそこにないものでも実際あるように思い誤まりやすいものですからね」
 バグリオーニは言った。
「そうだ。しかし僕の想像は確実だから、そんな悪戯(いたずら)をすることはめったにない。もし僕が何かの匂いを思いうかべるとしても、僕の指にしみ込んでいる売薬の悪い匂いだろうよ。噂によると畏友ラッパチーニは、アラビヤの薬よりも更にいい匂いをもって、薬に味をつけるそうだ。美しい博学のベアトリーチェも、きっと父と同様に、乙女(おとめ)の息のようないい匂いのする薬を、患者にあたえることだろう。それを飲む者こそ災難だ」
 ジョヴァンニの顔には、いろいろな感情の争いをかくすことが出来なかった。教授が、清く優しいラッパチーニの娘を指して言った言葉の調子が、彼の心に忌(いや)な感じをあたえた。しかも自分とはまるで反対の見方をしている教授の暗示が、あたかも百千の鬼が歯をむき出して彼を笑っているような、暗い疑惑を誘い出したのである。彼は努めてその疑いをおさえながら、ほんとうに恋人を信ずるの心をもって、バグリオーニに答えた。
「教授。あなたは父の友人でした。それですから、たぶんその息子にも友情をもって接しようというおつもりなのでしょう。わたしはあなたに対して心から敬服しているのです。しかしわれわれには、口にしてはならない話題があるということを、どうか考えていただきたいのです。あなたはベアトリーチェをご存じではありません。それがために間違ったご推測をなすっては困ります。彼女の性格に対して、軽慮な失礼な言葉をお用いになるのは、彼女を冒涜(ぼうとく)するというものです」
「ジョヴァンニ。憐れむべきジョヴァンニ」と、教授は冷静な憐愍(れんびん)の表情を浮かべながら答えた。「僕はこの可憐(かれん)な娘のことについて、君よりも、ずっとよく知っている。これから君にむかって、毒殺者ラッパチーニと、その有毒の娘とに関する事実を話して聞かせよう。そうだ、有毒者ではあるが、彼女は美しいには美しいね。まあ、聴きたまえ。たとい君が腹を立てて、僕の白髪(しらが)を乱暴にかきむしっても、僕はけっして黙らない。そのインドの女に関する昔の物語は、ラッパチーニの深い恐ろしい学術によって、美しいベアトリーチェのからだに真実となってあらわれたのだ」
 ジョヴァンニはうめき声を立てて彼の顔をおおうと、バグリオーニは続けて言った。
「彼女の父はこの学術に対して、狂的というほどに熱心のあまり、わが子をその犠牲とするに躊躇しなかったのだ。公平にいえば、彼は蒸溜器をもって彼自身の心を蒸発してしまったかと思われるほど、学術には忠実な人間であるのだ。そこで、君の運命はどうなるかという問題であるが……疑いもなく、君はある新しい実験の材料として選ばれたのだ。おそらくその結果は死であろう。いや、もっと恐ろしい運命かもしれない。ラッパチーニは自分の眼の前に、学術上の興味を惹(ひ)くものがあれば、いかなるものでもちっとも躊躇しないのだ」
「それは夢だ。たしかに夢だ」と、ジョヴァンニは小さい声でつぶやいた。
 教授は続けて言った。
「けれども、君、楽観したまえ。まだ今のうちならば助かるのだ。たぶんわれわれは彼女が父の狂熱によって失われている普通の性質を、悲惨なる娘のために取り戻してやれると思うのだ。この小さな銀の花瓶を見たまえ。これは有名なベンヴェニュート・チェリーニの手に成ったもので、イタリーで最も美しい婦人に愛の贈り物としても恥かしくないものだ。殊(こと)にこの中にはいっているのはまたとない尊いもので、この解毒剤を一滴でも飲めば、どんな劇薬でも無害になるのだ。ラッパチーニの毒薬に対しても、十分の効力あることは疑いない。この尊い薬を入れた花瓶を、君のベアトリーチェに贈りたまえ。そうして、確実の希望をもってその結果を待ちたまえ」
 バグリオーニは精巧な細工(さいく)をほどこした小さい銀の花瓶を、テーブルの上に置いて出て行った。彼は自分の言ったことが青年の心の上にいい効果をあたえることを望んだ。
「まだ今のうちならば、ラッパチーニをさえぎることが出来るだろう」と、彼は階段を降りながら、独りでほくそえんだ。「彼について本当のことを白状すれば、彼はおどろくべき男だ――実に不思議な男だ。しかしその実行の方法を見ると、つまらない藪(やぶ)医者だ。古来の医者のよい法則を尊ぶわれわれには我慢のならないことだ」

       四

 ジョヴァンニがベアトリーチェと交際している間、前にも言ったように、彼はときどきに彼女の性格について暗い疑いの影がさした。それでも彼はどこまでも彼女を純な自然な、最も愛情に富んだ、偽りのない女性であると思っていたので、今かのバグリオーニ教授の主張するがごときものの姿は、彼自身の本来の考えとは一致せず、はなはだ不思議な、信じ難いもののように思われた。
 実際この美しい娘を初めて見たときには、忌(いま)わしい思い出があった。彼女がさわるとたちまちに凋(しお)れた花束のことや、彼女の息の匂いのほかにはなんら明らかな媒介物もなしに、日光のかがやく空気のうちで死んでいった昆虫のことや、それらは今でもまったく忘れることは出来なかったが、こういう出来事は彼女の性格の清らかな光りのうちに溶(と)けこんで、もはや、事実としての効力を失い、いかなる感情が事実を証明しようとしても、かえってそれを誤まれる妄想と認めるようになっていた。
 世の中にはわれわれが眼で見、指でふれるものよりも、さらに真実で、さらに実際的なものがある。そういう都合のいい論拠のもとに、ジョヴァンニはベアトリーチェを信頼した。それは彼の深い莫大な信念からというよりも、むしろ彼女の高潔なる特性による必然的の力に由来しているのであったが、今や彼の精神は、これまで情熱に心酔して登りつめていた高所に踏みとどまることを許さなくなった。彼はひざまずいて世俗的な疑惑の前に降伏[#「伏」は底本では「状」]し、それがためにベアトリーチェに対する純潔な心象をけがした。彼女を見限ったというのではないが、彼は信じられなくなったのである。
 彼は一度それを試みれば、すべてにおいて彼を満足させるような、ある断乎たる試験を始めようと決心した。それは、ある怪異な魂なくしてはほとんど存在するとは思われないような恐ろしい特性が、はたして彼女の体質のうちにひそんでいるかどうかということを試験することであった。遠方から眺めているのならば、蜥蜴(とかげ)や、昆虫や、花について、彼の眼は彼をあざむいたかも知れない。しかも、もしベアトリーチェがわずか二、三歩を離れたところに、新しい生きいきとした花を手にして現われたのを見たとすれば、もはやその上に疑いをいれる余地(よち)はなくなるであろう。こう考えたので、彼は急いで花屋へ行って、まだ朝露のかがやいている花束を一つ買った。
 今は彼が毎日ベアトリーチェに逢う定刻であった。庭に降りてゆく前に、彼は自分の姿を鏡にうつして見ることを忘れなかった。――それは美しい青年にありがちな虚栄心からでもあり、かつは情熱の燃ゆる瞬間にあらわれる一種の浅薄な感情と、虚偽な性格との表象とも言うべきであった。彼は鏡をじっと眺めた。彼の容貌に、こんなにも豊かな美しさは、今までにけっして見られなかった。その眼にも今までこんな快活の光りはなかった。その頬にも今までこんな旺盛な生命の色が燃えていなかった。
「少なくとも彼女の毒は、まだおれの身体には流れ込んでいないのだ。おれは花ではないのだから、彼女に握られても死ぬようなことはないのだ」と、彼は思った。
 彼はさっきから手に持っていた花束に眼をそそいだ。そうして、その露にぬれた花がもう萎(しお)れかかっているのを見たとき、なんとも言われない恐怖の戦慄が彼の全身をめぐった。その花は、ついきのうまでは生きいきとして美しい姿を見せていたのである。
 ジョヴァンニは色を失って、大理石のように白くなった。かれは鏡の前に突っ立って、何か怖ろしいものの姿でも見るように、彼自身の影をながめた。彼は部屋じゅうにみなぎっているように思われる匂いについて、バグリオーニ教授の言ったことを思い出した。自分の呼吸には、毒気が含まれているに違いない。彼は身を慄(ふる)わした。――自分のからだを見て顫(ふる)えた。
 やがて我れにかえって、彼は物珍らしそうに一匹の蜘蛛(くも)を眺め始めた。蜘蛛はその部屋の古風な蛇腹(じゃばら)から行きつ戻りつして、巧みに糸を織りまぜながら、いそがしそうに巣を作っていた。それは古い天井からいつもぶらりと下がるほどに強い活溌な蜘蛛であった。
 ジョヴァンニはその昆虫に近寄って、深い長い息を吹きかけると、蜘蛛は急にその仕事をやめた。その巣は、この小さい職人のからだに起こっている戦慄のためにふるえた。ジョヴァンニは更にいっそう深く、いっそう長い息を吹きかけた。彼は心から湧いて来る毒どくしい感情に満たされた。彼は悪意でそんなことをしているのか、単に自棄(やけ)でそんなことをしているのか、自分にも分からなかった。蜘蛛はその脚を苦しそうに痙攣させた後、窓の先に死んでぶら下がった。
「呪われたか。おまえの息ひとつでこの昆虫が死ぬほどに、おまえは有毒になったのか」と、ジョヴァンニは小声で自分に言った。
 その瞬間に、庭の方から豊かな優しい声がきこえてきた。
「ジョヴァンニ……。ジョヴァンニ……。もう約束の時間が過ぎているではありませんか。何をぐずぐずしているのです。早く降りていらっしゃい」
 ジョヴァンニは再びつぶやいた。
「そうだ。おれの息で殺されない生き物はあの女だけだ。いっそ殺すことが出来ればいいのに……」
 彼は駈け降りて、直ぐにベアトリーチェの輝かしい優しい眼の前に立った。
 彼は憤怒(ふんぬ)と失望に熱狂して、ひと睨みで彼女を萎縮させてやろうと思いつめていたのであるが、さて彼女の実際の姿に接すると、すぐに振り切ってしまうにはあまりに強い魅力があった。彼はしばしば彼を宗教的冷静に導いたところの、彼女の美妙な慈悲ぶかい力を思い出した。純粋な清い泉がその底から透明の姿を、彼の心眼に明らかにうつし出したとき、彼女の胸から神聖な熱情のほとばしり出たことを思い出した。彼はすべてのこの醜(みにく)い秘密は、世俗的の錯覚に過ぎないことを考えた。いかなる悪霧が彼女の周囲に立ちこめているように思われても、実際のベアトリーチェは神聖な天使(エンジェル)であることを考えた。彼はもちろん、それほどまでに信じ切ることは出来なかったが、それでも彼女の姿は彼に対して、まるでその魅力を失うことはなかった。
 ジョヴァンニの憤怒はやや鎮まったが、不機嫌な冷淡な態度はおおわれなかった。ベアトリーチェは敏速な霊感で、彼と自分との間には越えることの出来ない暗い溝(みぞ)が横たわっていることを早くも覚(さと)った。二人は悲しそうに黙って、一緒に歩いた。大理石の噴水のほとりまで来ると、その中央には宝石のような花をつけた灌木が生えていた。ジョヴァンニはあたかも食欲をそそられるように、一生懸命にその花の匂いを吸って喜んで、自分ながらそれに気がついて驚いた。
「ベアトリーチェ。この灌木はどこから持って来たのですか」と、彼は突然に訊いた。
「父が初めて作りました」と、彼女は簡単に答えた。
「初めて作った……。作り出したのですか……」と、ジョヴァンニは繰りかえして言った。「ベアトリーチェ。それはいったいどういうことですか」
 ベアトリーチェは答えた。
「父は恐ろしいほどに自然の秘密に通じた人でした。わたくしが初めてこの世界に生まれ出たと同じ時間に、この木が土の中から芽を出して来たのです。わたくしはただ世間並の子供ですが、この木は父の学問、父の知識の子供です。その木にお近づきになってはいけません」
 ジョヴァンニがその灌木にだんだん近づいて行くのを見て、彼女ははらはらするように言いつづけた。
「その木は、あなたがほとんど夢にも考えていないような、性質を持っています。わたくしはその木と一緒に育って、その呼吸(いき)で養われて来たのです。その木とわたくしとは、姉妹(きょうだい)であったのです。わたくしは人間を愛すると同じように、その木を愛して来ました。……まあ、あなたは、それをお疑いになりませんでしたか。……そこには恐ろしい運命があったのです」
 このとき、ジョヴァンニは彼女を見て、非常に暗い渋面(じゅうめん)を作ったので、ベアトリーチェは吐息をついてふるえたが、男の優しい心を信じているので、彼女は更に気を取り直した。そうして、たとい一瞬間でも彼を疑ったことを恥かしく思った。
「そこには恐ろしい運命があったのです」と、彼女はまた言った。「父が、恐ろしいほどに学問を愛した結果、人間のあらゆる運命からわたくしを引き離してしまったのです。それでも神様はとうとうあなたをよこして下さいました。わたくしの大事の大事のジョヴァンニ……。あわれなベアトリーチェは、それまでどんなに寂しかったでしょう」
「それが苦しい運命だったのですか」と、ジョヴァンニは彼女を凝視(みつ)めながら訊いた。
「ほんの近ごろになって、どんなに苦しい運命であるかを知りました。ええ、今までわたくしの心は感覚を失っていましたので、別になんとも思わなかったのです」
「ちくしょう!」と、彼は毒どくしい侮蔑と憤怒とに燃えながら叫んだ。「おまえは、自分の孤独にたえかねて、僕も同じようにすべての温かい人生から引き離して、口でも言えないような怖ろしい世界に引き込もうとしたのだな」
「ジョヴァンニ……」
 ベアトリーチェはその大きい輝いた眼を男の顔に向けて言った。彼の言葉の力は相手の心に達するまでにはいたらないで、彼女はただ雷(らい)にでも撃たれたように感じたばかりであった。
 ジョヴァンニは、もう我れを忘れて、怒りに任せて罵(ののし)った。
「そうだ、そうだ。毒婦! おまえが、それをしたのだ。おまえはおれを呪い倒したのだ。おれの血管を毒薬で満たしたのも、おまえの仕業(しわざ)だ。おまえはおれを自分と同じような、憎むべき厭うべき死人同然な醜(みにく)い人間にしてしまったのだ。世にも不思議な、いまわしい怪物にしてしまったのだ。さあ、幸いにわれわれの呼吸が他のものに対すると同じように、われわれの命にも関(かか)わるものならば、限りない憎悪の接吻を一度こころみて、たがいに死んでしまおうではないか」
「何がわたくしの身にふりかかって来たというのでしょう、聖(セント)マリア! どうぞわたくしをあわれとおぼしめしてください。……この哀れな失恋の子を……」
 ベアトリーチェは、その心から湧き出る低いうめき声で言った。
「おまえは……。おまえは祈っているのだね」と、ジョヴァンニはまだ同じような悪魔的の侮蔑をもって叫んだ。「おまえのくちびるから出て来るその祈りは、空気を〈死〉でけがしてしまうのだ。そうだ、そうだ、一緒に祈ろう。一緒に教会へ行って、入り口の聖水に指をひたそう。おれたちのあとから来た者は、みんなその毒のために死んでしまうだろう。空中に十字を切る真似をしよう。そうすると、神聖なシンボルの真似をして、外部に呪詛(じゅそ)をまき散らすことになるだろうよ」
「ジョヴァンニ……」
 ベアトリーチェは静かに言った。彼女は悲しみのあまりに、怒ることさえも出来なかったのである。
「あなたはなぜそんな恐ろしい言葉のうちに、わたくしと一緒に自分自身までも引き入れようとなさるのです。なるほど、わたくしはあなたのおっしゃる通りの恐ろしい人間です。しかし、あなたは何でもないではありませんか。この花園から出て、あなたと同じような人間に立ちまじわるのを見て、ほかの人たちが身ぶるいする、わたくしのような者は問題になさいますな。あわれなベアトリーチェのような怪物(モンスター)が、かつては地の上に這っていたということを、どうぞ忘れてしまって下さい」
「おまえは、なんにも知らない振りをしようとするのか」と、ジョヴァンニは眉をひそめながら彼女を見た。「これを見ろ。この力はまぎれもないラッパチーニの娘から得たのだぞ」
 そこには夏虫のひと群れが、命にかかわる花園の花の香にひきつけられて、食物を求めながら、空中を飛びまわって、ジョヴァンニの頭のまわりに集まった。しばらくのあいだ幾株の灌木の林に惹(ひ)き付けられていたのと同じ力によって、彼の方へ惹きつけられていることが、明らかであった。彼はかれらの間へ息を吹きかけた。そうして、少なくとも二十匹の昆虫が、地上に倒れて死んだときに、彼はベアトリーチェを見かえって、苦(にが)にがしげにほほえんだ。
 ベアトリーチェは叫んだ。
「分かりました、分かりました。それは父の恐ろしい学問です。いいえ、いいえ、ジョヴァンニ……。それはわたくしではなかったのです。けっして、わたくしではありません。わたくしはあなたを愛するあまり、ほんのちっとのあいだ、あなたと一緒にいたいと思っただけです。そうして、ただあなたのお姿を、わたくしの心に残してお別れ申そうと思っていたのです。ジョヴァンニ……。どうぞわたくしを信じてください。たといわたくしのからだは、毒薬で養われていても、心は神様に作られたもので、日にちの糧(かて)として愛を熱望していたのです。けれども、わたくしの父は……父は、学問に対する同情、その恐ろしい同情で、わたくしたちを結びつけてしまったのです。ええもう、どうぞわたくしを蹴とばして下さい、踏みにじって下さい、殺してください。あなたにそんなことを言われては、死ぬことくらいはなんでもありません。けれども……けれども、そんなことをしたのはわたくしではなかったのです。幸福な世界のために、わたくしがそんなことをするものですか」
 ジョヴァンニはその憤怒をくちびるから爆発するがままに任せておいたので、今はもう疲れて鎮まっていた。彼の心のうちには、ベアトリーチェと彼自身とのあいだの密接な、かつ特殊な関係について、悲しい柔らかい感情が湧いてきた。いわば、かれらはまったく孤独の状態に置かれたようなもので、人間がたくさん集まれば集まるほど、ますます孤独となるであろう。もしそうならば、かれらの周囲の人間の沙漠は、この孤立の二人を更にいっそう密接に結合すべきではなかろうか。自分が普通の性質に立ちかえって、ベアトリーチェの手を引いて導くだけの望みがまだ残ってはいないだろうかと、ジョヴァンニは考えるようになった。
 しかもベアトリーチェの深刻なる恋が、ジョヴァンニの激しい悪口によってこれほどに悲しくそこなわれたのちに、この世の結合、この世の幸福があり得るように考えるのは、なんという強(こわ)い、また我儘(わがまま)な卑しい心であろう。いや、こんな望みは、しょせん考えられないことである。彼女は恋に破れたる心をいだいて、現世の境いを苦しく越えなければならない。彼女はその心の痛手を楽園の泉にひたし、または不滅の光りに照らさせて、その悲しみを忘れなければならないのである。
 しかし、ジョヴァンニはそれに気がつかなかった。
「愛するベアトリーチェ……」
 彼女がいつものように近づくことを恐れたにもかかわらず、彼は今や異常なる衝動をもって、彼女に近づいた。
「わたしが最愛のベアトリーチェ。われわれの運命はまだそんなに絶望的なものではありません。ごらんなさい。これは偉い医者から証明された妙薬です。その効能の顕著なことは、実に神(しん)のようだということです。これはあなたの恐ろしいお父さんが、あなたとわたしの身の上にこの禍(わざわ)いをもたらしたものとは、まったく反対の要素から出来ているのです。それは神聖な草から蒸溜して取ったものです。どうです、一緒にこの薬をぐっと嚥(の)んで、おたがいに禍いを浄(きよ)めようではありませんか」
「それをわたしに下さい」
 ベアトリーチェは男が胸から取り出した小さい銀の花瓶を受け取ろうとして、手を伸ばしながら言った。それから、特に力を入れて付け加えた。
 「わたくしが嚥(の)みましょう。けれども、あなたはその結果を待って下さい」
 彼女はバグリオーニの解毒剤をその唇(くち)にあてると、その瞬間にラッパチーニの姿が入り口から現われて、大理石の噴水の方へそろそろと歩いて来た。近づくにしたがって、この蒼ざめた科学者はいかにも勝ち誇ったような態度で、美しい青年と処女(おとめ)とを眺めているように思われた。それはあたかも一つの絵画、または一群の彫像を仕上げるために、全生涯を捧げた芸術家がついに成功して、大いに満足したというような姿であった。
 彼はちょっと立ち停まって、かがんだからだを態(わざ)とぐっと伸ばした。彼はその子供らのために、幸福を祈っている父親のような態度で、かれらの上に両手をひろげたが、それはかれらの生命の流れに毒薬をそそいだ、その手であった。ジョヴァンニはふるえた。ベアトリーチェは神経的に身をふるわした。彼女は片手で胸をおさえた。
 ラッパチーニは言った。
「ベアトリーチェ。おまえはもうこの世の中に、独りぽっちでいなくともいいのだ。おまえの妹分のその灌木から貴い宝の花を一つ取って、おまえの花婿の胸につけるように言ってやれ。それはもう彼にも有害にはならないのだ。わたしの学問の力と、おまえたちふたりへの同情とによって、わたしの誇りと勝利の娘であるおまえと同じように、あの男のからだの組織を変えて、今ではほかの男とは違ったものにしてしまったのだ。それであるから、ほかのすべての者には恐れられても、おたがい同士は安全だ。これから仲よくして世界じゅうを通るがいい」
「お父さま。なぜあなたはこんな悲惨な運命をわたくしたちにお与えになったのですか」
 ベアトリーチェは弱よわしい声で言った。――彼女は静かに話したが、その手はまだその胸をおさえていた。
「悲惨だと……」と、父は叫んだ。「いったいおまえはどういうつもりなのだ。馬鹿な娘だな。おまえは自分に反対すれば、いかなる力も敵を利することが出来ないような、天賦の能力をあたえられたのを、悲惨だと思うのか。最も力の強い者をも、ひと息で打ち破ることが出来るのを、悲惨だというのか。おまえは美しいと同様に、怖ろしいものであることを悲惨だというのか。それならば、おまえはすべての悪事を暴露されても、どうすることも出来えないような、弱い女の境遇のほうが、むしろ優(ま)しだと思うのか」
 娘は地上にひざまずいて、小声で言った。
「わたくしは恐れられるよりも、愛されとうございました。しかし今となっては、そんなことはもうどうでもようございます。お父さま。わたくしはもう……。あなたがわたくしのからだに織り込もうとなすった禍いが夢のように、……この毒のある花の匂いのように、失(な)くなってしまうところへ参ります。エデンの園の花のなかには、わたくしの呼吸(いき)に毒を沁みさせるような花はないでしょう。では、さようなら、ジョヴァンニ……。あなたの憎しみの言葉は、鉛のようにわたくしの心のうちに残っています。それもわたくしが天国へ昇ってしまえば、みんな忘れられるでしょう。おお、あなたの体質には、わたくしの体質のうちにあったよりも、もっとたくさんの毒が最初から含まれていたのではありますまいか」
 彼女の現世の姿は、ラッパチーニの優れた手腕によって、非常に合理的に作られていたので、毒薬が彼女の生命であったと同じように、効能のいちじるしい解毒剤は彼女にとって「死」であった。
 こうして、人間の発明と、それにさからう性質の犠牲となり、かくのごとく誤用された知識の努力に伴う運命の犠牲となって、あわれなるベアトリーチェは、父とジョヴァンニの足もとに仆(たお)れた。
 あたかもそのとき、ピエトロ・バグリオーニ教授は窓から覗いて、勝利と恐怖とを混(こん)じたような調子で叫んだ。彼は雷に撃たれたように驚いている科学者にむかって、大きい声で呼びかけたのである。
「ラッパチーニ……。ラッパチーニ……。これが君の実験の終局か」




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